RESONANCE ARENA   作:エーアイ

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第29話 瀬川直希は、九敗の先へ踏み込む(後編)

 第三ラウンドの開始の合図が響いた。

 

 先に動いたのは玲奈だった。

 蓮司との距離を一気に詰める。左足を踏み込みながら腰を落とし、低い姿勢から掌を突き出した。

 

《穿月掌》

 

 掌底が蓮司の胴体を捉えた。

 腹部に鋭い痛みが走り、蓮司の前進が止まる。

 だが、玲奈が腕を引き戻すより早く、蓮司は踏みとどまって右手を開いた。

 

《震掌》

 

 近距離から放たれた掌打が、玲奈の胴体へ入った。

 玲奈の身体が押し戻される。腹部に残る衝撃を抱えながらも、玲奈は蓮司から目を離さなかった。

 

 蓮司がさらに前へ出ようとしている。

 玲奈は後退を続けず、足を置き直して身体を横へ向けた。

 

《流燕脚》

 

 腰の回転に乗せた蹴りが蓮司の脇腹を捉え、蹴り脚に重い手応えが返った。

 蓮司は踏み込もうとした足を止められ、玲奈との距離を詰めきれなかった。

 

 玲奈は蹴り脚を引き戻し、両掌を構え直した。

 蓮司も拳を上げる。

 最初の攻防で、玲奈は二度の打撃を通した。蓮司も《震掌》で反撃したが、身体には掌底と蹴りの痛みが残っている。

 それでも、蓮司は玲奈の足運びを見据えていた。

 ここで退けば、また玲奈の間合いになる。

 蓮司は次の踏み込みに備え、構えを保った。

 


 

 直希はHPバーを確認した。

 

 蓮司の残りは六割ほど。玲奈は八割以上を保っている。

 出だしは取られた。それでも、打ち返すことはできていた。

 RESONANCEゲージには、第二ラウンドから持ち越した蓄積がある。

 

《RESONANCE ARTS LEVEL 2 破陣》

 

「……使う。でも、今度は急がない」

 

 直希は発動を入力した。

 画面の蓮司が赤いオーラをまとい、踏み込みを鋭くする。

 玲奈は横へ動いた。

 

《霞歩》

 

 直希は拳を入力しなかった。

 蓮司を向き直らせ、離れた玲奈へ再び近づける。

 玲奈は移動を重ね、拳を振らせようとする。だが、直希は攻撃の届かない場所で手を出さなかった。

 

 少しずつ距離が縮まる。

 

 玲奈が両掌を寄せたところへ、蓮司の短い左拳が入った。

 直希は続けて打とうとして、入力を変えた。

 

《押し崩し》

 

 拳を警戒していた玲奈の身体が、蓮司の手によって斜めへ崩される。

 背中から床へ投げられた玲奈が、すぐに立ち上がろうとした。

 

 直希はその起き上がりへ拳を重ねなかった。

 玲奈がどちらへ踏み込むかを待つ。

 

 今度は玲奈の方から間合いを詰めてきた。

 

「……ここだ」

 

 直希は《轟天拳》を入力した。

 


 

 公式アリーナ。

 

 蓮司の左拳が、低く入ってきた玲奈の胴体を捉えた。

 

《破陣・轟天拳》

 

 最初の拳で玲奈の守りが開く。

 続く右拳が下から突き上がり、玲奈の身体を打ち上げた。

 

 白と翡翠色の戦闘服が宙に翻り、玲奈は背中から床へ落ちた。

 

 先ほどの投げの痛みに、今度は胸元を突き上げられた衝撃が重なる。

 玲奈は片手を床についた。身体を起こすと、胸の奥に残る痛みが呼吸のたびに広がった。

 

 蓮司が少し離れた位置で構えている。

 追いかけてはこない。

 

 以前なら、その静かな待ち方を見て余裕があると考えたかもしれない。

 しかし今は違った。拳を出さずに近づき、こちらが動いたところへ攻撃を通してくる。

 それを実際に何度も受けた身体が、玲奈へ教えていた。

 

 玲奈は床についた指に力を込めた。

 

 先ほどまで蓮司を見下ろしていた自分が、今は床からその姿を見上げている。

 第一ラウンドを奪われ、第二ラウンドを取り返し、最後の一つも勝つつもりでいた。

 それなのに、また蓮司の拳で床へ落とされた。

 

 玲奈は身体を起こし、両掌を構え直した。

 

 このまま守っているだけでは、勝者になれない。

 まだ、試合は終わっていない。

 


 

 紗良はモニターの玲奈を見つめた。

 

 HPバーは四割ほどまで減っている。

 それでも、先ほどの攻防で蓮司のHPを六割台まで削った事実は変わらない。

 

 蓮司は近づくたびに攻め方を変えてくる。

 《霞歩》で外しても追撃を急がず、拳を警戒すれば投げへ切り替える。

 

 ここで後退を続けても、同じことになるだろう。

 

「……今度は、こちらから取り返します」

 

 紗良はRESONANCEゲージを確かめた。

 LEVEL 1の発動条件は満たしている。

 

《RESONANCE ARTS LEVEL 1 飛燕連脚》

 

 玲奈を前へ踏み込ませた。

 


 

 玲奈は両掌を構え、蓮司を見据えた。

 先ほど《破陣・轟天拳》で打ち上げられた胸元には、まだ痛みが残っている。

 蓮司は拳を構えたまま、こちらの踏み込みを待っていた。

 

 玲奈はその正面へ、低く身体を沈めた。

 右足を一歩踏み込み、蓮司との距離を詰める。

 だが、すぐには掌を突き出さなかった。

 さらに腰を落とし、軸足で床を押す。

 

《飛燕連脚》

 

 低く振り抜いた蹴りが、蓮司の前脚を捉えた。

 膝の外側へ鋭い衝撃が走り、蓮司の身体が傾く。

 玲奈は蹴り脚を戻しきる前に腰をひねり、続けて中段へ脚を伸ばした。

 今度は蓮司の脇腹へ蹴りが入り、脚からは重い手応えが返る。

 蓮司は腕を寄せて次の一撃を防ごうとしたが、玲奈はすでに反対の脚へ重心を移していた。

 三撃目が、守りの開いた胴体を捉える。

 蓮司の身体が押し戻された。

 玲奈はその動きを逃さず、軸足を踏み直した。

 先ほど拳を受けた胸元が、身体を回すたびに痛む。

 それでも、ここで連撃を途切れさせるつもりはなかった。

 

 玲奈は腰を大きく回し、最後の回転蹴りを放った。

 高く振り抜かれた脚が、蓮司の上体を捉える。

 

 蓮司の身体が後方へ弾かれた。

 続けざまに受けた蹴りの衝撃で、蓮司は着地した足に体重を乗せきれず、片膝をついた。

 脚を打たれた痛みが残り、身体を起こそうとしても、思うように力が入らない。

 

 玲奈は蹴り脚を下ろした。

 胸元の痛みは消えていない。大きく身体を回したことで、その奥に残る衝撃を改めて感じた。

 けれど、目の前では蓮司が片膝をついている。

 

 自分の《飛燕連脚》が、蓮司の攻勢を止めた。

 

 玲奈は片膝をついた蓮司を見据えた。

 第一ラウンドを奪われ、最終ラウンドでも一度は追い込まれた。

 それでも、ようやく自分の技で流れを引き戻した。

 

「……まだ終わっていないわ、蓮司! 今度こそ、あなたを倒しきってみせる!」

 

 玲奈の胸には、反撃を成功させた喜びが残っていた。

 だが、まだ倒しきれてはいない。

 九度勝ってきた相手に、最後の一戦も譲るつもりはなかった。

 


 

 蓮司が片膝から身体を起こした。

 

 蓮司の脚には、まだ蹴りの痛みが残っていた。脇腹にも、続けて打ち込まれた蹴りの衝撃が深く残っている。

 片足を前へ出し、拳を構え直そうとする。

 だが、玲奈はその動きを待ちきらず、間合いを詰めた。

 

 蓮司が反撃の拳を伸ばす。

 玲奈はその腕へ掌を添え、踏み込んでくる力を横へ流した。

 

《崩月》

 

 腕と肩を捉えたまま身体をひねる。

 蓮司の重心が支えの外へ外れ、背中から床へ叩きつけられた。

 

 玲奈は腕を離し、すぐには追撃しなかった。

 

 蓮司は床に片手をつき、片膝を立てた。

 《飛燕連脚》を受けた脚にも、《崩月》で打ちつけた背中にも、痛みが残っている。

 顔を上げると、正面には玲奈が立っていた。

 

 九度戦い、九度敗れてきた女性格闘家。

 その玲奈へ《破陣・轟天拳》を通し、ようやく勝利が見えかけたところだった。

 しかし、彼女は《飛燕連脚》で攻め返し、さらに自分を投げ倒した。

 

 蓮司は玲奈から視線を外さなかった。

 

 九度、自分を倒してきた女性格闘家だ。

 ようやく拳を通し、今度こそ押し返したと思った矢先に、また彼女の足元へ叩きつけられた。

 

 背中に痛みが走る。

 男の自分が、女の玲奈を床から見上げている。

 九度の敗北で繰り返してきた光景だった。

 それを十度目の最後にも重ねられることだけは、受け入れたくなかった。

 

 蓮司は床についた手で身体を押し上げ、立ち上がった。

 

 玲奈はすでに両掌を構えている。

 蓮司が拳を構え直した、その瞬間。

 玲奈が一歩踏み込んだ。

 

 短い強打が蓮司の胴体へ入る。

 蓮司が腕を寄せて守ろうとしたところへ、さらに掌打を重ねた。

 続く一撃が守りの隙間を捉え、蓮司の身体を後方へ押し戻す。

 玲奈はそこで攻撃を止め、両掌を構え直した。

 

 蓮司は距離を取った。

 

 《破陣》で追い詰めたはずの相手に、今は自分が押し返されている。

 それでも、拳を下げるつもりはなかった。

 


 

 直希はHPバーを見た。

 蓮司の残りは、わずか一割ほど。対する玲奈には、まだ四割ほどの体力が残っている。

 

「……ここまで削られたか」

 

 《飛燕連脚》からの反撃で、形勢が逆転していた。

 蓮司は、次の一撃をまともに受ければ倒されかねない。

 

 しかし、まだ攻撃する機会は残っている。

 直希は玲奈の踏み込みを見て、蓮司を近づけた。

 

《震掌》

 

 開いた手が玲奈の胴体を捉え、HPバーが削られる。

 

「……入った!」

 

 玲奈が守りを戻す前に、続く攻防で通常の強打も通した。

 玲奈のHPバーが、残り二割ほどまで減っている。

 

 あと一撃。

 だが、直希はすぐに攻撃を入力しなかった。

 

 第九戦の最後も、似た状況だった。

 勝ちを急いで先に拳を伸ばし、《霞歩》で外された。

 

 同じことを繰り返すわけにはいかない。

 直希は玲奈へ距離を詰めた。

 

 だが、拳は出さなかった。

 


 

 公式アリーナ。

 

 玲奈の腹部には、蓮司の《震掌》を受けた痛みが残っていた。

 重い掌打を受けた直後、守りを戻すより早く、さらに強打を重ねられた。

 先ほどまで蓮司を攻め続けていた玲奈が、今度は後方へ押し戻されていた。

 

 腹部の奥が痛む。

 先ほどの《破陣・轟天拳》で打ち上げられた胸元にも、まだ痛みが残っている。そこへ《震掌》と強打を受けたことで、身体を動かすたびに衝撃が響いた。

 

 あれほど追い詰めたはずだった。

 自分の《飛燕連脚》を通し、《崩月》で倒し、さらに打撃を重ねた。

 それなのに、蓮司はまだ立っている。

 しかも、今度は玲奈の方があと一撃で倒されかねない。

 

 玲奈は息を吸った。

 腹部の奥へ痛みが走り、思うように深く吸い込めない。

 つい先ほどまで、自分の蹴りを受けて蓮司が片膝をついていた。

 その男が今は立ち、まっすぐこちらを見ている。

 玲奈は両掌を構え直し、蓮司から目を離さなかった。

 

 蓮司が一歩、近づいてくる。

 玲奈はその拳を見据えた。

 だが、拳は伸びてこなかった。

 蓮司はもう半歩だけ進み、そこで足を止めた。

 

 これ以上近づかれれば、短い拳だけでなく投げも届く。

 蓮司は攻撃を急がない。

 玲奈が動くのを待っている。

 

 この男は、九度敗れても諦めなかった。

 そして今、自分を倒せるところまで再び追い込んでいた。

 


 

 紗良は画面の蓮司を見つめていた。

 

 蓮司は攻撃を出さずに近づいてくる。

 さらに間合いを詰められれば、拳も投げも警戒しなければならない。

 

 玲奈のHPバーには、もう余裕がない。

 ここで相手に先手を取らせるわけにはいかなかった。

 

「……ここで止めます」

 

 紗良は《穿月掌》を入力した。

 


 

 公式アリーナ。

 

 玲奈が膝を沈め、蓮司へ踏み込んだ。

 

《穿月掌》

 

 低い姿勢から突き出した掌底が、蓮司の胴体へ迫った。

 蓮司はその始動を見て、わずかに後ろへ足を運んだ。

 玲奈の掌が、戦闘服の手前を通り過ぎる。

 踏み込んだ勢いがまだ残っている。腕を戻すより早く、蓮司が再び前へ出てきた。

 


 

 直希は、玲奈の《穿月掌》が空を切ったのを見た。

 

「……今だ!」

 

 RESONANCEゲージは残っている。

 だが、いま開いた隙は長くない。

 

 直希はゲームを始めた日から何度も使ってきた技を入力した。

 

《疾歩拳》

 


 

 公式アリーナ。

 

 蓮司が腰を低く沈め、床を蹴った。

 

 赤いオーラはない。

 迫るのは、何度も玲奈が見てきた右拳だった。

 

《疾歩拳》

 

 玲奈は腕を戻そうとした。

 しかし、自分から踏み込んだ身体にはまだ前へ向かう勢いが残っている。

 

 蓮司の右拳が、玲奈の胴体へ深く入った。

 

 身体の奥へ重い衝撃が広がる。

 玲奈は後ろへ足を運ぼうとしたが、打たれた勢いで身体が傾き、そのまま背中から床へ落ちた。

 

 片手をつく。

 起き上がろうとしても、腹部の痛みに身体が応じない。

 

 蓮司が目の前に立っている。

 九度倒してきた男だった。

 

 今は、その男の方が立っていた。

 

 K.O.

 

《KAMIYA RENJI》

《ROUND WIN》

 

《MATCH RESULT》

《KAMIYA RENJI 2》

《KIRYU REINA 1》

 

《WINNER:KAMIYA RENJI》

 

 通算十戦目。

 九度続けて敗れてきた玲奈との公式戦で、蓮司が初めて勝利を収めた。

 


 

「…………勝った?」

 

 直希は、画面に表示された結果を見つめた。

 

《WINNER:KAMIYA RENJI》

 

 何度見ても、その表示は変わらない。

 最後に入力したのは《疾歩拳》だった。最初の日から使ってきた、何度も玲奈に外されてきた技だ。

 それが、今度は届いた。

 

「……勝った。玲奈に、勝った……!」

 

 思わず声が大きくなる。

 直希はコントローラーを握ったまま、結果画面を見つめ続けた。

 

 初めて挑んだ日から九敗。

 あと一撃で勝てるところまで追い詰めても、最後には玲奈に倒されてきた。

 その相手を、十度目でようやく倒せた。

 

「やった……! やっと勝った!」

 

 嬉しかった。

 何度も失敗した拳を、今度は届く瞬間まで待ってから出せたことも、はっきり覚えている。

 玲奈の方が強い場面はいくらでもあった。今回の五連戦でも、先ほどの四試合はすべて負けている。

 それでも、今日の最後の一試合だけは自分たちが取った。

 

 そのとき、画面に選択肢が現れた。

 

《POST-MATCH》

《勝者の会話意図を選択》

 

 1.玲奈への初勝利を喜び、相手の実力を称える。

 2.ROOKIE 2がGOLD 3を倒したことを誇り、格上撃破の喜びを伝える。

 3.これまで女性勝者として誇られてきたことを踏まえ、男性勝者として勝利を誇る。

 

 直希の指が止まった。

 

 何度も見てきた玲奈の勝者演出が浮かんだ。

 

『女の私はこうして立っているのに、男のあなたは、また私を見上げている』

 

 負けたことに言い訳はなかった。

 それでも、あの字幕が流れるたびに、コントローラーを握る手へ力が入った。

 

 次は勝ちたい。

 そう思いながら、何度も挑んできた。

 

 今は、その勝敗が逆になっている。

 玲奈が強かったことも、九度負けたことも変わらない。

 けれど、勝った今日くらいは、遠慮したくなかった。

 

「……今までの分、少しくらい返してもいいよな」

 

 直希は三番を選んだ。

 

《会話意図:男性勝者として勝利を誇る》

 


 

 公式アリーナ。

 

 蓮司は倒れた玲奈の前まで歩いた。

 最終ラウンドで受けた蹴りと投げの痛みが、まだ胴体と背中に残っている。立っているだけでも楽ではなかった。

 それでも、今は自分の足で立っていた。

 足元の玲奈は片手を床につき、上体を起こそうとしている。

 

 いつもなら、逆だった。

 蓮司が床から彼女を見上げ、玲奈が勝利を告げていた。

 

「……玲奈」

 

 呼びかけると、玲奈が顔を上げた。

 

「俺の勝ちだ」

 

「……ええ」

 

 玲奈は目を逸らさなかった。

 

「今日は、あなたの勝ちよ」

 

 言葉にすると、敗北の重みがいっそうはっきりした。

 あの《疾歩拳》を外せなかった。正確には、外せるところへ身体を戻せなかった。

 

 九度も見てきた拳だった。

 知らない技で倒されたわけではない。

 

 蓮司は一度、自分の右拳を見た。

 

「九度負けた。おまえが強かったからだ」

 

「……ええ」

 

「おまえが勝つたび、俺は負けたことを認めてきた。男としても、格闘家としても悔しかったがな」

 

 玲奈は唇を引き結んだ。

 その悔しさを確かめる言葉を、これまで何度も向けてきた。

 

「だが、今回は違う」

 

 蓮司は玲奈を見据えた。

 

「GOLD 3のおまえに、ROOKIE 2の俺が勝った」

 

 分かっている。

 ランクの差も、今日の結果も、玲奈自身が誰より理解していた。

 それでも、格下だった男が勝者としてその事実を言い切るのを、玲奈は床から黙って見上げるしかなかった。

 

 蓮司は続けた。

 

「そして、男の俺が、女のおまえに勝った」

 

「…………」

 

 玲奈は、すぐには答えられなかった。

 

 聞き慣れた勝者の言葉だった。

 ただし、これまでは女の自分が、倒れた男へ向けていた言葉だ。

 今日はその男が立ち、自分が床にいる。

 

 玲奈は唇を引き結んだ。

 女の自分が勝ったと誇るたび、蓮司は敗北を認めてきた。

 男として悔しいかと尋ねれば、蓮司はその悔しさから逃げなかった。

 そして今、蓮司は同じように勝利を誇っている。

 

 言い返せるはずがなかった。

 自分が勝者だったときには、当然のように口にしてきた言葉なのだから。

 

「……ええ。そうね」

 

 玲奈は床についた手に力を込めた。

 

「ああ。おまえは何度も、女の自分が俺に勝ったことを誇っていた。俺はその勝利を否定しなかった」

 

 蓮司の声は落ち着いている。

 勝ったからといって、普段の口調が変わったわけではない。

 

「だから、今日の俺も勝利を誇る。九度おまえに負けてきた俺が、十度目でようやく勝ったんだ」

 

 玲奈は床についた指に力を込めた。

 

 自分が九度勝ってきた事実は消えない。

 だが、その九度を誇れば誇るほど、十度目の敗北が重く感じられる。

 

「今日は、男のあなたが勝ったわ。女の私が、負けたのよ」

 

 自分の声でそう認めることが、想像していた以上に堪えた。

 蓮司は静かに頷いた。

 

「ああ。九度負けてきたが、今回は俺が勝った」

 

 玲奈は顔を上げた。

 

 勝者の男は、少しも遠慮していなかった。

 これまで九度、自分がそうしてきたように。

 

「……嬉しそうね、蓮司」

 

「ああ。嬉しいさ」

 

 蓮司は迷わず答えた。

 

「おまえが強いと知っているからな。九度負けても届かなかった相手に、ようやく勝てた」

 

 玲奈は顔を上げたまま、蓮司を見つめた。

 

 敗者の悔しさを認めさせながら、勝者として喜んでいる。

 それは、彼女自身が何度もしてきたことだった。

 

「……悔しいか、玲奈」

 

 その問いに、玲奈の表情が強張った。

 

 何度も彼へ向けた問いだった。

 いま、それを男性勝者から聞かされている。

 

「……悔しいわ」

 

 玲奈は答えた。

 

「悔しいに決まっているでしょう。最後も私が勝つつもりだったのよ」

 

 自分の声に、わずかな震えが混じった。

 それでも、玲奈は言葉を止めなかった。

 

「九度勝ったからって、十度目も簡単に取れるなんて思っていなかった。あなたが強くなっていることも分かっていたわ」

 

 玲奈は蓮司を見据えた。

 

「それでも、最後には私が勝ちたかったの。……女の私が、また男のあなたを倒したかった」

 

「……そうか」

 

 蓮司は玲奈の言葉を受け止めた。

 

「俺も、九度そう思っていた。だが、今回は俺が勝った」

 

 玲奈は目を伏せかけた。

 勝者の言葉が、これほど逃げ場のないものになるとは思わなかった。

 

「……そんなに言わなくても」

 

 思わず漏らした言葉に、蓮司は少しだけ目を細めた。

 

「俺も、何度かそう思った」

 

 玲奈の返答が止まった。

 

 蓮司の声に、責めるような響きはなかった。

 それでも、蓮司が何度も同じような言葉を受け止めてきたことは、玲奈にも分かっていた。

 

 女の自分が勝ったと告げ、男の蓮司が悔しがる姿を見て、何度も勝利を喜んできた。

 その喜びを、今度は蓮司が味わっている。

 分かっているはずだった敗者の立場が、今日は痛いほど身近になった。

 

「……そうだったわね」

 

 玲奈はゆっくりと顔を上げた。

 

「あなたも、こんな気持ちだったのね」

 

 蓮司は短く頷いた。

 

「おまえの九勝をなかったことにするつもりはない。だが、俺もこの一勝は譲れない」

 

「……ええ。そこは、認めるわ」

 

 玲奈はようやく上体を起こした。

 腹部に痛みが走り、すぐには立ち上がれない。

 

 その姿を蓮司が見守っている。

 手を貸されるよりも、玲奈は自分の足で立ちたかった。

 

 しばらくして、玲奈は両足を床につき、立ち上がった。

 目の高さが戻っても、勝敗が変わるわけではない。

 

「……次は、私が勝つわ」

 

「俺も、次に戦うなら勝つつもりだ」

 

 玲奈はわずかに眉を寄せた。

 

「その前に、もう一度戦いたいのだけれど」

 

「……今回も五試合だ。もう連戦の上限だろう」

 

 玲奈の表情が止まった。

 

 五連戦。

 その最後の一戦で、自分は負けた。

 分かっていた規則だった。だが、今はそれがひどく恨めしい。

 

「……ずるいわ」

 

「俺が決めた規則じゃない」

 

「分かっているわよ」

 

 玲奈はすぐに答えた。

 

「あなたが負けたときは、何度も挑んできたでしょう? 私はずっと受けてきたのに、今度は私が負けたら、もう続けられないなんて」

 

 蓮司は黙って聞いていた。

 

 玲奈も、自分の言い分が理不尽なことは理解している。

 だが、取り返したいと思ったその日に、もう戦う機会がないという現実はやりきれなかった。

 

「……勝ち逃げされたみたいじゃない」

 

「そう見えるのか」

 

「ええ。今はね」

 

 蓮司は少しだけ息を吐いた。

 

「次に対戦できるときは、また受ける。だが、今日勝ったのは俺だ」

 

「……そうね」

 

 玲奈は顔を伏せずに答えた。

 

「だからこそ、次は取り返したいのよ」

 

 しばらく二人は向かい合っていた。

 

 ふと、蓮司が口を開く。

 

「……それと、食事の席での約束も覚えているか」

 

 玲奈は一瞬、目を瞬かせた。

 

「……こんなときに、その話をするの?」

 

「おまえに勝てたら、今度は俺に食事代を払わせてほしいと言った」

 

 玲奈はあのときのやり取りを思い出した。

 勝ってから言いなさいと返した言葉が、今になって現実になっている。

 

「……覚えているわ。忘れたりしないもの。ただ、今すぐ返事をする気分じゃないわ。考えさせてちょうだい」

 

「ああ。それでいい」

 

 蓮司は頷いた。

 

 玲奈は自分を倒した男を見据えた。

 

「次に戦えるときは、今日のようにはいかないわよ」

 

「……望むところだ」

 

 玲奈は最後まで敗北を否定しなかった。

 それでも、負けたまま終わりたくない気持ちまで消えることはなかった。

 

 蓮司が転送区画へ向かう。

 玲奈はその背中を見送った。

 九度敗れてきた男が、今日は勝者としてアリーナを去っていく。

 

 玲奈も歩き出した。

 最後の《疾歩拳》を受けた腹部には、まだ痛みが残っている。

 転送装置の前で、一度だけ振り返った。

 

 蓮司が自分を倒した場所。

 あの拳が届いた瞬間も、床から彼を見上げた光景も、鮮明に残っていた。

 

 玲奈は転送を実行した。

 身体を包んだ光が消えるころには、試合で受けた損傷も痛みも回復していた。

 

 けれど、十度目の敗北だけは消えなかった。

 


 

 紗良は、画面に映った勝者演出を見つめていた。

 

 玲奈が床に片手をつき、その前に蓮司が立っている。

 公開された字幕が表示された。

 

『GOLD 3のおまえに、ROOKIE 2の俺が勝った』

 

「…………」

 

 結果はもう理解している。

 自分が最後の《穿月掌》を出し、それを外されて負けた。

 それでも、勝者の言葉でランク差を突きつけられると、胸の奥が痛んだ。

 

 続けて字幕が変わる。

 

『そして、男の俺が、女のおまえに勝った』

 

「……そう来ますか」

 

 紗良は画面から目を離せなかった。

 

 これまで自分は、玲奈が女性勝者として男性敗者へ勝利を誇る会話意図を選んできた。

 蓮司が悔しがる姿を見て、勝った実感を深めたこともある。

 

 その逆を、今は見せられている。

 

 蓮司は怒鳴っていない。

 玲奈を嘲笑しているわけでもない。

 

 ただ、勝った男として、負けた女へ結果を告げていた。

 自分が勝者だったときにも、似た言葉を選んできた。

 だからこそ、否定することもできなかった。

 

 さらに字幕が流れる。

 

『……悔しいか、玲奈』

 

「……っ」

 

 かつて玲奈が蓮司へ向けた問いだった。

 それを今度は、男性勝者の側から聞かされている。

 

 紗良はコントローラーを握り直した。

 

 九度勝ってきた。それは誇っていい。

 けれど、今日の十度目で負けた事実も、勝者の言葉も消せない。

 

「……こういう気持ちだったんですね」

 

 紗良には、AIキャラクター同士の会話がすべて聞こえるわけではない。

 それでも、公開された言葉だけで十分だった。

 

 あの男に、もう一度勝ちたい。

 敗れたあとでそう思う気持ちが、以前よりずっと強くなっていた。

 


 

 直希の画面には、公式戦績が表示されていた。

 

《OFFICIAL RECORD》

《KAMIYA RENJI 5 WIN / 15 LOSS》

 

《HEAD TO HEAD》

《KIRYU REINA 9 WIN》

《KAMIYA RENJI 1 WIN》

 

「……九勝一敗か」

 

 まだ玲奈が大きく勝ち越している。

 だが、初めて一勝の表示がついた。

 

 直希はその数字を眺めていた。

 

 そのとき、新しい通知が画面を覆った。

 

《RANKED RESULT》

《RP CALCULATION COMPLETE》

《HIGHER-RANK OPPONENT DEFEATED》

 

「……ん?」

 

 今回の相手はGOLD 3。

 勝ったのだからRPが増えることは分かっている。

 

 けれど、続いて現れた表示は予想外だった。

 

《RANK UP》

《ROOKIE 2 → BRONZE 5》

 

「…………え?」

 

 直希は、もう一度画面を見た。

 

 ROOKIE 2。

 BRONZE 5。

 

「……ブロンズ?」

 

 ROOKIE 1を挟まず、ランク帯そのものが変わっている。

 

「ちょっと待って。玲奈に一回勝っただけで、こんなに上がるのか!?」

 

 相手は自分よりずっと格上だった。

 その相手に勝ったことが、大きく評価されたのだろう。

 

 直希は表示をもう一度確かめた。

 

《KAMIYA RENJI》

《CURRENT RANK:BRONZE 5》

 

「……やった!」

 

 今度は声を抑えられなかった。

 

「やった、ブロンズだ!」

 

 九度負けた相手に初めて勝った。

 その勝利が、新しいランクにまでつながった。

 

 直希は画面の蓮司を見つめた。

 

「……ありがとな、蓮司」

 

 ゲームを始めた頃には、あの玲奈へ勝てることさえ想像しにくかった。

 今はその勝利と、BRONZE 5の表示が並んでいる。

 

 嬉しさは、簡単には収まりそうになかった。

 


 

 紗良にもRPの計算結果が届いた。

 

《RANKED RESULT》

《KIRYU REINA》

《CURRENT RANK:GOLD 3》

 

「……ランクは、そのままですね」

 

 まずは安堵した。

 しかし、続いて表示されたRPの減少量を見て、紗良の表情が変わった。

 

「……こんなに減るんですか?」

 

 表示を見間違えたわけではない。

 格下のROOKIE 2に敗れた結果、積み重ねてきたRPが大幅に失われている。

 

 GOLD 3まで勝ち上がるのは簡単ではなかった。

 最近は練習時間を十分に取れず、思うようにランクを伸ばせない日もあった。

 

 その中での、この一敗だった。

 

「……一試合ですよ?」

 

 口にしてから、紗良は自分の言葉を思い直した。

 

 ランク差があるからこそ、減点が大きい。

 その規則は知っている。負けた事実も認めている。

 それでも、画面に示された減少幅は、簡単に受け流せるものではなかった。

 さらに通知が重なる。

 

《OPPONENT RANK UPDATE》

《KAMIYA RENJI》

《ROOKIE 2 → BRONZE 5》

 

「……昇格したんですか?」

 

 自分はRPを大幅に失った。

 相手は、自分に勝ったことでROOKIE帯を抜けた。

 

 どちらも、同じ試合の結果だった。

 

「……私に勝ったから、ブロンズになったんですね」

 

 相手の昇格を不当だとは思わない。

 あの最終ラウンドは、間違いなく相手の判断が一歩先だった。

 

 だが、素直に喜べるはずもなかった。

 

 紗良は再戦申請の項目を開いた。

 

 今度はこちらが挑みたい。

 負けたまま終わりたくない。

 

 同じCHARACTER IDを指定し、再戦を申し込もうとした。

 

《REMATCH REQUEST FAILED》

《CONSECUTIVE MATCH LIMIT》

《CURRENT SERIES:5 / 5》

 

「…………あ」

 

 そこで、五連戦の上限を思い出した。

 

 六戦目から十戦目まで。

 最初の四試合は自分が勝ち、最後の一試合で負けた。

 

 その最後の勝利を、相手が持っていった。

 

「……勝ち逃げじゃないですか」

 

 紗良は小さく呟いた。

 

 もちろん、相手PLAYERが悪いわけではない。

 システムの上限に達しただけだ。相手が逃げたわけでも、再戦を拒んだわけでもない。

 

 そんなことは分かっている。

 

「……私は、何度も受けたのに」

 

 相手PLAYERは、蓮司が敗れるたびに再戦を申し込んできた。

 紗良はそのたびに受諾し、勝ってきた。

 

 今度は自分が取り返したい。

 それなのに、同じ相手とは今すぐ戦えない。

 

「……ずるいですよ」

 

 紗良は画面に向かって言った。

 相手に届けるつもりのない、敗者の不満だった。

 

 しばらくして、紗良は結果画面を開き直した。

 

《KIRYU REINA 9 WIN》

《KAMIYA RENJI 1 WIN》

 

 まだ九勝している。

 それでも、この一敗を取り返したいと思ってしまう。

 

 紗良は最後の《穿月掌》のリプレイを開いた。

 

「……次に戦えるときは、私が取ります」

 

 その前に、なぜあの一歩を待たれたのか。

 もう一度確かめておきたかった。

 


 

 凛花は公開LIVEの結果画面を見つめていた。

 

《WINNER:KAMIYA RENJI》

 

「…………勝っちゃった」

 

 GOLD 3の玲奈に、ROOKIE 2の蓮司が勝った。

 四度負けたあと、五連戦の最後で初めて勝利したのだ。

 

 凛花が最初に戦った蓮司は、ROOKIE 3だった。

 あのときは大技で自分の玲奈を倒され、悔しい思いをした。

 けれど、今回の最後に決めたのは《疾歩拳》だった。

 

「……あれで、勝つんだ」

 

 攻め急がず、玲奈が踏み込むところまで待った。

 そして、最後の拳を通した。

 公開された勝者演出に字幕が浮かぶ。

 

『GOLD 3のおまえに、ROOKIE 2の俺が勝った』

 

 凛花は唇を引き結んだ。

 

 自分の玲奈が敗れたときも、蓮司は勝ったことを誇っていた。

 相手の強さを認めながら、勝利を遠慮しない。

 その姿を見て、また戦いたいという気持ちが強くなった。

 ところが、LIVE画面がリザルト表示へ切り替わったところで、凛花の目が止まった。

 

《RANK UP》

《KAMIYA RENJI》

《ROOKIE 2 → BRONZE 5》

 

「…………は?」

 

 凛花は思わず画面へ身を乗り出した。

 

「ちょっと待って。BRONZE?」

 

 表示を見直す。

 BRONZE 5。

 見間違いではなかった。

 

「……いやいやいや! あんた、最初ROOKIE 3だったじゃん!」

 

 凛花はモニターへ向かって突っ込んだ。

 自分の玲奈に勝ったとき、蓮司はROOKIE 3からROOKIE 2へ昇格した。

 自分に勝った相手が、その勝利を足場にランクを上げたのだから。

 けれど、今回はさらに上だった。

 

「……で、今度はGOLD 3に勝ってBRONZE? ちょっと、成長早すぎない?」

 

 格上撃破によるRPの大幅加点。

 仕組みは分かっている。

 ROOKIE 2がGOLD 3を倒したのだから、これだけの昇格が起きても不思議ではない。

 ただ、理屈で納得できることと、気持ちが納得することは別だった。

 

 凛花は画面のBRONZE 5という文字を見つめた。

 

 そのランクには、自分だって届くはずだった。

 あのとき、蓮司に勝っていれば。

 自分の玲奈が十連勝を達成していれば。

 今ごろBRONZE 5へ昇格していたのは、自分だった。

 

「……ちょっと待ちなさいよ」

 

 凛花は口を尖らせた。

 

「あたしが行くはずだったBRONZEに、あんたが先に行っちゃうわけ?」

 

 もちろん、蓮司が悪いわけではない。

 

 蓮司は勝った。

 自分は負けた。

 そして、蓮司はさらに格上の玲奈へ挑み、ついに勝利した。

 

 それだけのことだ。

 だが、自分が届くはずだったランクへ先に進んだのが蓮司だという事実は、そう簡単に割り切れなかった。

 

「……しかも、あたしに勝ってROOKIE 2になって、今度はGOLD 3に勝ってBRONZE 5って……」

 

 凛花は一度言葉を切った。

 

「……あたし、完全に踏み台にされてない?」

 

 言ってから、自分で眉を寄せた。

 あの男は、別に自分を踏み台にするつもりで戦っていたわけではない。

 

 それは分かっている。

 けれど、凛花にとってはそう見えてしまう。

 自分に初敗北を刻んだ男が、その勝利からさらに上へ進んでいく。

 しかも、今では自分が届くはずだったランクまで追い越してしまった。

 

「……ほんっと、悔しいんだけど」

 

 凛花はモニターを睨んだ。

 

 だが、その表情には、悔しさだけではないものも混じっていた。

 あの男は、負けても諦めなかった。

 四度続けてGOLD 3に負けても、最後には勝った。

 それを最初から最後まで見届けてしまった。

 だからこそ、次に戦うときは以前の蓮司を相手にするつもりではいられない。

 

 凛花は神谷蓮司のCHARACTER IDを見つめた。

 

「……いいわよ。BRONZEでも何でも、なってなさいよ」

 

 少しだけ口元を引き締める。

 

「でも、次はあたしが勝つからね」

 

 BRONZE 5へ昇格したからといって、自分との勝負が終わったわけではない。

 

 凛花はそのCHARACTER IDを、もう一度確かめた。

 自分を倒した男。

 そして、今度こそ勝ち返したい相手だった。

 


 

 転送先で、玲奈の身体から試合の痛みと損傷が消えた。

 だが、敗北した記憶は残っている。

 玲奈は自身の公式戦績を開いた。

 

《KIRYU REINA》

《HEAD TO HEAD:9 WIN / 1 LOSS》

《CURRENT RANK:GOLD 3》

 

 九度勝った。

 十度目に負けた。

 

 ランクは変わっていない。

 しかし、RPの変動を確認した玲奈は、しばらく画面を見つめた。

 

「……こんなに?」

 

 ROOKIE 2の蓮司へ敗れたことで、RPが大きく減っていた。

 

 負けたのだから、減点自体は理解できる。

 それでも、この数字を見ると、自分が失ったものの重さを感じずにはいられない。

 

 さらに相手のランク更新が表示された。

 

《KAMIYA RENJI》

《CURRENT RANK:BRONZE 5》

 

「……昇格したの?」

 

 玲奈は表示を読み直した。

 

 先ほどまでROOKIE 2だった男が、自分に勝ってBRONZE 5になった。

 あれほど負け続けても諦めなかった男が、ついに自分を倒し、ランクまで上げた。

 

 当然の結果だと理解している。

 それでも、玲奈は複雑だった。

 

「……私に勝って、BRONZEになったのね」

 

 蓮司は今日の勝利を誇った。

 男の蓮司が女の自分に勝ったと誇り、悔しいかとまで尋ねてきた。

 

 そのうえ、ランクまで上げている。

 

 玲奈は拳を握った。

 九度勝ってきた自負は、今日の一敗では消えない。

 

 だが、失ったRPは戻らない。

 連戦制限がある以上、今すぐ試合で取り返すこともできない。

 

「……本当に、やってくれたわね」

 

 玲奈は小さく息を吐いた。

 

 蓮司が何か不当なことをしたわけではない。

 正面から戦い、自分を倒しただけだ。

 

「……次は、私が勝つわ」

 

 玲奈は結果画面を閉じた。

 

 身体の痛みは消えている。

 それでも、蓮司の《疾歩拳》が胴体へ届いたあの瞬間だけは、まだ鮮明に残っていた。

 


 

 直希は、BRONZE 5の表示をもう一度見つめた。

 

 玲奈に九度負けて、十度目で勝った。

 その一勝で、ROOKIE帯を抜けることまでできた。

 

「……やっぱり、嬉しいな」

 

 次に玲奈と戦っても、必ず勝てるとは限らない。

 今日の一勝で、九度の敗北が消えたわけでもなかった。

 

 それでも、自分で選んだ拳が、ようやく届いた。

 相手PLAYERが今どれほど悔しがっているかも、再戦申請が上限に阻まれたことも、直希は知らない。

 ただ、九度敗れてきたあの玲奈に、ようやく勝てたことを喜んでいた。

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