巧麟が生まれてから、三年が過ぎた。
蓬山の朝は静かだった。
雲海の上に朝日が昇り、山の端が淡い金色に染まっている。
その光の中を、一頭の麒麟が歩いていた。
まだ成獣ではない。
身体は幼さを残している。
けれど、生まれたばかりの頃とは比べものにならないほど大きくなった。
四本の脚には力がある。
首も伸びた。
角も少しずつ形を整えている。
そして何より。
金色のたてがみが、以前よりずっと長くなっていた。
風が吹く。
たてがみが揺れる。
陽の光を受けると、金色の毛並みが輝いた。
「巧麟」
後ろから声がする。
巧麟は振り返った。
「はい」
今度は、人の言葉で答えた。
女怪が微笑む。
「今日は随分早いですね」
「眠くなかったから」
「昨日は遅くまで起きていたでしょう」
「でも、眠くない」
「そうですか」
女怪は苦笑した。
巧麟は少し得意げに胸を張った。
最近の巧麟は、よく喋る。
覚えた言葉を使うことが楽しいのだ。
最初は単語だけだった。
水。
草。
山。
獣。
鳥。
それが少しずつ文章になった。
そして今では、簡単な会話なら困らない。
「今日はどこへ行くの?」
「どこへ行きたいのですか?」
「山の向こう」
「またですか?」
「うん」
女怪が困ったように笑う。
「昨日も行ったでしょう」
「昨日とは違う」
「何が違うのです?」
「匂いが違う」
女怪は少し黙った。
巧麟は鼻を動かした。
「今日は、雨の匂いがする」
女怪が空を見上げる。
雲は薄い。
雨が降るようには見えない。
「本当ですか?」
「うん」
巧麟は迷いなく答えた。
麒麟になってから、嗅覚が非常に鋭くなった。
人には分からないほど微かな匂いも分かる。
風の変化。
草木の変化。
生き物の気配。
そうしたものが、自然と身体へ入ってくる。
前世では、こんなことはできなかった。
日本で暮らしていた頃。
自分は普通の人間だった。
それなのに今は。
山の向こうにいる生き物の気配まで分かる。
不思議だった。
けれど。
もう、それを怖いとは思わなくなっていた。
自分は巧麟。
巧国の麒麟。
そう思うことのほうが自然になっていた。
「巧麟」
「なに?」
「麒麟とは何だと思いますか?」
突然の問いだった。
巧麟は首を傾げた。
「私」
女怪が笑った。
「そうですね」
「違うの?」
「それだけではありません」
巧麟は考えた。
麒麟。
自分を指す言葉。
けれど、それだけではない。
女怪が以前から何度も話してくれていた。
麒麟は王を補佐する。
麒麟は国に一頭しかいない。
麒麟は国と深く結びついている。
そして。
麒麟には、王を探す役目がある。
そこまで聞いて。
巧麟はいつも一つの疑問を抱いていた。
「王って、どんな人?」
女怪が少し考える。
「それは、巧麟がいつか出会う方です」
「いつ?」
「分かりません」
「どこにいるの?」
「それも分かりません」
「どうして分からないの?」
「それは――」
女怪は言葉を選んだ。
「天が決めることだからです」
巧麟は黙った。
天。
その言葉は知っている。
けれど。
それがどういうものなのかは、まだ理解できない。
「私が決めるんじゃないの?」
「違います」
女怪は静かに答えた。
「巧麟が好きな人を王にするわけではありません」
「……そうなんだ」
「はい」
「じゃあ、どうやって分かるの?」
「それは、巧麟が成長してからです」
女怪はそれ以上説明しなかった。
巧麟も、それ以上聞かなかった。
今はまだ。
王という存在が遠すぎる。
それよりも。
「ねえ」
「何でしょう?」
「あっちに行っていい?」
「どこですか?」
「獣のいるところ」
女怪は笑った。
「またですか」
「うん」
巧麟はすでに歩き出していた。
その先には、森がある。
蓬山に暮らす様々な獣たちがいる場所だった。
巧麟は獣を見るのが好きだった。
ただ見るだけではない。
その動きを観察する。
鳴き声を聞く。
匂いを覚える。
そして。
可能なら触る。
特に毛の長い獣を見つけると、巧麟は露骨に機嫌がよくなった。
以前、女怪が言ったことがある。
「巧麟は本当に毛のあるものが好きですね」
巧麟は胸を張って答えた。
「ふわふわは正義」
「……何ですか、それは」
女怪には意味が分からなかった。
巧麟自身にも、なぜそんな言葉が出てきたのか分からなかった。
ただ。
前世の記憶から出てきた言葉だった。
日本で覚えた言葉。
もう何年も使っていない言葉。
それでも残っていた。
「ふわふわって?」
「柔らかい毛」
「それが好きなのですか?」
「大好き」
即答だった。
女怪は笑った。
「では、今日はどんな獣を見つけるのでしょうね」
森へ入る。
しばらく進むと、茂みの向こうから音がした。
巧麟が立ち止まる。
「いる」
「何が?」
「分からない」
耳を立てる。
音がする。
小さい。
だが。
妙だった。
普通の獣とは少し違う。
巧麟は慎重に近づいた。
茂みの向こうに、小さな獣がいた。
身体を丸めている。
怪我をしていた。
脚から血が出ている。
巧麟の表情が変わった。
「怪我してる」
女怪も近づく。
「本当ですね」
「どうしたの?」
「分かりません」
巧麟は獣を見つめた。
怯えている。
近づけば逃げようとする。
それでも。
巧麟はゆっくりと伏せた。
「怖くないよ」
獣がこちらを見る。
「何もしない」
少しずつ近づく。
獣は逃げない。
巧麟は鼻先をそっと傷口へ近づけた。
血の匂いがする。
その匂いの中に。
別のものを感じた。
「……これ」
「どうしました?」
「この傷、変」
女怪が眉を寄せた。
「何がです?」
「獣に噛まれたんじゃない」
巧麟は傷を見つめた。
「何か別のもの」
女怪の顔から、笑みが消えた。
巧麟は気づいていなかった。
森の奥。
木々の間。
そこに何かが潜んでいる。
巧麟には、その気配が分かっていた。
獣とは違う。
鳥でもない。
人でもない。
生き物ではある。
けれど。
どこか、異質だった。
「巧麟」
女怪が低い声で呼ぶ。
「ここから離れましょう」
「でも、この子が」
「この子は私が治します」
巧麟は獣を見る。
それから森の奥を見る。
「……何かいる」
「ええ」
「怖い?」
女怪は答えなかった。
巧麟は初めて。
自分の中に、今まで感じたことのない感覚が生まれていることに気づいた。
怖い。
けれど。
それだけではない。
知りたい。
あの気配が何なのか。
なぜ、この獣を傷つけたのか。
何が森の奥にいるのか。
巧麟は一歩、前へ出た。
「巧麟」
女怪が呼ぶ。
「行きませんよ」
「……うん」
巧麟は素直に頷いた。
まだ幼い。
自分の力も知らない。
だから、今は行かない。
けれど。
森の奥にいる何かを、忘れることはなかった。
その日の夕方。
雨が降った。
朝、巧麟が感じ取った通りだった。
女怪は軒先から雨を眺めながら、隣にいる巧麟を見た。
「よく分かりましたね」
「匂いがしたから」
「麒麟というのは、そういうものなのですか?」
「分からない」
巧麟は雨を見つめた。
自分自身についても、まだ知らないことが多い。
麒麟とは何なのか。
自分には何ができるのか。
何のために生まれたのか。
分からない。
けれど。
一つずつ覚えていけばいい。
急ぐ必要はない。
巧麟はそう思った。
そして。
自分の金色のたてがみを見た。
雨の日は少し湿っている。
「ねえ」
「はい」
「乾かして」
女怪が笑った。
「自分でできますでしょう」
「やって」
「仕方ありませんね」
女怪が布を持ってくる。
金色の毛を丁寧に拭いていく。
巧麟は気持ちよさそうに目を閉じた。
「……やっぱり、ふわふわはいい」
「また言っていますね」
「大事だから」
「そうですか」
女怪は笑った。
こうして。
巧麟の日々は過ぎていく。
まだ王はいない。
まだ旅にも出ない。
まだ妖魔と戦うこともない。
ただ。
小さな麒麟は、少しずつ成長していた。
世界を知り。
言葉を覚え。
生き物を知り。
そして。
自分自身を知ろうとしていた。
やがて、この小さな好奇心が。
巧麟を妖魔の世界へ導くことになる。
その頃には。
巧麟はもう、ただ守られているだけの幼い麒麟ではなくなっている。
けれど。
それは、まだ少し先の話だった。