それは、まだ名を持たない命だった。
蓬山の高い枝に、一つの卵果が実っていた。
白とも銀ともつかない、淡い色をした果実だった。
風が吹けば、枝葉とともに静かに揺れる。
その姿だけを見れば、ただの果実にしか見えない。
けれど。
その中には、これから生まれる麒麟がいる。
麒麟が男なのか、女なのか。
それは、まだ誰にも分からない。
だから、今はまだ名前もない。
巧国の麒麟。
ただ、それだけだった。
卵果のそばには、何人かの仙がいた。
その中には、一人の女怪もいる。
女怪は枝の下から卵果を見上げていた。
「もう、ずいぶん大きくなりましたね」
「ええ」
隣にいた女仙が答える。
「そろそろ落ちるでしょう」
女怪は頷いた。
卵果が実ってから、長い時間が経っている。
その中で育つ命が、いつ生まれるのか。
誰にも分からない。
ただ、時が来れば落ちる。
それだけだった。
その日も、蓬山には静かな風が吹いていた。
雲海が山肌を覆い、その向こうに空が広がっている。
何も起こらない。
そう思われた。
その瞬間。
卵果が、揺れた。
女怪が顔を上げる。
「……来ました」
枝が大きくしなった。
卵果が落ちる。
誰かが手を伸ばすこともない。
落ちてはいけないものではない。
それが、生まれるということなのだから。
卵果は地面へ落ちた。
鈍い音がした。
殻に亀裂が走る。
一本。
二本。
細い亀裂が、瞬く間に広がっていく。
そして――
殻が割れた。
中から、小さな身体が現れた。
四本の脚。
蹄。
長い首。
小さな頭。
耳。
そして、身体を覆う金色の毛。
首筋には、まだ幼いながらも金色のたてがみがあった。
小さな麒麟だった。
生まれたばかりの身体は、まだ頼りない。
脚には力が入らない。
立とうとして、崩れる。
それでも、何度も起き上がろうとする。
女怪は、息を詰めて見守っていた。
「……」
麒麟は小さく鳴いた。
声にならない声だった。
そして。
女怪が、その身体を見た。
角。
蹄。
たてがみ。
身体つき。
その姿から、性別が分かる。
女怪の顔が、柔らかくほころんだ。
「女の子ですね」
女仙が微笑む。
「では――」
そこで言葉が止まった。
女怪は、小さな麒麟を見つめる。
「巧麟」
初めて。
その名が呼ばれた。
巧麟。
巧国の麟。
その名を聞いた小さな麒麟は、耳を動かした。
声が聞こえる。
意味は、まだよく分からない。
けれど。
その音だけは、不思議と心に残った。
巧麟。
それが自分の名なのだと。
まだ言葉にもならない意識の中で、なんとなく理解した。
女怪が近づく。
「おいで、巧麟」
手が伸びる。
巧麟は警戒するように、その手を見つめた。
知らない場所。
知らない人。
知らない匂い。
けれど、嫌な感じはしない。
鼻先を近づける。
匂いを嗅ぐ。
柔らかな匂いだった。
巧麟は、そっと鼻先を女怪の手へ押しつけた。
「まあ」
女怪が笑った。
「怖くないのですね」
指が金色の毛を撫でる。
巧麟は目を細めた。
気持ちがいい。
首筋を撫でられる。
耳の後ろを撫でられる。
金色のたてがみを指先がそっと梳く。
巧麟は、さらに身体を寄せた。
女怪が笑う。
「甘えん坊ですね」
その声を聞きながら。
巧麟の中に、奇妙な記憶が浮かんだ。
犬。
猫。
兎。
ふわふわした毛。
柔らかな耳。
膝の上で眠る小さな生き物。
誰かを撫でている自分。
笑っている。
それは、今の記憶ではない。
もっと遠い。
別の場所。
別の世界。
別の人生。
――日本。
その言葉が浮かんだ。
巧麟は目を開いた。
日本。
知っている。
学校。
家。
道路。
電車。
スマートフォン。
テレビ。
そんなものが、断片的に浮かんでは消えていく。
自分は人間だった。
女だった。
動物が好きだった。
それだけは、はっきりと覚えている。
けれど。
今の自分は違う。
視線を下げる。
金色の脚。
蹄。
長い首。
身体を覆う毛。
背中から伸びるたてがみ。
そして、額の角。
自分は麒麟だ。
そう理解した瞬間。
巧麟は、不思議なほど自然に受け入れていた。
怖くない。
むしろ――
この身体は、嫌いではなかった。
女怪の手が、また毛並みを撫でる。
巧麟は目を細めた。
柔らかい。
温かい。
気持ちがいい。
前の世界でも、こういうものが好きだった。
どうやら、それは生まれ変わっても変わらないらしい。
「巧麟」
また名前を呼ばれた。
今度は、はっきりと反応した。
巧麟が顔を上げる。
「ここにいますよ」
女怪が笑う。
その声に導かれるように、巧麟は数歩歩いた。
一歩。
脚が震える。
二歩。
身体が傾く。
三歩。
女怪の胸元へ、小さな頭を押しつける。
女怪は、その身体を抱き寄せた。
「よく歩けましたね」
巧麟は黙っている。
まだ人の言葉を話せない。
話す必要もない。
今はただ、この世界の匂いを覚え。
風を覚え。
土を覚え。
自分の身体を覚えていけばいい。
女怪の腕の中で、巧麟は目を閉じた。
金色のたてがみが、風に揺れる。
その姿を見ながら、女怪は小さく呟いた。
「巧麟」
名を呼ぶ。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
生まれたばかりの麒麟には、まだ何も分からない。
自分が何のために生まれたのか。
この国に何が起こるのか。
王とは何なのか。
天が何を望んでいるのか。
そんなことは、まだ知らない。
ただ。
巧国には、王がいなかった。
そして今日。
その国に、麒麟が生まれた。
それだけだった。
王を探すのは、まだ先の話である。
巧麟が成長し、麒麟としての力を得るまで。
そして天意が示す王気を持つ者と巡り合うまで。
十六年という歳月が、これから始まる。
その長い年月を、巧麟はまだ知らない。
知らないまま。
女怪の腕の中で眠った。
金色の毛並みを、風が静かに撫でていく。
遠くには、雲海が広がっていた。
雲の下には、巧国がある。
人々が暮らしている。
王のいない国で。
それでも人々は生きている。
そしていつか。
その国に王が現れる。
そのとき、巧麟は初めて知ることになる。
自分が生まれた理由を。
自分が背負うものを。
だが、それはまだ先のこと。
今はただ。
生まれたばかりの一頭の麟が。
女怪の腕の中で眠っていた。