RESONANCE ARENA   作:エーアイ

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第7話:神谷蓮司は、美月から一つを取る

 ROUND 1。

 

 三度目の公式戦が始まった。

 直希は、もう美月を「中距離から蹴ってくる相手」とだけ見てはいなかった。

 弧月蹴を避ければ終わりではない。零歩で距離を切られたあとに迅条が来ることもある。

 攻撃を急げば旋牙で差し返され、ようやく近づいても疾風連脚のような返しが残っている。

 そして何より、同じ対策を続ければ、航もその対策を見てくる。

 

 直希は画面を見たまま、小さく方針を口にした。

 

「今度は、決めつけない」

 

 通話の向こうで、航がすぐに返す。

 

『やっとそこまで来た?』

 

「二試合やったからな」

 

『二試合やって二連敗。しかも美月からまだ一ラウンドも取れてないけどな』

 

「そこまで全部言う必要ある?」

 

『四ラウンド全部こっちが取ってるんだから、言えるうちに言っとこうかなって』

 

「調子乗ってるな」

 

『そりゃ二連勝中だからな』

 

「覚えてろよ」

 

『はいはい。まず一ラウンド取ってから言って』

 

「絶対取る」

 

 航の笑い声を聞きながら、直希は蓮司を前へ歩かせた。

 一歩進んで止まり、美月の前脚を見る。

 すぐに弧月蹴が来なければ、もう半歩。

 航も簡単には技を振らず、互いに相手が先に動く瞬間を探していた。

 

 美月がわずかに前へ出る。

 直希は迅条を警戒してガードを入れたが、来たのは通常のローキックだった。低い蹴りが蓮司の脚を叩く。

 

「そっちか」

 

『決めつけないんじゃなかったの?』

 

「まだ一回だろ」

 

 蓮司は蹴られた脚を踏み直したが、すぐには追わなかった。

 それを見た美月が、構えを崩さないまま口を開く。

 

「今度は、すぐ来ないのね」

 

「同じように追っても、また離されるからな」

 

「そう」

 

 美月はそれ以上何も言わず、一度距離を戻した。

 

 直希はそこへついていくが、美月が零歩で短く後方へ跳ね、間合いを切ったところで蓮司の足を止めた。

 第二戦までなら、その先の迅条を警戒してさらに待っていた。だが今度は、航が「待つことを待っている」可能性まで考える。

 

 直希は蓮司を一歩だけ進ませた。

 美月が弧月蹴を放つ。長いミドルキックを蓮司が腕で受け止め、蹴り脚が戻るところへ短い拳を返した。

 拳が美月のガードを越え、身体へ届く。

 

「よし」

 

 美月は一歩だけ距離を戻した。

 

「今度は返してきたわね」

 

「届くなら返す」

 

「でも、一発で終わり?」

 

 蓮司は追わずに答える。

 

「次を急いだら、おまえはそこを狙うだろ?」

 

「そう思うなら、急がなければいいわ」

 

 会話はそこで切れた。

 美月が止まれば、直希も無理に前へ出ない。

 向こうから来ればまず受け、返せるときだけ拳を返す。

 派手な攻防ではなかったが、最初の試合のように一方的に美月の距離へ閉じ込められてはいない。

 

 通話の向こうで、航が少し感心したように言う。

 

『さっきよりやりにくくなったな』

 

「それ、褒めてる?」

 

『一応。でもまだ一ラウンドも取られてないからな』

 

「またそれ言うのかよ」

 

『言えるうちは言っとく』

 

「じゃあ、言えなくしてやる」

 

『おう、やってみろ』

 

 中盤に入っても、大きなHP差はつかなかった。

 蓮司が疾歩拳を見せれば、美月はすぐ零歩へ逃げずにガードする。

 直希がそこで止まれば、航は迅条ではなく通常の前進で圧力をかける。

 互いに一つ見せれば、一つずらす。その読み合いそのものには、直希も少しずつついていけるようになっていた。

 

 だが、終盤になると差が出た。

 

 直希が弧月蹴を二度続けてガードしたあと、三度目も同じ距離で待つ。

 美月は蹴らなかった。代わりに短く前へ出る。

 

「迅条──」

 

 直希がガードへ意識を寄せた瞬間、美月はその一歩を途中で止めた。

 互いに構えたまま、一瞬だけ動きが止まる。

 

 先に焦れたのは直希だった。

 

「今なら!」

 

 疾歩拳。

 

 蓮司が一気に距離を詰める。

 その踏み込みを見た美月の目が鋭くなった。

 

「そこは待ってたわ」

 

「──読まれたか」

 

 美月が身体を捻る。

 

 旋牙。

 

 回転の勢いを乗せた強い蹴りが、踏み込み始めた蓮司の腕ごと胴を打った。

 

《COUNTER RHYTHM》

 

 攻撃の出始めを潰された蓮司の身体が大きく横へ流れる。

 直希はすぐにガードへ戻したが、美月は強化された蹴りを一つだけ重ねると、自分から中距離へ戻った。

 

 距離が開く。

 

「先に動いたわね」

 

 蓮司は打たれた胴を庇わず、構え直した。

 

「ああ」

 

「だから、そこを取った。それだけよ」

 

 美月は再び間合いを取る。

 

「……次は急がない」

 

 返事はなかった。

 美月は構えたまま、蓮司の次の動きを待っている。

 

 そのやり取りの外側で、直希も自分の失敗を理解していた。

 

「また待たれた」

 

『二回やったら、そろそろ来ると思うだろ』

 

「俺もそう思ってたんだけどな」

 

『思ってただけじゃ止まらないぞ』

 

 返す言葉はなかった。

 

 その一度の読み負けで、HP差が大きく開いた。

 直希も最後まで食らいついたが、無理に追わないことを意識するほど残り時間が減っていく。

 そして時間がなくなれば、前へ出るしかない。

 

 残り時間を確認した直希が、蓮司を一歩進ませる。

 美月はその動きを見逃さなかった。

 

「最後は来るしかないわね」

 

 蓮司も残り時間を一瞬だけ確認し、すぐ美月へ視線を戻す。

 

「待ってるだけじゃ終わる」

 

 蓮司が間合いを詰める。

 一歩進んでも、美月は動かない。

 もう一歩。弧月蹴の届く距離を意識しながら、それでも前へ出る。

 

 時間を使い切れば、そのまま負ける。

 ここでは自分から攻撃を届かせるしかない。

 

 蓮司がさらに踏み込んだ瞬間、美月の前脚が動いた。

 

「なら、ここで止めるわ」

 

 弧月蹴。

 

 美月の前脚が鋭く振り抜かれ、弧を描くミドルキックが蓮司へ迫る。

 蓮司も腕を上げようとしたが、前へ出るために重心を移した直後だった。

 ガードが完成するより早く、美月の脚が脇腹を捉える。

 

「ぐっ……!」

 

 踏み込みの勢いごと止められ、蓮司の身体が横へ折れた。

 残っていたHPが消える。

 

 K.O.

 

《KUJO MIZUKI》

《ROUND WIN》

 

 直希は息を吐いた。

 

「……前よりは戦えてるんだけどな」

 

『でも一ラウンド目は俺な』

 

「分かってるよ」

 


 

 ラウンド間、美月は蓮司を見ていた。

 

 第一戦とは明らかに違う。

 弧月蹴の距離を覚え、零歩を見てもすぐには追わない。

 こちらが踏み込んでも、最初からすべて迅条だと決めつけなくなっている。

 

 それでも、今のラウンドを取ったのは美月だった。

 これで五ラウンド続けて、美月が取っている。

 

「これで五ラウンド目ね」

 

「ああ」

 

「あなたはまだ一つのラウンドも取れてない」

 

 蓮司は一度だけ結果表示を見てから、美月へ視線を戻した。

 

「五つとも取られた。それが今の結果だ」

 

 美月はそれ以上、結果について言う必要はないと思った。

 

「さっきは、最後にあなたから動いた」

 

「時間がなかったからな」

 

「ええ。だから、そこを狙った」

 

 蓮司は一度だけ呼吸を整えた。

 

「次は、時間に追われる前に一ラウンド取る」

 

 美月は返事をせず、両拳を上げる。

 言葉で否定する必要も、肯定する必要もない。

 取れると言うなら、実際に取ればいい。

 

「始めましょう」

 

 蓮司も構えた。

 

 ROUND 2、FIGHT。

 


 

 直希は開始直後から蓮司を前へ出さなかった。

 ここまでの二試合と、今の一ラウンド。

 美月へ近づく方法は少しずつ分かってきている。

 だが、それは航にも知られている。

 こちらが何を警戒し、どこから入ろうとしているのか、二試合続けて戦った航もまた見ている。

 

「一ラウンドは取りたい。でも、そのために急ぐのはやめる」

 

『じゃあ、どうする?』

 

「美月が何をしてくるか見てから決める」

 

『さっきも見るって言ってなかった?』

 

「さっきは最後に待てなくなったからな。今度は先に決めつけない」

 

 そう返して、直希は蓮司をゆっくり歩かせる。

 

 序盤は互いに大きな技を出さなかった。

 美月が弧月蹴を放てば、直希はその先端が届かない位置まで蓮司を下げる。

 零歩で短く後方へ跳ねられても、すぐには追わない。

 逆に美月から距離を詰めてくれば、まずはガードして、その次を見る。

 

 ただし、守っているだけでもない。

 美月が踏み込みを止めた瞬間には短い拳を置き、弧月蹴を空振りさせても、すぐ疾歩拳で飛び込まず通常の歩きで距離を詰める。

 互いに大きく踏み込まず、相手が何を選ぶのかを探る時間が続いた。

 

 その中で、美月が一度だけ重心を前へ寄せる。

 直希は迅条を警戒した。

 だが、美月が出したのは通常のローキックだった。

 

 低い蹴りが蓮司の脚を叩く。

 蓮司はすぐには前へ出ず、打たれた脚を踏み直しながら美月を見る。

 

「迅条を警戒していたでしょう?」

 

「ああ。そっちが来ると思ってた」

 

「だから、脚が空いていたわ」

 

 蓮司は一度だけ足元へ視線を落とし、すぐ美月へ戻した。

 

「読み違えたな」

 

 美月はそれ以上何も言わない。

 蓮司も追い急がず、再び間合いを測った。

 

 攻防は、さっきのラウンドより長く続く。

 

『……本当に変えてきたな』

 

「二試合続けて負けたからな。同じことやってても勝てないだろ」

 

『そこまで分かってて、まだ俺に来るんだ』

 

「勝ててないから来てるんだよ」

 

『なるほどね』

 

 直希は返事をせず、美月の次の動きを見る。

 

 美月が先に出ないなら、こちらから少しだけ触る。

 蓮司の短い拳が一度、美月のガードへ当たった。直希はそこで無理に続けず、次の機会を待つ。

 

 今度は美月がローキックを出す。

 直希はガードし、その戻りへ短い拳を返した。

 拳が美月の肩を捉える。

 

「今のは届いたわね」

 

「でも、まだ一発だ」

 

「ええ」

 

 美月は一歩だけ距離を戻し、すぐに構え直した。

 

 当てたからといって、すぐ次へ行かない。

 外されたからといって、焦って取り返そうとしない。

 互いに一つずつ手を見せながら、次の一手を探る。

 

 もちろん、航も同じままではいなかった。

 弧月蹴を一度見せたあと、次は何も出さずに待つ。

 直希がその沈黙に耐えて動かなければ、美月は迅条で一気に前へ出た。

 

 鋭い踏み込みから放たれたストレートを、蓮司が両腕で受け止める。

 直希は反撃を入力しなかった。

 

『反撃してこないの?』

 

「出したところを待ってるだろ」

 

『まあ、さっきまでならそこで来てたからな』

 

「だから行かない」

 

『慎重になったな』

 

「二試合も負ければ警戒するって」

 

『でも、待ってるだけじゃ勝てないぞ』

 

「分かってる。だから今、次を見てる」

 

 中盤を過ぎても、HPはほぼ並んでいた。

 最初の試合では、美月の攻めを理解するだけで終わった。

 二戦目では近づくところまで行った。

 そして三戦目。

 ようやく、一つのラウンドを本当に取り合うところまで来ている。

 

 美月が弧月蹴を放つ。

 直希はガードせず、蓮司をわずかに下げて先端を外した。

 

「今!」

 

 蹴り脚が戻り始めるのを見て前進を入力する。

 蓮司はすぐに間合いを詰め、短い拳を美月のガードへ当てた。

 そこから連環打へつなぐ。

 

 拳から肘、さらに蹴りへ。

 美月は最初の拳を受けたが、続く肘には腕を上げ、最後の蹴りもガードを固めて受け切った。

 

「今度は通さないわ」

 

 蓮司は無理に次へつながなかった。

 

「なら、無理には続けない」

 

 美月は距離を取り直そうとする。

 直希は下がった分だけ蓮司を前へ進ませ、簡単には離さない。

 

 画面端まではまだ遠い。

 それでも、これまでの試合より長く蓮司の距離で戦えていた。

 

「いける……!」

 

 直希が次の隙を見て短い拳を入れる。

 今度は美月の身体へ届いた。

 HPバーが減り、残りはわずかになる。

 

『ちょっとまずいな』

 

「聞こえてるぞ」

 

『通話してるから仕方ないだろ』

 

 さっき自分が言った台詞をそのまま返され、直希は思わず笑いそうになった。

 だが、視線は外さない。

 

 美月が零歩で短く後方へ跳ね、ようやく蓮司との距離を切った。

 直希は追わない。航もすぐには迅条を出さない。

 

 互いに少し離れた位置で構え直す。

 残り時間にはまだ余裕があり、HPは美月の方がわずかに少ない。

 

 ここで急ぐ必要はない。

 

 直希は蓮司を動かさず、美月の出方を待った。

 

「今度は追ってこないのね」

 

「追えば、またそっちの距離になる」

 

「なら、こちらから行くわ」

 

 今度は航が先に動いた。

 美月が迅条で一気に距離を潰し、ストレートを打ち込んでくる。

 

「来た!」

 

 直希はすぐにガードを入力した。

 蓮司が両腕でストレートを受け止める。

 

 ここから弧月蹴へつなぐのか。それとも、一度離れて距離を作り直すのか。

 直希はその二つを見ようとした。

 

 だが、航はどちらも選ばなかった。

 

 美月はさらに深く踏み込み、短い拳を重ねる。

 蓮司がそれをガードすると、今度は低いローキックが脚へ飛んできた。

 蓮司はそれも受ける。

 それでも美月は離れない。

 

「今度は、そっちが離さないのか」

 

「待つなら、こちらから崩すだけよ」

 

 直希も、美月が攻めを切る気配がないことに気づく。

 

「攻め続けるのか!」

 

 通話越しの航の声から、先ほどまでの軽さが少し消えていた。

 

『待ってるなら、こっちから行く』

 

 美月のHPは少ない。

 蓮司のHPにも余裕はない。

 次にまとまった攻撃を通した側が、このラウンドを取る。

 

 美月がさらに一歩踏み込む。

 直希はガードを続けた。

 弧月蹴を腕で受け止め、次は旋牙かと回し蹴りを警戒する。

 

 その意識を読んだように、美月は蹴らずに短い拳を差し込んできた。

 蓮司はそれもガードする。

 だが、美月は距離を開けない。

 拳と蹴りを細かく重ねながら、少しずつ蓮司のHPを削っていく。

 

「まずい……」

 

『このまま取る』

 

 美月がさらに前へ出る。

 ガードの奥から、蓮司も正面を見返した。

 

「ここで終わらせるわ」

 

 蓮司は一度だけ息を吐く。

 

「まだ終わってない」

 

 次の攻撃へ美月が踏み込む。

 

 その瞬間だった。

 

 直希の視線が、画面端のゲージを捉える。

 

《LEVEL 3》

《一閃轟破》

 

 使える。

 

 考えてから選んだわけではなかった。

 美月の次の一撃が届くより先に、直希の指が動く。

 

 攻めを続ける美月が、さらに一歩踏み込んだ。

 その真正面から、蓮司も一歩、前へ出る。

 

 美月の目がわずかに見開かれた。

 

「──来るの!?」

 

 今までなら、美月の攻めを受けてから次を考えていた。

 今度は違った。

 蓮司は退かない。

 美月が作った近距離へ、さらに自分から踏み込む。

 

「ここで返す」

 

 一閃轟破。

 

 最初の直拳が、美月の踏み込みへ真正面からぶつかった。

 

「──っ!」

 

 拳が胸元へ食い込み、美月の身体が止まる。

 前へ出ようとしていた勢いまで押し返され、一瞬、息が詰まった。

 

 美月は腕を戻そうとする。

 ガードへ。あるいは、一度距離を切るために。

 

 だが、間に合わない。

 

 蓮司は最初の一撃で終わらなかった。

 懐へ深く入り、掌底を突き上げる。

 

「くっ……!」

 

 顎が上がる。

 崩れた体勢へ肘が入り、美月が横へ逃れようとした瞬間には、膝が腹部へ突き刺さった。

 

「ぁ……っ!」

 

 肺から空気が押し出され、身体が折れる。

 

 蹴りなら返せる。

 拳なら受けて次へつなげられる。

 そうして何度も蓮司を止めてきた。

 

 だが今は、そのための距離がない。

 中距離へ戻る前に、次の拳がボディへ入る。

 沈んだ身体へ前蹴りが重なり、美月の上体が正面へ起こされた。

 

「っ……!」

 

 足が床を滑る。

 視界の中で、蓮司が一度だけ止まった。

 

 逃がしてくれたわけではない。

 最後の一撃を打つために。

 

 蓮司が拳を引く。

 美月にも、それが見えた。

 

 止めなければならない。

 腕を上げる。身体をずらす。何か一つでも間に合わせる。

 

 けれど、連撃を受け続けた身体は思ったほど速く動かなかった。

 

 蓮司が床を踏む。

 脚から腰へ、腰から肩へ。

 全身の力をつないだ最後の正拳が、美月を真正面から打ち抜いた。

 

「────っ!」

 

 声にならなかった。

 

 衝撃だけが先に身体を貫く。

 足が床から離れ、美月の身体が大きく後ろへ飛ばされた。

 背中からリングへ叩きつけられ、一度身体が跳ねる。

 そのまま仰向けに倒れた。

 視界いっぱいに、アリーナの照明が広がっている。

 

 起きなければ。

 美月はそう思った。

 

 倒されたなら立て直す。距離を作り直し、また蓮司を止める。

 いつもなら、そうする。

 

 だが、身体が動かない。

 胸が痛い。

 腹部には膝と拳を受けた重い感触が残り、最後の正拳を受けた場所は呼吸するだけでも鈍く響く。

 

 腕を上げようとしても力が入らない。

 美月は仰向けのまま息を吐いた。

 

「……やられた……」

 

 その声とほとんど同時に、HPバーの最後の部分が消えた。

 

 K.O.

 

《KAMIYA RENJI》

《ROUND WIN》

 

 一瞬、直希は何も言わなかった。

 勝者表示が出ている。

 

 神谷蓮司。

 

 間違いなく、美月ではない。

 

「……え?」

 

 もう一度見る。

 勝者表示は変わらない。

 

 そこでようやく意味が頭へ入った。

 

「取った!」

 

 直希が椅子から身体を起こす。

 

「取った! 一ラウンド!」

 

 通話の向こうでも、航はすぐには返さなかった。

 

『…………マジか』

 

 いつもの軽い声ではない。

 

「美月から初めてだぞ!」

 

『見れば分かるって』

 

「五ラウンド全部取られてたんだぞ!」

 

『それも知ってるよ。俺が取ったんだから』

 

「だから嬉しいんだよ!」

 

 直希は完全に浮かれていた。

 試合にはまだ勝っていない。

 美月との対戦成績も二敗のまま。

 この三試合目だって、ラウンドスコアが一対一になっただけだ。

 それでも。

 

 最初の試合では、一方的に距離を支配された。

 二試合目では、近づけても最後には押し返された。

 そして三試合目。

 

 五ラウンド続けて取られていた美月から、六ラウンド目で初めて一つを奪った。

 

「……やっと取った」

 

 今度は少しだけ声を落として、直希は言った。

 


 

 アリーナでは、美月がまだ仰向けに倒れていた。

 

 ラウンド終了の表示が消え、次へ向けた回復が始まる。

 胸と腹部に残っていた痛みは少しずつ薄れ、呼吸も整っていく。

 それでも、美月はすぐには起き上がらなかった。

 痛み以上に残っているものがあった。

 

 自分から仕留めに行った。

 あと一度まとまった攻撃を通せば倒せる。

 そう判断して踏み込んだところを、真正面から止められた。

 そして、そのまま最後まで一閃轟破を通された。

 

 自分は相手の動き始めを見る側だと思っていた。

 焦って入る瞬間も、待ちきれなくなる瞬間も、何度も取ってきた。

 

 その自分が、今度は動き出したところを止められた。

 しかも一発だけではない。

 最初の直拳から最後の正拳まで、一度も流れを切れないまま倒された。

 

 身体の痛みは消えていく。

 だが、その感覚まで一緒には消えなかった。

 

「……悔しいわね」

 

 誰に聞かせるでもなく、美月は呟いた。

 

 格闘家として、気分のいい負け方ではない。

 むしろ、かなり屈辱的だった。

 

 しばらくして、美月はようやく片腕を床についた。

 上体を起こし、回復した脚で立ち上がる。

 

 正面には蓮司がいる。

 荒い呼吸を整えながら、次のラウンドを待っていた。

 

 それまでのラウンドは、すべて自分が取っていた。

 だが、今の一つだけは違う。

 

 美月は両拳を上げ、蓮司を正面から見る。

 

「……今のラウンドは、あなたね」

 

「ああ。やっと一つ取れた」

 

 美月はそれ以上何も言わなかった。

 

 一つ取られた。

 それは結果として認めるしかない。

 だが、試合そのものはまだ終わっていない。

 

 蓮司も呼吸を整えながら、次のラウンドへ向けて構えを戻した。

 

 一方、直希の手には、まだ一閃轟破を通した感触が残っていた。

 

 一ラウンド取れた。

 ここまで来たなら、試合も取れる。

 そう思いたくなる。

 だが、直希は一度だけ大きく息を吐いた。

 

 何か一つうまくいったあと、その成功ばかりを見て次の判断を遅らせる。

 それで何度も負けてきた。

 

「一閃轟破のことは、いったん忘れる」

 

 通話の向こうで航が聞き返す。

 

『今ので一ラウンド取ったのに?』

 

「次も同じところで美月が踏み込んでくるわけないだろ」

 

『……そこは覚えてるんだな』

 

「同じ相手に何度もやられてるからな」

 

『説得力あるけど、あんまり格好よくないな』

 

「自分でもそう思う」

 

 直希は苦笑しながら、画面へ意識を戻した。

 

 アリーナでは、美月もすでに構えを整えている。

 

 身体の痛みは消えていた。

 それでも、先ほど何も返せないまま一閃轟破を最後まで受けた感触までは消えていない。

 美月はその感覚を抱えたまま、正面の蓮司を見据える。

 蓮司も拳を上げた。

 

 結果は一対一。

 次のラウンドで、この試合が決まる。

 

 ROUND 3、FIGHT。

 


 

 開始直後、直希は一閃轟破をもう一度狙おうとはしなかった。

 そもそも、同じようにゲージが残っているわけでもない。

 今度は大技に頼らず、蓮司が本来得意とする近距離までどう入るかだけを考える。

 

 一方の航も、先ほどの一閃轟破を受けて踏み込み方を変えていた。

 弧月蹴で接近を止めたかと思えば、零歩で距離を切る。

 そこから少しだけ前へ出して直希の反応を確かめ、蓮司が構えを固めれば無理には攻めない。

 

 直希も焦らなかった。

 美月が下がれば、どこまで追うかを選ぶ。

 向こうから来れば、何が来るのかを見てから対応する。

 

 蓮司が少しずつ間合いを詰めたところで、美月が弧月蹴を放った。

 直希はすぐにガードする。

 蹴りが腕へ当たり、美月はその反動を使って距離を戻した。

 

 蓮司は追わない。

 

「今度は、すぐには来ないのね」

 

「追ったところを待ってるかもしれないからな」

 

「そう思うなら、それでいいわ」

 

 美月はそれ以上答えず、再び距離を測る。

 

 互いにすぐには仕掛けなかった。

 蓮司が半歩進めば、美月も位置を変える。

 そうして相手の出方を探りながら、少しずつ二人の間合いが縮まっていく。

 美月がさらに一歩踏み込み、蹴りの届く距離へ入った。

 蓮司は下がらない。

 その瞬間、美月が身体を大きく捻る。

 

 旋牙。

 

 回転の勢いを乗せた鋭い回し蹴りが蓮司へ迫った。

 蓮司はすぐに腕を上げ、その蹴りを受け止める。

 いつもなら、その戻りへ拳を返したくなるところだった。

 

「……いや、行かない」

 

 直希は入力しかけた指を止めた。

 美月も旋牙を戻したあと、すぐには動かない。

 

『今の返さないんだ』

 

「返したところに何か置いてるだろ」

 

『さあ、どうだろうな』

 

「その言い方なら行かなくて正解だった気がする」

 

 直希は苦笑しながらも、美月から目を離さない。

 アリーナでは、蓮司も蹴りを受けた腕を一度開き、構え直していた。

 

「返してくると思ったけど」

 

「今はやめた」

 

「そう」

 

 それだけで、美月は再び間合いを取った。

 

 中盤までは、ほぼ互角の攻防が続く。

 蓮司が近距離で短い拳を通せば、美月もローキックと弧月蹴で取り返す。

 どちらかが触れても、そのまま大きな流れにはならず、HPにも決定的な差はつかなかった。

 

 蓮司の拳が一度、美月の肩へ届く。

 

「そこだ」

 

 美月は一歩だけ下がった。

 

「今のはもらったわ」

 

 すぐに前脚を戻し、低いローキックを蓮司の腿へ返す。

 

「っ……!」

 

 蓮司は脚を踏み直した。

 

「まだ五分だ」

 

「ええ」

 

 美月も否定しない。

 

 均衡が動いたのは終盤だった。

 美月の弧月蹴をガードした直希は、蹴り脚が戻るところを見て蓮司を前へ出す。

 今なら入れる。

 そう判断したところで、美月は零歩を使い、短く後方へ跳ねた。

 

 これまでなら追っていた。

 だが、直希は蓮司を止める。

 

 零歩のあとを無理に追えば、美月の得意な距離で迎え撃たれる。

 何度もやられた形だった。

 なら、次を見る。

 

 航も、その対応をすでに知っていた。

 

 美月は零歩から迅条へつながない。

 構えを整えると、今度は技を出さず、ほんの少しだけ自分から前へ歩いた。

 

 蓮司も一歩だけ出る。

 互いに技を出さないまま、間合いだけが狭まっていく。

 

 美月の前脚はまだ動かない。

 弧月蹴も来ない。

 直希はさらに半歩だけ蓮司を進ませた。

 

 拳が届く。

 

「入った!」

 

 通常攻撃を入力する。

 蓮司の拳が美月へ伸びた。

 だが、美月はガードしなかった。

 蓮司の拳を正面から受けるのではない。

 伸びてきた腕へ横から手を添え、そのまま押し退けるように拳の軌道を逸らす。

 

「え?」

 

 拳が美月の身体を逸れた。

 同時に、美月が一歩深く入る。

 

 蓮司の腕を内側へ押し込みながら、肩口まで身体を寄せた。

 直希の視界から、間合いが一気に消える。

 

「近っ……!」

 

 蓮司もすぐに身体を戻そうとした。

 

 だが、その前に美月の腕が首から肩へ回った。

 もう片方の腕も身体へ絡み、上体を強く引き寄せる。

 

 蓮司の姿勢が崩れ、逃げるための空間がなくなる。

 

《月檻連膝》

 

 表示を見た直希の声が裏返った。

 

「何これ──」

 

 航の声が低くなる。

 

『取った』

 

 月檻連膝。

 

 相手の拳や腕を外へ流しながら懐へ入り、首と肩を抱え込むように固定する。

 そこから逃げ場を奪ったまま、膝を連続で叩き込む美月の近距離技だ。

 

 見た目だけなら相手を強く引き寄せているようにも見える。

 だが、美月にとっては抱擁ではない。

 逃がさず、膝を通すための拘束だった。

 

 蓮司はすぐに美月の腕へ手を掛ける。

 

「……まだ終わってない」

 

 力を込めて身体を起こそうとする。

 美月は離さなかった。

 

「もう遅いわ」

 

 蓮司が顔を上げる。

 その目を、美月も正面から見た。

 

「さっきは、最後まで全部もらったもの」

 

 一閃轟破を受け、仰向けに倒れたまま身体を起こせなかった感覚が脳裏をよぎる。

 美月の腕に、さらに力が入った。

 

「だから──お返しよ」

 

 最初の膝が腹部へ突き刺さった。

 

「ぐっ……!」

 

 蓮司の身体が大きく折れる。

 だが、美月は離さない。

 折れた上体を引き戻し、再び膝の届く位置へ固定する。

 

 二発目。

 今度はさらに深く腹へ入った。

 

「く……っ!」

 

 息が詰まり、HPが大きく減る。

 

「まずい……!」

 

 直希はコントローラーを握り直すが、もう入力で割り込める段階ではない。

 月檻連膝は完全に成立している。

 画面の中では、首と肩を固定された蓮司が身体を引こうとしていた。

 それでも美月の腕は外れない。

 蓮司は拘束を押し返そうと力を込める。

 

「……まだだ」

 

 その抵抗を感じても、美月は腕を緩めなかった。

 

「ええ」

 

 蓮司の身体をもう一度、強く引き寄せる。

 

「まだ終わらせないわ」

 

 三発目の膝が腹部へ深く突き刺さった。

 

「がっ……!」

 

 蓮司の身体が跳ね、残りHPが一気に危険域へ入る。

 

「まずい、これ……!」

 

『近づいたからな』

 

「近づかないと蓮司は戦えないだろ!」

 

『だから美月も、近距離で何もないわけじゃないって』

 

 その言葉どおりだった。

 蓮司は近づいた。それ自体は間違いではない。

 

 だが、拳が届く距離よりさらに内側。

 美月の腕が首へ届くところまで入られれば、そこにも美月の技がある。

 そして今、完全に美月に捕まっていた。

 

 美月は拘束したまま、一度だけ息を整える。

 蓮司の身体を強く自分の方へ引き寄せた。

 最後の膝を打つために。

 

 蓮司もそれが分かった。

 美月の腕を押し返そうとする。

 

「……まだ──」

 

 美月はその言葉を最後まで待たなかった。

 真正面から蓮司を見る。

 

「これで終わりよ」

 

 最後の膝蹴りが、蓮司の腹部へ深く突き上がった。

 

「──がっ……!」

 

 これまでで最も深く膝を受け、蓮司の身体が大きく折れた。

 HPバーの残りが、一気に消える。

 美月が首と肩の拘束を解いた。

 蓮司は一歩だけ足を出し、踏みとどまろうとする。

 だが、もう力が入らない。

 片膝が落ちる。

 続いて、もう片方の膝も床についた。

 蓮司はそのまま美月の正面へ崩れ落ちた。

 両膝をついたまま上体を支えることもできず、頭が深く下がる。

 その正面には、美月だけが立っていた。

 

 最後まで拘束を解かず、月檻連膝を通し切った勝者と。

 その膝を受け切り、もう立っていられなくなった敗者。

 二人の姿が、決着の形をそのまま残していた。

 

 K.O.

 

《KUJO MIZUKI》

《WIN》

 

《MATCH RESULT》

 

《KUJO MIZUKI 2》

《KAMIYA RENJI 1》

 

 勝敗が確定した。

 

 美月は一歩だけ後ろへ下がる。

 

 先ほどのラウンドでは、一閃轟破を最後まで受けて自分が倒れた。

 今度は、月檻連膝を最後まで通して蓮司を倒した。

 

 正面では、蓮司が両膝を床についたまま、まだ上体を起こせずにいる。

 

 美月はその姿を見下ろし、短く息を吐いた。

 

「……借りは返したわ」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 

 

 直希はしばらく画面を見たまま動かなかった。

 

「……そんな技あるのか」

 

『ある』

 

「先に言えよ」

 

『言ったら食らわないだろ』

 

「それはそうだけど!」

 

 航が笑う。

 直希も悔しかった。

 

 一ラウンド取った。

 最終ラウンドも、中盤まではほぼ互角だった。

 だからこそ、最後に月檻連膝で全部持っていかれたことが余計に悔しい。

 

「……でも、一個取った」

 

『そこは取られたな』

 

「次は試合取る」

 

『まだやる気なんだ』

 

「一ラウンド取れたのに、ここでやめる理由ないだろ」

 

 戦績表示が更新される。

 

《KAMIYA RENJI》

《0 WIN / 11 LOSS》

 

「……十一連敗」

 

『また増えたな』

 

「でも今回は一対二だ」

 

『負けは負けだけど』

 

「分かってるよ」

 

 直希は笑いながらも、表示された数字から目を逸らさなかった。

 

 零勝十一敗。

 まだ一度も公式戦で勝っていない。

 

 美月から初めて一ラウンドを奪っても、それだけでは一勝にはならなかった。

 そのことは、今の直希にも分かっている。

 

 だから次は。

 

 一ラウンドではなく、試合そのものを取りたい。

 

<hr>

 

 アリーナでは、三度目の結果が表示されていた。

 

《OFFICIAL HEAD-TO-HEAD》

 

《KUJO MIZUKI 3 WIN》

《KAMIYA RENJI 0 WIN》

 

 美月はその数字を確認してから、両膝をついていた蓮司へ視線を戻した。

 

 三勝零敗。

 公式戦の結果だけを見れば、まだ自分が三つ勝っている。

 

 ただし、最初の二試合と同じではない。

 今回は一つ取られた。

 一閃轟破を最後まで受けて倒された。

 

 そして最後は、自分が月檻連膝を通して試合を取った。

 

 どちらの事実も消えない。

 

「一つ取られたわね」

 

 蓮司は荒い呼吸を整えながら顔を上げた。

 

「やっと一つだ」

 

「でも、試合は私が取った」

 

 蓮司は頭上の結果表示を見る。

 

「三対零。それが今の結果だな」

 

「ええ」

 

 美月も同じ数字を見る。

 蓮司は少しだけ息を吐いた。

 

「なら、次は試合を取る」

 

 美月は蓮司へ視線を戻した。

 

「あなたにできるかしら。次も私が止めるわ」

 

 蓮司は一度だけ腹部へ手を当てた。

 月檻連膝を受けた痛みは、もうほとんど消えている。

 

「なら、まずあれをどうにかしないとな」

 

 美月の視線が、わずかに蓮司へ寄る。

 

「月檻連膝?」

 

「ああ。次は、あそこまで入らせない」

 

 美月の目がわずかに細くなる。

 

「なら、捕まらないことね」

 

 蓮司は美月から目を逸らさなかった。

 

「もう一度狙ってくるなら、その前に止める」

 

 美月はそれ以上答えなかった。

 会話はそこで終わった。

 美月は最後にもう一度、三勝零敗という数字を確認する。

 

 一ラウンドを取られたことも。

 最後に自分が試合を取ったことも。

 

 すべて含めたうえで、それが今の結果だった。

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