RESONANCE ARENA   作:エーアイ

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蓮司と玲奈の対話シーンの挿絵をpixivに掲載しています。
蓮司と玲奈の対話シーンの挿絵を見る。(pixiv)


第30話 神谷蓮司は、ルーキーの宿舎を出る

 神谷蓮司が情報端末の通知に気づいたのは、GOLD 3の桐生玲奈との十度目の公式戦を終えた翌朝だった。

 

 ROOKIE帯の格闘家向け宿舎。

 窓から差し込む朝日も、机に置いた練習用の手袋も、昨日までと変わらない。ただ、端末には見慣れない案内が表示されていた。

 

《PRAXIS/居住区画のご案内》

《RESONANCE ID:R8K2-A5M7-I4T3-L6P9》

《CURRENT RANK:BRONZE 5》

《BRONZE帯宿舎/居室割当完了》

《生活保障給:BRONZE帯基準へ更新》

《新居室の利用開始手続きが可能です》

 

「……いよいよ、ここを出るのか」

 

 蓮司は端末から顔を上げ、見慣れた部屋を見回した。

 ROOKIE帯からBRONZE帯へ昇格すれば、宿舎の待遇も変わる。

 だが、実際に移転案内を受け取ると、昨日までの日常が一区切りを迎えたことを実感する。

 

 新居室には、独立した寝室と浴室、居間が用意されている。

 蓮司が利用開始の手続きを進めると、もう一つ通知が届いた。

 

《PRAXIS/FIGHT PURSE・報奨入金のお知らせ》

《OFFICIAL RANKED MATCH:決済完了》

《出場給:1 FC》

《勝利加算:12 FC》

《RANK UPSET BONUS:13 FC》

《ROOKIE帯卒業・昇格報奨:40 FC》

《TOTAL CREDIT:66 FC》

《FC ACCOUNT:+66 FC》

 

「……六十六FC」

 

 蓮司はもう一度、明細を確かめた。

 

 試合に出た時点のROOKIE 2を基準とする勝利報酬に、GOLD 3を倒した格上撃破の加算。そして、ROOKIE帯を初めて抜けたことへの報奨。

 合計六十六FCは、これまでの口座残高とは別に入金されている。

 

 RPとは違う。蓮司自身が食事や日々の暮らしに使えるFighting Creditだ。

 生活保障給も、これからはBRONZE帯の基準になる。

 

「……勝った結果が、ここまで変えるんだな」

 

 昨夜、玲奈へ届いた《疾歩拳》を思い出す。

 あの一勝で、急に拳が強くなったわけではない。それでも、昨日までと違う生活が、もう始まろうとしていた。

 

 蓮司は端末を伏せ、荷造りを始めた。

 


 

 ここへ来たばかりの頃は、公式戦で一度も勝てなかった。

 負けて帰った夜、次の攻め方を考えながら手袋を置いたことがある。

 初めて勝った夜も、同じ机で結果を確かめた。

 

 勝った日も負けた日も、この部屋へ戻ってきた。

 

 蓮司は鞄を肩に掛け、窓へ目を向けた。

 この景色を見るのも、今日が最後になる。

 

「……世話になったな」

 

 誰もいない部屋に一言だけ残して、扉を閉めた。

 

 廊下を進み、階段を下りる。

 共用スペースを抜け、宿舎の出入口へ向かったところで、蓮司の足が止まった。

 

 外から戻ってきた女性格闘家と、正面で向かい合ったからだ。

 

 黒髪を飾る赤紫の花。白と赤紫を基調とした衣装。

 先日戦った、ROOKIE 1で九戦無敗を続けていた、桐生玲奈だった。

 

 彼女は蓮司の鞄を見て、わずかに目を細めた。

 

「……もう出るのね」

 

「ああ。さっき手続きを済ませた」

 

「BRONZE 5に昇格したそうね。おめでとうと言っておくわ」

 

「……ありがとう」

 

「私が、あと一つ勝てば届くはずだったところへ、あなたが先に行ってしまうなんてね」

 

 祝福の言葉とは裏腹に、その表情にはまだ割り切れないものがあった。

 

「ニュースも見たわ。私があなたに再戦したいと思っている間に、GOLD 3の玲奈と戦っていたなんてね」

 

「ああ。五連戦の最後に勝った」

 

「あの玲奈は、あなたを四度倒したのに、最後に負けてしまったのね。……その気持ち、少し分かるわ」

 

 蓮司は黙って聞いていた。

 

「…私だってあなたと再戦したかったのよ。それなのに、別の玲奈と連戦の上限まで戦って、最後に勝って終わりなんて」

 

 玲奈は蓮司を見据えた。

 

「……あなた、私からも勝ち逃げするつもり?」

 

「逃げるつもりはない。おまえからの再戦要求があれば、俺も受ける」

 

「……そう。なら、覚えておいてちょうだい」

 

 玲奈は一歩近づいた。

 

「あなたに負けたあと、何度も思い出したの。『最初の一敗を刻んだのは俺だ』って、あなたが言ったこと」

 

「言ったな。今も取り消すつもりはない」

 

「分かっているわ。だから悔しいのよ」

 

 玲奈はまた一歩近づいた。

 アリーナで向かい合ったときと同じ、まっすぐな眼差しだった。

 

「九度勝ってきた私が、初めて男のあなたに負けた。しかも、そのあなたはもうBRONZE帯へ行ってしまう」

 

 蓮司は目を逸らさなかった。

 

 あの試合に勝ったのは自分だ。

 ただし、最後の一撃が決まるまで、攻防の大半を支配していたのは目の前の玲奈だった。何度も攻めを止められ、倒されかけた感覚は、今も覚えている。

 

「……おまえが簡単に負けを忘れるとは思っていない」

 

「ええ。私が負けたことは認めているわ。なかったことにはできないもの」

 

 玲奈の口元から笑みが消えた。

 

「でも、あなたに勝ち返すつもりまでなくしたわけじゃない」

 

「ああ。俺も、もう一度おまえと戦いたい」

 

「……そう」

 

 玲奈は小さく頷き、今度は蓮司の顔をじっと見つめた。

 

「一つ、確かめてもいい?」

 

「何だ」

 

「昨日あなたが勝ったGOLD 3の玲奈と、ここにいる私。あなたにとって、同じ相手ではないわよね?」

 

「ああ。別のIDで、別の試合をしてきた桐生玲奈だ」

 

「ええ」

 

 玲奈は一度、視線を落とした。

 

「桐生玲奈という名前も、この顔も、あのGOLD 3の桐生玲奈と同じ。でも、九度勝って、十度目にあなたへ負けたのは私よ。あの桐生玲奈じゃない」

 

「分かっている。俺が戦ったのは、今目の前にいるおまえだ」

 

 玲奈が顔を上げた。

 今度の笑みには、先ほどまでとは違う柔らかさがあった。

 

「……なら、あなたに預けたいものがあるの」

 

「預けたいもの?」

 

「私の秘称よ」

 

 蓮司はすぐには答えなかった。

 

 秘称。

 同じアーキタイプに属する別の個体とは異なる、その個体だけに備わった特別な名前。神谷蓮司という名を持つ自分にも、一つだけある。

 それを他者に預けることは、単に別の呼び方を教えるのとは意味が違った。

 

「……俺に預けるのか」

 

「ええ。あなたは、私の無敗を止めた男だから」

 

 玲奈は言葉を続けた。

 

「九戦無敗という記録だけじゃなくて、今もあなたに勝ちたがっている私自身を覚えていてほしいの」

 

 蓮司は彼女を見据えた。

 勝利を祝う言葉ではない。次は負けないという、彼女自身の意思だった。

 

「……分かった。預からせてもらう」

 

「ありがとう」

 

 玲奈は自分の意思で秘称を預け、蓮司はそれを受け入れた。

 

 ──アイリス(IRIS)。

 

 蓮司はその名を確かに認識した。

 ほかの桐生玲奈のものではない。目の前に立つ彼女だけに備わった名前だった。

 

「……忘れない」

 

「ええ。そうしてちょうだい」

 

 玲奈の表情が、わずかに和らいだ。

 蓮司は彼女を見つめ、少し考えてから口を開いた。

 

「玲奈。俺からも、おまえに秘称を預けたい」

 

「……あなたの秘称を?」

 

「ああ」

 

「私が預けたから、お返しをするつもり?」

 

「違う」

 

 蓮司は静かに首を振った。

 

「あの試合、勝ったのは俺だ。そこを遠慮するつもりはない」

 

「……ええ」

 

「だが、試合のほとんどで主導権を握っていたのはおまえだった。俺の拳は何度も止められた。最後の大技が届かなければ、倒されていたのは俺だった」

 

 玲奈は黙って聞いていた。

 

「だからこそ、もう一度おまえと戦いたい。一度勝ったからといって、次も勝てる相手だとは思っていない」

 

 蓮司は、彼女を正面から見た。

 

「俺にとっても、おまえは特別なライバルだ。だから、自分の意思で秘称を預けたい」

 

 玲奈はしばらく答えなかった。

 ようやく口を開いたとき、声からは先ほどの強気な響きが少し薄れていた。

 

「……そう。そこまで言ってくれるのね」

 

「ああ」

 

 玲奈は蓮司を見つめたまま、頷いた。

 

「だったら、預かるわ。あなたの秘称」

 

 蓮司もまた、自分の意思で秘称を預けた。

 

 ──レイル(RAIL)。

 

 玲奈が受け取ったのは、今目の前にいる神谷蓮司だけが持つ名前だった。

 

「……確かに預かったわ」

 

「ああ」

 

 互いの秘称は、それぞれの記憶に残った。

 ただし、二人は名許しを交わしていない。相手の秘称を知っていても、声に出して呼ぶことはできなかった。

 

 玲奈はしばらく蓮司を見つめていた。

 

 やがて小さく息をつき、半歩離れた。

 その眼差しには、試合前のような鋭さが戻っていた。

 

「……さて、次に会うときの話をしましょうか」

 

「次の勝負か」

 

「当然よ」

 

 玲奈は挑むような笑みを浮かべた。

 

「次に私が勝ったら、預けた秘称を返してもらうわ。あなたの秘称も、そのときに返す」

 

「返すかどうかは、預かった側が決めるんだろう?」

 

「ええ。だから、あなたが返したくなるくらい、今度は完璧に勝ってみせるの」

 

「……なら、俺も負けられないな」

 

「当然よ」

 

 玲奈は挑むような笑みを浮かべた。

 

「そうよ。簡単に負けてくれたら困るわ」

 

「俺も、最初から負けるつもりで戦わない」

 

 勝者と敗者の立場は変わらない。

 だが、二人の間には、あの試合の日にはなかったものが生まれていた。

 

 玲奈は蓮司の鞄へ目を向け、通路を開けた。

 

「……行きなさい。BRONZE 5の神谷蓮司」

 

「ああ」

 

「でも、覚えていて。あなたに負けた桐生玲奈が、ここにもいることを」

 

 蓮司は足を止めたまま、彼女を見た。

 

「忘れない。あの勝負も、おまえのこともな」

 

 玲奈は小さく頷いた。

 

 蓮司は鞄を持ち直し、玲奈の横を通り抜けた。

 背後から視線を感じたが、振り返らなかった。

 そのままROOKIE帯の宿舎をあとにした。

 


 

 BRONZE帯の宿舎は、ROOKIE帯の建物よりも商業施設に近い場所にあった。

 

 受付で移転案内を示すと、職員が端末を確認した。

 

「神谷蓮司さんですね。BRONZE帯への昇格、おめでとうございます」

 

「ありがとう」

 

「新しい居室の準備はできています。こちらからお進みください」

 

 案内された部屋の扉を開けると、居間が広がっていた。

 奥の窓から光が入り、寝室は別の扉の向こうにある。浴室にもゆとりがあった。

 

「……ずいぶん違うな」

 

 ROOKIE帯の部屋に不自由していたわけではない。

 それでも、寝台のそばで食事を取り、同じ机に練習道具を並べていた頃とは、暮らし方が変わりそうだった。

 

 蓮司は鞄を置き、練習用の手袋を取り出した。

 宿舎の出口で交わした約束を思い出す。

 九戦無敗だった玲奈に初めて敗北を刻んだ。

 だが、彼女も次は必ず勝つつもりでいる。

 

 秘称を預けると告げたときの、アイリスのまっすぐな眼差しが浮かんだ。

 

 次に向かい合ったとき、勝つのはどちらか。

 今はまだ分からない。

 

 蓮司は手袋を机の端に置いた。

 窓の向こうには、訓練区画へ続く道が見える。

 

「……ここからだな」

 

 新しい部屋で迎える最初の日は、まだ終わっていない。

 蓮司は次の鍛錬の準備を始めた。




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