長い、果てしなく長い
君は無名の流浪人――それも北の蛮地出身の荒くれ者だ――なのに、ひょんなことから雲の上の存在である貴族様の御令嬢の護衛役なんぞをやることになってしまったのである。一時は吟遊詩人が歌う騎士物語の一員になったような気がして夢心地だったが、途中からそれは胃の痛くなるような悪夢へと変わっていった。
剣を抜けば済む護衛役とは思えないほど、血の匂いのしない鉄火場、つまりは陰謀と社交辞令が渦巻く様々な出来事に駆り出された気がする。貴族界隈は、魔物の巣窟よりもよほど恐ろしかった。
とにかく窮屈だし、フォークの持ち方一つから作法にひたすら言及されるし、刺客と剣のぶつけ合いになっても「ドレスの裾が汚れるから」だの「相手の顔を立てて穏便に」だのと言われ、簡単に勝ってはいけない。とにかく流浪生活とは勝手が違う事に、君は苦しめられ続けた。
しかしそれももう終わりだ。依頼の期限がこの度目出度く満了を迎えたのである。君はこれより先、金輪際、貴族という厄介な生き物に関わろうとすることはないだろう。
……依頼をこなす為に失ったものは多い。今思い返しても必要だったとは言え、今までの旅で得られた貴重な財産……身代わりの護符や、魔法の掛かった隠しナイフなどもいくつか失う羽目になってしまった。しかし、自分の命を守り、お互いの面目を守り、あの陰謀渦巻く迷宮の如き環境から無事に脱出するためである。致し方の無い事だろう、と君は己の心を慰めた。
君は依頼報酬と個人的な謝礼でパンパンに膨れた革袋の重みを、失った財産と天秤にかけながら自由の風が吹く街道を歩く。すると、後ろからひどく見慣れた気配が追いかけてくるのを感じ取った。
振り返ると、そこに居たのは依頼の間にすっかり見知った顔であり、しかし、君の知る姿から変わり果てた御令嬢であった。
夜会で幾度となく結い上げられていたあの美しい長い髪は、無造作に短く切り落とされている。豪奢なドレスはどこへやら、そのまま旅にでも出るかのような機能的な軽装で、あろうことかその華奢な背には、彼女が密かに愛用しているという血生臭い長い柄の「両手斧」を背負っていた。
君は信じられず、目を丸くして彼女の顔をまじまじと見た。婚約者の浮気相手を調べ上げるときに見せていたような、あの執着すら感じさせる情念が消え失せ、纏っていた見えない重さまで失ってしまったかのように、その表情は晴れやかで軽やかだ。一体何があったというのか。
いや、君は心当たりを知っている。婚約者の心変わりだ。あの出来事から彼女の家で何があったかは知らないが、本当に単身で家を出てきてしまったのだろうか?
「ええ、彼の為に動いてきた人生も、とうとう意味を失ってしまいました。なので、両親含めて家の者を全て説き伏せ、こうして出てきたのです」
御令嬢は、ふっと儚げに、自嘲気味に笑ってみせた。行き場を失い、人生に絶望した哀れな女。そのしおらしい姿に、君は思わず同情の念を抱いてしまう。
「私にはもう、しがらみは何もありません。ただ……外の世界は、私には少し広すぎるようです」
君はやはり、彼女の様子が気に掛かった。昨日の今日ではないが、数日の出来事である。自分の心に無理をかけて、衝動的に飛び出したりしてないだろうか。君は彼女の身を案じ、優しく尋ねた。
「……ありがとうございます。ですが、立ち止まってはいられません。命短し恋せよ乙女、私は私の人生を生きて行かねば幸せは掴めませんから」
そうして、彼女は上目遣いで、うっすらと潤んだ瞳を君に向ける。
「ですから、優秀な冒険者であるあなたに、新たな依頼をしたいのです。……私の新しい人生の護衛を。無期限で」
君は、鉄火場で見せる勇猛さが嘘のように狼狽した。
たしかに彼女の傍らで護衛している時、その類まれなる美貌や、気品ある仕草、甘い匂い、ふとした時に見えてしまう白い『肌色』に何も感じなかったと言えば嘘になる。しかし、しがない流浪人が雇い主である貴族の姫君に、そんな不埒な考えを持てるはずもなかった。彼女の人生に踏み込もうなどと、大それたことは微塵も思えなかったのだ。そのため、護衛期間が終わった後は未練を断ち切るように、何も言わずに発ったのだ。
なのに彼女の方から追いかけ、君の背を追いかけ、あまつさえ行動を共にしようとしてくる。これではまるで……まるで……。
君は激しく頭を振って、己に都合の良すぎる考えを振り払った。彼女の身の振り方については、ひとまず街についてから考えても遅くはないはずだ。そう適当な理由を並べて伝え、足早に街へと歩き出した。
(そうだ、娼館に行こう)
護衛の間に溜まりに溜まったものを、酒と女で吐き出してしまえば落ち着いて対応もできる。それに、野卑な欲望を丸出しにする君の姿を見れば、深窓の令嬢である彼女もすっかり幻滅して冷静になるはずだ。君の頭には、そんな浅はかな考えが浮かんでいた。
彼女は歩を早めた君に負けず劣らず足を早め、君の浅はかな考えなどすべて見透かしたようにクスクスと笑いながら着いてきた。
その君の背に向けられた笑顔を、君は決して見ることはなかった。もし見ていれば、それが獲物を追い詰める正しく魔女の微笑みであったことに気づけただろうに。
街に着いた君は、早速彼女と適当な理由をつけて別れ、娼館が並ぶ色街へ向かおうとした。だが、事態は奇妙な方向へ転がり始める。
まず、屋台の店主に「おいあんた!」と呼び止められた。何故か横にいる御令嬢と恋人同士だと勘違いされ、「お似合いの二人にサービスだ!」と笑顔で山盛りの串焼きを押し付けられ、両手を塞がれてしまった。
次に大通りを抜けようとすると、大道芸を披露する男に「そこの屈強な旦那と美しい奥さん!」と強引に呼び止められ、参加型の見世物に引っ張り出される。ようやくご馳走を食べきって解放されたと思ったら、今度は別の果物屋台で「お祝いだ!」と籠いっぱいの果物を持たされた。
そうして人波に揉まれている内に、君は彼女を伴ったまま、意図せず色街の入り口の方に踏み込んでいることに気が付いた。
慌てて大通りに戻ろうと振り返った瞬間、けばけばしい香水の匂いをさせた呼び込みの嬢に腕をガッチリと引き留められる。
「あらァ、良い男! 彼女連れ? ならちょうどいい場所があるわよォ!」
有無を言わさぬ力で引き摺り込まれた先は、娼館などではなく、この街で一番上等な連れ込み宿だった。しかも、中に入ると宿の主人が「本日は当宿の記念日でして、お二人に最高級のスイートルームを一晩無料でご提供します!」と、揉み手で鍵を渡してきたのである。
君は訳がわからなかった。まるで善意で造られた線路の上を、ブレーキの壊れたトロッコに乗せられて爆走させられているような気分だった。
(偶然にしては出来過ぎている。まるで、街中の人間が最初から台本通りに動いているような……)
しかし、君の無骨な思考はそこで停止した。背後で、パタン、と重厚な扉が閉まる音がしたからだ。
薄暗く、甘い香りの漂う豪奢な一室。ベッドの傍らに両手斧を立てかけ、艶やかな視線で君を見つめる御令嬢。
君には一つだけ分かることがあった。
ここが死地であり、逃げられぬ戦いであり、挑まれた勝負は男として受けねばならないということだ!
結論から言おう。
彼女のあからさまな挑発に乗る形で、雄叫びと共に戦端を開いた君は、完全なる敗北を喫した。
立派な武器を抱えようとも、君はこの戦場に来るまで訓練一つしたことがない素人であり、手練手管を学んで研鑽を積んだ者に勝てる道理はない。
心も身体も髄の底まで絡め取られ、気が付けば朝の光の中で、君は完全に陥落していた。
君は彼女と一生の約束をした。
報酬として、男が夢見る一生分の至福を与えられ。
代償として、一生分の弱みを彼女に握られたのである。
その後の顛末をかいつまんで話そう。
君は彼女の「無期限の護衛」という名の依頼をなし崩し的に引き受け、君の故郷である北の蛮地に帰ることを目指す旅を始めた。
君は彼女の意志を尊重するために、些細なこと――今夜の野営の場所や食事のメニュー――から、重大な危難や人生の岐路に至るまで、すべて彼女に尋ね、意見を仰ぐようになった。
彼女は終始柔らかな笑顔で君の思考を優しく侵食し、君は自分が完全に手綱を握られていることに最後まで気づくことはなかった。だが、二人は過酷な旅を共にする冒険者である。揃って五体満足で生き残っているのだから、その関係性がどれほど異様だろうと、それは紛れもない『一つの正解』なのだ。
ある時、君はとうとう彼女を連れて、北の蛮地との境目に位置する城砦都市に向かう馬車に乗る所まで来た。
しかし、そんな時に酒場の客から、何処かの領地で大規模な変事があったという噂が耳に入った。君がよくよく耳を傾け、地名を繋ぎ合わせると、そこはなんと彼女の実家である貴族の領地であった。
君は激しく葛藤した。このまま黙って北へ連れ去れば彼女に一抹の後悔を残すのではないかという恐れと、もし真実を知れば彼女がこの旅路を投げ出して実家へ帰ってしまうのではないかという恐れ。
二つの天秤は揺れに揺れたが、君の生来の誠実さが勝ち、結局、君は噂のすべてを彼女の耳に入れることを選択した。
彼女は、深刻な面持ちで語る君の真剣な言葉を、キョトンとした顔で聞き終えた。
そして、まるでこの情報がずっと前から既知の事実であったかのように――あるいは、その変事の仕掛け人が自分自身であるかのように――落ち着き払い、可笑しそうにクスリと笑い飛ばした。
「そんなことより、あなた。早く馬車に乗りましょう?」
そう言って、彼女は君の大きな手を取った。
君は心の底から安堵の息を吐き、彼女に力強く頷くと、意気揚々と馬車に乗り込んだ。
君は、彼女が裏でどれほどの糸を引いていたのか、その恐るべき本性に生涯気づくことはなく、ただひたすらに彼女からの重すぎる寵愛を一身に受け続けた。
かくして、彼らの旅は終わりを告げた。
そうして二人は君の生まれ故郷の村に辿り着き、新たな住民として温かく迎え入れられた。間もなく子宝に恵まれ、君は愛する家族のために、喜んで奴隷のように身粉にして働いた。
その頃には、彼女の髪は貴族の家にいた頃よりもずっと長くなっていた。彼女は毎日のように君に髪の手入れを手伝わせ、君の不器用な櫛通しに終始幸せそうな笑顔を浮かべていた。
彼女は死ぬまで、二度と髪を切ることなく伸ばし続けた。やがて、その常人離れした美貌と、村を豊かに導く底知れぬ知恵は、長く美しい髪と相まって、人々に畏敬の念を込めて『魔女』と呼ばせるに至った。
君は最終的に、六人もの子供と愛する魔女を支える逞しい父親となり、いつの間にかいくつもの部族を束ねる偉大な族長となっていた。
君は、君だけが知らぬまま、生涯彼女に奉仕する幸福な奴隷であり続けた。
北の蛮地に、君たち一族の笑い声が絶えることはなかったという。
君の一生はこれでおしまいだ。また来世。