巧国記   作:これは面白いのか

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6話

巧麟が生まれてから、八年目の春が来た。

 

 蓬山の春は静かだった。

 

 人の暮らす里ほど、季節の変化は騒がしくない。

 

 雪が消えれば草が芽吹く。

 

 木々に新しい葉がつき。

 

 鳥たちが戻ってくる。

 

 それだけだった。

 

 けれど、巧麟にとっては違った。

 

 毎年、同じように見えて。

 

 少しずつ違う。

 

 去年まで知らなかった草を見つける。

 

 新しい獣の匂いを覚える。

 

 鳥の声の違いが分かるようになる。

 

 自分自身の身体も変わっていた。

 

 走れば、以前より速い。

 

 跳べば、以前より遠くへ届く。

 

 森の中を歩けば、女怪より先に獣の気配を察することもある。

 

 そのことが。

 

 巧麟には少し嬉しかった。

 

「また速くなりましたね」

 

 女怪が言う。

 

「そう?」

 

「ええ」

 

「じゃあ、追いつける?」

 

「何にです?」

 

「女怪に」

 

「まだ無理でしょう」

 

 即答だった。

 

 巧麟は少し不満そうに鼻を鳴らした。

 

「やってみないと分からない」

 

「では、やってみますか?」

 

「うん」

 

 森の中を走る。

 

 巧麟は地面を蹴った。

 

 金色のたてがみが風になびく。

 

 木々の間を抜ける。

 

 獣のように身体を低くする。

 

 以前なら避けられなかった枝を躱す。

 

 石を踏み。

 

 地面の傾きを感じ。

 

 身体の重心を変える。

 

 速い。

 

 自分でも分かる。

 

 けれど。

 

 前を走る女怪との距離は縮まらない。

 

 むしろ。

 

 少しずつ離れていく。

 

「……待って!」

 

 巧麟が叫んだ。

 

 女怪は振り返って笑った。

 

「まだまだですね」

 

 巧麟は悔しそうに立ち止まった。

 

「いつか追いつく」

 

「楽しみにしています」

 

 女怪はそう言った。

 

 その声音には。

 

 からかうようなものではなく。

 

 純粋な喜びがあった。

 

 巧麟が成長していること。

 

 それが女怪にとっても嬉しいのだ。

 

 その日の午後。

 

 いつものように森を歩いていると。

 

 巧麟が突然、足を止めた。

 

「……待って」

 

 女怪も止まる。

 

「どうしました?」

 

「何かいる」

 

「獣ですか?」

 

「分からない」

 

 巧麟は目を閉じた。

 

 風。

 

 草。

 

 土。

 

 樹皮。

 

 遠くにいる鳥。

 

 近くにいる小さな虫。

 

 そして。

 

 その中に混じる。

 

 異質な匂い。

 

「血」

 

 巧麟が言った。

 

「それから……妖魔」

 

 女怪が巧麟を見る。

 

「分かりますか?」

 

「少しだけ」

 

「行きますか?」

 

 巧麟は迷った。

 

 以前なら。

 

 すぐに行こうとしただろう。

 

 けれど。

 

 今は違う。

 

「……危ない?」

 

「分かりません」

 

「じゃあ、近づかないほうがいい?」

 

「どうしたいですか?」

 

 女怪は答えを与えなかった。

 

 巧麟自身に考えさせる。

 

 巧麟はしばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「見るだけ」

 

 そう言った。

 

「近づきすぎないで、何がいるのか見る」

 

「分かりました」

 

 二人は森の奥へ進んだ。

 

 少し進むと。

 

 血の匂いが強くなった。

 

 巧麟の耳が動く。

 

 右。

 

 さらに前。

 

 低い唸り声。

 

「いる」

 

 二本の木の間から覗く。

 

 そこに。

 

 一匹の獣が倒れていた。

 

 白い毛。

 

 まだ若い。

 

 脚から血が流れている。

 

 その少し離れたところに。

 

 黒い影がいた。

 

 妖魔だった。

 

 巧麟は息を止めた。

 

 妖魔は獣へ近づこうとしている。

 

 しかし。

 

 何かを恐れているようにも見える。

 

「……変」

 

「何がです?」

 

「あれ」

 

 巧麟が妖魔を見る。

 

「獣を襲ったんじゃない」

 

 女怪が目を細める。

 

「なぜそう思います?」

 

「近づきたいのに、近づけない」

 

 確かに。

 

 妖魔は獣を見ている。

 

 だが、何度も後退している。

 

 巧麟はさらに観察した。

 

 そして気づいた。

 

「脚」

 

「脚?」

 

「あの妖魔も怪我してる」

 

 妖魔の前脚。

 

 そこには深い傷があった。

 

 血が流れている。

 

「……同じだ」

 

 巧麟が呟く。

 

「獣も怪我してる。妖魔も怪我してる」

 

 女怪は何も言わない。

 

「喧嘩したのかな」

 

「可能性はあります」

 

「でも、どうして離れないんだろう」

 

 巧麟は考えた。

 

 妖魔が獣を見る。

 

 獣も妖魔を見る。

 

 どちらも動かない。

 

 そのとき。

 

 獣が小さく鳴いた。

 

 妖魔が一歩近づく。

 

 巧麟の身体が強張った。

 

 しかし。

 

 妖魔は獣へ襲いかからなかった。

 

 ただ。

 

 鼻先を近づけた。

 

「……」

 

 巧麟は黙って見ていた。

 

 怖さはある。

 

 けれど。

 

 先日の妖魔とは違う。

 

 今、目の前にいるものは。

 

 何かをしようとしている。

 

 その「何か」が。

 

 巧麟にはまだ分からない。

 

「女怪」

 

「はい」

 

「助けられる?」

 

「どちらをですか?」

 

「両方」

 

 女怪は巧麟を見た。

 

「妖魔も?」

 

「うん」

 

「妖魔ですよ」

 

「分かってる」

 

 巧麟は静かに答えた。

 

「でも、怪我してる」

 

 女怪はしばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「分かりました」

 

 女怪が一歩前へ出る。

 

 妖魔がこちらを見る。

 

 身体を低くする。

 

 警戒している。

 

 巧麟は反射的に前へ出ようとした。

 

 しかし。

 

 女怪が手を上げた。

 

「巧麟」

 

「……うん」

 

「ここから先は私がやります」

 

「でも」

 

「あなたは、見ていてください」

 

 巧麟は頷いた。

 

 女怪は妖魔へ近づく。

 

 妖魔は逃げようとした。

 

 しかし、脚の傷が深い。

 

 身体が崩れる。

 

 女怪はそれを見て、慎重に距離を詰めた。

 

 やがて。

 

 妖魔は動かなくなった。

 

 女怪は傷を確認する。

 

「かなり深いですね」

 

「治せる?」

 

「時間はかかります」

 

 巧麟は獣を見る。

 

 こちらも傷が深い。

 

「この子も?」

 

「ええ」

 

 女怪は二匹を順番に手当てした。

 

 巧麟はその様子をずっと見ていた。

 

 傷の場所。

 

 血の量。

 

 呼吸。

 

 怯え方。

 

 近づくときの注意。

 

 逃げようとしたときの対応。

 

 一つ一つ。

 

 覚えた。

 

 夕方になった。

 

 獣はまだ眠っている。

 

 妖魔も動かない。

 

 巧麟は二匹のそばに座っていた。

 

「ねえ」

 

「何です?」

 

「妖魔って、全部悪いの?」

 

 女怪は少し考えた。

 

「どうでしょう」

 

「分からない?」

 

「ええ」

 

「じゃあ、妖魔だから悪いって決めるのは違う?」

 

「少なくとも、今見たものだけで決めることはできません」

 

 巧麟は頷いた。

 

 それは。

 

 以前よりずっと難しい答えだった。

 

 妖魔は怖い。

 

 人を襲うこともある。

 

 危険なものもいる。

 

 だから。

 

 調伏する必要がある。

 

 けれど。

 

 目の前の妖魔は。

 

 傷ついていただけだった。

 

 巧麟はそのことを覚えておこうと思った。

 

 夜。

 

 蓬山へ戻る道で。

 

 巧麟は女怪の隣を歩いていた。

 

「今日は何を学びましたか?」

 

 女怪が尋ねた。

 

「妖魔を見た」

 

「それだけですか?」

 

「違う」

 

 巧麟は少し考えた。

 

「怖くても、すぐに攻撃しない」

 

「はい」

 

「まず見る」

 

「はい」

 

「相手が何をしてるのか考える」

 

「はい」

 

「それでも危なかったら……」

 

 巧麟は足を止めた。

 

「そのときは、止める」

 

 女怪は頷いた。

 

「よくできました」

 

 巧麟は少し照れた。

 

 そして。

 

 空を見上げた。

 

 夜空には星が出ていた。

 

 蓬山は静かだった。

 

 王を探す日。

 

 その日が来るのは。

 

 まだ先だ。

 

 巧麟はまだ成獣ではない。

 

 まだ知らないことが多すぎる。

 

 だから。

 

 今は学べばいい。

 

 走ることも。

 

 見ることも。

 

 考えることも。

 

 生き物を知ることも。

 

 そして。

 

 力を使うべき時と。

 

 使ってはいけない時を。

 

 八歳の巧麟には。

 

 まだ答えは出せない。

 

 けれど。

 

 その答えを探そうとすることこそが。

 

 麒麟として成長していくための道だった。

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