ドレスアップした玲奈の挿絵を見る。(pixiv)
食事中の玲奈の挿絵をpixivに掲載しています。
食事中の玲奈の挿絵をpixivに掲載しています。を見る。(pixiv)
十度目の公式戦から数日が過ぎた夕方、桐生玲奈の端末に神谷蓮司から連絡が届いた。
『前に話した食事の約束だ。都合がよければ、今夜あの店でどうだ』
玲奈は画面を開いたまま、しばらく考えた。
以前、商店街の店で偶然相席になったとき、玲奈は蓮司の二勝目を祝って食事代を払った。
その席で蓮司は、いつか玲奈に勝てたら今度は自分がご馳走すると約束した。
あのときは、自分が本当に負けるとは考えていなかった。
しかし、蓮司は十度目の対戦で玲奈に勝った。試合後に食事の約束を持ち出されたとき、返事を待ってほしいと伝えている。
その返事を、今も蓮司は待っていた。
玲奈はもう一度、届いたメッセージを読み返した。
『ええ。覚えているわ。今夜、あのお店で』
玲奈が返信すると、間もなく短い返事が届いた。
『ありがとう。店の前で待っている』
画面を閉じた玲奈は、鏡の前へ向かった。
今日は試合ではない。食事をするだけなら、いつもの外出着で十分だろう。
玲奈はそう考えかけ、鏡に映る自分の姿を見て手を止めた。
「……十分、かしらね」
九度倒してきた男に、十度目で負けた。
その男と次に顔を合わせるのが、約束に従って食事をご馳走になる席だという。
蓮司は、勝ち誇るために誘ったのではないはずだ。
試合後も彼は玲奈の強さを認め、勝ったことを堂々と誇りながら、以前の約束を忘れていなかった。
そういう男だと分かっているからこそ、玲奈は少し悔しかった。
「……負けたからって、何もかもあなたの思いどおりになるわけじゃないもの」
玲奈は衣装を選び始めた。
格闘家としての勝負には敗れた。そこは覆せない。
それでも、今夜は敗者として縮こまっているつもりはなかった。
蓮司が勝った男として食事代を払うなら、こちらも女性として堂々と席につけばいい。
そして、できることなら。
いつも落ち着いているあの男を、少しだけ困らせてみたかった。
玲奈が選んだのは、深い翡翠色のドレスだった。
身体の線を上品に見せる仕立てで、膝下まで届く裾には動きを妨げない程度の切れ込みがある。
華美な装飾は避け、耳元に小さな飾りを添えた。
長い黒髪は普段と同じく片側へまとめたが、結ぶ位置を少し下げて肩へ流した。
髪飾りも戦闘服のものとは違う。鏡の前で髪の流れを確かめ、玲奈は口元の色をいつもより丁寧に整えた。
何度か角度を変えてみる。
これなら、少なくとも公式アリーナの玲奈とは違って見えるだろう。
「……よし」
試合の準備なら、相手の間合いと技を考える。
今夜は、最初に彼が自分を見たときの反応を確かめたい。
そんなことを考えながら支度をしたのは、玲奈にとっても少し珍しかった。
彼女がその服を選んだのは、蓮司に女性としての自分を意識させたかったからだ。
いつもの戦闘服とは違う姿を見て、彼がどう反応するのか。それが少し楽しみでもあった。
玲奈は薄手の上着を羽織り、部屋を出た。
商店街の通りには、夕食を求める人々が行き交っていた。
約束の店の前に着くと、蓮司はすでに待っていた。
蓮司は落ち着いた色のシャツと上着を身につけ、以前食事をしたときと同じように背筋を伸ばしている。
「……蓮司。待たせたかしら?」
「ああ、玲奈。いや、今来たところだ」
蓮司は答えたあと、すぐには次の言葉を続けなかった。
玲奈は、その視線が自分の髪飾りからドレスへ移り、また顔へ戻るのを見た。
「……どうかした?」
「いや。今日は、ずいぶん雰囲気が違うな」
「そうでしょう? せっかくの夕食だもの。少しお洒落をしてきたの」
玲奈が上着の前を開いて見せると、蓮司は改めて彼女を見た。
ほんの短い沈黙のあと、彼はまっすぐに答えた。
「……綺麗だ。よく似合っている」
玲奈は、予想していた以上に素直な感想に一瞬だけ返事を忘れた。
取り乱すところを見たかったのは自分の方だ。
こんなふうに真正面から褒められるとは思っていなかった。
「……ふふっ。ありがとう」
玲奈は微笑んでから、蓮司の顔を覗き込んだ。
「でも、あなたがそんなに驚くなんて。いつもは相手をよく見ているのに、今日は少し調子が違うみたいね」
「……そうだな。少し見とれていた」
「あら」
今度は玲奈の方が、すぐには言葉を継げなかった。
蓮司は照れ隠しをするように視線を外したが、言ったことを取り消そうとはしない。
それが分かると、玲奈の胸に勝負を一つ取ったような満足感が広がった。
「そう。だったら、頑張って選んだ甲斐があったわ」
「ああ。本当に似合っている」
「……もう、二度も言わなくていいのよ」
玲奈は笑って返したものの、頬がいつもより熱くなっている気がした。
すぐに店の扉へ目を向け、蓮司より先に歩き出す。
「さあ、入りましょう。今日はあなたが招いてくれたんでしょう?」
「ああ。そうだったな」
後ろから聞こえた声は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
だが、最初に蓮司が言葉を失った瞬間は、忘れられそうになかった。
店内は、以前と変わらず落ち着いた雰囲気だった。
二人は案内された席で向かい合い、メニューを開いた。
玲奈が先に来たときと違うのは、今日は蓮司が彼女を誘い、会計を引き受けることになっている点だった。
「好きなものを選んでくれ。今日は俺が払う」
「……ええ。約束だものね」
玲奈は返事をしながら、メニューを眺めた。
代金を負担してもらうこと自体は、別に珍しい話ではない。
けれど、この食事が実現した理由を思い出すと、やはり少し面白くなかった。
その気持ちが表情に出たのか、蓮司が尋ねる。
「食べたいものがなかったか?」
「いいえ。どれも美味しそうよ。ただ、前にここへ来たときは私が払ったでしょう?」
「ああ。二勝目の祝いだったな」
「そのあなたが、今度は私に勝って食事をご馳走してくれるなんて。あのときは本当に、まだ先の話だと思っていたわ」
蓮司は、玲奈の言葉に短く頷いた。
「俺もいつ勝てるかは分からなかった。それでも、約束は覚えていた」
「……あなたらしいわね」
玲奈はメニューを閉じた。
悔しいことには違いないが、その約束を果たすために今日ここへ来た蓮司を、困らせたいわけでもなかった。
「じゃあ、遠慮なく選ばせてもらうわ。あとで高かったなんて言わないでね?」
「最初から、そのつもりだ」
「あら。ずいぶん頼もしいのね」
玲奈は少しだけ身を乗り出した。
蓮司がこちらを見る。先ほどより近い距離で目が合うと、彼は何か言いかけ、結局メニューへ視線を戻した。
「……玲奈。飲み物も決めてくれ」
「ふふっ。そうね」
玲奈は笑みを深くした。
彼が今、少し言葉に迷ったことは分かる。
試合のときは自分の《霞歩》を最後まで見ていた男が、今日は目を合わせ続けることさえ難しそうにしている。
先日の試合結果は覆らない。それでも、女性としての自分を意識させることはできたらしい。
玲奈は満足しながら料理を選び、店員へ注文を伝えた。
料理が運ばれてくると、二人は近況を話しながら食事を始めた。
蓮司はBRONZE帯の宿舎へ移ったことや、新しい部屋での暮らしについて話した。玲奈も自分の近況を返し、会話は料理や商店街の話題へと移っていった。
そのことに、玲奈は少し救われた。
九度負けた相手に初めて勝ったのだから、もっと勝ち誇ってもおかしくない。実際、アリーナでは蓮司も男性勝者としての喜びを隠さず、玲奈に悔しいかと尋ねてきた。
しかし今夜の彼は、食事に付き合う相手として玲奈へ向き合っている。
「……そういえば、今日は私の服ばかり見ていたわね」
玲奈は料理を一口食べてから、さりげなく話題を変えた。
「……気になったか?」
「ええ。あなたが少し慌てるなんて、珍しいもの」
「慌てたつもりはないが、驚いたのは確かだ」
蓮司は正直に答えた。
「試合ではいつも、動きや間合いを見ていた。今日は別のところに目が行った」
「……別のところ?」
「髪も、服も。普段と違う姿が似合っていたからな」
玲奈は杯を置いた。
今の話題を持ち出したのは自分なのに、蓮司が予想以上に具体的に答えるものだから、次に何を言うつもりだったのか一瞬分からなくなった。
「……そんなに見ていたの?」
「悪かったか?」
「いいえ。悪くはないわ」
玲奈は少しだけ姿勢を正し、口元に笑みを戻した。
「むしろ、今日の私はそうしてほしかったのかもしれないわね。試合に負けたからといって、あなたの前で小さくなりたくなかったもの」
蓮司は真剣な表情で彼女を見た。
「おまえが小さくなる必要はない。俺が一度勝ったからといって、おまえの九勝が消えるわけじゃない」
「……ええ。それは分かっているわ」
玲奈はすぐに頷いた。
勝った事実を隠さず、それでも相手の強さを否定しない。
蓮司のそういう態度には、以前から何度も向き合ってきた。
「だからこそ、次は取り返したいの。あなたに負けたことも、RPを失ったことも、まだ悔しいもの」
「ああ。次に戦えるときは、俺も負けるつもりはない」
「……本当に。今日は食事に来ているのに、結局そこへ戻るのね」
「おまえが言い出したんだろう」
蓮司がわずかに笑うと、玲奈もつられて笑った。
対戦相手であることは変わらない。だが、そのことだけで二人の会話が決まるわけでもなかった。
食事が半分ほど進んだ頃、玲奈は蓮司が自分の杯を手に取るのを見て、ふと思いついた。
「ねえ、蓮司。もう一つ聞いてもいい?」
「何だ?」
「この前の試合で、あなたは男の自分が女の私に勝ったことを誇ったでしょう?」
「ああ。九度負けてきた相手だったからな」
「私も、あの勝利を否定するつもりはないわ。男のあなたが勝ったことも、私が負けたことも認めている」
玲奈はそこで一度言葉を切り、少し身を寄せた。
「でも、今日の私を見て、あなたは少し言葉に詰まった。……そうでしょう?」
蓮司が玲奈の顔を見た。
近づいた距離のせいか、彼は返事をする前に一度だけ視線を下げた。玲奈はその小さな反応を見逃さなかった。
「……ああ。否定はしない」
「ふふっ。よかった」
「何がだ?」
「あの試合では、あなたが勝者だったもの。だから今夜は、女の私にもあなたを少しくらい困らせることができると確かめたかったのよ」
玲奈は穏やかに微笑んだ。
蓮司を傷つけたいわけではない。けれど、あのリングでは自分の悔しさを見抜いてきた男が、今は女性として装った自分の前で少し戸惑っている。
その事実が、思っていた以上に愉快だった。
「……なるほど。今日は、そういうつもりで来たのか」
「あら、怒った?」
「いや。驚かされたのは事実だが、嫌な気はしない」
蓮司は少し考え、玲奈の目を見て続けた。
「おまえが綺麗だと思ったのも本当だ。あの試合の勝負とは、別の話だろう」
「…………」
今度こそ、玲奈の返事が止まった。
相手を動揺させるつもりで口にした言葉に、まっすぐな感想が返ってくる。蓮司が照れたところを見られたのは嬉しいのに、こうして自分を見つめられると、不思議と落ち着かない。
「……あなたって、本当にそういうところがあるのね」
「どういうところだ?」
「何でもないわ。今のは私の独り言よ」
玲奈は料理へ手を伸ばした。
自分の方まで少し慌てたのは、彼がこちらの予想とは違う返し方をしたからだ。試合と同じで、相手の反応をすべて思いどおりにできるわけではないらしい。
それでも、蓮司が最初に見せた驚きも、何度か視線を外したことも、確かに自分の目で見ている。
玲奈はその手応えを思い出し、ようやく落ち着いて食事を続けられた。
食後の飲み物が運ばれてきた頃、蓮司は窓の外へ目を向けた。
街には夜の明かりが増え、商店街を歩く人の数も少し減っている。
玲奈は、その横顔を見てから静かに口を開いた。
「……ねえ、蓮司。前に私が奢ったとき、あなたはどんな気分だった?」
「嬉しかった。二勝目を祝ってくれるとは思っていなかったからな」
「悔しくはなかったの? 五度負けた女に、食事代まで払ってもらって」
「ああ。悔しかったさ。だが、祝いとして払ってくれたことまで嫌だったわけじゃない」
蓮司は玲奈を見た。
「俺は、おまえに礼を言いたかった。それに、いつか勝ったら今度は俺が払うと言った。ようやく、その約束を守れる」
「……そうね」
玲奈は杯を両手で包んだ。
勝利を祝うことと、敗北を認めることが同じ席にあってもいい。
あの日の蓮司はそうして食事を受け取ったのだろう。
今の自分にも、同じように約束を受け取ることはできるはずだった。
「……今日は、ありがとう」
玲奈が告げると、蓮司は少し驚いたように顔を上げた。
「まだ会計は済ませていないぞ」
「ふふっ。分かっているわ。食事に誘ってくれたことへのお礼よ」
「……そうか。こちらこそ、来てくれてありがとう」
不意に返された礼に、玲奈はまた少しだけ言葉を失った。
自分が来たことを、そんなに素直に喜んでくれるとは思っていなかった。
ただ約束を果たしに来たのだから、礼など必要ないはずだ。
「……あなたは、時々変なところで律儀ね」
「おまえほどではないだろう。今日は、わざわざ綺麗にしてきてくれたんだからな」
「……もう。その話は十分聞いたわ」
玲奈は笑いながら杯を持ち上げた。
少なくとも、今夜の支度が無駄ではなかったことは確かだった。
会計のとき、玲奈は店員が差し出した伝票へ手を伸ばさなかった。
蓮司は約束どおり二人分を支払い、席へ戻ってきた。
玲奈はその様子を見届けてから立ち上がり、彼へ向き直った。
「……ごちそうさまでした」
「ああ。どういたしまして」
以前の食事では、自分がそう答えたのだった。
あの日と役割が逆になったことを意識すると、玲奈の胸にまた小さな悔しさが戻ってくる。それでも、今日の食事が楽しかったことも本当だった。
玲奈は店の出口で上着を羽織り、蓮司と並んで夜の通りへ出た。
しばらく歩いたところで、彼女はふと足を止めた。
「……蓮司。最後に一つだけ、確かめてもいい?」
「今日は質問が多いな」
「ふふっ。嫌なら答えなくてもいいわよ」
「いや。聞いてくれ」
玲奈は彼の方へ向き直った。
「今日の私、あなたを少しは困らせることができたかしら?」
蓮司は答える前に玲奈の姿を改めて見た。その視線がドレスの裾から彼女の顔へ戻り、彼は小さく息を吐く。
「……ああ。最初に会ったときは、何と言えばいいか迷った。食事の間も、何度か返事に困ったな」
「そう。だったら、今日は私も少しだけ取り返せたみたいね」
「取り返した?」
「試合の勝敗は変わらないわ。あのとき男のあなたが勝ったことは認めている。でも今夜は、女の私があなたの余裕を崩せたでしょう?」
蓮司は少し意外そうに眉を上げたあと、静かに笑った。
「……確かにな。今日は一本取られたらしい」
その返事を聞いた玲奈は、ようやく胸の奥にあったものが軽くなるのを感じた。
公式戦での一敗も、失ったRPも戻らない。
蓮司から奢られた事実も変わらない。
それでも今夜、自分の装いと言葉で彼を困らせ、本人にもそれを認めさせることができた。
「ふふっ。そうでしょう?」
玲奈は楽しそうに微笑んだ。
「覚えておいてね。あなたに一度負けたからって、私が何もできなくなったわけじゃないのよ」
「ああ。十分に分かった」
「それなら、よかったわ」
玲奈は満足して歩き出した。蓮司も隣へ並び、しばらくは同じ方向へ歩く。
「……それと、今日は来てくれて嬉しかった。食事も楽しかった」
蓮司が何気なく言った。
玲奈は一歩進んでから、少し遅れて顔を上げた。
「……ええ。私も楽しかったわ」
言い終えると、今度は自分から視線を外してしまった。
蓮司はそれを追及せず、通りの先へ目を向けた。
玲奈は、彼が何も言わないことに少しだけ安心しながら、別れ道まで歩いた。
「次に公式戦で向かい合うときは、私が勝つわ」
「ああ。俺も、また勝つつもりだ」
「ふふっ。今度は、今日みたいに簡単には動揺してくれないでしょうね」
「それと試合は別だろう」
「ええ。分かっているわ」
玲奈は軽く手を振り、蓮司と別れた。
自室へ戻った玲奈は、上着を脱いで鏡の前に立った。
出かける前より、ずっと気分がよい。
あの試合から何度も思い返していた《疾歩拳》の決着も、今夜は少し遠く感じられた。
蓮司は、自分の姿を見て言葉を失った。
綺麗だと褒め、見とれていたことまで認めた。
今夜は彼の落ち着いた表情を何度か崩すことができた。
「……ふふっ。少しは、すっきりしたわ」
玲奈は鏡に向かって微笑んだ。
格闘の勝敗では、今も自分が九勝一敗だ。そして、最後の一敗は確かに悔しい。
けれど、今夜の自分は敗者として縮こまっていなかった。
いつもと違う姿を見せ、自分の言葉で相手を少し困らせ、彼との食事も楽しめた。
そのことが嬉しかった。
ふと、店の前で蓮司が口にした言葉を思い出す。
『……綺麗だ。よく似合っている』
玲奈は鏡の中の自分を見つめた。
あの男が驚いた顔をしてくれたのだから、服を選んだ甲斐があった。
そう考えれば、思わず口元が緩むのも当然だろう。
「……次に会うときも、少しくらい驚かせてあげようかしら」
玲奈はそう呟いてから、すぐに首を振った。
次に考えるべきなのは、公式戦で彼へ勝ち返す方法だ。
服装で余裕を崩せたからといって、拳の届く距離まで変わるわけではない。
それでも、今日の夕食を思い返すと、自然と笑みが浮かんでしまう。
玲奈はその理由を、今夜は自分が少し勝てたからだと思っていた。
どうしてその言葉ばかり思い出すのか、玲奈は深く考えようとしなかった。