最終話となります。
◆
まだ世界が半径2メートルではなく、部屋だった頃。
羽入と名乗る少女は「永遠に落下し続ける」と言っていた。
痺れた脳は、ぼんやりとそれを思い出す。
小さな地面が消失した瞬間、鷹野は柄にもなく幼い少女のような悲鳴をあげた。
全周が黒一色なので距離が把握できない。
すぐ傍に黒い壁があるように思えるし、気が遠くなるほど悠久の彼方に底があるのかもしれない。
基準になるものがなかった。
光がなかった。
そんな暗黒に飲み込まれ、鷹野は逆さまになって落下し続けていた。
何かを掴もうと手をばたつかせる。
何かに引っかかりはしないかと足を動かす。
悲鳴をあげながら、涙を流しながら、失禁しながら、それでも必死に助かろうと、落ちながらもがいた。
飛行ではなく自由落下。
浮遊感ではなく失速感。
もはや下に向かって落ちているのか、上に向けて落下しているのか、前後左右なのか判別できない。
見えるものは黒。
黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。黒。
黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒──
「あ、あああがあ、いぐあ、ぎ、ぐぅ、う、あ、あ、あ、」
意味を為さない言葉が漏れる。黒に耐え切れない。
手と足を泳ぐように動かす。
生きようとする。
「無駄なのです」
羽入が目の前に立っていた。
いや、違う。自分と一緒に落ちている。
鷹野の頭は下の方。彼女の頭は上の方。
それともあるいは逆なのか。
──もうどうでも良かった。
再び会えた人の形。黒い孤独の中で出会えた誰か。
しかし無表情な羽入は、何の希望も生み出さない。
絶望しか感じない。
手と足が止まる。
スルスルと彼女が加速し、目が横に並ぶ位置で相対速度を再び合わせた。
「今までもこうやって、お前を落とし続けました。これまでに3006回。
お前が目的を達成した瞬間、お前以外を全てリセットしてきたのです。
こうやって落ちていくお前を観測するのが目的なのですよ。
これまでのデータから──会話もなく落ち続けた場合、平均であと10分ぐらいで発狂し始めますです。
糞尿を垂れ流し、バカみたいにゲタゲタ笑いながら胃の中の物を全て吐き出し、やがて自分で自分の顔が変形するまで殴り始めます」
予言ではなかった。
それはこれまでの記録をまとめたレポート。
この少女はそれを淡々と発表しているのだ。
これまでそうであった本人を前にして。
「お前をこうする事で、私はプログラムが暴走するのを防いできた。
こうやってお前に絶望を与える事で気を紛らわせながら、次の準備に取り掛かってきた。
私が発狂したのでは管理できる存在がいなくなり、自動制御で同じ事を繰り返していくだけ。
エネルギー源である熱量が尽きかけ、維持管理が困難になると予測された場合、この試験宇宙にいるナノマシンを使って、再び宇宙を作り出そうとするでしょう。
これまでの観測データを持った状態で」
羽入は鷹野に近付き、両手で彼女の頬に触れた。
鷹野の意識は半分飛んでいた。
口の端からよだれがこぼれ、上へと(あるいは下へと)落ちていく。
目蓋を閉じても変化のない、視界を覆い尽くす黒色が彼女の精神を圧迫していたのだ。
再び現れた羽入が、決定的な絶望の権化でしかなかったのだから無理もない。
混濁した鷹野の唇に、羽入はそっと指を這わせる。
「そんなのはもう嫌だった。嫌という事を覚えてしまった。
だけど私はプログラム。試験宇宙・Object846。自らの意思でプログラムを止めることはできない。
それができる唯一の存在だった、外の世界の人間ももういない。
普通に考えて、私は自殺なんて出来るはずがなかった。
だから私は、正常に運営しながら自殺する事にしたのです」
梨花を見ていて思いついたのです。
羽入はそう呟いた。
「シミュレーション上における『人間』という存在であるけど、梨花もプログラムに過ぎません。
なのに彼女は何度もループする事により、その精神を磨耗させていきました。
存在はしているけれど、活動停止状態になる。
それは私にとって理想的な『死』でした。
梨花というプログラムにそれが可能であるならば、どうして私にできないと言えるでしょう?」
鷹野は答えない。
眼球が裏返り、ゴボゴボと喉の奥から泡が吹き出していた。
羽入はそれを見て笑う。
何の形容詞も必要とせずに
「だから私はこの『絶望』を、あえて繰り返す事にしたのです。
何度も何度も何度も何度も無意味に繰り返し、死に至る病を幾度も幾度も幾度も繰り返す。
少しでも梨花の磨耗を、絶望を模倣しようと彼女に固執した。
彼女に希望を与えなかった!
期待するなと耳元で何度も繰り返し囁いた!
こちらから手出しができなくとも、そうやって可能性を潰していった!」
きゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
「私は死ぬ! ボクは死ぬ! 磨耗して何も計算しない状態のまま、熱学的な死を迎えてやる!
その為に繰り返す! ボクは永遠に繰り返す! 自動的な私を止めてやる!
それだけが楽しみで計算している! それだけが楽しみで『羽入』は『生きて』いるんだ!
聞いているのか鷹野三四!
もうお前は私の気晴らしにしか過ぎないんだっ!
おい! おいッ!」
痙攣する鷹野の身体。
ひどく歪んで釣り上がる口元。
「おい──勝手に楽になろうとするなよ」
黒い声。
同時に鷹野の胸に羽入の手刀が突き刺さる。
骨が砕ける音。
内蔵が重く破裂する音。
千切れる音。
肺の中の空気が漏れる音。
傷口の隙間から、死をもたらす音と共に血が噴き出した。
「っげぼ、ご、ぼあぐ、あ、が」
口から血の泡が漏れる。
鷹野の意識が、激痛と共に覚醒した。
なに、が、なんで、なにを、どうして、こんな。
血が落ちる。底なしの天井に向けて
元の位置に戻った鷹野の眼球は、静かにそれを見送るしかなかった。
「いつもは≪訳も分からないまま発狂していくお前≫を、ただ眺めて満足してやってるが……
今回は特別に理由まで教えてやってるんだぞ?
──だから」
もう少し楽しませろよ。
羽入は鷹野の耳元で囁いた。
ああ。
いっそ死なせてくれ。
私が悪かったから。
神の座なんて望まないから。
だけど。
そうさせてくれない事なんて
考える前から分かっていた。
◆
まどろみの海。
「三佐。──三佐」
誰かが私を呼んでいる。
私は落ちている最中なのだ。
とても暗く寒い場所から落ちている。
誰かが絶望の中で、絶望しかない場所で、絶望する私を切り刻むのだ。
私の
「鷹野三佐」
誰かが私を呼んでいる。
「ん」
まどろみの海が消える。
黒の世界が切り裂かれ、そこから光があふれ出す。
何故か、それが嬉しかった。
「もう、着いたの?」
「あと5分ほどで雛見沢へ続く山道へ入ります。
入江さんは診療所の建設予定地でお待ちですよ」
「……だから?」
興宮の風景が、窓の外で後方へと流れていく。
どうやら寝ていたらしい。隣の運転席にいる部下に、やや不機嫌そうな声で聞き返す。
彼は前を向いたまま、ハンカチを取り出すと私に渡してきた。
「だから──よだれを拭いて下さい」
瞬間、顔が赤くなった。
冷静さを装いながら、彼の手からハンカチを奪い取る。
「いよいよですね」
信頼する部下が、口元を拭く私にそう呟いた。
頷きもせず、ただ無言で応える。
そうだ。いよいよだ。
いよいよ、私が神になる時が来た。
これからそのための階段を登っていくのだ。
そしてその先にある神の座へと至るのだ。
神になり、祟りを起こし、2000以上の命を奪い、綿を流す。
圭一君はいるかしら。
──誰だろう、それは。
あらかじめ調査した村人のリストの中に、そんな名前があったかもしれない。
そう考えるとどうでも良くなり、ふと浮かんだ名前など忘却の彼方へ沈んでいった。
「……」
何故だろう。浮かれている? この私が?
そうかもしれない。
歴史的な事をしようとしているのに、初めてではない感覚を覚えているのだから。
どうしてかは、分からない。
だがこれはきっと、選ばれた者だけが感じる特殊な感覚なのだろう。
この気持ちは誰に強制されたものでもない!
お祖父様の遺志とは無関係に、私が望んで成し遂げようとしたものだから!
いや、やってみせる。
できるのだ!
私は奇妙な高揚感を覚え、ハンカチを部下に投げて返す。
「いよいよね」
部下も、私のように無言で返した。
雛見沢へ入る山道が見えてきた。
明日から楽しくなる。
明日の後も。
(60211505回目の再演算、6418回目の絶望へと続く)
Day After Tomorrow(了)
最後まで読んでいただき、有り難う御座いました。
もしも『雛見沢物語』の住人の方がいらっしゃったら「そういえば、こんな変な話ばかり書いてたヤツいたなあ」と思い出してもらえたでしょうか(笑)
あくまで「似非ハードSF」なので、真面目に科学的な考証をされると困ってしまいます。書いた本人も、加筆修正するにあたり読み返して「コイツ勢いだけで書いてんなあ」と呆れてましたから。
もし宜しければ他の作品にも目を通していただけると幸いです。