巧国記   作:これは面白いのか

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2話

巧麟が生まれてから、いくつもの月が過ぎた。

 

 蓬山の季節は、人の暮らす里とは少し違って流れている。

 

 春が来れば草木が芽吹き、夏になれば濃い緑が山を覆う。

 

 秋には木々の葉が色を変え、冬になれば山の高いところから白く染まっていく。

 

 その変化を、巧麟は一つずつ覚えていった。

 

 最初の頃は、ただ眠っていた。

 

 起きて。

 

 食べて。

 

 眠る。

 

 それだけだった。

 

 けれど、身体が大きくなるにつれて、起きている時間が長くなった。

 

 そして。

 

 起きている時間が長くなるほど、巧麟は蓬山のあちこちへ行きたがるようになった。

 

「巧麟」

 

 女怪が呼ぶ。

 

 少し離れた場所で、金色の仔が立ち止まった。

 

 耳が動く。

 

 振り返る。

 

 女怪を見つける。

 

 それから――

 

 逃げた。

 

「巧麟?」

 

 女怪が目を丸くする。

 

 巧麟は振り返らない。

 

 小さな蹄で地面を蹴り、草むらの向こうへ走っていく。

 

 以前なら、数歩も歩けば脚がもつれていた。

 

 今は違う。

 

 身体が大きくなり、脚にも力がついた。

 

 金色の毛並みが風を受ける。

 

 短かったたてがみも、少しずつ伸びてきた。

 

 走ることが楽しい。

 

 風が気持ちいい。

 

 草の匂いがする。

 

 鳥の声が聞こえる。

 

 遠くで何かが動いている。

 

 巧麟は足を止めた。

 

 耳を立てる。

 

 右。

 

 左。

 

 後ろ。

 

 音がする。

 

 何かいる。

 

 巧麟はそちらへ歩いていった。

 

 茂みの向こうに、小さな獣がいた。

 

 丸い身体。

 

 短い脚。

 

 柔らかそうな毛。

 

 巧麟は目を輝かせた。

 

 近づく。

 

 獣も巧麟に気づいた。

 

 逃げようとする。

 

 巧麟は追いかけた。

 

 獣が走る。

 

 巧麟も走る。

 

 けれど、捕まえるつもりはなかった。

 

 ただ。

 

 触ってみたかった。

 

 あの毛に。

 

 どんな感触なのか。

 

 知りたかった。

 

 獣が岩陰へ逃げ込む。

 

 巧麟はそこで立ち止まった。

 

 鼻先を岩へ近づける。

 

 匂いがする。

 

 まだ近くにいる。

 

 巧麟は首を傾げた。

 

 しばらく待つ。

 

 やがて、岩陰から小さな顔が覗いた。

 

 巧麟は動かない。

 

 じっと見つめる。

 

 獣も、じっと見返す。

 

 しばらくして。

 

 獣が少しだけ外へ出てきた。

 

 巧麟は、そっと鼻先を近づけた。

 

 触れた。

 

 柔らかい。

 

 温かい。

 

 巧麟は嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

 その瞬間。

 

「巧麟!」

 

 後ろから声が飛んできた。

 

 巧麟の耳が倒れる。

 

 振り返る。

 

 女怪が走ってくる。

 

 息を切らしていた。

 

「もう……」

 

 女怪は膝に手をついた。

 

「急に走ってはいけません」

 

 巧麟は女怪を見た。

 

 そして。

 

 その隣にいる小さな獣を見た。

 

 女怪も気づく。

 

「ああ」

 

 獣へ目を向ける。

 

「この子が気になったのですね」

 

 巧麟は答えない。

 

 代わりに、獣へもう一度鼻先を寄せた。

 

 女怪が笑う。

 

「本当に動物が好きですね」

 

 その言葉を、巧麟は覚えた。

 

 動物。

 

 それが何を指すのか。

 

 少しずつ分かるようになってきていた。

 

 犬。

 

 猫。

 

 鳥。

 

 獣。

 

 この世界では、前の世界とは違う生き物がいる。

 

 見たことのない獣もいる。

 

 不思議な姿をしたものもいる。

 

 巧麟は、それらを見るたびに近づきたがった。

 

 そして。

 

 触れられるものなら、触れたがった。

 

 特に。

 

 毛が柔らかなものには弱かった。

 

「巧麟、これは食べ物ではありませんよ」

 

 女怪が困ったように言う。

 

 巧麟は、目の前の小さな獣を見ている。

 

 獣は怯えている。

 

 巧麟は首を傾げた。

 

 食べる?

 

 違う。

 

 食べたいのではない。

 

 触りたい。

 

 それだけだ。

 

 巧麟は、女怪を見上げた。

 

「駄目ですか?」

 

 女怪の言葉が、少しずつ分かるようになってきていた。

 

 巧麟は考える。

 

 それから。

 

 ゆっくりと獣から離れた。

 

「いい子ですね」

 

 女怪が頭を撫でる。

 

 巧麟は目を細める。

 

 これも好きだった。

 

 頭を撫でられること。

 

 首筋を撫でられること。

 

 たてがみを梳いてもらうこと。

 

 巧麟は女怪に身体を寄せた。

 

「またですか?」

 

 女怪が笑う。

 

 巧麟は答えない。

 

 ただ、頭を押しつける。

 

「分かりました」

 

 女怪は諦めたように笑った。

 

 金色のたてがみを、ゆっくりと指で梳いていく。

 

 その感触に、巧麟は目を閉じた。

 

 ――気持ちいい。

 

 前の世界でも、こうして動物を撫でていた。

 

 その記憶が、少しずつ鮮明になってきていた。

 

 自分は日本という国で生きていた。

 

 人間だった。

 

 女だった。

 

 けれど。

 

 前の人生の記憶は、日を追うごとに遠くなっていく。

 

 消えてしまうわけではない。

 

 ただ。

 

 今の自分が、それ以上に大きくなっていく。

 

 巧麟。

 

 麒麟。

 

 巧国。

 

 蓬山。

 

 女怪。

 

 毎日聞く言葉。

 

 毎日見る景色。

 

 毎日触れるもの。

 

 それらが少しずつ、自分の中へ積み重なっていく。

 

 ある日。

 

 女怪が巧麟を呼んだ。

 

「巧麟」

 

「……」

 

 巧麟は振り返った。

 

「こちらへ来てください」

 

 巧麟は歩いていく。

 

「もう一度」

 

 呼ばれる。

 

「巧麟」

 

 今度は、すぐに振り返った。

 

 女怪が笑う。

 

「ええ。よくできました」

 

 巧麟は嬉しくなった。

 

 自分の名前。

 

 それだけは、はっきりと分かる。

 

 巧麟。

 

 呼ばれれば、自分のことだと分かる。

 

 そして。

 

 言葉も少しずつ覚えていった。

 

 水。

 

 草。

 

 山。

 

 空。

 

 風。

 

 鳥。

 

 獣。

 

 人。

 

 女怪。

 

 そして。

 

 麒麟。

 

 巧麟は、その言葉を何度も聞いた。

 

 自分を指して言われる言葉だった。

 

 麒麟。

 

 自分は麒麟なのだ。

 

 けれど、麒麟が何なのか。

 

 まだ、すべては分からない。

 

 女怪に尋ねようとして。

 

 巧麟は口を開いた。

 

「……」

 

 声が出る。

 

 けれど、人の言葉にはならない。

 

「どうしました?」

 

 女怪が顔を覗き込む。

 

 巧麟は困った。

 

 伝えたい。

 

 聞きたい。

 

 でも、どうすればいいのか分からない。

 

 仕方なく、女怪の袖を口でくわえた。

 

 女怪が驚く。

 

「まあ」

 

 巧麟は袖を引っ張った。

 

 こちらへ来てほしい。

 

 そう伝えたかった。

 

「何か見せたいのですか?」

 

 巧麟は頷くように首を動かした。

 

「分かりました」

 

 女怪がついてくる。

 

 巧麟は歩き出した。

 

 向かった先は、先ほどの場所だった。

 

 そこには、小さな獣がいた。

 

 女怪はそれを見る。

 

「この子ですか?」

 

 巧麟は頷いた。

 

 女怪は微笑んだ。

 

「仲良くなったのですね」

 

 巧麟は獣を見る。

 

 獣も巧麟を見る。

 

 以前よりも逃げなくなっていた。

 

 巧麟は嬉しかった。

 

 その日から。

 

 巧麟は、その獣を見つけると近くへ行くようになった。

 

 追いかけない。

 

 驚かせない。

 

 ただ、そばにいる。

 

 時々、鼻先で触れる。

 

 それだけ。

 

 それが巧麟にとっては、十分に楽しかった。

 

 そして女怪は、そんな巧麟を遠くから見守っていた。

 

 幼い麒麟は、少しずつ世界を覚えている。

 

 自分の身体を。

 

 自分の名前を。

 

 周囲にいる生き物を。

 

 そして、人の言葉を。

 

 まだ知らないことは多い。

 

 けれど。

 

 焦る必要はなかった。

 

 巧麟には、時間がある。

 

 長い時間が。

 

 その先に何が待っているのか。

 

 まだ、誰にも分からない。

 

 巧麟自身も知らない。

 

 ただ。

 

 今日も蓬山には風が吹いていた。

 

 金色のたてがみを風になびかせながら、巧麟は山道を歩いている。

 

 その隣には女怪がいる。

 

 少し離れた場所には、巧麟が気に入った小さな獣がいる。

 

 巧麟は時々振り返る。

 

 獣がついてきているのを確認すると、満足そうに前を向く。

 

 そんな日々が続いていく。

 

 まだ幼い。

 

 まだ何も知らない。

 

 けれど。

 

 この小さな麒麟の中には、一つの強い性質が育ち始めていた。

 

 生き物を知りたい。

 

 その姿を見たい。

 

 触れてみたい。

 

 そして。

 

 傷ついているものがいれば、放っておけない。

 

 それがいつか。

 

 巧麟を妖魔のいる場所へ向かわせることになる。

 

 けれど、それもまだ先の話。

 

 今はまだ。

 

 金色の仔は、蓬山の静かな日々の中で成長していた。

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