眼の前で兄が、この世で一番情けない土下座をしている。
擦り切れたスウェット姿で床に額を擦りつけるその男は、自他ともに認めるダメダメな兄であり――私にとっては唯一無二の、自慢の兄だ。その兄が、顔を真っ赤にしながら『私の知らん女の格好と振る舞いをしながらチヤホヤしてほしい』などと呆れたことを抜かしてきた。
「また?」
呆れ果てたような、冷たい声をわざと作る。
「はい……またです……」
消え入るような声で兄が答える。巫山戯るんじゃあない。どうしてお前は女にだらしないんだ。怒鳴りつけてやりたい気持ちをグッと飲み込む。フリをする。
でも、私はそんな要求をされても逆らえるはずがないのだ。何故なら今の私は、お兄ちゃんにおんぶに抱っこで養ってもらっている、引きこもりの駄目駄目な妹なのだから。
そういう建前を盾にして、私は兄の言葉に渋々を装って従った。
ふう、と小さく息を吐く。本当は、胸の奥で安堵の鐘が鳴り響いていた。良かった。あの一度きりで終わってしまったらどうしようかと、ずっと気が気じゃなかったから。
自室に戻り、兄から渡された衣装に身を包み、入念にメイクを施す。
流石は私だ。模倣であるはずなのに、オリジナルを遥かに上回ったと自惚れられるほどの完璧な『見知らぬ誰か』が鏡に映っている。
ふとドアの方へ視線を向ける。兄は私の許可なく、この自室に入ってくることは絶対にない。きっとリビングのあのシミのついたソファで、身を縮めながらじっと待っているのだろう。
――子供の頃の私がそう躾けたように。
鏡を見つめながら、私はかつての傲慢だった自分を思い出す。
昔の私は、出来の悪い兄を心の底から蔑んでいた。自分の完璧な世界にノイズを入れたくなくて、周囲の友人や大人たちを巧みに使い、兄を徹底的に冷遇して私の側から遠ざけた。企みは恐ろしいほどうまく行き、兄は私から離れた。私は兄に足を引っ張られることなく、学業でも対人関係でも、華々しい成功を積み重ねていった。
だが、その成功はやがて猛毒に変わった。
私を取り巻く全ての人間は、私の『成功』という肩書きにしか目を向けなくなった。誰も私自身を見てはくれない。やがて私は、自分の作り上げた完璧すぎる環境にひどく飽きてしまった。そして、その『飽き』は私の心に致命的な隙を生んだ。
嘘で塗り固めた優等生という枷。己の作り上げた環境に首を絞められ、息ができなくなり、泥沼に溺れ死にそうになった時――私を身を挺して助けに来てくれたのは、他でもない、私が遠ざけたはずの兄だった。
身も心も傷だらけになりながら私を庇う兄の背中を見た瞬間、私は自分の作り上げてきたもの全てに興味を失くした。地位も名誉も、周りの評価もどうでもよくなった。
私はボロボロと泣きながら、兄に素直に感謝を述べた。ごめんなさい、ありがとう、と。
けれど、兄はただ怯えたように困惑するばかりで、私の感謝を全く受け取ろうとはしなかった。そこで私は、今更ながらに気がついてしまったのだ。
私がかつて兄に掛けた『お前は無能で、私には相応しくない』という呪いが、彼の心の底でまだどす黒く生き続けていることに。
だから兄は、私が今こうして引きこもっていても、まだ私がかつての『完璧な虚像』に返り咲くと信じて疑わない。
何故なら、その様に兄を洗脳し、教え込んだのは、他ならぬ私自身なのだから。
「……お待たせ、お兄ちゃん」
私は鏡から目を逸らし、見知らぬ女の仮面を被って部屋を出た。兄は私の姿を見て、尻尾を降る犬のように喜びを顕にしていた。
休日の繁華街。私たちは並んで歩いていた。
すれ違う周囲の人間たちが、あからさまに疑問の視線を向けてくる。誰もが振り返るような美少女が、冴えない、猫背の男の腕にべったりと抱きついているのだから当然だ。
その視線を浴びながら、辛うじて見れなくもない、似合わぬお洒落をした兄は気色悪く鼻の下を伸ばし、薄気味悪い笑みを浮かべている。
滑稽な姿。でも、そうするように教育したのも私本人だ。
『ねえ、お兄ちゃんはずっと気になってるけど釣り合わない女の人とかいないの? 私のお世話してくれてるお礼に、その人になりきってデートしてあげる。してる間は鼻の下伸ばして喜んで良いよ』
私がそう囁いた時、兄は恥辱と歓喜の入り混じった顔をした。
私は、兄の腕にすり寄る力を少しだけ強める。
実の兄から意志を奪い、都合の良いお人形に変えてしまったのは他ならぬ私自身なのだ。だから、私はその罰として、兄の着せ替え人形にだってなるべきなのだ。
今こうして、私に触れて熱を伝えてくれるのなら、私はどんな女の代替物にでもなる。名前も知らない誰かのフリをして、甘い声を出してあげる。
でも――いつか。いつかでいいから。
過去の私が作った『完璧な虚像』ではなく、弱くて醜い、今の私の実像を見て下さい。私だけを見て下さい。
見上げた兄の横顔は、私が演じる幻の女に夢中で、私の切実な願いなど微塵も気づいていない。
(……ごめんね、お兄ちゃん)
私は、絶対に兄には届かぬと分かりきった言葉を、内心で何度も繰り返す。
呪いの解き方なんて、考えたこともないし、分かりたくもない。だから、貴方が私から逃げられないように、更に深く、重く呪うね。
私の一生を、一生貴方の為に取っておくと誓うから。
だから、お兄ちゃんの一生も、一生私の為に取っておいて。
私たちには、煩わしい子供も要らない。口うるさい親も要らない。無責任な周りの人間も要らない。
二人っきりの
大好きだよ、お兄ちゃん。