巧麟が生まれてから、五年が過ぎた。
五年。
人にとっては、まだ幼い年齢だ。
けれど麒麟にとっての五年は、身体も心も大きく変わる時間だった。
巧麟は、もう小さな仔ではない。
身体はすっかり大きくなり、四本の脚には力がある。
金色の毛並みは陽を受けるたびに輝き、首筋から伸びるたてがみも長くなった。
歩く姿には、以前のような幼さが少なくなっている。
それでも。
性格だけは、まだまだ子供だった。
「巧麟」
「なに?」
「そこから降りてください」
「嫌」
「どうしてですか」
「ここが一番高いから」
巧麟は岩の上に立っていた。
眼下には、蓬山の森が広がっている。
女怪は岩の下から巧麟を見上げ、ため息をついた。
「危ないですよ」
「落ちないよ」
「そういう問題ではありません」
「じゃあ、どういう問題?」
「……」
女怪は言葉に詰まった。
巧麟は笑った。
最近、こういうやり取りが増えている。
自分が成長していることを、巧麟自身も分かっていた。
身体が大きくなった。
走る速度も速くなった。
脚も強くなった。
鼻も耳も、さらに鋭くなった。
そして。
何より、知りたいことが増えていた。
蓬山には多くの生き物がいる。
鳥。
獣。
妖獣。
そして。
妖魔。
巧麟は、その言葉を最近になって覚えた。
妖魔。
それは、普通の獣とは違う。
人や獣を襲うものもいる。
人の暮らしを脅かすものもいる。
姿も様々。
小さなものから、大きなものまでいる。
巧麟は、それを知ってから。
以前より森を注意深く見るようになった。
「ねえ」
「はい?」
「妖魔って、どんなもの?」
女怪の顔が少し変わった。
「どうして急に?」
「知りたい」
「妖魔にも色々あります」
「どんなの?」
「人に害をなすものもいれば、そうでないものもいます」
「じゃあ、全部悪いわけじゃない?」
「そういうわけではありません」
巧麟は考えた。
それは、前世の世界にいた動物と同じなのかもしれない。
動物は、人を襲うことがある。
けれど。
だからといって、すべての動物が悪いわけではない。
生きるために行動しているだけのものもいる。
「じゃあ、妖魔も生きてる?」
「ええ」
「なら、どうして退治するの?」
女怪はしばらく黙った。
「人を傷つけるからです」
「……」
「人を襲う妖魔を放っておけば、人が死にます」
「それなら」
巧麟は森を見る。
「止めないといけないね」
女怪は頷いた。
「そうですね」
それだけだった。
女怪は巧麟を止めなかった。
妖魔に興味を持つことを咎めることもしなかった。
ただ。
まだ幼い巧麟に、必要なことを教えた。
「妖魔を見つけたからといって、すぐに近づいてはいけません」
「どうして?」
「強さが分からないからです」
「私より強い?」
「ずっと強いものもいます」
「……そうなんだ」
「だから、まず見ることです」
巧麟は頷いた。
「見る」
「ええ」
「近づかない」
「そうです」
「分からなかったら?」
「私を呼んでください」
「うん」
巧麟は素直に答えた。
その日の午後。
巧麟は森へ入った。
もちろん、女怪も一緒だった。
少し歩くと。
巧麟が立ち止まった。
「……いる」
「何がです?」
「前にいたやつ」
五年前。
まだ幼かった頃に感じた、森の奥の異質な気配。
あのときは、姿を見ることができなかった。
今は違う。
巧麟の感覚は、あの頃よりずっと鋭くなっている。
耳を澄ます。
風の音。
葉の音。
鳥の鳴き声。
その中に。
混じっている。
何かがいる。
「こっち」
巧麟が歩き出す。
女怪は黙って後ろをついてくる。
しばらく進むと。
木の根元に、奇妙な傷跡があった。
樹皮が大きく削られている。
「これは?」
「爪でしょう」
「妖魔?」
「まだ分かりません」
巧麟は鼻を近づける。
匂いが残っている。
獣に似ている。
けれど違う。
「……変な匂い」
「分かりますか?」
「うん」
巧麟は周囲を見た。
地面。
木。
草。
そして。
少し離れた場所に、獣の死骸があった。
巧麟は歩み寄った。
脚を止める。
身体には傷がある。
けれど。
それだけではなかった。
血の匂い。
土の匂い。
そして。
妖魔の匂い。
「この子……」
巧麟は小さく呟いた。
「殺された」
女怪が頷く。
「そうでしょうね」
巧麟は黙った。
胸の奥が重くなる。
動物が好きだった。
前の世界でも。
今の世界でも。
だからこそ。
目の前の死骸を見ているのが辛かった。
「どうして?」
「分かりません」
「食べるため?」
「それもあるでしょう」
「じゃあ、仕方ないの?」
女怪は答えなかった。
巧麟は死骸を見る。
生きるために殺す。
それなら、前世でもあった。
動物は他の動物を食べる。
それ自体を悪いとは思わない。
けれど。
これは違う。
何かがおかしい。
巧麟は鼻を動かした。
「まだいる」
女怪の表情が変わる。
「分かりますか?」
「うん」
森の奥。
今度は、はっきりと気配がある。
木々の向こう。
何かがこちらを見ている。
巧麟は目を細めた。
姿は見えない。
けれど。
いる。
確かに。
「巧麟」
「分かってる」
「無理はしないでください」
「うん」
巧麟は一歩前へ出た。
その瞬間。
森の奥から、低い唸り声が響いた。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
木々が揺れる。
巧麟は身構えた。
恐怖はある。
けれど。
それ以上に、知りたいという気持ちがあった。
何なのか。
どんな姿なのか。
なぜ獣を殺したのか。
そして。
もし人を襲うものなら。
どうすれば止められるのか。
そのとき。
茂みが大きく揺れた。
黒い影が一瞬だけ見えた。
大きい。
四足。
しかし獣とは違う。
目が異様に赤い。
巧麟は息を呑んだ。
妖魔。
初めて見る、本物の妖魔だった。
次の瞬間。
影が消えた。
「逃げた?」
巧麟が言う。
「いいえ」
女怪が答える。
「隠れたのでしょう」
巧麟は森を見る。
姿は見えない。
けれど、気配は消えていない。
少しずつ。
遠ざかっている。
「追う?」
「いいえ」
女怪は首を振った。
「今日はここまでです」
「でも――」
「巧麟」
女怪は穏やかな声で言った。
「今の巧麟では、あれを調伏する必要はありません」
「……」
「知ることも大切です」
巧麟は黙っていた。
悔しかった。
自分ならできると思っていたわけではない。
ただ。
何もできなかったことが悔しかった。
女怪は巧麟の顔を見た。
「焦らなくてもいいのです」
「……うん」
「強くなるには、時間がかかります」
巧麟は森の奥を見る。
妖魔の気配は、もう遠くなっていた。
その日。
巧麟は初めて、妖魔というものを自分の目で見た。
恐ろしかった。
けれど。
それだけではなかった。
知りたい。
もっと。
妖魔について知りたい。
どんな種類がいるのか。
何を食べるのか。
なぜ人を襲うのか。
どんな力を持っているのか。
どうすれば倒せるのか。
どうすれば――
人を守れるのか。
その思いは、まだ小さなものだった。
けれど。
確かに、巧麟の中に芽生えた。
やがてそれは。
麒麟としての力とともに、大きくなっていく。
その日の夜。
女怪が巧麟のたてがみを梳いていた。
「今日は怖かったですか?」
「……少し」
「そうでしょうね」
「でも」
「はい」
「また見たい」
女怪の手が止まった。
「妖魔を?」
「うん」
「なぜ?」
巧麟はしばらく考えた。
「知らないから」
それから。
「知らないものは、知りたい」
女怪は何も言わなかった。
ただ。
再び、金色のたてがみをゆっくりと梳いた。
「では、学びましょう」
「うん」
「焦らずに」
「うん」
「いつか必要になったときのために」
巧麟は目を閉じた。
女怪の手が心地いい。
金色のたてがみが指の間を滑っていく。
「……ふわふわ」
「まだ言いますか」
「大事だから」
女怪が小さく笑った。
その夜。
巧麟は眠りについた。
夢の中で。
前の世界の動物たちを思い出した。
そして。
この世界で出会った獣たちを思った。
いつか。
自分が強くなったなら。
傷つけられる生き物を、守れるようになりたい。
それが。
幼い巧麟が初めて自分自身で抱いた願いだった。