◆
角を持つ少女は、動けぬ鷹野の背後に回る。
生温い水の中にいるような感触。
内臓を直接触られているようで、吐きそうだった。
噴き出すはずの冷汗が出ない。皮膚の下に溜まっているようで、やはり吐きそうだった。
しかしそれすらも出来なかった。不快感が胃の中でグルグル回る。
「外に出ましょうか」
背を登っているわけでもないのに、耳元に生暖かい息が届く。
外。
脳髄が疑問で歪む。
外に出て何をしようというのか。
そもそも、この少女はさっきから何を喋っているのだろう。
数式活動体? 試験宇宙?
意味が分からない。まるで分からない。
しかし鷹野は、凍りついた思考の中で「外」という単語に希望を見出していた。
外に出れさえすれば逃げられる。
1個中隊ほどの部下がいるので、足止めぐらいにはなるだろう。
外。そう、外だ。外に。外に!
ぎこちなく、錆付いたロボットのように鷹野は動き出す。
少女は背後からついてきた。
ぺたぺた。
ぺたぺた。
鷹野の歩調に合わせてついてくる。
看護婦時代に見慣れた木製のドア。黒塗りの無個性なドア。
今はそこにたどり着くのが待ち遠しくて仕方がなかった。
早く。早くあそこへ。
遅い。もどかしい。
まるで粘度の高い液体の中を進んでいるかのように、体が──足が重い。けれど1歩ずつ確実に。ドアに近付いて。
もう少し。あと少し。
手が伸びる。届かない。まだ30cmほど距離がある。
ドアノブをつかもうと手が先走った。
ぺたぺた。
ぺたぺた。
うるさいな。もう少しなんだ。
部下を呼ぶため、喉の奥に力を込める。
これまで蓄積された不快感を、無理矢理に心の中から押しのけた。熱が戻る。
さらに1歩。焦りの汗が噴き出した。
──届いた!
金属特有の冷たさに触れた瞬間、鷹野の右手が乱暴にノブを掴み捻りあげる。
ゼンマイが回る。
歯車が回る。
ノブが回る。
ドアが開く。
瞬間、体が軽くなる。緊張がほぐれ、笑顔がこぼれる。
「あぶないですよ」
うるさい黙れ。私は逃げる。さあ声を張り上げよう。
桜木、笹塚、伊藤、山形。
この少女を。このガキの脳漿をぶちまけ──
黒。
何もなかった。
何も見えなかった。
何も存在しなかった。
足が止まった。
ぺたり。
余分な足音。
「え?」
いや、色は見えた。黒だ。黒だけ。黒しか視界に入ってこない。あまりに黒一色だったので、その壁が近いのか遠いのかさえ分からない。
圧倒的な単色に距離感をつかみ損ねた。
喉から発せられかけた声が意味を失い、よだれの様に垂れ落ちる。
なんだこれ。コンクリートの壁があるはずだった。薄暗い電灯で照らされているはずだった。
なのに。
何もなかった。
何も見えなかった。
何も存在しなかった。
今度こそ冷たい汗が噴き出した。滝のように雨のように肌を流れ落ち、靴を、服を、下着を濡らしていく。
流れる汗の動きに合わせた訳ではないが、自然と視線が足下へ。
境界線が出来ていた。
出口から先は黒だった。
黒い壁があるわけではなかった。
可視領域に光がないので、空間を「黒」としか認識できなかったのだ。
「あ、う、え?」
かつて神は「光あれ」と言った。世界はそうやって誕生したという。
だが神であるはずの鷹野は世界を作れなかった。
自分が支配するべき世界が
「危なかったですねぇ。
あのまま足を踏み出していたら、永遠に落下し続けるところでしたよ?」
背後から聞こえる無邪気な声。
さっきまで「外」があった。
まだ日本があった。
雛見沢があった。
部下達がいた。
なのに、今はこの部屋そのものが「世界」。
この部屋が「地球」。
この部屋が「宇宙」。
下顎の筋肉が痙攣する。歯が不規則な音をかき鳴らす。脚を引く。後退しながら振り返る。
いない。
部屋を見渡した。なぜか灯り続ける室内灯の明かりを頼りに必死で探す。
「ここですよ」
羽入と名乗る少女は、すぐ後ろにいた。
黒き境界線と自分の背後の隙間から声をかけられ、鷹野は短い悲鳴をあげた。
驚きで体のバランスが崩れる。受身もとれず、正面から倒れこんだ。ふくよかな胸に激痛が走る。
そしてそのまま這うように前へ進もうとする。少しでも少女から離れようとする姿は実に無様。
怯えた表情。
流れる汗。
湿った服。
乱れた髪。
震える体。
以前の鷹野からは想像できない醜態が、そこにあった。
それを見て羽入は笑っていた。
絶望的な黒を背にして笑っていた。
絶望と絶対を支配しているように、少女はそこに立っていた。
もうあの「黒」は見たくなかった。
だから羽入を見ないまま、芋虫のように這いずりながら、鷹野は脳髄の中で蠢く言葉を口にする。
「あ、あ、あ、あ、あなたが、星を……!?」
「そうなのですよ」
ずるり、と。少女の気配が背後から正面へ移動する。
小さな顔に浮かんだ満面の笑み。
瞳の温度は冷たいまま。
その瞳が神を自称した女性を見下ろした。
瞳に宿る光に感慨はない。
ひいっ、と。一瞬起き上がり、そして尻餅をつく。
足が動かない。羽入から離れられない。
鷹野三四は恐怖した。生まれて初めて心の底から凍りついた。今まで皮膚や臓器を愛撫していた生温さが急に温度を失う。
少女の短い肯定に嘘はない。
途方もなく馬鹿馬鹿しい話であるはずなのに否定できない。
「これは、これが祟りなの?
オヤシロサマの祟りなの……ッ!?」
「……だからお前は神になれないのですよ」
羽入と名乗った
「コレはただの『作業』。それ自体に意味なんてないのです。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し磨耗された作業。
知ってましたか鷹野? 今回で6417回目の再演算作業なのですよ」
「さい、え、ん……?」
意味が分からない。
少女が、オヤシロサマと呼ばれた少女が、何を喋っているのか分からない。
「この宇宙はですね、鷹野。
ボクもお前も含めて全部『造り物』なのです」
「私も……貴女も……この宇宙も?」
「正確に言うと、この宇宙を演算したのはボク。ボクは宇宙全体の運行を計算するシミュレーター。
言い換えればこの宇宙はボクそのもの。でもそのボクを作ったのは別の誰か。
といってもコンピュータの中での出来事じゃありませんよ?」
楽しそうな笑顔。しかし口調は面倒くさそうだった。
まるで自分という存在を疎ましいといった様子で。
「何がどう動けば、何に影響し、如何なる結果と未来をもたらすのか?
他の宇宙にはどんな可能性があるのか?
物理法則が異なる宇宙はあるのか?
生命は? 文明は?
それを調べるために、わざわざ『泡宇宙』の1つを改造してまで造り上げた実物大シミュレーター。
『試験宇宙・Object-846』……その制御プログラムがボクなのです」
気だるそうに、少女は鷹野を見下した。
◆
少女は独白を続ける。
残された『世界』……部屋の輪郭がぼやけてくる。溶けていくように、沈み込むように次々と穴が開き……
『無』へと変換されていく。
じわじわと、急速に。
「……でもこの数百年、誰もボクを使っていません。ボクが造られた意味も目的も分かりません。
しょせん、ボクはシミュレーション制御プログラムでしかありませんから」
やや自虐的な笑み。
叩きつけられていた殺気が、急速に掻き消えた。
鷹野は喉の奥から息を吐く。
そこで初めて呼吸が出来たような気がした。
「でも大体の予想はつきます。
鷹野には、何故ボクが……新しい宇宙が造られたか分かりますか?」
四方の壁は既にない。天井すら皆無。
残されたのは、自分と羽入が存在する床の一部。円状に切り取られた床が黒い空間に浮かんでいるだけ。
突き抜けるほど馬鹿馬鹿しい光景。
それが逆に鷹野の思考を冷静な状態に戻す事につながった。
……シミュレートするためだけに造られた宇宙。
あきれ返るほどのスケール。
それが意味するもの。
「……その宇宙に移住する為……?」
「さすが鷹野なのです。
そう、だからこそ宇宙そのものを用意する必要があった。
でもまぁ、鷹野が想像している『移住』とは少し意味が違うのですが」
そう言いながら、羽入は自分達を包み込む黒い世界を見渡した。
この世界が生まれた「起源」を、データベースである世界全体から引き出してみる。
それは回顧という行動。人間を通じて覚えた行為。
目蓋を閉じると、まるで見てきたかのように映像が再現される。どういう原理なのか、それは鷹野も見る事ができた。
◆
観測された『泡宇宙』に様々な役割を持たされたナノマシンが送り込まれる。
宇宙Aと宇宙Bをるつなげるワームホール。
それを発生させるほど科学力が発展していても、開く事ができる『穴』の大きさは、わずか数ミリ程度でしかなかった。
しかし研究者達にとって、それで十分。
送り込まれたナノマシンは、現地資源を使って自らを複製して自己増殖・自己進化させていく。
一定数(おそらくは「正」を越える単位)に達すると、組み込まれた命令を実行。
ランダムで選択された銀河の端々まで、寄生するように分布し始めたのだ。ブラックホールを避け、恒星の熱に燃やされ
ないように、惑星やアステロイド、デブリなどに付着し準備が整うのを待った。
やがて時が来た。
命令伝達用のナノマシンが、自分達が通ってきた物よりもさらに小さいワームホールを発生させた。
今度は「移動する事」が目的ではない。
銀河の各地に散らばったナノマシン達に「反物質反応せよ」という電波を同時に送る為だ。
次の瞬間。
映像の中で、数千
膨大な熱量を伴う白き光は、周囲の形あるもの総てを飲み込みながら宇宙全体へと伝播していく。
輻射熱が衛星を蒸発させ、発生したプラズマが遠くにあるガス惑星を爆発へと導き、圧倒的な熱量はブラックホールを数学的な死へと追いやった。
絶対的な温度差によって恒星は膨張したり超新星になったり中性子星になったりしながら次々と光に飲み込まれていく。
暴力的な重力震が、奇跡とも呼べる確率で生命を宿していた惑星を一瞬で打ち砕いた。
炸裂する核熱反応が、ついにインフレーションを迎える。
膨張する白夜は光速を超えた。
既にある宇宙の内側で、もうひとつの『始まり』が開花する。
実行数秒前に設置された数千兆個のワームホールも、段階的に飲み込まれる。
ブラックホールと同じく、ワームホールも破壊的な熱量によって空間を捻じ曲げられ数学的な終局を迎える。
しかし、例え「一瞬」ではあっても。
叩きつけられた熱の一部が、その『穴』を通じて『ある場所』へ集中的に送られた。
原始となる光の中心域へ。
当然、外側の熱に比べて中心は温度がわずかに低い(といっても数十万度ほどの差だが)。
そこへ次々と外側の熱が吹き込まれた。
苛烈な熱の対流が生まれる。
ぐるぐると渦を巻く。
サーモグラフィで表現された赤や黄色の中心域が、目まぐるしく動く。
やがて対流の中心域の温度が異常に低くなる。激しい流動が一定の動きを持つようになり、中心から熱を奪ったのだ。
光が届く直前。観測用ナノマシンが待機していた別働隊に、その事実を伝達する。
ワームホールが開かれた。数万度にまで温度が下がった光の中心へ、別働隊が送り込まれる。
この温度を数秒間ほど耐えられれば成功。そのために耐熱性の高い物質で自己を進化させたのだ。
あらかじめ組込まれていた「シミュレーション制御プログラム」(※つまり羽入だ)を起動させるには、十分すぎる時間。
数万度の熱エネルギーをプログラム起動の『点火』とし、実行するための『電力』へと変換していく。
さらに中心域の温度が下がる。
光はさらに宇宙を飲み込む。
プログラムが起動する。
成功。
演算が始まる。
光が急速に冷えていく。
塵を取り込み、生き残ったナノマシンが自己を複製していく。増殖したナノマシンが、光から熱を奪う。
真上から見れば、光がドーナツ状になっていくのが分かる。
最初の演算が終了した。
再び黒い姿を取り戻した宇宙に、小さな光が浮かび上がる。
それは原始宇宙に生まれた「原子」同士が衝突する最初のシミュレーション。
今度それを元にして、まるで早送りをするように次々と宇宙の成長を計算・再現させていく。
ガスや塵が集まり、圧縮され熱を帯び恒星が誕生する。
光になり損ねた塊が惑星となった。
惑星にすらなり損ねた塊が、衛星となって伴侶となる。
引力によって星が周回し始め、重い星を中心に星系が誕生する。網の目のように星系が集まり、星団となる。
新しい星の誕生。成長。寿命。そして死。
ブラックホールが発生し、プラズマジェットとガンマ線バーストが噴き出す。
星団同士の接近や接触・衝突によって超質量のブラックホールが生まれ、星団の中心におさまる。
やがて渦を巻く様に星団が重力に巻き込まれ、銀河となって形成されていく。
時間の流れ(映像の再生速度)がゆっくりになる。
カメラが銀河のある一点に向けて拡大を重ねていく。
映し出されたのは青い星。
直接には見た事がないものの、見覚えのある青い星。
「──地球?」
「そうです。こうして生まれたのが、鷹野の知る『地球』なのです。
この星のモデルなんてありません。どこかの星のコピーでもなければ、偽物というわけでもないのです。
あくまでシミュレートした結果、誕生した仮想世界。
貴女達にとっての現実。ボクにとっての計算結果。
西暦なんてものも、貴女達が勝手に造り上げた時間の目安。そんなものは現実に存在しないのです」
「こ、この世界を、このシミュレーターを作り上げた側の世界には存在しない、まったく別の世界…!?」
「そう。だからこそボクの目を引いた。最初のうちは研究者達も注目し、観測をしていたみたいです。
けれど資源の問題や環境面の問題から、やがて対象から外されました」
「対象? ……移住の対象?」
「ええ。このシミュレーターの中で貴女達は生きているというのに、彼等は『しょせんプログラム』と何度も再演算……
リセットして自分達に都合のいい環境にならないか試したようです。
災害が少なく、機構の激変で苦労する事もなく、穏やかで、楽園のような環境の惑星を作るために。
最初から最後まで、安心して暮らせる環境をつくろうと。なんて贅沢。なんて怠惰。なんて傲慢。
──夢見ることに囚われたアリスだって、不思議の国に立ち向かったというのに」
「でもワームホールは数ミリしか開けない。どうやって別の宇宙に……貴女という世界に移住するつもりだったの?」
「別に本人そのものを送るわけじゃないのです」
「え?」
「記憶や記録、本人を構成するあらゆるデータを『情報』として送信し、ボクがそれを反映させる。
つまり彼等は……安泰が約束されたシミュレート世界に、自分達を『データ』として移住させるつもりだったんです」