貴女が自分の気持ちに気がついた時、おそらく俺はもうこの世にはいないでしょう 作:あっ、はい
「セレス殿。留守中に届いた私信です。辺境便で、差出人はリュカ――」
「またあの人?」
報告書をめくる手を止めずに、セレスは言った。
「いつまで幼馴染のつもりでいるのかしら」
差し出された封筒には手を伸ばさなかった。ペンを持っていないほうの指で、机の右端を示す。
配達係の青年は一瞬ためらってから、そこへ薄茶色の封筒を置いた。
「ほかに、留守中のお荷物はありますか」
「いえ。私信はこちらで最後です」
「ありがとう。遠征中の保管も助かりました」
青年に向けた声は、いつもの調子に戻っていた。
王都の騎士団庁舎へ出勤するのは、約三週間ぶりだった。
その間にセレスは魔将を討ち取り、帰還した昨日には、胸に新しい勲章をつけられた。今朝はそれを外してきたのに、執務室へ入るまでに六人から祝いの言葉を受けた。
机の上にも、祝宴や会食への誘いが積まれている。
薄茶色の封筒は、金の縁取りを施されたそれらの隣で、ひどく地味に見えた。
左下に、小さく差出人の名がある。
リュカ。
最後の一画だけ、少し長い。
「幼馴染だったんだ」
隣の席から、同僚のアンナが言った。
「その人、前にあなたが言ってた地図職人? 足を怪我したとかいう」
「背中よ。仰向けで眠れないって書いてあっただけ。足は怪我していないわ」
言い終えてから、紙をめくった。
隣で椅子がわずかに鳴る。
「そうだった。かなり前の話だったものね」
「ええ」
あれは三年近く前の便だ。背中を痛めた、仰向けに寝ると目が覚める、食事は取れているので心配はいらない。そんな、だらだらした近況だった。
心配しているなど、一度も伝えていないのに。
「毎月来るから、親しい人なんだろうとは思ってたけど」
「同じ村にいただけよ。親しいと思われるのは迷惑」
アンナの口元から笑みが消えた。
「……そう。立ち入ったことを聞いたわね」
「別に。あなたが謝ることじゃないわ」
セレスは報告書へ目を戻した。
魔将との交戦に加わった各隊の配置、結界の損耗、負傷者の搬送先。帰還しても、終わらせなければならない仕事はいくらでもある。
報告書の一か所に、訂正の印を入れた。
「第三隊の撤収時刻、ここが違うわ」
「え?」
「橋の結界を閉じたのは、最後の担架が通ってから。私の時計では、もう四つ目の鐘が鳴っていた」
アンナが自分の控えを開く。
「……本当だ。転記を間違えてる」
「これだと、負傷者を向こう岸に残して閉じたことになる。原簿も確認してもらえる?」
「すぐ直すわ」
「お願い」
セレスは次の頁へ進んだ。
橋上で結界を保ったとき、剣の柄で潰した右手の皮はまだ固い。紙の縁に引っかからないよう、親指を寝かせて頁を押さえた。
昼前、不要な案内状をまとめていたアンナが、机の端へ手を伸ばした。
「この封筒も処分する?」
指が薄茶色の紙に触れかけた。
その上を、セレスの手が押さえた。
「私のものを勝手に触らないで」
思いのほか大きな声が出た。
向かいの机でペンが止まった。
「ごめんなさい。要らないのかと思って」
アンナは手を引いた。
セレスは彼女の指が離れたあとも、封筒を押さえていた。
「……処分するものは、自分で分けるわ」
「わかった」
短いやり取りが終わると、部屋にはまた紙をめくる音が戻った。
セレスは封筒を机の引き出しへ移した。ほかの書類の下には入れず、何も置いていない上段へ、表を上にして収めた。
***
宿舎の部屋へ戻ったのは、日が落ちてからだった。
剣を外し、上着を掛け、手を洗う。
昼間、討伐報告に使ったインクが中指の脇に残っていた。石鹸でもう一度こすり、乾いた布で水気を拭ってから、セレスは鞄から手紙を取り出した。
封蝋のない、糊で閉じただけの封筒だった。
紙を破ればすぐに開く。けれど、折り返しに便箋が挟まっているかもしれない。
机の引き出しから小刀を出し、灯りへかざして中身の位置を確かめてから、刃を差し込んだ。
便箋は二枚。
日付は二十日ほど前だった。セレスが遠征に出て、まだ王都へ戻れずにいたころのものだ。
最初の一行には、いつもと同じように書かれていた。
――セレスへ。
あの人に最後に会ったのは、三年前だった。
*
そのころのセレスは、まだ庁舎に自分の机を持っていなかった。
初陣から戻ったばかりで、借りた記録室の一角に座り、何度も差し戻される報告書を書いていた。廊下に足音がして、顔を上げると、リュカが戸口に立っていた。
肩に掛けていたのは、長い図面筒だった。
上着の裾には乾いた泥がついていた。昔と同じように片手を上げかけて、彼は笑った。
「セラ。久しぶり。騎士になったって――」
「その呼び方はやめて。もう子どもの頃とは違うの」
リュカの手が下がった。
「……ごめん。セレス」
「何の用?」
彼は図面筒の紐を持ち直した。
「街道の結界で、修繕が必要なところがあるんだ。術師を紹介してもらえないかと思って。二人か、できれば三人」
「結界?」
「うん。図面はある。ただ、支柱を直す間にも別の箇所を支えなきゃならないから、人手が――」
「困るたびに私を頼ればいいと思っているの?」
机の上へ出されかけた図面を、セレスは見なかった。
「私には私の仕事があるの」
「もちろん、君に現場へ来てほしいって話じゃなくて。窓口だけでも教えてもらえたら」
「紹介できる人はいないわ。正式に申請して」
リュカは何かを言いかけた。
セレスがペンを取ると、その口が閉じた。
「わかった。そうしてみる」
図面が筒へ戻される。紐を結ぶのに、少し手間取っていた。
セレスは視線を落としたまま、彼が帰るのを待った。
リュカは、まだ戸口へ向かわなかった。
「王都の鐘、ここだとよく聞こえるんだな」
窓の外で、ちょうど昼の鐘が鳴っていた。
「村にいたころ、二人で話しただろ。王都で働くようになったら、あの塔に――」
「昔のことなんて、いつまでも覚えていなくていい」
鐘の音が、開いた窓から入ってきた。
リュカは図面筒の紐を握ったまま、しばらく動かなかった。
「……そうか」
さっきより低い声だった。
「仕事中に悪かった」
今度は、片手を上げなかった。
来たときより慎重に扉を閉めて、彼は帰った。
セレスは書類へ目を落とした。
北側防壁の損傷は――。
廊下を行く靴音が聞こえる。
少しずつ遠ざかり、階段のほうへ曲がった。
北側防壁の損傷は――。
ペン先を置いたところに、インクが溜まっていた。
セレスは吸い取り紙を押し当てた。同じ一行を、もう一度初めから読んだ。
その面会のあとに届いた手紙から、リュカは「セラ」と書かなくなった。
セレスへ。
それだけの、よそよそしい書き出しになった。
「やっとわかったのね」
あのときも、一人の部屋でそう言った。
二枚目まで読んでから、一枚目に戻った。
最初の一行を、もう一度確かめた。
***
灯芯が小さく音を立てた。
セレスは机の上で便箋を持ち直した。
今月も、書き出しの下には辺境の暮らしが続いている。
『川沿いの測量が終わりました。去年の大雨で渡し場が一つ使えなくなっていて、地図を直しています。
宿の主人に、ここまで細かく描かなくても道はわかると言われました。そういう人に限って、初めて来る客への説明が「あの大きな木を曲がれ」で済むんだ。木はどれも大きい。
そのことで少し言い合いになりましたが、翌朝、問題の木まで案内してもらいました。目印になる看板を出すそうです。地図には看板のほうを描くことにしました』
「木も描けばいいでしょう」
セレスは小さく呟いた。
昔から、妙なところで譲らない人だった。
地図の話になると、手紙でも文章が長くなる。一枚目の最後には、修正した道の長さまで書いてあった。こちらが測量の仕事をするわけでもないのに。
二枚目へ移る。
『小屋へ戻ってから、干し豆を煮ました。
仕事をしながら火にかけたら、豆は硬いのに鍋だけ焦げた。どうしてこうなるのかわかりません。焦げたところを隠そうとして皿を替えたら、食べられる分が匙二杯になりました。
結局、パンを買いに行きました』
「水が足りないのよ」
セレスは言って、わずかに眉を寄せた。
「それに、先に浸けておかないから」
便箋には、誰も訂正しないまま次の行が続いていた。
『そちらは、もう朝も暖かいでしょうか。
任務で食事の時間も不規則だと思うけれど、ちゃんと食べてください。豆を焦がした俺が言っても、説得力はないけど。
また来月、書きます。
リュカ』
「自分の心配をしていればいいのに」
読み終えた便箋を、セレスは机へ置いた。
風景の話。仕事の愚痴。料理の失敗。
急いで知らせるほどのことは、一つもない。
こんな手紙が、三年間、毎月届いている。
一度も返事を書いていないのに、月が替わるたび律儀に。
セレスは二枚目を裏返した。
余白にも何か書いてあることがある。今月は何もなかった。
表へ戻した。
隣に、仕事用の白紙があった。
セレスは一枚を手元へ引いた。ペン立てへ指を伸ばし、途中で止めた。
干し豆は前の晩から水に浸ける。それくらい、宿の主人に聞けば済むことだ。
白紙を束へ戻し、便箋を重ね直した。
一枚目の下の角が、ほんの少し折れていた。爪で強く押せば傷むので、指の腹で何度かなぞって伸ばす。
もともとの折り目に沿って畳み、封筒へ戻した。
寝台の脇に膝をつき、奥へ手を伸ばす。
小さな木箱を引き寄せて、腰の鍵束から、剣の保管庫にも机の引き出しにも合わない鍵を選んだ。
錠を開ける。
蓋は、封筒を差し入れられるだけ持ち上げた。
閉じる前に、紙の端が挟まっていないか確かめる。
鍵を回して、蓋を軽く引く。開かない。
箱をもとの位置へ戻すと、セレスは立ち上がった。
机の上には、明日提出する報告書が残っていた。
もう一度ペンを取る。食堂が閉まるまでには、あと一頁ほど進められる。
窓から入った風が、机の隅の暦を揺らした。
月末まで、あと十日ほどだった。
セレスは暦を押さえ、そのまま次の月をめくりかけた。
指を離す。
「毎月毎月、暇な人」
誰にも聞こえない声で言って、報告書へ向き直った。
机の右端は、空いたままだった。