桐生玲奈との五試合目が終わった。
公式アリーナを満たしていた照明が落ち、試合終了を告げる表示も順番に消えていく。試合中に受けたダメージはすでに回復し、拳を握っても、足を動かしても身体に異常はない。
ただし、消えなかったものもある。
《OFFICIAL RECORD》
《KAMIYA RENJI》
《0 WIN / 8 LOSS》
蓮司は頭上の表示を見上げた。
「……八敗か」
今日、この場所で戦い始めてから八試合。
最初の三試合に負け、そのあと桐生玲奈と五度戦った。
五度目だけは、一つ取った。
追い詰められたところから一閃轟破を叩き込み、初めて玲奈を倒してラウンドを取った。
あのときの感触も、勝敗表示も覚えている。
それでも、試合には負けた。
玲奈の言葉も残っていた。
『最後に一ラウンド取った。それは事実』
『でも、それであなたの五敗が消えるわけじゃない』
『あなたはまだ私に勝ってない』
「……一つ取った。でも、五戦とも負けた」
その通りだった。
一ラウンド取れたことは嬉しい。
最後には、前より玲奈へ拳も届いた。
だが、公式記録に刻まれた数字は変わらない。
零勝八敗。
蓮司はしばらくその表示を見てから、アリーナをあとにした。
新人の格闘家が利用する施設へ戻る通路は、人の出入りこそ多かったが、公式アリーナほど騒がしくはなかった。
試合を終えた者や、これから公式戦へ向かう者、練習施設へ入っていく者が行き交っている。
蓮司はその流れの中を歩いていた。
角を曲がったところで、正面から来た男と視線が合う。
同じ顔だった。
黒い髪。
同じくらいの背丈と体格。
歩き方にも、自分と似たところがある。
名前も同じ。
神谷蓮司。
違うのは、互いの身体に紐づいた識別情報だった。
《RESONANCE ID:――》
相手の男も蓮司を見て、すぐにそれを確認した。
「同じ原型か」
「ああ」
それだけだった。
驚くようなことではない。
同じアーキタイプから生まれた同位体が複数存在することは、この世界では普通のことだった。
相手の蓮司が、こちらの公式戦績へ目を向ける。
少しだけ目を細めた。
「公式戦は今日からか?」
「ああ。この八試合が最初だ」
「……初日で八戦?」
「全部公式戦だ」
「八戦全部?」
「ああ」
相手はもう一度、表示を見る。
《0 WIN / 8 LOSS》
「で、八敗か」
「そうなる」
馬鹿にした様子はなかった。
むしろ少し考えるように腕を組んだ。
「ずいぶんやったな」
「気づいたらな」
「相手は?」
「最初の三人は別々だ。そのあと桐生玲奈と五戦」
「玲奈?」
「ああ」
「同じ相手と五戦したのか」
「全部負けた」
相手はもう一度、蓮司の戦績を見る。
「五つともか」
「一ラウンドだけ取った。試合は全部負けた」
相手はそこで自分の公式戦績を表示した。
《OFFICIAL RECORD》
《3 WIN / 2 LOSS》
蓮司の視線が止まる。
同じ顔。
同じ名前。
基礎となる武術も同じ。
それでも、目の前の自分はすでに三回勝っている。
「勝ってるんだな」
「三つだけな」
相手は特に誇る様子もなく答えた。
「二つは負けた」
「それでも三つ勝ってる」
「おまえもそのうち勝つだろ」
蓮司は返事をしなかった。
目の前の戦績を見てから、自分のものへ視線を戻す。
三勝二敗。
零勝八敗。
蓮司は二つの表示を見比べた。
「八試合も戦ったんだ。今は少し休んだ方がいいんじゃないか」
相手が言った。
「そうかもな」
蓮司は素直に頷いた。
「五つは同じ相手への負けだろ。別の相手と組まれたら、今日とは違うものが通じるかもしれない」
「相手が変われば、か」
「ああ。まだ初日なんだしな」
相手はそこで手を上げた。
「じゃあな」
「ああ」
二人の神谷蓮司は、そのまますれ違った。
振り返ることはなかった。
部屋へ戻るつもりだった。
だが途中で、蓮司は足を止めた。
小さな練習場がある。
大きな設備はない。床と簡単な打撃用具が置かれただけの、基礎練習向けの場所だった。
蓮司は少し考えてから中へ入った。
誰もいない。
静かな床の中央まで進み、拳を上げる。
「あいつは三つ勝ってた」
口にしてみる。
別の神谷蓮司。
三勝二敗。
「俺はまだゼロだ」
蓮司は左足を前へ出して構え、まっすぐ拳を伸ばした。
一発打っては引き、足の位置を確かめて、もう一度踏み込む。
玲奈との試合では、この踏み込みを何度も外された。
思い出しながら少しだけ足の位置を変え、今度は拳を打ったあと、その場へ残らずすぐに身体を戻す。
同じ動きを何度か繰り返しながら、踏み込む距離と戻るタイミングを確かめていった。
派手な技は使わない。一閃轟破も必要なかった。
ただ足を動かし、拳を出し、戻る。
今日一日で何度も繰り返したはずの基本動作を、今度は誰にも攻撃されない場所で一つずつやり直していた。
しばらく続けていると、入口から足音が聞こえた。
蓮司が拳を止めて振り向くと、そこにいたのは先ほどすれ違った、もう一人の神谷蓮司だった。
「ああ、ここに置いたままだった」
もう一人の蓮司は壁際に残していた手甲を拾い上げる。それから練習場の中央へ目を向け、自分と同じ顔がまだ拳を振っているのを見た。
「まだやるのか?」
蓮司は構えを崩さなかった。
「ああ」
「八試合やったあとだぞ」
「知ってる」
もう一人の蓮司は少しだけ笑った。
「じゃあ、何で?」
蓮司は一度、自分の拳を見る。
今日、何度も届かなかった拳。
それでも玲奈から一ラウンドだけは奪い、まだ一試合も勝てていない拳だった。
「まだ一回も勝ってないからな」
もう一人の蓮司は、しばらく同じ顔を見ていた。
三勝二敗の神谷蓮司と、零勝八敗の神谷蓮司。
同じ原型から生まれていても、今日までに持った結果はもう違っている。
やがて、もう一人の蓮司がわずかに口元を緩めた。
「そうか」
「ああ」
「じゃあな」
手甲を持ったもう一人の神谷蓮司が、今度こそ練習場を出ていく。
静けさが戻ると、蓮司は再び正面へ向き直って構えた。
左足を前へ出し、拳を上げる。
それは、九戦目を急ぐための拳ではなかった。
まだ一つも持っていない勝利へ向かうための、最初の一発だった。