巧国記   作:これは面白いのか

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5話

巧麟が生まれてから、七年が過ぎた。

 

 七年という歳月は、幼かった麒麟を大きく変えていた。

 

 身体はさらに伸びた。

 

 脚は長くなり、蹄は強くなった。

 

 金色の毛並みは艶を増し、首筋から流れるたてがみは風を受けるたびに大きく揺れる。

 

 それでも。

 

 成獣には、まだ遠い。

 

 巧麟自身も、それを感じていた。

 

 身体の奥には、まだ眠っている力がある。

 

 それが何なのか。

 

 どうすれば使えるのか。

 

 今はまだ分からない。

 

 だからこそ。

 

 巧麟は学んでいた。

 

 毎日のように。

 

 女怪から、この世界のことを聞いた。

 

 国について。

 

 人について。

 

 獣について。

 

 妖獣について。

 

 そして。

 

 妖魔について。

 

「これは何?」

 

 巧麟が一枚の絵を覗き込む。

 

 紙には、奇妙な姿をした生き物が描かれていた。

 

「妖魔です」

 

「名前は?」

 

「まだ覚えていないのですか?」

 

「似たようなのが多いから」

 

 女怪が苦笑する。

 

「では、もう一度」

 

 巧麟は真剣な顔で絵を見る。

 

「これは、人の姿に近い妖魔です。人の声を真似ることがあります」

 

「声を?」

 

「ええ」

 

「人を呼ぶ?」

 

「そうです」

 

「じゃあ、声だけ聞いて人だと思ったら危ないね」

 

「その通りです」

 

 巧麟は頷いた。

 

 最近では、こうしたやり取りが増えている。

 

 巧麟は妖魔について学ぶことを嫌がらなかった。

 

 むしろ。

 

 知れば知るほど、興味が湧いた。

 

 ただし。

 

 興味本位で近づくことはなくなった。

 

 以前、森で妖魔を見たとき。

 

 自分の力が足りないことを知ったからだ。

 

 あのとき感じた恐怖を、巧麟は忘れていない。

 

 だからこそ。

 

 強くなりたいと思った。

 

「調伏って、どうやるの?」

 

 女怪に尋ねる。

 

「それは、まだ教えられません」

 

「どうして?」

 

「今の巧麟には必要ないからです」

 

「でも、いつか必要になるかもしれない」

 

「ええ」

 

 女怪は頷いた。

 

「そのときのために、今は知識を身につけてください」

 

 巧麟は少し不満そうにした。

 

「知識だけ?」

 

「知識は大切ですよ」

 

「戦うほうが分かりやすい」

 

「そう思うのは、まだ子供だからです」

 

 巧麟は黙った。

 

「戦うことより、戦わずに済ませることのほうが大切な場合もあります」

 

「……分かった」

 

 そう言いながらも。

 

 巧麟は納得しきれていなかった。

 

 そんなある日のことだった。

 

 蓬山の奥で、異変が起きた。

 

 最初に気づいたのは巧麟だった。

 

 朝。

 

 いつもの場所へ行くと。

 

 鳥の声がしなかった。

 

 いつもなら、森のあちこちから鳴き声が聞こえる。

 

 獣の足音もする。

 

 風が木々を揺らす。

 

 それが。

 

 妙に静かだった。

 

「……おかしい」

 

 巧麟が立ち止まる。

 

 女怪が振り返る。

 

「何がです?」

 

「静か」

 

「そうですね」

 

「昨日は、こんなじゃなかった」

 

 巧麟は耳を澄ました。

 

 何も聞こえない。

 

 けれど。

 

 匂いはある。

 

 微かな異臭。

 

 血の匂い。

 

 そして。

 

 妖魔の気配。

 

「いる」

 

 巧麟が言った。

 

 女怪の表情が変わる。

 

「どこです?」

 

「あっち」

 

 巧麟が森の奥を見る。

 

「かなり近い」

 

 女怪は周囲を確認した。

 

「戻りましょう」

 

「でも」

 

「巧麟」

 

「分かってる」

 

 巧麟は一度、目を閉じた。

 

 匂いを探る。

 

 気配を読む。

 

 以前よりも、ずっと分かる。

 

 妖魔がいる。

 

 しかも。

 

 動いている。

 

「……こっちに来てる」

 

 女怪が巧麟の前へ出る。

 

「下がってください」

 

 巧麟は頷いた。

 

 森の奥から。

 

 枝を折る音がした。

 

 ぱき。

 

 また一つ。

 

 ぱき。

 

 近づいてくる。

 

 巧麟の身体が強張った。

 

 木々の間から。

 

 黒い影が現れた。

 

 以前見たものとは違う。

 

 身体は大きくない。

 

 四足でもない。

 

 細長い身体をしている。

 

 顔だけが異様に大きい。

 

 目が赤い。

 

 こちらを見ている。

 

 巧麟は息を呑んだ。

 

 女怪が静かに言う。

 

「下がって」

 

 巧麟は一歩下がった。

 

 妖魔が動いた。

 

 速い。

 

 女怪が前へ出る。

 

 次の瞬間。

 

 妖魔の姿が弾かれた。

 

 何かがぶつかったような音が森に響く。

 

 妖魔が地面を転がる。

 

 巧麟は目を見開いた。

 

 女怪が妖魔へ向かっていく。

 

 動きに無駄がない。

 

 妖魔は起き上がろうとした。

 

 しかし。

 

 再び押さえ込まれる。

 

 巧麟は動けなかった。

 

 ただ見ていた。

 

 怖い。

 

 けれど。

 

 目を逸らさなかった。

 

 妖魔は暴れている。

 

 それでも女怪は冷静だった。

 

 やがて。

 

 妖魔の動きが止まった。

 

 静寂が戻る。

 

 巧麟は恐る恐る近づいた。

 

「終わった?」

 

「ええ」

 

「これが……調伏?」

 

「そうです」

 

 巧麟は妖魔を見る。

 

 近くで見ると。

 

 思っていたより小さい。

 

 それなのに。

 

 さっきは恐ろしいほど強く感じた。

 

「どうして、ここにいたの?」

 

「分かりません」

 

「この子も生きてる?」

 

「ええ」

 

 女怪は答えた。

 

「妖魔も、生き物です」

 

 巧麟は黙った。

 

 妖魔を見つめる。

 

 怖い。

 

 でも。

 

 先ほどの獣の死骸を見たときとは、少し違う。

 

 これは。

 

 自分たちを襲おうとした。

 

 だから止めた。

 

 それだけだ。

 

「……難しいね」

 

 巧麟が言った。

 

「何がです?」

 

「生き物だから、殺したくない」

 

 女怪は黙っている。

 

「でも、人を襲うなら止めないといけない」

 

「そうですね」

 

「じゃあ」

 

 巧麟は妖魔を見た。

 

「どうすればいいの?」

 

 女怪は巧麟を見る。

 

「それを学ぶのです」

 

 巧麟は頷いた。

 

 その日から。

 

 巧麟の学び方が変わった。

 

 以前は、ただ妖魔の名前を覚えていた。

 

 今は違う。

 

 生態を知ろうとした。

 

 どこに棲むのか。

 

 何を食べるのか。

 

 どんな気配を持つのか。

 

 どんな傷を負わせるのか。

 

 どうすれば避けられるのか。

 

 そして。

 

 どうすれば調伏できるのか。

 

 女怪も、巧麟が求めることを拒まなかった。

 

 ただ。

 

 今すぐ戦わせようとはしなかった。

 

「まずは見抜くことです」

 

「見抜く?」

 

「妖魔なのか、普通の獣なのか」

 

「うん」

 

「敵なのか、そうでないのか」

 

「うん」

 

「危険なのか、そうでないのか」

 

 巧麟は何度も頷いた。

 

 強さだけでは足りない。

 

 知識だけでも足りない。

 

 見ること。

 

 考えること。

 

 そして。

 

 必要なときに動くこと。

 

 それを、少しずつ覚えていく。

 

 その日の夕方。

 

 巧麟はいつもの場所で、獣たちを眺めていた。

 

 一匹の小さな獣が近づいてくる。

 

 巧麟はしゃがみ込んだ。

 

「おいで」

 

 獣が鼻先を近づける。

 

 巧麟は笑った。

 

「今日は逃げないね」

 

 そっと頭を撫でる。

 

 柔らかな毛。

 

 温かな身体。

 

 巧麟は嬉しそうに目を細めた。

 

 女怪が少し離れたところから、その様子を見ていた。

 

「巧麟」

 

「なに?」

 

「妖魔だけではなく、普通の獣のことも好きなのですね」

 

「うん」

 

「どうして?」

 

 巧麟は獣の毛を撫でながら考えた。

 

「生きてるから」

 

 それだけだった。

 

 女怪は何も言わなかった。

 

 ただ。

 

 その言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

 巧麟はまだ知らない。

 

 この先。

 

 自分が何度も妖魔と出会うことを。

 

 その中には。

 

 人を傷つけるものも。

 

 人に利用されるものも。

 

 ただ生きているだけのものもいることを。

 

 そして。

 

 自分自身が、その境界を見極めなければならなくなることを。

 

 今はまだ。

 

 七歳の巧麟には分からない。

 

 ただ一つ。

 

 幼い麒麟の中で。

 

 確かなものが育ち始めていた。

 

 強くなりたい。

 

 知りたい。

 

 そして。

 

 守れるものなら、守りたい。

 

 それが。

 

 いつの日か巧麟自身の手で妖魔を調伏するための、最初の一歩となった。

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