夜の薬舗は、昼間よりずっと静かだった。
棚に並んだ薬草の瓶が、ランプの明かりを受けて淡く光っている。
アレンは作業台に向かい、明日の調合に使う薬草を一つずつ選り分けていた。
その向かいでは、リズレが椅子に座っている。
いつもなら背筋を伸ばしている彼女が、今夜は珍しく頬杖をついていた。
「……アレン」
「ん?」
「まだ終わらないのか」
「もう少しだけ」
「そうか」
リズレはそう答えたものの、視線は薬草ではなくアレンに向いている。
しばらくして。
「……リズレ?」
「なんだ」
「さっきからこっち見てない?」
「見ていない」
「見てるだろ」
「……気のせいだ」
そう言いながら、リズレはわずかに顔を逸らした。
アレンは小さく笑う。
「眠いなら先に休んでいいぞ」
「眠くない」
「じゃあ、退屈?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「……」
リズレは答えなかった。
ただ、しばらくして椅子を引く音がした。
彼女が立ち上がる。
そして作業台の横まで来ると、アレンの隣に静かに立った。
「……近くにいたいだけだ」
「え?」
「聞こえなかったことにしてもいい」
「いや、聞こえたけど」
アレンが顔を上げる。
金色の瞳と目が合った。
いつもの鋭さはなく、ほんの少しだけ照れたように揺れている。
「……笑うな」
「笑ってないよ」
「笑っている」
「嬉しいだけ」
「……そうか」
リズレは小さく呟いて、アレンの肩にそっと頭を預けた。
銀色の髪が、アレンの腕に触れる。
「これくらいなら……いいだろ」
「うん」
アレンは作業の手を止めた。
そして、隣にいる彼女の髪を一度だけ、そっと撫でる。
「……アレン」
「ん?」
「もう少し」
「もう少し?」
「……撫でていてくれ」
「はいはい」
薬舗の中に、二人の小さな笑い声が落ちる。
外はもう、すっかり夜だった。
けれど今夜だけは――
この静かな薬舗が、リズレにとって一番安心できる場所だった。
薬舗の昼下がり。
扉の向こうから、楽しげな話し声が聞こえていた。
「アレン、これ美味しい」
「気に入ったならよかったよ」
「……もう一つ」
「食べすぎるなよ」
「大丈夫だ」
リズレの声だった。
それを聞いて、店の入口に立っていた二人のエルフは顔を見合わせた。
リュクスとセラム。
どちらも、しばらく何も言わなかった。
「……ねえ、セラム」
「何?」
「今の、リズレよね?」
「……たぶん」
「だよね」
二人はもう一度、薬舗の中を覗いた。
そこには、椅子に座って菓子を頬張るリズレがいた。
しかも。
やたらと機嫌がいい。
「…………」
「…………」
リュクスが眉を寄せる。
「おかしくない?」
「おかしいわね」
「私たちが人間の店に入ろうとしたら、真っ先に嫌な顔するくせに」
「昔は人間が近づくだけで追い払っていたものね」
「なのに今は……」
二人の視線の先で、アレンがリズレの前に新しい皿を置いた。
「熱いから気をつけろ」
「ありがとう」
リズレが、素直に笑った。
「…………」
「…………」
リュクスの目が細くなる。
「……何あれ」
「私に聞かないで」
「嫉妬するわ」
「私もよ」
二人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に薬舗へ入った。
「アレン」
「ん?」
突然、左右から声をかけられた。
アレンが顔を上げる。
いつの間にか、リュクスとセラムが作業台の両脇に立っていた。
「……二人とも、どうした?」
「別に?」
リュクスが笑う。
妙に距離が近い。
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「何?」
「あなた……」
リュクスが身を乗り出す。
「リズレに、どんな手を使ったの?」
「は?」
「だっておかしいじゃない」
今度はセラムが反対側から顔を近づけた。
「昔のリズレを知っているでしょう?」
「まあ……」
「人間なんて信用できないって、あれだけ言っていたのに」
「今じゃ、この有様」
セラムがリズレを指差す。
リズレはというと、何事もなかったように菓子を食べていた。
「……リズレ」
「なんだ」
「二人に何か言った?」
「いや」
「じゃあ、どうして俺が責められてるんだ?」
「知らない」
即答だった。
「リズレ!」
「何だ」
「あなた、本当にこの人に何をされたの?」
「何も」
「何も?」
「美味しいものを食べさせてもらった」
「…………」
「怪我をしたときに薬をくれた」
「…………」
「眠れる場所も貸してくれた」
「…………」
リュクスとセラムが、ゆっくりとアレンを見る。
「……それだけ?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
「俺にもよく分からない」
アレンが困ったように頭を掻いた。
「ただ、リズレが困ってたから助けただけだよ」
「…………」
二人は黙った。
そして、ちらりとリズレを見る。
「……それで懐いたの?」
「懐いたとは思っていない」
リズレが言った。
「私はただ、ここが気に入っているだけだ」
「毎日いるけど?」
「居心地がいいからな」
「昨日もいたよね?」
「いた」
「一昨日も?」
「いた」
「……ほら」
リュクスが頭を抱える。
「完全に懐いてるじゃない」
「違う」
「何が違うのよ」
「……アレンは、人間だが嫌いではない」
「それを懐いてるって言うのよ!」
リュクスの声が薬舗に響いた。
セラムも苦笑する。
「まあ……リズレがこんな顔をするようになったのは、少し意外ね」
「そうか?」
アレンがリズレを見る。
リズレは一瞬だけ目を合わせると、ほんの少し口元を緩めた。
「……何?」
「いや」
アレンも笑う。
「楽しそうだなと思って」
「……そうかもしれない」
そのやり取りを見ていたリュクスとセラム。
二人は再び顔を見合わせた。
「……ねえ」
「うん」
「私たちも、ここに住もうか」
「それはいい考えね」
「おい」
アレンが慌てて二人を見る。
「薬舗は宿屋じゃないぞ」
「でもリズレは住み着いてるじゃない」
「住み着いてはいない」
「今日も泊まるんでしょ?」
「……泊まる」
「ほら!」
「だから違う」
リズレが真顔で否定する。
しかし、その直後。
「……アレン」
「ん?」
「今日の夕食は?」
「もう決めてるよ」
「何だ?」
「シチュー」
「そうか」
リズレは満足そうに頷いた。
その横で、リュクスとセラムが同時にため息をつく。
「……完全に落ちてる」
「ええ」
「しかも本人だけ気づいてない」
「それが一番重症ね」
「聞こえているぞ」
リズレが睨む。
二人は笑った。
薬舗の中に、久しぶりに三人のエルフの笑い声が響いた。