何回やり直してもお嬢様が救えない~今度のお嬢様は、なぜか私を離してくれない~ 作:名もなきそば付き
フィオナが教本を開いたまま、お嬢様へ話しかけていた。
授業のあとで、俺は借りた本を棚へ返していた。戻ると、二人はまだ同じ机にいる。
「ノエルさんに、いつも聞いてしまうんです」
フィオナが言った。
俺が近づくと、二人とも顔を向ける。
「何のお話でしょうか」
「お茶の席のことよ。あなたにも聞きたいそうだから、座って」
お嬢様が隣の椅子を示された。
俺は座り、二人の教本を踏まないよう袋を机の下へ置いた。
フィオナの前には、昨日話した令嬢からの招待がある。
今度の日時は、教会の仕事と重ならなかった。
「返事はもう書きました。今度は伺えるので」
「それなら、何を気にしているの?」
お嬢様が尋ねる。
フィオナは紙へ手を置き、少し考えた。
「親しくしたいと思っていても、そのつもりと違って伝わることがあるんですね。誰かが困っていたら声をかけたいです。でも、今度は声をかけるだけで、別の方を困らせることもあるのかと」
お嬢様はすぐ答えなかった。
廊下を通る生徒たちの声が、開いた戸から聞こえる。
俺は昨日の教室を思い出した。招いた令嬢が寂しく思ったことと、フィオナが嘘をついていないことは、どちらも本当だった。
「困っている人に声をかけるのまで、遠慮しなくていいわ」
お嬢様が言った。
「ただ、誰かと先に約束しているなら、その約束も覚えていてほしい。声をかけられた人だけでなく、待っている人もいるでしょう」
「はい」
フィオナがうなずく。
「その方に事情を聞く前に、私がよいと思ったことを決めないようにしています。教会でも、まず聞くようにと」
「それならいいと思うわ」
お嬢様の答えは短かった。
俺は二人を見ていた。
以前、こういう話は何度もした。事情を聞くこと、本人が望まない手助けを続けないこと。その説明をするたびに、フィオナは分かったと答えた。
だが、次の場所ではまた同じことが起きた。
今の彼女は、言われたとおりに待つだけでなく、どこで間違えたかを自分から確かめている。
お嬢様の話にも、理由を聞こうとしていた。
「セレスティア様は、誰かに声をかけられるのが嫌なときもありますか」
お嬢様の指が教本の角で止まった。
「あるわ」
「そういうときは、どうしたら分かりますか」
「私が断ったら引いてくれればいいの」
フィオナはまたうなずいた。
「分かりました。嫌だったら、そう言ってください」
「あなたもね」
お嬢様はそう返された。
俺は教本へ目を落とした。
二人の間に必要な話なら、俺が代わりに答えなくても進められる。
☆
話題が俺へ戻ったのは、そのあとだった。
フィオナが教会の予定を書いた紙を出す。
「ノエルさんにも、聞きたいことがあるんです」
「何でしょうか」
「買い出しにお誘いすると、いつも予定を確かめてくださいますよね。でも、ノエルさんご自身が行きたいかどうかは、聞いていませんでした」
お嬢様が静かにこちらを見た。
買い出しの日を相談したいのだと思い、俺は紙へ目を落とした。
「必要な買い出しでしたら、予定が空いている日にお手伝いできます」
「お仕事ではなく、お休みの日に街へ遊びに行くとしたら?」
「それも、予定がなければ」
「行けるかどうかではなくて、行きたいですか。この前みたいに、お店を見たり栗を食べたりするのは」
答えに詰まった。
この前の栗はおいしかったし、店の話を聞くのも楽しかった。
用事の話ならすぐ答えられたのに、俺が行きたいかと聞かれると、言葉が出てこない。
「栗はおいしかったですし、店の話も楽しめました」
行きたいかと聞かれたのに、この前の感想を答えてしまった。
フィオナが少し笑い、お嬢様がため息をつかれた。
「それなら、また行きたいの?」
「はい」
お嬢様に聞かれて、ようやく答えられた。
フィオナは嬉しそうだったが、すぐ次の買い出しへ誘うことはしなかった。
「では、次にお誘いするときは、用事だけでなくそう言います。ご一緒したいと」
お嬢様の目が少し細くなる。
俺は、その反応を見る前にお答えした。
「予定を確かめてからになりますが」
「はい」
フィオナは穏やかにうなずいた。
お嬢様が教本を閉じられる。
「私も用事がなくても呼ぶことがあるわ」
「存じております」
「知っていても、何のお仕事かと聞くでしょう」
否定できなかった。
俺が黙ると、フィオナは口元を押さえる。お嬢様も、少しだけ笑われた。
笑って終わる話ならよかった。
けれど、お嬢様はすぐ真面目な顔になり、フィオナへ向き直られる。
「あなたがお会いしたいと言うのは分かったわ。ただ、ノエルには教会の仕事も私との予定もあるの」
「はい。先に約束したことは変えなくてよいです」
「それなら」
そこでお嬢様は言葉を止められた。
よい、と簡単に認めるお気持ちでもなかったのだろうか。
俺は二人の予定を帳面へ書き写し、同じ時間へ入らないよう確かめた。
☆
話が終わる前に、フィオナがもう一つ尋ねた。
「約束を断るとき、相手の方がよいと言ってくださったら、それで終わりにしてもよいですか」
「今回のお茶のような話?」
お嬢様が聞き返す。
フィオナはうなずいた。
「あとから、実は嫌だったと分かることもあるので」
「毎回確かめ直されても困るわ。言ったことを、一度はそのまま受け取ってほしい」
お嬢様は答えた。
そのあと、俺へ視線を向ける。
「平気だと答えたのに、何度も疲れていないか聞かれることもあるでしょう」
俺は口を閉じた。
こちらを信用してほしいという話なら、確かに分かる。
フィオナは俺の顔を見て、笑わずにうなずいた。
「では、一度お返事をいただいたら、それを覚えておきます。違うと思うことがあったときには、また聞いてもよいですか」
「ええ。急に顔色が悪くなったら、平気と言ったからと放っておかないでほしいわ」
お嬢様のお言葉に、俺も頷いた。
同じ返事でも、そのあと状態が変わることはある。
フィオナは教会でのことへ当てはめ、立ち上がったときにふらついた方は知らせると答えた。
お嬢様は、そのくらいなら分かりやすいとおっしゃった。
「私、こちらで何か言っても、お二人にしか通じないと思っていました」
フィオナが小さく言う。
「私の知らない約束が、もうたくさんありそうで」
お嬢様は彼女を見た。
俺とお嬢様なら、いつ教会へ行き、いつ屋敷へ戻るかは言わなくても分かる。
フィオナには、その予定を伝えていなかった。誘ってよい日が分からず、遠慮していたのだろうか。
「分からないことは、聞いてくださって構いません。私たちにも、まだ聞かないと分からないことがあります」
俺が言うと、フィオナは少し安心したように笑った。
お嬢様は、私もそうよと答えられた。
廊下へ出ると、クラウディア様が待っていらした。
手に持つ紙へ実習の印が押されている。
「話は終わった?」
「ええ。どうしたの」
お嬢様が答えた。
クラウディア様は俺へ紙を見せる。
「工房を使うための説明があるの。道具の持ち込みも確認したいから、今日は少し残るわ」
「試作の瓶も、お持ちになるのでしょうか」
「ええ。薬は別にして、空の瓶だけ」
仕事の話をすると、クラウディア様の表情が変わる。
半眼はそのままでも、手元の紙を持つ指が忙しい。確かめたいことがいくつもあるらしい。
「図を一枚、見てもらってもいい?」
俺がうなずくと、クラウディア様は教室の机へ紙を広げられた。
フィオナがすぐ隣へ寄らず、空いている側から見てよいか尋ねる。
「構わないわ」
クラウディア様が答えた。
図は、片手で蓋を外すための留め具だった。以前の輪より外れにくく、指をかける場所が少し大きくなっている。
俺は実際の指の向きを机の上で示した。
「こちらを引くと、手袋でも使えそうです。留め具の角だけ、少し丸いほうが」
「引っかかる?」
「急いだときに、布を破くかもしれません」
クラウディア様は小さく書き足した。
フィオナは図の端を示す。
「こちらは蓋がどこかへ行かないようにですか」
「ええ。落としてしまう人がいるから」
「診療室でもあります。治療を受けたあと、探している方が」
クラウディア様はフィオナを見た。
役に立つ話だと思われたらしい。診療室でどんなふうに瓶を持っているか、二つほど尋ねる。
フィオナは、分かるところだけ答えた。
自分が治療した患者の名前や、関係のない病状は出さない。
お嬢様は机の向かいで、そのやり取りを聞いていらした。
「完成したら、お母様にも見せましょうか」
お嬢様がおっしゃる。
クラウディア様は顔を上げ、少し考えた。
「使う方の話を聞けるなら、嬉しいわ」
「伝えておくわね」
試作品の話は、それでまとまった。
クラウディア様が説明会へ行くので、俺たちも帰る支度をする。
☆
馬車へ向かう途中、フィオナは門のところで別れた。
お嬢様は彼女の馬車が出るまで見ていらした。
「何か気になることが?」
尋ねると、お嬢様は俺へ目を戻された。
「きちんと話せる方だと思っただけよ」
「はい。今は、そうだと思います」
お嬢様の眉が少し上がる。
俺は、今はという言葉の先を説明しなかった。
以前の彼女を知っているのは俺だけのはずだった。お嬢様は今日のやり取りを見て、そう感じられた。それでよい。
馬車へ乗ると、お嬢様が隣の席を空けられる。
「でも、それとは別よ」
「何がでしょう」
「あなたに会いたいと言うこと」
俺は返事を考えた。
フィオナは教会で一緒に仕事をする相手であり、今は同じ学園へ通っている。
「先にお約束したことは、守ります」
「分かっているわ。あなたが破るとは思っていないの」
お嬢様は窓の外をご覧になった。
しばらくして、こちらへ手を伸ばされる。
俺はその手を取った。
「これも、何かの用事だと思う?」
「いいえ」
お嬢様の指が、俺の指へそっと重なる。
馬車が曲がっても離れなかった。俺はご不便のないよう袋を足元へ移し、手を握り直した。