生きたいと言わんかい!   作:吾輩は猫であるか(願望)

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ロックオンされるらしい

 「あ、藤原じゃん。今日は彩葉と一緒になんだ」

 「時間が被ったから」

 「……ふーん」

 

 教室に入ると綾紬さんが話しかけてきた。

 家は隣といえど、僕たちはあまり一緒に登校したことがない。そのせいだろうか、一緒に登校してきた僕たちに彼女は少し驚いた顔をしていた。

 

 「……二人がお隣さんってのは分かってても、実際に一緒にいるのは何度も見ても新鮮な感じがする」

 「別に……、隣だからって必ずしも仲良いってわけじゃなくない?」

 「まぁ、そうではあるんだけどさ」

 「……私は、天と仲良いって思ってるんだけど?」

 「……えっと」

 

 ……何だろう、少し気まずいと感じるのは僕だけだろうか。

 どこか懐疑的な綾紬さんの雰囲気もそうだが、何を訴えようとする酒寄さんの強い眼差しも何故だか圧を感じる。

 

 「……まぁ、いいや」

 「あ、はい」

 「次はちゃんとすぐ認めてくれたら許す」

 「あ、今回は許されてないんだ……」

 

 不服そうな雰囲気を残したまま彼女は自分の席へと消えていった。そんな彼女の様子を傍目に僕も自分の席に着く。席に着いた酒寄さんは授業の予習に取り掛かろうとしている。

 

 「……」

 

 最近、酒寄さんと話している時、彼女がふと言葉を止めて、どこか遠くを見るような顔をする瞬間がある気がする。今朝もそうだった。呼びかけても返事がなかった、あの一瞬。

 

 何を考えているのか、僕にはわからない。わかろうとするのは何だか少し怖い。それにわかろうとする気も今の僕にはない。彼女の中に踏み込もうとすればするほど、自分の中にある何かも、同じように晒されていく気がするから。

 

 だから、今ぐらいの関係が丁度良いのだ。

 決して、踏み込まず。そして、踏み込まれない。そんな関係が僕たちには合っている。きっと、彼女もそう思っているからこそ、この関係は都合の良い形で保たれているのだろう。

 

 「……いつか、失うかもしれないなら」

 

 もう少しで授業が始まる。窓の外をぼんやりと眺めながら、僕はいつも通り、意味もなく時間を過ごそうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業中、私はノートを取るふりをしながら、天の後ろ姿をちらちらと盗み見ていた。……バレてないよね、多分。バレてたら結構恥ずかしいんだけど。

 

 「——」

 

 相も変わらず彼は眠そうな顔で授業を受けている。

 少し前に行われた席替えで、私の席は窓側から二列目の一番後ろの席になった。そのおかげもあって、窓側の一番前に座る天を授業に眺めることが出来るようになった。

 ……いや別に、ストーカーとかそーゆーじゃないし。

 

 何故だろう。

 放っておいちゃダメな気がするからだろうか。彼をついつい視界に入れようとしている私がいる。

 それでいて、一度この目で捉えてしまったら、なかなか目を離すことができない。明らかに、彼という存在が他のものよりも存在感を放っているように感じてしまう。

 

 「……」

 

 いつもと変わらない眠そうな彼を傍目に見ながら、今朝の会話を思い出す。

 あの、柔らかい髪の感触。ありがとう、と言ってくれた声。それだけのことにも関わらず、私の心は少しだけ騒ついていた。

 

 ——別に異性として好きだとかそういうのでは、ないと思う。

 

 別にその考えは今でも変わっていない。

 だけど、だからといって軽い感情ではないのは流石に自分でもわかっている。この一年、ただ他愛もないやり取りをしてきたけ。それでも、私にとってはその他愛もないやり取りの一つ一つがどこか愛おしい。

 

 私にとっての日常。

 それが私から見た天という人間の価値。特別、何かをするわけでもないが、彼と関わる機会がなければどこか心が寂しい。それでいて、少しでも話すことができたら何故だか元気が出る。

 

 ……でも、日常なんて括りだけで満足したくない私もどこかいる。

 日常以外だって彼が象徴だったら良いのに。日常に天がいるのではなく、天がいるから日常。そんな存在であってほしいと願う私は、ここ最近で明らかに大きくなっている。

 

 「——?」

 

 どこか消えてしまいそうな彼の雰囲気は、そんな私の心境とは、とても相性が悪い。

 ただでさえ、目を離せないと言うのに、そんなに儚さを秘めた顔されたらつい見ちゃうでしょうが。

 ……だから、別にストーカーじゃないもん。

 

 「——!」

 

 その儚さが彼らしいと言ってしまえばそうなのだが、それだけで済ませて良いものかと葛藤してしまう。

 彼の笑顔はいつも空虚でどこか痛そうだ。そんな彼を見ていると、どうしても気になって仕方がない。放っておくことができる気がしないんだ。

 

 一人の隣人として交流を深めて仲良くなりたいのもそう。でも、それ以上に彼が少しでも心から笑えれるようになればいいのになって思う。

 

 ……少なくとも、私の前でそうであってくれるといいな。

 

 少しばかり、友達に向けるにしては重たい感情だろうか。

 でも、仕方がないじゃないか。だって——。

 

 「……酒寄さん!」

 「……ぁ、は、はい?」

 「大丈夫……?」

 「……だ、大丈夫……デス……」

 「そう……?なら、良いんだけど……」

 

 どうやらずっと呼ばれていたらしい。

 最近、天のことを考えると集中し過ぎて、周りのことがあまり入ってこないときが何回かある。なんなら,その頻度が増えてきている気がする。気をつけないと。

 ……にしたって、みんなちょっとジロジロ見過ぎなんじゃないの。

 

 私が授業中にぼーっとしていることがとても珍しく見えたのか、クラスメイトたちは少し驚いた様子で私の方を見ている。

 それこそ、天だって私の方を見て——。

 

 「……ぁ」

 

 天が私のことを心配そうに隣の子と見ている。

 何だろう、変に胸がざわつく。耳に伝わってくる鼓動の音が妙に大きく聞こえて、まるで秒針の音のように感じる。

 

 「——」

 

 何を言ってるかは聞こえない。が、隣の子と何かを話しながらこちらを見ていたのは私の視界には映っていた。

 きっと、私に関することを話しているのだろう。おそらく、私がぼーっとしていたことに対する心配とそんな感じのはずだと思う。

 別に、私への心配をしてくれるのは全然良い。けど、わざわざその子と話すまで内容だろうか。

 

 「……なんで」

 

 ……私には、そんな顔見せたことないのに。

 

 この一年間で、彼の様々な表情を私は見てきた。

 交流を重ねるうちに、見える表情は少しずつ増えていた。私はそれを、少しずつ心を開き始めたものとばかり思っていた。

 だから、どんな表情でも嬉しかった。それが辛そうな表情だとしても、空虚なものであっても。

 ……だって、私だけに見せてくれるのだから。

 

 でも、あんな顔を私は知らない。

 

 さっきまで見せていた心配の表情とは明らかに違う表情だ。

 何を思っているの。そんな顔、私には見せたことないじゃん。なんでその子には、そんな簡単に見せるの?

 

 「……っ」

 

 多分、天は私にこれ以上踏み込まれることを望んでいない。そんなことはこの一年間、何度も接していれば嫌というほどわかるし、わかっていたつもりだった。

 だから私は、このままでいい。彼のそばにいられるなら、彼と少しでも仲良くなれるのであれば、変に踏み込むことはしない。

 

 ……そう自分に言い聞かせてきた。

 

 なんだか寂しい彼を、私は放っておけない。

 ただ、それだけのはずだったのに。それだけでありたかったはずなのに。

 

 「……やだな」

 

 あんなに柔らかい表情ができるようになるのであれば、嬉しいことのはずだ。……はずなんだ。

 本来ならば、嬉しいことのはずなのに、その表情を引き出したのが私じゃないという事実がどうしても胸を刺してやまない。

 

 止まることを知らない私の焦燥感は、考えれば考えるほど大きくなっていく。だから、少しでもそれを紛らわそうと私は窓の外に視線を移そうとする。

 だけど、私の視線は勝手に、天の方へと向いてしまう。

 

 窓の外に広がる空は、晴らし様のない私の焦燥感のような鉛色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、教室を出ると、酒寄さんが下駄箱のところで待っていた。

 

 「今日さ、一緒に帰ろ」

 「……珍しいね、待ち伏せなんて」

 「待ち伏せって言い方やめてよ。ただの隣人の礼儀じゃん」

 「……どんな礼儀だよ」

 「いいから、行くよ」

 

 特に断る理由もなく、僕は彼女と並んで帰り道を歩く。

 普段であれば、何かと話題に尽きないことが多いのだが、今日は珍しく静寂が僕たちを支配している。

 

 「……あのさ」

 「ん?」

 「今日の授業中さ、隣の子と何話してたの……?」

 「……えっと、何の授業?」

 「……一時間目」

 

 誰かと話した記憶なんてないんだけどな……あ、あの時か。

 

 「……酒寄さんがぼーっとしてたとき?」

 「……ぅん」

 「えっと……。酒寄さんでもぼーっとするんだねって感じの内容だった気がする」

 「……それだけ?」

 「え、え……うん」

 

 何なんだ一体……?

 今日の彼女は何だか、纏う雰囲気が少し湿っぽくような気がする。

 

 「……珍しくさ」

 「……?うん」

 「……天が、笑顔だった」

 「はい?」

 

 自覚はなかったのだが、どうやら僕は笑顔だったらしい。

 なんか笑顔になるようなことあったっけ……。

 

 「……あぁ、あれか」

 「っ!……心当たりあるんだ」

 「いや、あるというかなんというか……」

 「……?」

 「……酒寄さんのあんなびっくりした顔初めてみたから、少しびっくりしたっていうか」

 「……う、うん?」

 「知らない顔を知れて少し嬉しかったっていうか……」

 「……っ」

 

 静寂、再び。

 いやなんでさ。

 今の会話はどこへ消えたんですかね。肝心の酒寄さんは顔を背けてたまま帰ってこないし。僕はどうしたらよろしいのでしょうか。

 

 「……そ、そっか」

 「……はい」

 「……ごめんね、変なこと聞いて」

 「……僕の方こそ、なんかごめん」

 

 なんだろうか、少し気まずい。

 会話の切り口が見つからなくて、どうしたらいいかわからない。とりあえず、何か話題を見つけなければ。

 ……じゃないと、気まずさで圧死しそう。

 

 「そ、そういえばさ!」

 「え、う、うん……」

 「……いつもコンビニ弁当ばっか食べてるけど、自炊とかしないの?」

 「……うん、やる気が起きなくてさ」

 「私、今日バイト休みなんだよね」

 「……?」

 「何か作ってあげようか? それか一緒に作るとかでも良いんだけど……」

 「……」

 

 その提案に、僕は少しだけ黙り込んだ。

 母のことを思い出す。キッチンに並んで立っていた、あの午後の光景。あの記憶に触れることは、……まだ怖い。

 

 「……天?」

 

 ……料理、か。

 もうどれだけ触れていなかっただろうか。あの日以来、一度たりとも触れた記憶はない。

 

 「……いいけど。手伝うだけなら」

 「やった。じゃあ決まりね」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ると胸がひどく痛むのはきっと気のせいではないのだろう。

 

 「なに作ろっか」

 

 そんな嬉しそうな顔しないでくれよ。

 ……死にたくなるだろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に着くと、私は冷蔵庫を漁って余っていた野菜や肉を取り出す。天は特に何も言わず、その隣に立って包丁を握った。

 

 「お菓子の時も思ったけど、料理得意でしょ」

 「……別にそんなんじゃ」

 「ふーん、その割には何も言われなくても包丁持ってるんだね?」

 「……昔の癖」

 「昔の癖で、そこまで丁寧にできるものかな」

 

 何気なく口にした一言に、天の表情がわずかに硬くなったのが見えた。しまった、と思ったけれど、もう遅い。

 

 「……昔は、よく料理手伝ってたから」

 

 過去形。その言葉の重さに、部屋の空気が少しだけ張り詰める。天がこうして自分の口で自らについて語るのは、初めてな気がする。

 

 「……今はしないの?」

 「……うん」

 「そっか」

 

 静寂が場を支配する。

 彼に何かしらの事情があるのは、何となく察してはいた。だから、あまり軽々しく触れるのは良くないとは常々思っている。

 ……けど、もうそんなふうに曖昧でいるのはもう私には上手くいかない。

 

 「……無理にとは言わないけどさ」

 「……うん」

 「……言える範囲でもいいからさ、話してくれたら力になるよ私」

 「……」

 

 天の感情が上手く読めない。

 ただ、いつにも増して細い視線は、私を掴んで離さない。目を逸らしてしまうとダメな気がして、私も彼から目を離すことができない。

 

 「……別に大したことじゃないよ。亡くなった母の手伝いでよく料理をしてただけ」

 「……ただ、それだけだよ」

 「……っ」

 

 息を呑む。

 悔いるように言葉を吐き捨てた彼の表情はあまりにも悲痛さが伝わってくる。

 

 「……辛く、ないの」

 「別に」

 「……大丈夫なわけないじゃん」

 「大丈夫だって」

 「……じゃあ、そんなに辛そうな顔しない」

 「……」

 

 わからない。

 わからない、わからない、わからない。

 どんな言葉をかけてあげればいいのかわからない。

 でも、絶対に離しちゃいけないのはわかる。今、手放してしまったらきっと、もう彼は戻って来れなくなる気がする。

 

 「……お母さんだけじゃ、ないんだよね?」

 「……」

 「その反応見る感じそうでしょ」

 「……」

 「……ごめん、無理に聞いた」

 

 あまりにも踏み込み過ぎた。

 軽々しく踏み込んだつもりない。どんなものであろうと、私だって一緒に背負う覚悟ぐらいしてる。

 けど、辛そうな顔の顔を見ると後悔の念が少し押し寄せてくる。

 

 ……私のせいで、もっと辛い思いをさせるのは一番嫌だ。

 それだけは絶対に許容できない。だから、私のせいで、もっと辛い思いをするのであれば、私は——。

 

 「……俺(・)のせいなんだ」

 

 え?

 俺(・)の(・)、せい?

 

 「……あの日、俺が誘ったから」

 「……天、?」

 「……俺が誘ったからみんな死んだ」

 

 その一言を、天は驚くほど静かな声で口にした。

 まるで、他人事のように。だけど、包丁を握る手の指先が、わずかに震えていることに、私は気づいていた。

 

 「……ごめん」

 

 天は小さく首を振った。

 

 「……いいよ、別に。もう一年以上前のことだから」

 

 そう言ってから、天はどこか諦めたような顔で笑った。

 

 「……こうやって、誰かと一緒に台所に立つようになったから、かな」

 「……え?」

 「……少しだけ、心が晴れた気がする」

 

 その言葉に、私の胸の中で何かが、じんわりと温かく満たされていった。天が少しずつ、自分の過去と折り合いをつけていく過程に、自分が関われている。その事実が、何よりも嬉しかった。

 

 あぁ、そうか。

 だからなのか。

 

 「……こんなので晴れるなら、いくらでもやってあげるのに」

 「……それは酒寄さんに迷惑がかかる気が」

 「うるさい」

 「……えぇ、酷くない?」

 

 あれは独占欲だったのか。

 彼の中に自分がいることが嬉しかったのだ私は。だから、彼の中に知らない誰かがいることに嫌悪していたんだ。

 ……なんだ、簡単じゃないか。

 

 「……天」

 「……どしたの?」

 「……明日も一緒にしようね」

 「……気が向いたらね」

 

 私の心に土足で何度も入り込んできたくせに、いまさら私はダメだなんて道理が通用すると思うなよ。

 全部だ。全部全部ぜーんぶ私で上書きしてやる。

 

 それで一緒にいたらきっと、寂しくなんてないよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鍋から立ち上る湯気と匂いに、僕はふと手を止めた。

 醤油とみりんが焦げる、甘辛い匂い。母がよく作ってくれた肉じゃがの匂いに、少し似ていてる気がした。

 

 「天?どうかした?」

 「……いや、何でもないよ」

 

 声が、少しだけ震えていたかもしれない。彼女は気づいたのか気づかなかったのか、それ以上は何も聞かず、ただ僕の隣で鍋をかき混ぜ続けた。

 出来上がった料理を、二人でテーブルに並べる。決して見栄えの良いものではなかったが、味は悪くなかった。

 

 「美味しいね、これ」

 「……そう?」

 「そうだよ、今までで一番美味しいかも」

 「……普通の肉じゃがだと思うけど」

 「……ううん、すっごく美味しい」

 

 その言葉を聞きながら、僕は自分の中に、久しぶりに芽生えた小さな感情に気づいていた。誰かのために手を動かし、その結果を誰かが喜んでくれる。その一連の流れが、悪くないと思った。

 今はただ、その感情が少し心地良い。

 

 「ねえ、天。明日は何が良い?」

 「……気が向いたらって言ったのに」

 

 いつもの返事だったが、その声色はいつもより、少しだけ柔らかかったかもしれない。彼女はそれに気づいたのか、嬉しそうに笑っていた。

 

 夕食を終えて部屋に帰った後、僕は久しぶりに段ボールに仕舞われたままのレシピノートを取り出した。母の字で書かれた、様々なレシピの数々。その一つ一つに目を通しながら、僕は静かに呟いた。

 

 「……ただいま」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからなかった。ただ、久しぶりに台所に立ったことで、何か大切なものと、少しだけ再会できたような、そんな気がしていた。

 窓の外では、夜空には少し欠けた月が静かに浮かんでいる。

 

 「……十六夜だっけ」

 

 満月から一日過ぎただけの月は、完全な円からほんの少しだけ欠けている。その微妙な欠け方が、今の自分と少し重なる気がして、僕は誰に見せるでもなく小さく笑った。

 

 今日のことを、頭の中でもう一度なぞってみる。彼女と並んで台所に立ったこと。醤油とみりんの匂い。美味しいと言ってくれた、あの声。悪くない一日だった、と思う。思えてしまうことに、少しだけ戸惑っている自分もいる。

 

 ——こんなふうに、誰かと過ごす時間を「悪くない」と感じてしまっていいのだろうか。

 

 母も、父も、兄も、あの日を境にいなくなった。

 僕が誘ったから。僕があんなことを言い出さなければ。何百回、何千回と繰り返してきた仮定を、今日もまた頭の中でなぞる。答えが変わることはない。変わるはずもない。

 

 だったら、僕がこうして生きて、笑って、誰かと美味しいものを食べて、それを「悪くない」と思う権利なんて、本当はどこにもないんじゃないか。

 いなくなればいい、と思ったことは、一度や二度じゃない。今もその考えは、多分、僕の一番底のところに、静かに沈んだまま消えずに残っている。

 ただ、それを実行に移すだけの熱量すら、僕の中にはもうずっと湧いてこない。だから今日も、こうして生きているだけだ。積極的に生きたいわけじゃない。ただ、積極的に終わらせる気力もない。それだけのことだった。

 

 レシピノートを、そっと閉じる。指先が、ページの端に少しだけ触れて離れる。

 

 ——母さんたちがいなくなった世界に、僕だけが残っている。

 

 その事実を、今日はいつもより少しだけ、静かに受け止められた気がした。それが救いなのか、それとも単なる麻痺なのか、僕にはまだ判断がつかない。

 

 布団に入って目を閉じる。

 明日が来ることに、期待も絶望も湧いてこない。それでも、今日のように誰かと過ごす時間があるなら、それだけは、悪くないと思えるのかもしれない。

 

 「……らしくないな」

 

 そんな、柄にもないことを考えながら、僕はゆっくりと意識を手放していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 —今は昔、生への渇望いささかもなき若人ありけり。おのが命に値打ちを覚えざれば、常に人を助くることのみをなしつつ過ぐしけり。名を藤原の天といひけり。

 

彼を思ふ二人の少女ありけり。過ぎにし世の傷によりて、失ふことをいたく恐れたりければ、二人の少女を守らんとて、すべてを捨つる覚悟をぞなしける。

 

さる彼を、二人の少女、よろしとは思はざりけり。二人の少女は、かかる彼にこそ、彼自身の値打ちを説き聞かせけるとぞ。

 

 「……そろそろ、だね」

 

 これはクソボケが重たくて湿っぽい女の子た(・)ち(・)に分からされる。

 そんな、お話。

 





 最後の古語は自分なりに頑張ってみました。
 文章的に間違っていたら、有識者の方教えろくださいです。
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