巧麟が生まれてから、いくつもの月が過ぎた。
蓬山の季節は、人の暮らす里とは少し違って流れている。
春が来れば草木が芽吹き、夏になれば濃い緑が山を覆う。
秋には木々の葉が色を変え、冬になれば山の高いところから白く染まっていく。
その変化を、巧麟は一つずつ覚えていった。
最初の頃は、ただ眠っていた。
起きて。
食べて。
眠る。
それだけだった。
けれど、身体が大きくなるにつれて、起きている時間が長くなった。
そして。
起きている時間が長くなるほど、巧麟は蓬山のあちこちへ行きたがるようになった。
「巧麟」
女怪が呼ぶ。
少し離れた場所で、金色の仔が立ち止まった。
耳が動く。
振り返る。
女怪を見つける。
それから――
逃げた。
「巧麟?」
女怪が目を丸くする。
巧麟は振り返らない。
小さな蹄で地面を蹴り、草むらの向こうへ走っていく。
以前なら、数歩も歩けば脚がもつれていた。
今は違う。
身体が大きくなり、脚にも力がついた。
金色の毛並みが風を受ける。
短かったたてがみも、少しずつ伸びてきた。
走ることが楽しい。
風が気持ちいい。
草の匂いがする。
鳥の声が聞こえる。
遠くで何かが動いている。
巧麟は足を止めた。
耳を立てる。
右。
左。
後ろ。
音がする。
何かいる。
巧麟はそちらへ歩いていった。
茂みの向こうに、小さな獣がいた。
丸い身体。
短い脚。
柔らかそうな毛。
巧麟は目を輝かせた。
近づく。
獣も巧麟に気づいた。
逃げようとする。
巧麟は追いかけた。
獣が走る。
巧麟も走る。
けれど、捕まえるつもりはなかった。
ただ。
触ってみたかった。
あの毛に。
どんな感触なのか。
知りたかった。
獣が岩陰へ逃げ込む。
巧麟はそこで立ち止まった。
鼻先を岩へ近づける。
匂いがする。
まだ近くにいる。
巧麟は首を傾げた。
しばらく待つ。
やがて、岩陰から小さな顔が覗いた。
巧麟は動かない。
じっと見つめる。
獣も、じっと見返す。
しばらくして。
獣が少しだけ外へ出てきた。
巧麟は、そっと鼻先を近づけた。
触れた。
柔らかい。
温かい。
巧麟は嬉しそうに鼻を鳴らした。
その瞬間。
「巧麟!」
後ろから声が飛んできた。
巧麟の耳が倒れる。
振り返る。
女怪が走ってくる。
息を切らしていた。
「もう……」
女怪は膝に手をついた。
「急に走ってはいけません」
巧麟は女怪を見た。
そして。
その隣にいる小さな獣を見た。
女怪も気づく。
「ああ」
獣へ目を向ける。
「この子が気になったのですね」
巧麟は答えない。
代わりに、獣へもう一度鼻先を寄せた。
女怪が笑う。
「本当に動物が好きですね」
その言葉を、巧麟は覚えた。
動物。
それが何を指すのか。
少しずつ分かるようになってきていた。
犬。
猫。
鳥。
獣。
この世界では、前の世界とは違う生き物がいる。
見たことのない獣もいる。
不思議な姿をしたものもいる。
巧麟は、それらを見るたびに近づきたがった。
そして。
触れられるものなら、触れたがった。
特に。
毛が柔らかなものには弱かった。
「巧麟、これは食べ物ではありませんよ」
女怪が困ったように言う。
巧麟は、目の前の小さな獣を見ている。
獣は怯えている。
巧麟は首を傾げた。
食べる?
違う。
食べたいのではない。
触りたい。
それだけだ。
巧麟は、女怪を見上げた。
「駄目ですか?」
女怪の言葉が、少しずつ分かるようになってきていた。
巧麟は考える。
それから。
ゆっくりと獣から離れた。
「いい子ですね」
女怪が頭を撫でる。
巧麟は目を細める。
これも好きだった。
頭を撫でられること。
首筋を撫でられること。
たてがみを梳いてもらうこと。
巧麟は女怪に身体を寄せた。
「またですか?」
女怪が笑う。
巧麟は答えない。
ただ、頭を押しつける。
「分かりました」
女怪は諦めたように笑った。
金色のたてがみを、ゆっくりと指で梳いていく。
その感触に、巧麟は目を閉じた。
――気持ちいい。
前の世界でも、こうして動物を撫でていた。
その記憶が、少しずつ鮮明になってきていた。
自分は日本という国で生きていた。
人間だった。
女だった。
けれど。
前の人生の記憶は、日を追うごとに遠くなっていく。
消えてしまうわけではない。
ただ。
今の自分が、それ以上に大きくなっていく。
巧麟。
麒麟。
巧国。
蓬山。
女怪。
毎日聞く言葉。
毎日見る景色。
毎日触れるもの。
それらが少しずつ、自分の中へ積み重なっていく。
ある日。
女怪が巧麟を呼んだ。
「巧麟」
「……」
巧麟は振り返った。
「こちらへ来てください」
巧麟は歩いていく。
「もう一度」
呼ばれる。
「巧麟」
今度は、すぐに振り返った。
女怪が笑う。
「ええ。よくできました」
巧麟は嬉しくなった。
自分の名前。
それだけは、はっきりと分かる。
巧麟。
呼ばれれば、自分のことだと分かる。
そして。
言葉も少しずつ覚えていった。
水。
草。
山。
空。
風。
鳥。
獣。
人。
女怪。
そして。
麒麟。
巧麟は、その言葉を何度も聞いた。
自分を指して言われる言葉だった。
麒麟。
自分は麒麟なのだ。
けれど、麒麟が何なのか。
まだ、すべては分からない。
女怪に尋ねようとして。
巧麟は口を開いた。
「……」
声が出る。
けれど、人の言葉にはならない。
「どうしました?」
女怪が顔を覗き込む。
巧麟は困った。
伝えたい。
聞きたい。
でも、どうすればいいのか分からない。
仕方なく、女怪の袖を口でくわえた。
女怪が驚く。
「まあ」
巧麟は袖を引っ張った。
こちらへ来てほしい。
そう伝えたかった。
「何か見せたいのですか?」
巧麟は頷くように首を動かした。
「分かりました」
女怪がついてくる。
巧麟は歩き出した。
向かった先は、先ほどの場所だった。
そこには、小さな獣がいた。
女怪はそれを見る。
「この子ですか?」
巧麟は頷いた。
女怪は微笑んだ。
「仲良くなったのですね」
巧麟は獣を見る。
獣も巧麟を見る。
以前よりも逃げなくなっていた。
巧麟は嬉しかった。
その日から。
巧麟は、その獣を見つけると近くへ行くようになった。
追いかけない。
驚かせない。
ただ、そばにいる。
時々、鼻先で触れる。
それだけ。
それが巧麟にとっては、十分に楽しかった。
そして女怪は、そんな巧麟を遠くから見守っていた。
幼い麒麟は、少しずつ世界を覚えている。
自分の身体を。
自分の名前を。
周囲にいる生き物を。
そして、人の言葉を。
まだ知らないことは多い。
けれど。
焦る必要はなかった。
巧麟には、時間がある。
長い時間が。
その先に何が待っているのか。
まだ、誰にも分からない。
巧麟自身も知らない。
ただ。
今日も蓬山には風が吹いていた。
金色のたてがみを風になびかせながら、巧麟は山道を歩いている。
その隣には女怪がいる。
少し離れた場所には、巧麟が気に入った小さな獣がいる。
巧麟は時々振り返る。
獣がついてきているのを確認すると、満足そうに前を向く。
そんな日々が続いていく。
まだ幼い。
まだ何も知らない。
けれど。
この小さな麒麟の中には、一つの強い性質が育ち始めていた。
生き物を知りたい。
その姿を見たい。
触れてみたい。
そして。
傷ついているものがいれば、放っておけない。
それがいつか。
巧麟を妖魔のいる場所へ向かわせることになる。
けれど、それもまだ先の話。
今はまだ。
金色の仔は、蓬山の静かな日々の中で成長していた。