最低の気分だった。
今日も今日とて、馬鹿な男どもから財産を巻き上げてやろうと出かけた私を待ち構えていたのは、突然のどしゃ降りの雨だった。家を出た時点では空は快晴で、そもそも雨なんて予報では一言も言っていなかったので傘など持っていない。どうせ俄雨だろうと思いきや予想に反していつまでも止まず、私は適当な民家の軒下で雨を凌ぎながら、もう三十分近くそこに突っ立っていた。
いっそ「雨の中傘もなく立ち尽くす可哀想な若い娘」を演じてカモを引っ掛けてやろうかとも思ったが、そもそも誰も通りかからない。時々行き交う人々は傘で顔を隠すか、袂や手荷物で体を庇いながら足早に去っていくのみで、こちらに見向きもしなかった。
そうしている間にも、雨水を吸った上着の裾は不愉快に重たくなり、少し握ればもう手のひらがじわりと濡れる。それがまた不愉快で、私は大きく溜息をついた。
「今日はもう引き上げるかなあ。さっさと帰って服脱ぎたい……って、あ」
さしたる収穫はないが仕方がない、また明日にでも出直そう、なんて考えながら呟いて、私ははたとあることに気がついた。
「そういえば、洗濯物……」
家を出る前、溜まった洗濯物をまとめて洗って外に干してきていた。のだが、突然のこの雨できっとまた汚れてしまったことだろう。
ついで考えるのは、家で待っているはずの双子の姉のこと。
「姉さん、取り込んでてくれるかなあ……いやいや」
一瞬にも満たない期待を、頭を振って追い払う。貧乏神としての自らの性質を恐れる姉は、一人では何もできないし、しようともしない。きっと今も雨ざらしの洗濯物を眺めながら、女苑が帰ってきたら何とかしてもらおう、なんて考えていることだろう。
あるいは、姉も家を空けていたかもしれない。そして私と同じようにこの雨に降られ、私以上にぐしょぐしょに濡れながら泣いて帰ってくるのかもしれない。そんな不運のほうが姉には似合うと、浮かんだ想像に少し笑った。
なんにせよ、まずは帰ろう。靴を脱いで服を着替えて、洗濯物は洗い直して、それから風呂の準備だ。ついでに泣きついてくる姉の相手も、してやらねばいけないだろうか。
いつの間にか雨足は幾分弱くなっていた。空はまだ鉛色で、上着もワンピースも相変わらず重たいけれど、たぶん今がチャンスだろう。
「……よっし、帰るか」
気休めとばかりに、脱いだ上着を今度は先ほどよりもきつく絞る。それを肩にひっかけてひとつ息をつき、私は曇天の下へと足を踏み出した。
**
結局雨は止まなかったけれど、それ以上強くもならなかった。
特に何事もなく我が家までたどり着き、玄関には入らず塀に沿って歩く。
さっさと着替えたいのは山々だが、洗濯物をいつまでも雨ざらしのままにしておくのも気分が悪い。それに着替えたところでまた濡れるくらいなら、先に洗濯物を回収してしまったほうが効率がいいだろう。
そう判断して、私は家の裏手にまわる。庭と呼ぶにはいささかおこがましい程度のスペースに物干し台が設置されていて、今ならそこに、すっかり汚れてしまった洗濯物が揺れている──はずだった。
はずだった、のだけれど。
「……嘘ぉ」
実際のところ、そこには何もなかった。
厳密に言えば、物干し台と物干し竿は残っている。台は完全に横倒しになり、竿は台から外れ両方ともぬかるみに三分の一ほど埋まってしまっているから、無事にとは言えなかったが。
でも、じゃあ、洗濯物は?
「まさか全部飛ばされた……? うっわ最悪!」
あれお気に入りだったのに、と悪態をつきながら、倒れた物干し台を起こそうかと逡巡して、やめた。どうせもう干すものもないのだ、雨が上がって地面が乾いてからでもいいし、もう今は一刻も早く着替えたくてたまらなかった。
それと、だ。
「……八つ当たりくらい、したっていいよね」
べつに、姉が悪いわけではないことはわかっている。洗濯物が飛ばされたのも、物干し台が倒れたのも、そもそも突然の雨に見舞われたのだって。
それは姉の性質のせいかもしれないけれど、姉の責任ではない。好きで貧乏神などに生まれたわけでもなく、自分の性質を制御すらできない彼女に負える責任などないのだと、私が誰よりもいちばんよく知っている。
それでも愚痴を言いたい気持ちはあったし、姉ならそれを甘んじて受けてくれるだろうという自負もあった。
今までだって、そうだったように。
だから私は、踵を返して玄関へと向かう。ああそういえば、そもそも姉さん家にいるのかなあ、なんて考えながら、相変わらず建て付けの悪い引き戸に両腕で強く力を込める。
その時になってすら、私は気がつかなかった。
竿と台だけ残して、洗濯物が消えていた本当の理由。一瞬頭を過ぎりはしたけれど、一瞬すぎて追いかけもしなかったそれは、結局私のもとに帰ってきてはくれなかったのだ。
何度かがたがたと揺らした戸を、半ば力任せに引き開ける。ちょっと姉さん、洗濯物──とそこまで声を上げてから、違和感を覚えるまでは数瞬だった。
いや、数瞬なんてものではなかっただろう。それは違和感というにはあまりに露骨だった。私の耳をざらりと撫でながら、静かな家屋内に響く弱々しい音。
それは──啜り泣きの声だった。
そうと気づいた途端、私は弾けたように駆け出していた。靴を脱ぐ間すらもどかしく、蹴散らかしながら居間を進む。そもそも広くもないこの平屋で、声の主を見つけるのに時間はいらなかった。
「姉さんっ!!」
叫んで飛び込んだのは、居間のすぐ隣にある台所。よくよく見知った濃紺の影、その肩がびくりと跳ね、ひどくゆっくりとした動きでこちらを振り返った。
「……女苑……」
「……っ」
その顔が泣き腫らしてぐしゃぐしゃだったことに、心臓が強く波打つ。それでもどうにか平静を装いながら、私は言葉を紡いだ。
「何、してんの」
「ごめ、なさ……」
「何してんのって聞いてんだけど」
言ってしまってから、その声音の冷たさに自分で驚く。姉は私と目を合わせようとせず、それでも必死にか細い声を押し出してこう言った。
「雨、ふってきたから……洗濯物、とりこもうと思って……でも……」
「でも?」
「だ、台、倒しちゃって……ぜんぶ、泥まみれにしちゃった、から……」
「それで、自力で洗い直そうとしたってわけ」
俯いたまま、姉は小さく頷く。
正直それ自体は、現状を見れば察せることだった。流し台に積まれた服、汚れた色の水と泡。その隙間から見えるお気に入りのスカートもジャケットも、ことごとく破れたり色落ちしていたりで散々なことになってしまっている。それだけで、姉が何をしたのか、何をしようとしたのかはもう明白だ。
そして、今更それを追及したり責める気はない。それよりも、私にはよほど聞きたいことがある。
「……なんで?」
「ご、ごめ……」
「違う」
私が何を言いたいのか計りかねたらしく、姉はおずおずとこちらを窺ってくる。ようやくまともに見れた姉の目は真っ赤で、濡れた睫毛に反射した光がきらきらと瞬く。
きれいだな、と場違いなことを頭の片隅で考えながら、それでも私は本題を切り出した。
「姉さん、今まで自分から何かしようとしたことなんてなかったじゃん。ましてや家事とか……なんで今日に限って」
「それ、は……」
姉の貧乏神としての性質は笑えないくらいに強力で、枷と言い切ってしまってもいいレベルだ。他人も自分も巻き込んで、失い、失わせ、不幸にして不幸になる。それしか能のないことを、姉自身よくわかっている。
その影響は日常のちょっとした行動においても顕著に現れ、それ故に、姉は何においても根本的に他人任せ、私任せだ。無気力で他力本願、それが姉の──依神紫苑の本質だと、そう思っていた。
それからしばらく、姉は何か言おうと口を開きかけ、しかしすぐ押し黙るのを数度繰り返した。けれど、はっきり言うまで私に引き下がる気がないのだと悟ったのだろう。観念したかのように、ようやくぽつぽつと話し始めた。
「あの異変から……わたしが、しばらく天人様とご一緒だったの、知ってるでしょう」
「……ああ」
答えながら、心のなかで舌打ちをする。
”天人様”。それは、十中八九無関係ではないだろうとは思いながら、それでも今は、他の何よりもいちばん聞きたくない名前だった。
「天人様と出会って、お傍においていただいて……わたし、すごく幸せだった。わたしの能力は消えないし、天人様を巻き込んでしまうけど……それでも天人様は、わたしといると楽しいって、そう言ってくれた。……だから」
だから、わたし、今なら何かできるかもって。何かしたいって、そう思っちゃったの。
「そんなの無理だって、わかってたのにね」
泣き腫らした目のまま、姉はくしゃりと顔を歪めた。無理やり笑ったのだと気づくのに、時間は要らなかった。
そして、返す私の言葉は。
「……なんだよそれ」
驚くほどに冷たく、あまつさえ怒気さえ孕んでいた。
「自分で言ってんじゃん。能力は消えないって。わかってんなら余計なことすんなよ」
「うん」
「どうせ迷惑かけるんならあの天人相手にしとけよ。ほんっと使えない」
「うん」
「……っ」
いったい何に対して苛立っているのか、もう自分でもよくわからなかった。いまさら自らの性質に抗おうとし、結果傷ついているだけの姉の愚鈍さにか。姉にそんな中途半端な自立心を芽生えさせ、結果傷つけているあの天人の身勝手さにか。
それとも──そんな考え方しかできない、狭量な自分自身にか。
その全部なんだろう、と思う。私がいない間に姉とあの天人がどんな生活をして、どんなやりとりがあったのか、私には知るよしもないけれど、それでも、少なくとも。
あの天人が──天子が、本当に心底姉のことを気に入って、愛おしいと思ってくれていること。紫苑といると楽しいと、嘘偽りない本心から思ってくれていたこと。
それくらいは、わかっているつもりだったから。
「退いて。あとは私がやる」
ほとんど姉を押し退けるようにして、私は流し台の前に立ち、泥まみれのジャケットやスカートを洗い直し始める。ことごとく全てが敗れ、色落ちし、散々なことになってしまっているそれらはもはや捨ててしまったほうがいいレベルで、洗い直したところでなんの意味もなく、その行為自体が姉への当てつけにしかならないと知りつつも、私は手を止めなかった。
そして、姉は。
しばらく所在なげに立ち尽くしていたものの、やがてふいと踵を返す。濃紺の影は無言のまま壁の向こうに消えてゆき、あとには何も残らなかった。
そう、何も残らなかった。姉に芽生えたわずかな自立心も好奇心も、この一瞬で霧散してしまっただろう。そうしてまたこれまで通り、無気力で、他力本願で、卑屈で根暗な依神紫苑に戻るのだ。
それでいい。だって、そうあるべきなのだから。
寺暮らしを経験してもなお、私が結局、疫病神としての性質から逃れられなかったように。
それでも、もし、と余計な考えが頭を掠める。もしも、私でなかったら。姉が泥まみれにし、引き裂き、台無しにしてしまったのが、私ではなく天子の服だったとしたら。
それでも彼女は、笑っただろう。姉の頭を撫で、気にするなと姉の涙を拭ってやっただろう。そうして姉は残酷な勘違いを続けたまま、実りのない自立心と承認欲に溺れ続けることになるに違いない。
そして。
それが間違いであると断言できるだけの何ひとつを持ち合わせていないことも、私にはよくわかっていた。
壁の向こうからは何の音も聞こえない。姉はまだこの家の中にいるのだろうか、確認はしなかったし、どっちだってよかった。
どうせ、私たちは離れられない。
身勝手もエゴも上等で、与えられた性質に従って、私たちは生きている。不幸にして不幸になる以外能のない姉も、他人の財産を巻き上げ素寒貧にさせて暮らす私も、そういう存在なのだから仕方ないと、開き直りながらここまで来た。
それでも姉は、そこから脱したいと願った。願ってしまった。そうして曲がりなりにも自ら行動を示し、受けなくてもいい痛みに泣いた。泣いたのだ。
──私だって。
他の生き方があるなら、そうしたかった。そして、それが無理だということは、既にこの身をもって証明済みだ。
だから、私達は離れられない。離れてはいけない。
だって、嫌じゃないか。
──一人だけ、置いていかれるのは。
それ以上余計なことを考えたくなくて、私はひたすらに手を動かし続けた。泥と染料が混ざって酷い色だった泡と水は次第に薄まり、やがてほとんど透明になってもなお、私は手を止めなかった。
エゴイストならエゴイストらしく、身勝手なら身勝手に。言葉には出さないその想いを、私は心のなかで叫ぶ。
──自分だけ勝ち逃げしようなんて、一人で幸せになろうだなんて、絶対に許さない。
どれだけ水が透明になろうとも、私の心は澱んだ色のまま。
排水口がごぼりと、嗚咽のような音を上げた。
了