杏寿郎が鬼になって二ヶ月が過ぎた頃。
猗窩座は瞑想をしながら考えていた。
(これから、どう動くべきか…)
当初はとにかく杏寿郎を鬼にして生かした、その責任を果たすことだけに注力した。鬼化してからの数日こそ危うい場面もあったが、杏寿郎は恐るべき精神力で耐え抜き、いまや俺の監視など不要なまでに適応していた。
まともに動けるようになってからは俺と手合わせを重ね、杏寿郎は強くなった。血鬼術こそ発現していないようだが、身体能力はもはや人間の頃の比ではない。
『竈門少年には感謝しなければな!』
ある日、杏寿郎はそれを炭治郎のお陰だと話していた。炭治郎の妹は鬼となってから、とにかくよく眠ったのだという。人を喰う代わりに、眠ることで体力を回復していたのかも知れないと。ならば真似をしてみよう、と杏寿郎は至極単純にそう結論付け、それからひたすらに眠る時間を増やした。
同時に杏寿郎は眠りながらも、呼吸を今まで以上に意識していたように思う。全集中の呼吸…と言ったか。鬼殺の剣士たちが使いこなす独特の呼吸法だ。呼吸の大切さは俺もかつて師匠から教わった事があるが、杏寿郎たちほど重きを置いていたかと言われたら否だ。
呼吸…ふとあの時を思い出す。
杏寿郎が鬼になる時に見せた、あの輝くような息吹き。目に焼き付いている。杏寿郎自身がまるで光のように眩く見えた、あれは一体なんだったのか…。
思考が逸れてしまったな。
俺はゆっくりと瞑想から浮上すると、向かい合う形で眠りにつく杏寿郎を見た。
「こうして見ると人間と変わらないな…」
鬼になれば一般的に、見た目に多少の変化が出るものだ。ところが杏寿郎はそれが乏しく、目と牙ぐらいしか判別できる材料がなかった。
鬼といえば、鬼舞辻無惨たちの動きも気になる。俺を探しに来るものとばかり思っていたが、今日まで接触は無かった。だが油断はできない。ひとたび捕捉されれば鳴女の能力で、瞬きのうちに強制移動させられるだろう。そのため眠らなくても良い俺は、常に神経を張り巡らせていた。あの能力は気をつけていれば回避できるからだ。
鬼舞辻無惨は、おそろしく用心深い。臆病とも言えるほどに慎重な男だ。だから俺の異変に対して、どう動くべきか決めかねているのかもしれない…などと考えるのは楽観的すぎるだろうか。
俺はふと思いを馳せる。狛治ではなく猗窩座のままの時は、本来の俺は今ごろどうしていた?
(炭治郎に刀は返さなかったはずだ。そして…無惨に叱責され、その後は)
そうだ、怒りに任せて炭治郎の刀を粉々に砕いていた。それからは?決まっている、修行のやり直しだ。柱一人にあそこまで追い詰められたのだから、二人以上で来られては危ういとも感じていた。そう考えると、杏寿郎と共に鍛錬を重ねたこの二ヶ月は、俺としては大差ないとも言える。むしろ本来の俺より上回ってさえいるだろう。力量の近い修行相手が居ると居ないでは雲泥の差だからな。
「猗窩座」
いつの間にか目を覚ましていた杏寿郎が、不意に俺へ呼びかけた。
「どうした杏寿郎」
「うむ。聞くべきか随分と悩んだのだが」
そう前置きして、杏寿郎は続ける。
「お前の知る本来の歴史…つまり俺が死んだであろう未来では、その後の鬼殺隊はどうなっていたのだろうか?」
そう問われて、俺は今更ながらその事について何も話していなかったと思い至る。
「驚いたな。俺も丁度その事について考えていた所だ。…と言っても俺は全てを把握している訳ではないが、話しておこう」
今後の方針を考える上でもいい機会だ、と俺は改めて頭の中の記憶を整理する。
「まず杏寿郎が死んでから数ヶ月後だが、遊郭で大きな戦いがあった。上弦の陸・堕姫と妓夫太郎が、遊郭の町に潜んでいてな。その事に勘づいた鬼殺隊の柱と、炭治郎たちが潜入捜査をしていたはずだ」
「なんと、よもやそんな場所で!どの柱が向かったのだろうか。結果は分かるか?」
「俺も直接その場を見た訳じゃないからな。共有された雰囲気でしかないが…刀は二刀流の、随分と派手な戦い方をする男だったらしい」
「派手な二刀流…音柱の宇髄だろう!遊郭には何度か遊びに行っていたようだしな!」
杏寿郎は納得したように頷く。
「続けるぞ。結果は鬼殺隊側が勝った。だが遊郭の町は酷く破壊され、その音柱も片腕を失うほどの深手を負ったようだ。それ以降は恐らくだが戦線離脱している。炭治郎たちは何とか無事だったようだがな」
「そうか…彼ほどの男でも」
杏寿郎の反応から察するに、その宇髄とやらも相当な強さなのだろう。
「遊郭の戦いの後は…そうだ、お前たちの刀を作る里が襲撃されてもいた。鬼側は上弦の肆・半天狗と上弦の伍・玉壺の二人でかかり、鬼殺隊側はまたも炭治郎とその仲間、そして柱が二人…長髪で無表情な子供と、全体が桜色の髪の女が迎え撃った」
「よもやよもや!鬼殺隊の心臓ともいえる里が…しかし竈門少年は運がいいのか悪いのか、よほど鬼と縁があるのだな!そしてその柱の二人は、霞柱と恋柱の事だろう」
確かに、まるで炭治郎を中心に物事が動いているように思えてくるな。
「結果、里に多少の被害は出たようだが、鬼殺隊の面々には死人も出ずに勝利した。そしてその時にーーー」
俺と杏寿郎は同時に振り返った。
洞窟の外から微かな気配。
すぐさま外へ飛び出す。
遂に無惨の追っ手が来たか?
もし今の話を聞かれていたら面倒だ。
「くっ、逃がしたか…」
気配は完全に消え失せていた。更に追跡したいが今は昼時、この森から俺たちは出られない。
おそらく只者ではない。殺気を放っていなかったようだが、それでも俺たちに気づかれずここまで接近する手練れ…。
「猗窩座、気にするな。敵ならその内また相見えるだろう」
同じく周囲を警戒しながら杏寿郎は続ける。
「一番聞きたいことがまだだったが…鬼殺隊はその後、鬼舞辻無惨たちとの戦いでどれだけの犠牲が出たのだろう?」
聞こうか悩んだ理由とは、恐らくそれだろうな。木刀を握る手に力が入っている。ここで誤魔化しても仕方がないか…。
「…多くの犠牲者が出た。隊士たちの多くが死に、柱たちも最終的に生き残ったのはごく僅かだ。最後の戦いの前には、お前たちの頭である産屋敷家も犠牲になった」
「なっ…お館様までも!?」
流石に動揺したのか、目を見開く。
「無惨への罠を仕掛ける為に、自ら囮になったようだ。その作戦が勝利への要になった」
「………」
杏寿郎は腕を組み、目を閉じた。
「それらを踏まえて、これからどうするべきか…と俺は考えていた」
頷く杏寿郎。おそらく似たような事を考えているのだろう。簡単に言えば二択だ。本来の歴史をなぞるか、変えるか。
「うむ。俺は本来ならばあの場で死んでいる身…このまま隠れているべきなのかもしれない」
極力なにもしない…というのは語弊があるだろうが、悪戯に動くことでその先の流れを大きく変えてしまうと、どうなるか分からない。杏寿郎を人間に戻すどころか、鬼側に有利に働くような状況を作る可能性もある。
「かと言って、本来の未来で起きる悲劇を、みすみす見て見ぬふりをするというのもまた、違う気がするのだ」
俺の先ほどの話を受け、杏寿郎は熟考しているようだった。ならばどうする…か。
「杏寿郎よ。今のところ明らかなのは、どうやら無惨たちは俺を見失っているということ。もう一つは、お前が死んだと思われていることだ」
先ほどの気配の主は、おそらく鬼ではない…と思う。鬼の気配には独特の濁りのようなものが混ざっている。鬼の手に落ちた人間の可能性は捨てきれないが、まだ猶予はあるはずだ。
「ならば、隠れながら戦うのはどうだ?」
「隠れながら…?」
杏寿郎は首を傾げ反芻する。
「例えば単純だが、顔を面などで隠して名前も伏せ、鬼殺隊の危機に駆けつけては密かに助太刀する。正体不明の正義の味方…クク、流石に冗談じみて…」
「それは名案だ!」
くわっと音が出そうな程に刮目し、嬉々として叫ぶ杏寿郎。
「いっそお互いの呼び名も変えてみよう!面はそうだな、この時期この辺では村祭りがあったはずだ。そこで出店の面を拝借しよう!」
「お、おい杏寿郎。本気か」
「ああしかし猗窩座よ、お前の身体模様は目立ち過ぎるな。肌の出ない服装に変えなければならんか…いや白粉を塗れば…」
不味い、話がどんどん進んでいる。
「いや杏寿郎、俺は別に」
「さつま」
「は?」
「今日から俺は、薩摩と名乗ろう!して、お前の名は何とする?」
期待するような眼差しが突き刺さる。
……気が進まない、が…
言い出したのは俺だからな。
「………狛治と呼んでくれ」
「ほう、狛治か!いい名だな!」
何度も頷く杏寿郎…もとい薩摩。
口は災いの元とは言ったものだ。
だが男に二言はない。
俺はもう逃げないと誓ったのだ。
たった今から猗窩座ではなく狛治として、やれるだけの事をしてみよう。嫌な予感しかしないが、恥辱に耐えてでも俺は俺の誓いを果たしてみせる。
「格好良い決め台詞も考えねばな!」
「勘弁してくれ」
果たしてみせる…!
「月夜に代わりいざ仕置き、などどうだ!?」
「それは不味いと俺の細胞や産毛が言っている」