巧麟が生まれてから、七年が過ぎた。
七年という歳月は、幼かった麒麟を大きく変えていた。
身体はさらに伸びた。
脚は長くなり、蹄は強くなった。
金色の毛並みは艶を増し、首筋から流れるたてがみは風を受けるたびに大きく揺れる。
それでも。
成獣には、まだ遠い。
巧麟自身も、それを感じていた。
身体の奥には、まだ眠っている力がある。
それが何なのか。
どうすれば使えるのか。
今はまだ分からない。
だからこそ。
巧麟は学んでいた。
毎日のように。
女怪から、この世界のことを聞いた。
国について。
人について。
獣について。
妖獣について。
そして。
妖魔について。
「これは何?」
巧麟が一枚の絵を覗き込む。
紙には、奇妙な姿をした生き物が描かれていた。
「妖魔です」
「名前は?」
「まだ覚えていないのですか?」
「似たようなのが多いから」
女怪が苦笑する。
「では、もう一度」
巧麟は真剣な顔で絵を見る。
「これは、人の姿に近い妖魔です。人の声を真似ることがあります」
「声を?」
「ええ」
「人を呼ぶ?」
「そうです」
「じゃあ、声だけ聞いて人だと思ったら危ないね」
「その通りです」
巧麟は頷いた。
最近では、こうしたやり取りが増えている。
巧麟は妖魔について学ぶことを嫌がらなかった。
むしろ。
知れば知るほど、興味が湧いた。
ただし。
興味本位で近づくことはなくなった。
以前、森で妖魔を見たとき。
自分の力が足りないことを知ったからだ。
あのとき感じた恐怖を、巧麟は忘れていない。
だからこそ。
強くなりたいと思った。
「調伏って、どうやるの?」
女怪に尋ねる。
「それは、まだ教えられません」
「どうして?」
「今の巧麟には必要ないからです」
「でも、いつか必要になるかもしれない」
「ええ」
女怪は頷いた。
「そのときのために、今は知識を身につけてください」
巧麟は少し不満そうにした。
「知識だけ?」
「知識は大切ですよ」
「戦うほうが分かりやすい」
「そう思うのは、まだ子供だからです」
巧麟は黙った。
「戦うことより、戦わずに済ませることのほうが大切な場合もあります」
「……分かった」
そう言いながらも。
巧麟は納得しきれていなかった。
そんなある日のことだった。
蓬山の奥で、異変が起きた。
最初に気づいたのは巧麟だった。
朝。
いつもの場所へ行くと。
鳥の声がしなかった。
いつもなら、森のあちこちから鳴き声が聞こえる。
獣の足音もする。
風が木々を揺らす。
それが。
妙に静かだった。
「……おかしい」
巧麟が立ち止まる。
女怪が振り返る。
「何がです?」
「静か」
「そうですね」
「昨日は、こんなじゃなかった」
巧麟は耳を澄ました。
何も聞こえない。
けれど。
匂いはある。
微かな異臭。
血の匂い。
そして。
妖魔の気配。
「いる」
巧麟が言った。
女怪の表情が変わる。
「どこです?」
「あっち」
巧麟が森の奥を見る。
「かなり近い」
女怪は周囲を確認した。
「戻りましょう」
「でも」
「巧麟」
「分かってる」
巧麟は一度、目を閉じた。
匂いを探る。
気配を読む。
以前よりも、ずっと分かる。
妖魔がいる。
しかも。
動いている。
「……こっちに来てる」
女怪が巧麟の前へ出る。
「下がってください」
巧麟は頷いた。
森の奥から。
枝を折る音がした。
ぱき。
また一つ。
ぱき。
近づいてくる。
巧麟の身体が強張った。
木々の間から。
黒い影が現れた。
以前見たものとは違う。
身体は大きくない。
四足でもない。
細長い身体をしている。
顔だけが異様に大きい。
目が赤い。
こちらを見ている。
巧麟は息を呑んだ。
女怪が静かに言う。
「下がって」
巧麟は一歩下がった。
妖魔が動いた。
速い。
女怪が前へ出る。
次の瞬間。
妖魔の姿が弾かれた。
何かがぶつかったような音が森に響く。
妖魔が地面を転がる。
巧麟は目を見開いた。
女怪が妖魔へ向かっていく。
動きに無駄がない。
妖魔は起き上がろうとした。
しかし。
再び押さえ込まれる。
巧麟は動けなかった。
ただ見ていた。
怖い。
けれど。
目を逸らさなかった。
妖魔は暴れている。
それでも女怪は冷静だった。
やがて。
妖魔の動きが止まった。
静寂が戻る。
巧麟は恐る恐る近づいた。
「終わった?」
「ええ」
「これが……調伏?」
「そうです」
巧麟は妖魔を見る。
近くで見ると。
思っていたより小さい。
それなのに。
さっきは恐ろしいほど強く感じた。
「どうして、ここにいたの?」
「分かりません」
「この子も生きてる?」
「ええ」
女怪は答えた。
「妖魔も、生き物です」
巧麟は黙った。
妖魔を見つめる。
怖い。
でも。
先ほどの獣の死骸を見たときとは、少し違う。
これは。
自分たちを襲おうとした。
だから止めた。
それだけだ。
「……難しいね」
巧麟が言った。
「何がです?」
「生き物だから、殺したくない」
女怪は黙っている。
「でも、人を襲うなら止めないといけない」
「そうですね」
「じゃあ」
巧麟は妖魔を見た。
「どうすればいいの?」
女怪は巧麟を見る。
「それを学ぶのです」
巧麟は頷いた。
その日から。
巧麟の学び方が変わった。
以前は、ただ妖魔の名前を覚えていた。
今は違う。
生態を知ろうとした。
どこに棲むのか。
何を食べるのか。
どんな気配を持つのか。
どんな傷を負わせるのか。
どうすれば避けられるのか。
そして。
どうすれば調伏できるのか。
女怪も、巧麟が求めることを拒まなかった。
ただ。
今すぐ戦わせようとはしなかった。
「まずは見抜くことです」
「見抜く?」
「妖魔なのか、普通の獣なのか」
「うん」
「敵なのか、そうでないのか」
「うん」
「危険なのか、そうでないのか」
巧麟は何度も頷いた。
強さだけでは足りない。
知識だけでも足りない。
見ること。
考えること。
そして。
必要なときに動くこと。
それを、少しずつ覚えていく。
その日の夕方。
巧麟はいつもの場所で、獣たちを眺めていた。
一匹の小さな獣が近づいてくる。
巧麟はしゃがみ込んだ。
「おいで」
獣が鼻先を近づける。
巧麟は笑った。
「今日は逃げないね」
そっと頭を撫でる。
柔らかな毛。
温かな身体。
巧麟は嬉しそうに目を細めた。
女怪が少し離れたところから、その様子を見ていた。
「巧麟」
「なに?」
「妖魔だけではなく、普通の獣のことも好きなのですね」
「うん」
「どうして?」
巧麟は獣の毛を撫でながら考えた。
「生きてるから」
それだけだった。
女怪は何も言わなかった。
ただ。
その言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
巧麟はまだ知らない。
この先。
自分が何度も妖魔と出会うことを。
その中には。
人を傷つけるものも。
人に利用されるものも。
ただ生きているだけのものもいることを。
そして。
自分自身が、その境界を見極めなければならなくなることを。
今はまだ。
七歳の巧麟には分からない。
ただ一つ。
幼い麒麟の中で。
確かなものが育ち始めていた。
強くなりたい。
知りたい。
そして。
守れるものなら、守りたい。
それが。
いつの日か巧麟自身の手で妖魔を調伏するための、最初の一歩となった。