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世界で最も価値のあるものは、強さだった。
金も、名誉も、地位も。
欲しいのなら、戦って勝て。
巨大都市の中心にそびえる闘技場を背景に、世界各地から集まった格闘家たちが次々と画面を横切っていく。
最後に映ったのは、一人の青年だった。
『俺は、まだ知らない』
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
短く整えた黒髪。鋭さはあるが、相手を威圧するためではなく、まっすぐ前を見る目をしている。
身体は細身に見えて、その実、肩から腕、腰、脚まで無駄なく鍛えられていた。大きく見せるための筋肉ではない。
踏み込み、殴り、蹴るために作られた格闘家の身体だった。
身に着けているのは、黒に近い濃紺を基調とした現代的な戦闘服。
動きを妨げる装飾は少なく、拳には使い込まれた簡素なバンテージが巻かれている。
派手な構えは取らない。
ただ半歩だけ前へ重心を置き、いつでも相手との距離を潰せるよう拳を上げていた。
神谷蓮司。
『強くなった先に何があるのか』
場面が切り替わる。
長い黒髪を背へ流した、一人の女性が立っていた。
二十歳前後。細く整った輪郭と、正面の相手を静かに見据える目。
髪の片側だけを翡翠色の髪飾りで留め、残りは束ねず、そのまま肩から背中へ落としている。
身に着けているのは、白と深い翡翠色を基調とした戦闘服だった。
中国武術を思わせる意匠を残しながらも、形は現代的だった。
身体に沿う上衣には動きを妨げる余計な布がなく、腰から脚にかけても、大きく踏み込み、高く蹴り上げる動作を邪魔しないよう作られている。
ところどころに入った控えめな金の装飾だけが、白と翡翠の中で光を拾っていた。
細身ではある。だが華奢ではない。
露出した腕にも、腰を落とした脚にも、長く武術を続けてきた者らしい引き締まった筋肉がある。
女性は片足をわずかに引き、腰を落とした。
前へ突き出した掌は柔らかく開かれている。
正面から力をぶつけるための構えには見えない。
相手が来れば、外す。
崩れたところへ、自分の一撃を返す。
そんな戦い方が、その立ち姿だけで伝わってくる。
桐生玲奈。
『受け継いだものが本当に強いのか。それを決めるのは、名前でも歴史でもないわ』
二人の背後で、巨大な文字が浮かび上がった。
──GRAND RESONANCE。
世界最大の格闘大会。
数え切れない格闘家たちが、それぞれの理由を胸に最強を目指す。
拳と掌が激突する直前、画面が暗転した。
《RESONANCE ARENA》
タイトルロゴが現れる。
「……すげえ金かかってそう」
瀬川直希はコントローラーを持ったまま、画面を眺めていた。
十六歳。高校一年生。
格闘技経験はなく、格闘ゲームも友人の家で何度か遊んだ程度だった。
そんな直希が『RESONANCE ARENA』を買った理由は、友人から聞いた一言だった。
『あれ、キャラが対戦したことを覚えるらしいぞ』
どういう意味なのか、よく分からなかった。だから少し気になった。
その程度だった。
ゲームを開始すると、二十人近い格闘家が並ぶキャラクター選択画面が表示された。
「こんないるのか……」
一人ずつ説明を読む気にはならない。最初からカーソルが置かれていた青年を見る。
《KAMIYA RENJI》
《STANDARD》
《RECOMMENDED FOR BEGINNERS》
「初心者向け」
それだけで十分だった。
「主人公っぽいし、こいつでいいか」
決定ボタンを押す。
神谷蓮司のプロフィールが開き、その下部に固有の《CHARACTER ID》が表示された。
「ID?」
直希は一瞬だけ目を止めた。
同じキャラクターを使うPLAYERが複数いても、実際に使う個体はそれぞれ別に管理されるらしい。同じ名前と姿を持っていても、このIDが違えば別個体になる。
「まあ、対戦相手を見分ける番号みたいなものか」
説明を詳しく読むほどの興味は、まだなかった。
直希は画面を進める。
この時点で、神谷蓮司という人物に特別な思い入れはなかった。
ロードが終わった。
巨大仮想世界の一角。
簡素なトレーニングルームで、神谷蓮司が拳を握っている。
「まずは身体を動かすか」
直希の画面に操作説明が表示された。
弱攻撃。強攻撃。ガード。投げ。
一つずつ試し、必殺技の項目へ進む。
疾歩拳。
「お」
入力に応じ、蓮司が低く重心を落とした。
床を強く蹴り、一歩で距離を潰す。
その勢いを身体ごと乗せた直拳が、練習用の標的へ突き刺さった。
「分かりやすいな」
直希は何度か繰り返す。
跳んできた相手を迎え撃つ対空攻撃。打撃をつなぐ連続技。
そして、ゲージを消費して使う大技、RESONANCE ARTS。
LEVEL1──烈進連破。
蓮司が鋭く踏み込み、正面から直拳を打ち込む。
拳が相手を捉えると、そのまま距離を離さない。身体を寄せながら肘を叩き込み、さらに低く重心を落としてボディへ拳を突き刺す。
相手の体勢が崩れたところで軸足を踏み込み、身体を大きくひねる。
最後は回転の勢いを乗せた回し蹴りを振り抜き、相手を一気に蹴り飛ばした。
一度懐へ入ったら、相手へ立て直す時間を与えない。
拳、肘、拳、蹴りと攻撃を途切れさせず、近距離で一気に押し切る連続攻撃型のRESONANCE ARTSだった。
「こっちは、近づいたあとか」
直希は先ほど試した疾歩拳を思い出す。
まず相手との距離を詰める。そこから攻撃を当て、そのまま烈進連破へつなぐ。
初心者の直希にも、狙う形が分かりやすい技だった。
LEVEL2──破陣。
発動と同時に蓮司が腰を落とし、両拳を強く握る。
一瞬だけ全身へ力を巡らせるような構えを取ると、身体の周囲に淡い光が走った。
相手へ直接ダメージを与える技ではない。
一定時間、踏み込みと攻撃の圧力を高め、相手の牽制を受けながらでも前へ出やすくする自己強化型のRESONANCE ARTSだった。
離れた位置から攻撃してくる相手。
長い技で接近を止めようとする相手。
こちらが近づく前に、後ろへ下がって距離を保とうとする相手。
そうした相手が作る間合いを力ずくで崩し、自分の拳が届く距離まで踏み込む。
守りを固めるための強化ではない。
相手が作った陣形そのものを破り、戦う距離を奪い取るための技。
──破陣。
「なるほど。近づくための技か」
直希にも、その使い道は何となく分かった。
LEVEL3──一閃轟破。
蓮司が一気に間合いを詰め、身体の中心を射抜くような直拳を放つ。
拳が相手を捉えた瞬間、その場から逃がさないようさらに深く踏み込んだ。
続けて掌底を突き上げ、揺れた身体へ肘を叩き込む。
さらに懐へ身体を入れ、腹部へ膝蹴り。
相手の体勢が大きく崩れたところで、蓮司は最後の一撃へ移る。
ほんの一瞬だけ拳を引いた。
足を踏みしめる。
腰を落とし、脚から腰、肩へと全身の力をつなぐ。
そして一歩。
床を強く蹴った踏み込みと同時に、蓄えた力のすべてを正面へ解き放つ。
最後の正拳が相手を真正面から打ち抜き、その身体を大きく吹き飛ばした。
連撃そのものが目的ではない。
直拳、掌底、肘、膝で相手の体勢を崩し続け、最後の一撃を確実に通す状況を作る。
そして生まれた一瞬へ、全身の力を乗せた正拳を叩き込む。
蓮司が持つ、最大級の決定打だった。
「……これは分かりやすいな」
直希は吹き飛ばされた相手を見ながら呟いた。
「当てたら、最後まで持っていく技か」
説明をすべて覚えられた気はしない。
それでも蓮司は初心者向けと書かれていただけあって、自分から間合いへ入り、打撃を押しつけていく基本方針が分かりやすかった。
一通り終えると、蓮司は開いた手を見つめ、もう一度拳を握った。
「悪くない」
誰かへ説明しているわけではない。
自分の身体と技を確かめた、その実感が言葉になっただけだった。
対戦でどの技をいつ出すかは、PLAYERの入力が決める。
キャラクターのAIが経験を積んでも、代わりに正しい技を選んでくれるわけではない。
けれど、その戦いをどう受け止め、何を覚え、どんな言葉にするかは、彼自身のものだった。
蓮司は画面の向こうのPLAYERを知らない。
彼にとって、この仮想世界は現実だ。
自分の拳も、勝敗も、戦う理由も。
すべて、自分自身の人生だった。
直希がオンライン対戦の項目を開く。
《RANKED MATCH》
《CASUAL MATCH》
「ランクマとカジュアルか」
CASUAL MATCHは戦績へ影響しない気軽な対戦。
対してRANKED MATCHは、勝敗を記録しながら対戦評価を競う通常のランク戦らしい。
公式アリーナを使った演出もこちらの方が豪華だった。
「最初だし、こっちでいいか」
直希は《RANKED MATCH》を選んだ。
《PLAYER RATING:UNRANKED》
《PLACEMENT》
新規PLAYERは最初の一定期間、適正な対戦帯を測る認定状態になる。
認定中は通常より広い実力帯から対戦相手が選ばれることがある、と短い説明が表示された。
「ふうん」
直希は深く考えず、そのまま検索を開始した。
PLAYERにとっては、自分の最初のランクを決めるための対戦だった。
その一戦が、ゲーム世界の格闘家にとって何を意味するのか。
直希はまだ、そこまで考えていなかった。
一戦目。負けた。
二戦目。負けた。
三戦目は、途中までは少し戦えた気がした。それでも負けた。
「格ゲーって、こんな難しかったっけ」
直希は背もたれへ身体を預ける。
相手が何をしているのか、よく分からない。近づけば殴られるし、跳べば落とされる。
覚えたばかりの疾歩拳も、適当に出せばガードされて反撃を受けた。
それでも、一発きれいに入ったときだけは気持ちがいい。
「もう一戦だけ」
直希は検索を続けた。
《MATCH FOUND》
《PLACEMENT MATCH》
四戦目の相手が決まる。
《KAMIYA RENJI》
名前の下には、直希の蓮司に割り当てられたCHARACTER ID。
対するは、
《KIRYU REINA》
こちらにも別のCHARACTER IDが表示されていた。
「あ」
オープニングにいた女だ。
桐生玲奈。
対戦開始。
公式アリーナへ照明が灯った。
何層にも重なる観客席にリングを囲む巨大な表示盤。
頭上には対戦する二人の名と、それぞれのRESONANCE IDが浮かび上がっている。
桐生玲奈は、向かい側に立つ青年を見た。
神谷蓮司。
玲奈にとって、見知らぬ原型ではなかった。
これまでにも同じ顔、同じ名を持つ神谷蓮司とは何度も公式戦で拳を交えている。
ただし、目の前にいる彼と戦った記憶はない。
この世界の格闘家たちは、自分たちがそれぞれ共通する原型──アーキタイプ──を持つ同位体であることを知っている。
神谷蓮司という原型も、桐生玲奈という原型も一人ではない。
同じ顔立ち。
同じ名。
同じ武術と、同じ人生の出発点。
けれど、そこから先は違う。
誰と戦ったのか。
誰に勝ち、誰に負けたのか。
何を学び、誰とどんな言葉を交わしたのか。
そうして積み重ねた経験や記憶は、同じ原型を持つ別の同位体には共有されない。
同じ神谷蓮司でも、玲奈が以前戦った蓮司と、今ここに立っている蓮司は別の格闘家だった。
それを見分けるものが、RESONANCE IDだ。
名前でも、顔でもない。
同じ原型から生まれた数多くの同位体の中で、自分が自分であり、目の前の相手が以前会った同じ誰かであることを保証する、唯一の識別情報。
玲奈は表示されたIDを確認する。
覚えのない番号だった。
なら、この神谷蓮司とは初対面だ。
玲奈は目の前の青年を改めて見た。
しかも、これは公認された公式戦だった。
勝敗は互いのRESONANCE IDへ公的な戦績として残る。
勝者には勝利の報酬があり、その積み重ねは順位や名誉、次に得られる機会へつながっていく。
一度成立した公式戦の勝敗は、あとからなかったことにはできない。
誰に勝ち、誰に負けたかは、その個体自身の履歴として残り続ける。
玲奈にとって、それは説明されるまでもない、この世界の当たり前だった。
玲奈が静かに掌を構える。
「あなたとは初めてね。どんな戦い方をするのか、見てみるわ」
蓮司も拳を上げた。
「だったら、拳で見せる」
画面上部に、二人の体力を示すHPのバーが並ぶ。
相手のHPをゼロにすれば、そのラウンドを取る。
先に二ラウンドを取った側が、一試合の勝者になる。
ROUND 1、FIGHT。
直希は前へ出て攻撃するよう入力した。
蓮司が踏み込む。
玲奈は軸をわずかにずらした。
拳が空を切る。
「え?」
画面の前で直希が声を漏らす。
玲奈の掌底が、蓮司の胸を打った。
「っ……!」
続けて蹴り、さらに足払い。
蓮司が地面を滑った。
「速っ」
直希が立ち上がりを入力する。
蓮司は身体を起こし、すぐに間合いへ戻った。
もう一度、疾歩拳。
今度こそ。
蓮司が重心を落とし、床を蹴る。
一歩で距離を潰しながら、身体ごと拳を突き出した。
その瞬間、玲奈の重心が横へ流れた。
足を大きく踏み出すのではなく、わずかな踏み替えとともに身体の軸をずらす。
蓮司の拳が届く直前、攻撃線から半身だけ滑るように抜けた。
霞歩。
最小限の動きで相手の攻撃線から外れ、側方へ位置を変える玲奈の移動技だった。
蓮司の直拳は何も捉えられないまま、つい先ほどまで玲奈がいた場所を通り過ぎる。
「そこね」
玲奈が低く重心を落とし、踏み直した足から腰、肩へ力をつなぐ。
正面から突き出した掌の付け根が、蓮司の腹へ鋭く入った。
穿月掌。
「ぐっ……!」
よろめいた蓮司へ、玲奈が間合いを詰める。
直希は追撃から逃れようとして、ジャンプを入力した。
蓮司が地面を蹴り、玲奈の頭上を越えようとする。
「上を選んだのね」
玲奈はすぐに反応した。
低く身を沈めると、身体の回転に合わせて脚を下から鋭く蹴り上げる。
天輪脚。
頭上へ逃れた相手を迎え撃つ、玲奈の対空技だった。
弧を描いて跳ね上がった脚が、空中の蓮司を捉える。
蓮司が空中から叩き落とされた。
残っていたHPが尽きる。
ROUND 1。
桐生玲奈、勝利。
蓮司が片膝をつく。
玲奈は少し離れた位置で足を止め、静かに構えを解いた。
ほとんど一方的なラウンドだった。蓮司の拳が玲奈を脅かす場面は、最後まで作れなかった。
「今のままだと、まだ私には届かないわね」
蓮司が顔を上げる。
「……今のままじゃ、そうだな」
「次に何をするのか、ほとんど分かっていたからよ」
「全部?」
「最初は真っすぐ来たでしょう。そのあとも疾歩拳で同じように入った。追い込まれたら、今度は上へ逃げた」
玲奈は先ほどまで蓮司が立っていた場所へ一度視線を向ける。
「動いてから考える必要がなかったの。次にどこへ来るのか、先に分かっていたから」
蓮司はすぐには答えなかった。
最初の踏み込みは外された。
疾歩拳もかわされ、跳んだところを天輪脚で落とされた。
言われてみれば、全部その通りだった。
「……読まれてたってことか」
「少なくとも、今はね」
玲奈はそこで言葉を切った。
やがて次のラウンドへの移行が始まる。
二人のHPバーが同時に満タンまで戻っていった。
それに合わせるように、蓮司の身体に残っていた痛みも消えていく。
掌底を受けた胸も、蹴りを叩き込まれた脇腹も、天輪脚で地面へ落とされた身体も元へ戻った。先ほどまで片膝をついていた蓮司が、何事もなかったように立ち上がる。
この世界の試合では、ラウンドが変わればHPと戦闘による身体の損傷は回復する。
次のラウンドは、再び互いに万全の状態から始まる。
けれど、起きたことまで消えるわけではない。
玲奈に一ラウンドを取られたことも、自分の攻撃をことごとく読まれた感覚も、交わした言葉も、蓮司の中にはそのまま残っている。
蓮司は両足で床を踏みしめ、もう一度拳を上げた。
「だったら、次は同じようにはさせない」
玲奈も掌を構える。
「そう。次は、もう少し迷わせてほしいわね」
「そのつもりだ」
ROUND 2、FIGHT。
今度は慎重にする。
直希はそう決めて、蓮司を少し離れた位置で待たせた。
玲奈も動かない。
数秒が過ぎる。
このまま待っていても何も起きない。
そう思った直希は、結局こちらから前へ出ることを選んだ。
蓮司が歩いて距離を詰める。
玲奈が蹴りを置く。
直希はガードした。
「よし」
直希は反撃に疾歩拳を選んだ。
蓮司が低く重心を落とし、床を蹴る。一歩で距離を潰し、玲奈が蹴りを戻すより先に拳が頬を捉えた。
「入った!」
画面の前で直希が身を乗り出す。
玲奈のHPが減る。
初めて疾歩拳がきれいに通った。
なら、もう一度。
直希は同じ技を入力する。
蓮司が再び重心を落とし、踏み込む。
だが今度は、玲奈がその線上にいない。
横へずれながら踏み替え、身体をひねる。
軸足を入れ替えた勢いのまま、側面から弧を描く蹴りが飛んだ。
流燕脚。
身体をひねった玲奈の脚が、鋭い弧を描いて蓮司の脇腹を捉えた。
「ぐっ……!」
回転の勢いまで乗った蹴りに身体を持っていかれ、蓮司が横へ大きく弾き飛ばされる。
地面へ叩きつけられたところで、HPが大きく削れた。
それでも、まだゼロではない。
「まだいける!」
直希はすぐに立ち上がりを入力した。
蓮司が片手を床につき、身体を起こす。
玲奈は待ってくれない。蓮司が構えを戻すより早く距離を詰め、正面から掌底を打ち込んできた。
直希はガードする。
蓮司の両腕が玲奈の掌を受け止めた。
衝撃で身体が押される。それでも倒れず、直希は反撃のボタンを押した。
蓮司の拳が伸びる。
だが、玲奈はもう正面にはいなかった。
わずかな踏み替えで身体の軸を外し、拳の横を滑るように抜ける。
霞歩。
「また……!」
直希が次の入力を選ぶより早く、玲奈が蓮司の側面へ踏み戻した。
低く沈めた重心を前へ運び、腰と肩の動きをつなぐ。
開いた掌が、がら空きになった蓮司の胸へ真っすぐ突き込まれた。
穿月掌。
「がっ……!」
踏み込みの勢いまで乗った掌底に息を詰まらせ、蓮司の上体が大きくのけぞった。
足が一歩後ろへ流れ、開いた構えを戻すより先にHPがさらに削られる。
残りは、あとわずか。
直希は画面を見た。
何か当てれば、まだ返せるかもしれない。
さっきは一度、きれいに入った。
「疾歩拳!」
入力する。
蓮司が低く重心を落とし、床を蹴った。
一歩で距離を潰し、その勢いを拳へ乗せる。
しかし玲奈は、その踏み込みを見ていた。
拳が届く直前、わずかに身体の軸を外す。
蓮司の直拳が玲奈の胸元をかすめるように通り過ぎた。
その瞬間には、玲奈の身体が反撃へ移っていた。
踏み込んできた蓮司の勢いが止まる前に、玲奈の蹴りが横から脇腹へ突き刺さる。
「っ……!」
蓮司の身体が大きく傾いた。
それでも倒れまいと足を踏み出す。
玲奈は、その一歩まで待っていた。
もう一方の脚が鋭く跳ね上がり、蓮司の胸を正面から捉える。
衝撃に身体が浮き、そのまま背中から地面へ叩きつけられた。
HPバーが、最後まで消える。
K.O.
《KIRYU REINA》
《WIN》
直希はコントローラーを握ったまま、しばらく画面を見ていた。
「……負けた」
最初のラウンドよりは攻撃を当てられた。
疾歩拳も一度は通った。
けれど、一度通ったからといって、次も同じように通るわけではない。
最後まで、玲奈の方が一手早かった。
二ラウンドを続けて取った桐生玲奈の勝利。
この玲奈との最初の公式戦は、神谷蓮司の敗北で終わった。
画面に結果が表示される。
《RANKED MATCH RESULT》
《LOSE》
《OFFICIAL RECORD UPDATED》
「うわ、普通に強いな……」
直希は悔しさより先に感心した。
今までの三人も強かったが、今の玲奈は何を出しても一歩先にいるように感じた。
玲奈のRESONANCE IDへこの蓮司に対する一勝が記録され、蓮司には玲奈への一敗が残った。
公式アリーナでは、試合後の時間が続いていた。
玲奈は振り抜いた脚をゆっくり下ろし、乱れた呼吸を一つ整えた。
長い黒髪が背へ戻る。
倒れた蓮司を見下ろしながら、玲奈は静かに掌を下ろした。
「一度当たったから、次も当たると思った?」
蓮司が地面へ手をつきながら顔を上げる。
「……思った」
「そう。だから最後まで、疾歩拳に戻ってきたのね」
「ああ」
玲奈は倒れた蓮司を静かに見る。
「最初に一度通った。それで、もう一度いけると思った」
「……そこを読まれた」
「ええ」
玲奈はあっさりと頷いた。
「一度見せてもらったものを、そのまま二度受ける理由はないもの」
蓮司は少し黙る。
「……耳が痛いな」
「負けたんだから、そのくらいは仕方ないでしょう?」
声は穏やかだった。
けれど、慰めるような響きはなかった。
玲奈は頭上の結果表示へ一度視線を向ける。
「二対零。今は、それが私とあなたの差ね」
蓮司も表示を見る。
「……そうだな」
「一度拳が届いたことより、二ラウンドとも取れなかったことを覚えておいた方がいいと思うわ」
蓮司が玲奈を見る。
「厳しいな」
「公式戦でしょう?」
玲奈はそれだけ返し、踵を返した。
長い黒髪を揺らし、リングを離れようとする。
蓮司はその背中を見た。
その直後、直希の画面へ選択肢が表示される。
《REMATCH》
《RETURN》
「…………」
別の相手へ行けばいい。
今の相手は明らかに強い。認定中の自分が何度も戦う相手ではないのかもしれない。
画面の隅では、暫定の対戦評価が更新されている。
負ければ数字は下がる。
それくらいは直希にも分かる。
それでも。
直希が思い出したのは、玲奈へ一度だけ通った拳だった。
「一回くらい、もっと削りたいな」
直希は《REMATCH》を押した。
《RANKED REMATCH REQUEST》