巧麟が生まれてから、八年目の春が来た。
蓬山の春は静かだった。
人の暮らす里ほど、季節の変化は騒がしくない。
雪が消えれば草が芽吹く。
木々に新しい葉がつき。
鳥たちが戻ってくる。
それだけだった。
けれど、巧麟にとっては違った。
毎年、同じように見えて。
少しずつ違う。
去年まで知らなかった草を見つける。
新しい獣の匂いを覚える。
鳥の声の違いが分かるようになる。
自分自身の身体も変わっていた。
走れば、以前より速い。
跳べば、以前より遠くへ届く。
森の中を歩けば、女怪より先に獣の気配を察することもある。
そのことが。
巧麟には少し嬉しかった。
「また速くなりましたね」
女怪が言う。
「そう?」
「ええ」
「じゃあ、追いつける?」
「何にです?」
「女怪に」
「まだ無理でしょう」
即答だった。
巧麟は少し不満そうに鼻を鳴らした。
「やってみないと分からない」
「では、やってみますか?」
「うん」
森の中を走る。
巧麟は地面を蹴った。
金色のたてがみが風になびく。
木々の間を抜ける。
獣のように身体を低くする。
以前なら避けられなかった枝を躱す。
石を踏み。
地面の傾きを感じ。
身体の重心を変える。
速い。
自分でも分かる。
けれど。
前を走る女怪との距離は縮まらない。
むしろ。
少しずつ離れていく。
「……待って!」
巧麟が叫んだ。
女怪は振り返って笑った。
「まだまだですね」
巧麟は悔しそうに立ち止まった。
「いつか追いつく」
「楽しみにしています」
女怪はそう言った。
その声音には。
からかうようなものではなく。
純粋な喜びがあった。
巧麟が成長していること。
それが女怪にとっても嬉しいのだ。
その日の午後。
いつものように森を歩いていると。
巧麟が突然、足を止めた。
「……待って」
女怪も止まる。
「どうしました?」
「何かいる」
「獣ですか?」
「分からない」
巧麟は目を閉じた。
風。
草。
土。
樹皮。
遠くにいる鳥。
近くにいる小さな虫。
そして。
その中に混じる。
異質な匂い。
「血」
巧麟が言った。
「それから……妖魔」
女怪が巧麟を見る。
「分かりますか?」
「少しだけ」
「行きますか?」
巧麟は迷った。
以前なら。
すぐに行こうとしただろう。
けれど。
今は違う。
「……危ない?」
「分かりません」
「じゃあ、近づかないほうがいい?」
「どうしたいですか?」
女怪は答えを与えなかった。
巧麟自身に考えさせる。
巧麟はしばらく黙っていた。
そして。
「見るだけ」
そう言った。
「近づきすぎないで、何がいるのか見る」
「分かりました」
二人は森の奥へ進んだ。
少し進むと。
血の匂いが強くなった。
巧麟の耳が動く。
右。
さらに前。
低い唸り声。
「いる」
二本の木の間から覗く。
そこに。
一匹の獣が倒れていた。
白い毛。
まだ若い。
脚から血が流れている。
その少し離れたところに。
黒い影がいた。
妖魔だった。
巧麟は息を止めた。
妖魔は獣へ近づこうとしている。
しかし。
何かを恐れているようにも見える。
「……変」
「何がです?」
「あれ」
巧麟が妖魔を見る。
「獣を襲ったんじゃない」
女怪が目を細める。
「なぜそう思います?」
「近づきたいのに、近づけない」
確かに。
妖魔は獣を見ている。
だが、何度も後退している。
巧麟はさらに観察した。
そして気づいた。
「脚」
「脚?」
「あの妖魔も怪我してる」
妖魔の前脚。
そこには深い傷があった。
血が流れている。
「……同じだ」
巧麟が呟く。
「獣も怪我してる。妖魔も怪我してる」
女怪は何も言わない。
「喧嘩したのかな」
「可能性はあります」
「でも、どうして離れないんだろう」
巧麟は考えた。
妖魔が獣を見る。
獣も妖魔を見る。
どちらも動かない。
そのとき。
獣が小さく鳴いた。
妖魔が一歩近づく。
巧麟の身体が強張った。
しかし。
妖魔は獣へ襲いかからなかった。
ただ。
鼻先を近づけた。
「……」
巧麟は黙って見ていた。
怖さはある。
けれど。
先日の妖魔とは違う。
今、目の前にいるものは。
何かをしようとしている。
その「何か」が。
巧麟にはまだ分からない。
「女怪」
「はい」
「助けられる?」
「どちらをですか?」
「両方」
女怪は巧麟を見た。
「妖魔も?」
「うん」
「妖魔ですよ」
「分かってる」
巧麟は静かに答えた。
「でも、怪我してる」
女怪はしばらく黙っていた。
そして。
「分かりました」
女怪が一歩前へ出る。
妖魔がこちらを見る。
身体を低くする。
警戒している。
巧麟は反射的に前へ出ようとした。
しかし。
女怪が手を上げた。
「巧麟」
「……うん」
「ここから先は私がやります」
「でも」
「あなたは、見ていてください」
巧麟は頷いた。
女怪は妖魔へ近づく。
妖魔は逃げようとした。
しかし、脚の傷が深い。
身体が崩れる。
女怪はそれを見て、慎重に距離を詰めた。
やがて。
妖魔は動かなくなった。
女怪は傷を確認する。
「かなり深いですね」
「治せる?」
「時間はかかります」
巧麟は獣を見る。
こちらも傷が深い。
「この子も?」
「ええ」
女怪は二匹を順番に手当てした。
巧麟はその様子をずっと見ていた。
傷の場所。
血の量。
呼吸。
怯え方。
近づくときの注意。
逃げようとしたときの対応。
一つ一つ。
覚えた。
夕方になった。
獣はまだ眠っている。
妖魔も動かない。
巧麟は二匹のそばに座っていた。
「ねえ」
「何です?」
「妖魔って、全部悪いの?」
女怪は少し考えた。
「どうでしょう」
「分からない?」
「ええ」
「じゃあ、妖魔だから悪いって決めるのは違う?」
「少なくとも、今見たものだけで決めることはできません」
巧麟は頷いた。
それは。
以前よりずっと難しい答えだった。
妖魔は怖い。
人を襲うこともある。
危険なものもいる。
だから。
調伏する必要がある。
けれど。
目の前の妖魔は。
傷ついていただけだった。
巧麟はそのことを覚えておこうと思った。
夜。
蓬山へ戻る道で。
巧麟は女怪の隣を歩いていた。
「今日は何を学びましたか?」
女怪が尋ねた。
「妖魔を見た」
「それだけですか?」
「違う」
巧麟は少し考えた。
「怖くても、すぐに攻撃しない」
「はい」
「まず見る」
「はい」
「相手が何をしてるのか考える」
「はい」
「それでも危なかったら……」
巧麟は足を止めた。
「そのときは、止める」
女怪は頷いた。
「よくできました」
巧麟は少し照れた。
そして。
空を見上げた。
夜空には星が出ていた。
蓬山は静かだった。
王を探す日。
その日が来るのは。
まだ先だ。
巧麟はまだ成獣ではない。
まだ知らないことが多すぎる。
だから。
今は学べばいい。
走ることも。
見ることも。
考えることも。
生き物を知ることも。
そして。
力を使うべき時と。
使ってはいけない時を。
八歳の巧麟には。
まだ答えは出せない。
けれど。
その答えを探そうとすることこそが。
麒麟として成長していくための道だった。