巧国記   作:これは面白いのか

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4話

巧麟が生まれてから、五年が過ぎた。

 

 五年。

 

 人にとっては、まだ幼い年齢だ。

 

 けれど麒麟にとっての五年は、身体も心も大きく変わる時間だった。

 

 巧麟は、もう小さな仔ではない。

 

 身体はすっかり大きくなり、四本の脚には力がある。

 

 金色の毛並みは陽を受けるたびに輝き、首筋から伸びるたてがみも長くなった。

 

 歩く姿には、以前のような幼さが少なくなっている。

 

 それでも。

 

 性格だけは、まだまだ子供だった。

 

「巧麟」

 

「なに?」

 

「そこから降りてください」

 

「嫌」

 

「どうしてですか」

 

「ここが一番高いから」

 

 巧麟は岩の上に立っていた。

 

 眼下には、蓬山の森が広がっている。

 

 女怪は岩の下から巧麟を見上げ、ため息をついた。

 

「危ないですよ」

 

「落ちないよ」

 

「そういう問題ではありません」

 

「じゃあ、どういう問題?」

 

「……」

 

 女怪は言葉に詰まった。

 

 巧麟は笑った。

 

 最近、こういうやり取りが増えている。

 

 自分が成長していることを、巧麟自身も分かっていた。

 

 身体が大きくなった。

 

 走る速度も速くなった。

 

 脚も強くなった。

 

 鼻も耳も、さらに鋭くなった。

 

 そして。

 

 何より、知りたいことが増えていた。

 

 蓬山には多くの生き物がいる。

 

 鳥。

 

 獣。

 

 妖獣。

 

 そして。

 

 妖魔。

 

 巧麟は、その言葉を最近になって覚えた。

 

 妖魔。

 

 それは、普通の獣とは違う。

 

 人や獣を襲うものもいる。

 

 人の暮らしを脅かすものもいる。

 

 姿も様々。

 

 小さなものから、大きなものまでいる。

 

 巧麟は、それを知ってから。

 

 以前より森を注意深く見るようになった。

 

「ねえ」

 

「はい?」

 

「妖魔って、どんなもの?」

 

 女怪の顔が少し変わった。

 

「どうして急に?」

 

「知りたい」

 

「妖魔にも色々あります」

 

「どんなの?」

 

「人に害をなすものもいれば、そうでないものもいます」

 

「じゃあ、全部悪いわけじゃない?」

 

「そういうわけではありません」

 

 巧麟は考えた。

 

 それは、前世の世界にいた動物と同じなのかもしれない。

 

 動物は、人を襲うことがある。

 

 けれど。

 

 だからといって、すべての動物が悪いわけではない。

 

 生きるために行動しているだけのものもいる。

 

「じゃあ、妖魔も生きてる?」

 

「ええ」

 

「なら、どうして退治するの?」

 

 女怪はしばらく黙った。

 

「人を傷つけるからです」

 

「……」

 

「人を襲う妖魔を放っておけば、人が死にます」

 

「それなら」

 

 巧麟は森を見る。

 

「止めないといけないね」

 

 女怪は頷いた。

 

「そうですね」

 

 それだけだった。

 

 女怪は巧麟を止めなかった。

 

 妖魔に興味を持つことを咎めることもしなかった。

 

 ただ。

 

 まだ幼い巧麟に、必要なことを教えた。

 

「妖魔を見つけたからといって、すぐに近づいてはいけません」

 

「どうして?」

 

「強さが分からないからです」

 

「私より強い?」

 

「ずっと強いものもいます」

 

「……そうなんだ」

 

「だから、まず見ることです」

 

 巧麟は頷いた。

 

「見る」

 

「ええ」

 

「近づかない」

 

「そうです」

 

「分からなかったら?」

 

「私を呼んでください」

 

「うん」

 

 巧麟は素直に答えた。

 

 その日の午後。

 

 巧麟は森へ入った。

 

 もちろん、女怪も一緒だった。

 

 少し歩くと。

 

 巧麟が立ち止まった。

 

「……いる」

 

「何がです?」

 

「前にいたやつ」

 

 五年前。

 

 まだ幼かった頃に感じた、森の奥の異質な気配。

 

 あのときは、姿を見ることができなかった。

 

 今は違う。

 

 巧麟の感覚は、あの頃よりずっと鋭くなっている。

 

 耳を澄ます。

 

 風の音。

 

 葉の音。

 

 鳥の鳴き声。

 

 その中に。

 

 混じっている。

 

 何かがいる。

 

「こっち」

 

 巧麟が歩き出す。

 

 女怪は黙って後ろをついてくる。

 

 しばらく進むと。

 

 木の根元に、奇妙な傷跡があった。

 

 樹皮が大きく削られている。

 

「これは?」

 

「爪でしょう」

 

「妖魔?」

 

「まだ分かりません」

 

 巧麟は鼻を近づける。

 

 匂いが残っている。

 

 獣に似ている。

 

 けれど違う。

 

「……変な匂い」

 

「分かりますか?」

 

「うん」

 

 巧麟は周囲を見た。

 

 地面。

 

 木。

 

 草。

 

 そして。

 

 少し離れた場所に、獣の死骸があった。

 

 巧麟は歩み寄った。

 

 脚を止める。

 

 身体には傷がある。

 

 けれど。

 

 それだけではなかった。

 

 血の匂い。

 

 土の匂い。

 

 そして。

 

 妖魔の匂い。

 

「この子……」

 

 巧麟は小さく呟いた。

 

「殺された」

 

 女怪が頷く。

 

「そうでしょうね」

 

 巧麟は黙った。

 

 胸の奥が重くなる。

 

 動物が好きだった。

 

 前の世界でも。

 

 今の世界でも。

 

 だからこそ。

 

 目の前の死骸を見ているのが辛かった。

 

「どうして?」

 

「分かりません」

 

「食べるため?」

 

「それもあるでしょう」

 

「じゃあ、仕方ないの?」

 

 女怪は答えなかった。

 

 巧麟は死骸を見る。

 

 生きるために殺す。

 

 それなら、前世でもあった。

 

 動物は他の動物を食べる。

 

 それ自体を悪いとは思わない。

 

 けれど。

 

 これは違う。

 

 何かがおかしい。

 

 巧麟は鼻を動かした。

 

「まだいる」

 

 女怪の表情が変わる。

 

「分かりますか?」

 

「うん」

 

 森の奥。

 

 今度は、はっきりと気配がある。

 

 木々の向こう。

 

 何かがこちらを見ている。

 

 巧麟は目を細めた。

 

 姿は見えない。

 

 けれど。

 

 いる。

 

 確かに。

 

「巧麟」

 

「分かってる」

 

「無理はしないでください」

 

「うん」

 

 巧麟は一歩前へ出た。

 

 その瞬間。

 

 森の奥から、低い唸り声が響いた。

 

 鳥たちが一斉に飛び立つ。

 

 木々が揺れる。

 

 巧麟は身構えた。

 

 恐怖はある。

 

 けれど。

 

 それ以上に、知りたいという気持ちがあった。

 

 何なのか。

 

 どんな姿なのか。

 

 なぜ獣を殺したのか。

 

 そして。

 

 もし人を襲うものなら。

 

 どうすれば止められるのか。

 

 そのとき。

 

 茂みが大きく揺れた。

 

 黒い影が一瞬だけ見えた。

 

 大きい。

 

 四足。

 

 しかし獣とは違う。

 

 目が異様に赤い。

 

 巧麟は息を呑んだ。

 

 妖魔。

 

 初めて見る、本物の妖魔だった。

 

 次の瞬間。

 

 影が消えた。

 

「逃げた?」

 

 巧麟が言う。

 

「いいえ」

 

 女怪が答える。

 

「隠れたのでしょう」

 

 巧麟は森を見る。

 

 姿は見えない。

 

 けれど、気配は消えていない。

 

 少しずつ。

 

 遠ざかっている。

 

「追う?」

 

「いいえ」

 

 女怪は首を振った。

 

「今日はここまでです」

 

「でも――」

 

「巧麟」

 

 女怪は穏やかな声で言った。

 

「今の巧麟では、あれを調伏する必要はありません」

 

「……」

 

「知ることも大切です」

 

 巧麟は黙っていた。

 

 悔しかった。

 

 自分ならできると思っていたわけではない。

 

 ただ。

 

 何もできなかったことが悔しかった。

 

 女怪は巧麟の顔を見た。

 

「焦らなくてもいいのです」

 

「……うん」

 

「強くなるには、時間がかかります」

 

 巧麟は森の奥を見る。

 

 妖魔の気配は、もう遠くなっていた。

 

 その日。

 

 巧麟は初めて、妖魔というものを自分の目で見た。

 

 恐ろしかった。

 

 けれど。

 

 それだけではなかった。

 

 知りたい。

 

 もっと。

 

 妖魔について知りたい。

 

 どんな種類がいるのか。

 

 何を食べるのか。

 

 なぜ人を襲うのか。

 

 どんな力を持っているのか。

 

 どうすれば倒せるのか。

 

 どうすれば――

 

 人を守れるのか。

 

 その思いは、まだ小さなものだった。

 

 けれど。

 

 確かに、巧麟の中に芽生えた。

 

 やがてそれは。

 

 麒麟としての力とともに、大きくなっていく。

 

 その日の夜。

 

 女怪が巧麟のたてがみを梳いていた。

 

「今日は怖かったですか?」

 

「……少し」

 

「そうでしょうね」

 

「でも」

 

「はい」

 

「また見たい」

 

 女怪の手が止まった。

 

「妖魔を?」

 

「うん」

 

「なぜ?」

 

 巧麟はしばらく考えた。

 

「知らないから」

 

 それから。

 

「知らないものは、知りたい」

 

 女怪は何も言わなかった。

 

 ただ。

 

 再び、金色のたてがみをゆっくりと梳いた。

 

「では、学びましょう」

 

「うん」

 

「焦らずに」

 

「うん」

 

「いつか必要になったときのために」

 

 巧麟は目を閉じた。

 

 女怪の手が心地いい。

 

 金色のたてがみが指の間を滑っていく。

 

「……ふわふわ」

 

「まだ言いますか」

 

「大事だから」

 

 女怪が小さく笑った。

 

 その夜。

 

 巧麟は眠りについた。

 

 夢の中で。

 

 前の世界の動物たちを思い出した。

 

 そして。

 

 この世界で出会った獣たちを思った。

 

 いつか。

 

 自分が強くなったなら。

 

 傷つけられる生き物を、守れるようになりたい。

 

 それが。

 

 幼い巧麟が初めて自分自身で抱いた願いだった。

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