巧国記   作:これは面白いのか

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1話

それは、まだ名を持たない命だった。

 

 蓬山の高い枝に、一つの卵果が実っていた。

 

 白とも銀ともつかない、淡い色をした果実だった。

 

 風が吹けば、枝葉とともに静かに揺れる。

 

 その姿だけを見れば、ただの果実にしか見えない。

 

 けれど。

 

 その中には、これから生まれる麒麟がいる。

 

 麒麟が男なのか、女なのか。

 

 それは、まだ誰にも分からない。

 

 だから、今はまだ名前もない。

 

 巧国の麒麟。

 

 ただ、それだけだった。

 

 卵果のそばには、何人かの仙がいた。

 

 その中には、一人の女怪もいる。

 

 女怪は枝の下から卵果を見上げていた。

 

「もう、ずいぶん大きくなりましたね」

 

「ええ」

 

 隣にいた女仙が答える。

 

「そろそろ落ちるでしょう」

 

 女怪は頷いた。

 

 卵果が実ってから、長い時間が経っている。

 

 その中で育つ命が、いつ生まれるのか。

 

 誰にも分からない。

 

 ただ、時が来れば落ちる。

 

 それだけだった。

 

 その日も、蓬山には静かな風が吹いていた。

 

 雲海が山肌を覆い、その向こうに空が広がっている。

 

 何も起こらない。

 

 そう思われた。

 

 その瞬間。

 

 卵果が、揺れた。

 

 女怪が顔を上げる。

 

「……来ました」

 

 枝が大きくしなった。

 

 卵果が落ちる。

 

 誰かが手を伸ばすこともない。

 

 落ちてはいけないものではない。

 

 それが、生まれるということなのだから。

 

 卵果は地面へ落ちた。

 

 鈍い音がした。

 

 殻に亀裂が走る。

 

 一本。

 

 二本。

 

 細い亀裂が、瞬く間に広がっていく。

 

 そして――

 

 殻が割れた。

 

 中から、小さな身体が現れた。

 

 四本の脚。

 

 蹄。

 

 長い首。

 

 小さな頭。

 

 耳。

 

 そして、身体を覆う金色の毛。

 

 首筋には、まだ幼いながらも金色のたてがみがあった。

 

 小さな麒麟だった。

 

 生まれたばかりの身体は、まだ頼りない。

 

 脚には力が入らない。

 

 立とうとして、崩れる。

 

 それでも、何度も起き上がろうとする。

 

 女怪は、息を詰めて見守っていた。

 

「……」

 

 麒麟は小さく鳴いた。

 

 声にならない声だった。

 

 そして。

 

 女怪が、その身体を見た。

 

 角。

 

 蹄。

 

 たてがみ。

 

 身体つき。

 

 その姿から、性別が分かる。

 

 女怪の顔が、柔らかくほころんだ。

 

「女の子ですね」

 

 女仙が微笑む。

 

「では――」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 女怪は、小さな麒麟を見つめる。

 

「巧麟」

 

 初めて。

 

 その名が呼ばれた。

 

 巧麟。

 

 巧国の麟。

 

 その名を聞いた小さな麒麟は、耳を動かした。

 

 声が聞こえる。

 

 意味は、まだよく分からない。

 

 けれど。

 

 その音だけは、不思議と心に残った。

 

 巧麟。

 

 それが自分の名なのだと。

 

 まだ言葉にもならない意識の中で、なんとなく理解した。

 

 女怪が近づく。

 

「おいで、巧麟」

 

 手が伸びる。

 

 巧麟は警戒するように、その手を見つめた。

 

 知らない場所。

 

 知らない人。

 

 知らない匂い。

 

 けれど、嫌な感じはしない。

 

 鼻先を近づける。

 

 匂いを嗅ぐ。

 

 柔らかな匂いだった。

 

 巧麟は、そっと鼻先を女怪の手へ押しつけた。

 

「まあ」

 

 女怪が笑った。

 

「怖くないのですね」

 

 指が金色の毛を撫でる。

 

 巧麟は目を細めた。

 

 気持ちがいい。

 

 首筋を撫でられる。

 

 耳の後ろを撫でられる。

 

 金色のたてがみを指先がそっと梳く。

 

 巧麟は、さらに身体を寄せた。

 

 女怪が笑う。

 

「甘えん坊ですね」

 

 その声を聞きながら。

 

 巧麟の中に、奇妙な記憶が浮かんだ。

 

 犬。

 

 猫。

 

 兎。

 

 ふわふわした毛。

 

 柔らかな耳。

 

 膝の上で眠る小さな生き物。

 

 誰かを撫でている自分。

 

 笑っている。

 

 それは、今の記憶ではない。

 

 もっと遠い。

 

 別の場所。

 

 別の世界。

 

 別の人生。

 

 ――日本。

 

 その言葉が浮かんだ。

 

 巧麟は目を開いた。

 

 日本。

 

 知っている。

 

 学校。

 

 家。

 

 道路。

 

 電車。

 

 スマートフォン。

 

 テレビ。

 

 そんなものが、断片的に浮かんでは消えていく。

 

 自分は人間だった。

 

 女だった。

 

 動物が好きだった。

 

 それだけは、はっきりと覚えている。

 

 けれど。

 

 今の自分は違う。

 

 視線を下げる。

 

 金色の脚。

 

 蹄。

 

 長い首。

 

 身体を覆う毛。

 

 背中から伸びるたてがみ。

 

 そして、額の角。

 

 自分は麒麟だ。

 

 そう理解した瞬間。

 

 巧麟は、不思議なほど自然に受け入れていた。

 

 怖くない。

 

 むしろ――

 

 この身体は、嫌いではなかった。

 

 女怪の手が、また毛並みを撫でる。

 

 巧麟は目を細めた。

 

 柔らかい。

 

 温かい。

 

 気持ちがいい。

 

 前の世界でも、こういうものが好きだった。

 

 どうやら、それは生まれ変わっても変わらないらしい。

 

「巧麟」

 

 また名前を呼ばれた。

 

 今度は、はっきりと反応した。

 

 巧麟が顔を上げる。

 

「ここにいますよ」

 

 女怪が笑う。

 

 その声に導かれるように、巧麟は数歩歩いた。

 

 一歩。

 

 脚が震える。

 

 二歩。

 

 身体が傾く。

 

 三歩。

 

 女怪の胸元へ、小さな頭を押しつける。

 

 女怪は、その身体を抱き寄せた。

 

「よく歩けましたね」

 

 巧麟は黙っている。

 

 まだ人の言葉を話せない。

 

 話す必要もない。

 

 今はただ、この世界の匂いを覚え。

 

 風を覚え。

 

 土を覚え。

 

 自分の身体を覚えていけばいい。

 

 女怪の腕の中で、巧麟は目を閉じた。

 

 金色のたてがみが、風に揺れる。

 

 その姿を見ながら、女怪は小さく呟いた。

 

「巧麟」

 

 名を呼ぶ。

 

 それだけで、胸の奥が温かくなる。

 

 生まれたばかりの麒麟には、まだ何も分からない。

 

 自分が何のために生まれたのか。

 

 この国に何が起こるのか。

 

 王とは何なのか。

 

 天が何を望んでいるのか。

 

 そんなことは、まだ知らない。

 

 ただ。

 

 巧国には、王がいなかった。

 

 そして今日。

 

 その国に、麒麟が生まれた。

 

 それだけだった。

 

 王を探すのは、まだ先の話である。

 

 巧麟が成長し、麒麟としての力を得るまで。

 

 そして天意が示す王気を持つ者と巡り合うまで。

 

 十六年という歳月が、これから始まる。

 

 その長い年月を、巧麟はまだ知らない。

 

 知らないまま。

 

 女怪の腕の中で眠った。

 

 金色の毛並みを、風が静かに撫でていく。

 

 遠くには、雲海が広がっていた。

 

 雲の下には、巧国がある。

 

 人々が暮らしている。

 

 王のいない国で。

 

 それでも人々は生きている。

 

 そしていつか。

 

 その国に王が現れる。

 

 そのとき、巧麟は初めて知ることになる。

 

 自分が生まれた理由を。

 

 自分が背負うものを。

 

 だが、それはまだ先のこと。

 

 今はただ。

 

 生まれたばかりの一頭の麟が。

 

 女怪の腕の中で眠っていた。

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