STAR WARS: STAR DESTROYER 作:あーくわいてんず
C.R.C. 7955.088 ラクサス・セカンダス
目覚ましより先に、目が覚めた。
宿舎の窓の外は、まだ薄暗かった。シーアは寝台の上で身体を起こし、枕元の端末を取った。エレナからの返事は来ていなかった。昨夜送った一行は、既読の印も付かないまま画面の上にある。エリアドゥは、まだ夜の半ばだった。
代わりに、兄から短い文が届いていた。
《起きたら、何か食べてから行け》
シーアは少し笑い、端末を伏せた。
顔を洗い、制服に袖を通す。鏡の前で襟を直すと、前へ落ちてきた銀髪を後ろへ流した。二年前、初めてこの宿舎に入った時には、鏡の位置が低すぎると思った。今は、ちょうど目の高さにある。背が伸びたのか、慣れたのか、自分では分からなかった。
食堂では、随員の何人かが先に朝食を取っていた。署名式の段取りの話をしている。どの順で入場するか。撮影機はどこから入れるのか。首席代表の署名に使う筆は、代表部が用意したものか、それとも会場の備品か。誰も、日取りが決まったとは言っていない。それでも、話はもう署名の日のものになっていた。
シーアは茶とパンを取り、窓際の席に座った。
リンドが入ってきたのは、パンを半分ほど食べた頃だった。武官団長は皿を取らず、茶だけを持って向かいに座った。
「昨夜の通知は見たか」
「式典の広間の件ですね」
「どう読んだ」
「署名式の下見を兼ねるのかと。実際に使う部屋で段取りを決めれば、早いので」
リンドは茶を一口飲んだ。
「そうかもしれん」
それだけ言って、しばらく窓の外を見ていた。庭の向こうに、会場の公館の屋根が見えている。
「私は、式典の広間で署名の段取りを決めた会議を、一度も知らん。段取りは、事務方が小さな部屋で決める。広間は、決まったことを見せるための部屋だ」
「では、何を見せるんでしょう」
「分からん。だから、訊いている」
シーアは答えられなかった。リンドは茶を飲み干し、立ち上がった。
「資料は、全部持っていけ。昨夜の最終案だけでなく、前の版も」
「三冊ともですか」
「三冊ともだ」
*
広間の扉は、開け放たれていた。
シーアが入ると、職員たちが最後の椅子を並べているところだった。天井が高く、声がよく響く部屋だった。壁の上の方には、連合の旗と、古い政府機関の紋章が並んでいる。旗の布地はまだ新しく、畳んでいた折り目が消えきっていなかった。紋章の方は、長い年月の間に縁の金色が褪せていた。
窓の外に、庭がよく見えた。照明を増やすための配線は、今朝もまだ芝の上に積まれていた。
卓は一つだった。磨かれた長い板で、共和国の席と連合の席が、長い辺を挟んで向かい合っている。卓の端から端までを歩けば、十歩ではとても足りない。いつもの会議室なら、向かいの相手が書類をめくる音まで聞こえた。ここでは、向かいの顔を見るのにも、少し目を細める必要がありそうだった。
向こう側の中央に、椅子が二つ多かった。
名札はなかった。ほかの席には、シンとヴェルンと連合の軍事代表の名が、いつもの書式で置かれている。空いた二つの前だけが、何も載せていなかった。
「署名式の来賓でしょうか」
随員の一人が小声で言った。リンドは答えず、椅子の数をもう一度数えていた。
シーアは自分の席へ記録ケースを置き、三冊の綴りを卓の端へ積んだ。最終案の写しを出し、余白の一行を確かめる。
査察の申請は、合同調整室がこれを受け付ける。
昨夜、ヴェルンの字を見ながら、自分の手で書き写したものだった。字の形が、どこか彼女に似てしまっている。書き写す時に、つい手本をなぞったのだろう。
ベイルが入ってきて、首席代表の席に着いた。法務担当者が隣に座り、昨夜の文書の写しを揃える。ベイルは空いた二つの椅子を一度だけ見て、それから何も言わずに自分の資料を開いた。
向かいの扉が開き、連合の代表団が入ってきた。
ヴェルンはシーアを見て小さく会釈し、自分の席で書類を揃えた。いつもより手の動きが速かった。書類の角を揃え終わっても、もう一度揃え直していた。
シンは会釈しなかった。卓の端を見たまま腰を下ろし、書類挟みを開かずに置いた。留め金の上に、片手を載せたままだった。
シーアは、その手元を見た。朝の間に、何かあったのだと思った。
*
「始める前に、お伝えしなければならないことがあります」
シンが言った。声は、いつもより低かった。広間の天井が、その低さをそのまま返した。
「本日の会合には、連合評議会の代表が出席します」
記録員が手を止めた。ベイルは、その名を問わなかった。向かいの扉が、もう一度開いた。
ドゥークー伯爵は、外套を脱がずに入ってきた。
広間の空気が、わずかに動いたように感じられた。共和国側の随員たちが立ち上がりかけ、ベイルが手で制した。伯爵は共和国側へ一礼した。深すぎず、浅すぎもしない礼だった。それから空いた椅子の一つに腰を下ろし、外套の裾を膝の上で整えた。
ドゥークーは卓の上の最終案には目を向けなかった。ベイルの顔を見ていた。旧知の相手を見るような、穏やかな目だった。
その後から、足音がした。
人の歩幅と合わない、重い金属の音だった。石の床を一歩ごとに叩き、その間隔が妙に長い。扉の枠が、急に狭く見えた。
入ってきたものは、背を少し屈めていた。
白い骨のような面が、高いところにあった。その奥で、黄色い目が動いている。面の下から胴へ続く部分は、人の身体の形をしていなかった。金属の骨組みと装甲板が、呼吸に合わせてわずかに軋む。外套の下で、腕の形がはっきりしない。二本にしては、布の膨らみが多すぎるように見えた。
両脇に、棒状の武器を持った細身のドロイドが二体付き従っていた。顔の部分に、細い目のような光がある。武器の両端が、薄く青い光を帯びていた。
それは、残った椅子の前で立ち止まった。
座る前に、短く咳をした。胸の奥で、湿った何かが擦れる音がした。共和国側の随員の一人が、思わず身を引いた。
「独立星系連合軍、最高司令官。グリーヴァス将軍です」
シンが紹介した。紹介する声は、平らだった。
*
グリーヴァスは、椅子に座らなかった。
背もたれに片手を置き、卓の向こうを眺めた。
共和国の者たちは、揃いの制服と、揃いの顔色をしていた。机の上には紙の束が積まれている。何冊も、何冊も。これだけの紙を積み上げて、この者たちは二年間、何をしていたのか。
首席代表の男は、目を逸らさずにこちらを見ている。オーガナ。オルデランの議員だ。口で戦う者だ。この種の人間は、どこの議場にもいる。言葉が尽きた時に、自分では何もできない者たちだ。
その隣の武官団長は、軍人の立ち方をしていた。背筋ではなく、重心で分かる。いつでも立ち上がれる座り方だ。ここで唯一、話を聞く価値のある顔だった。
ジェダイは、いなかった。
グリーヴァスは、それを少し残念に思った。共和国がこの場に剣を持つ者を一人でも置いていれば、その者の顔を覚えておけた。共和国は、剣を持つ者を寺院に閉じ込め、剣を持たない者に艦隊を預けている。その愚かさを、この卓の並びがそのまま示していた。
その後ろに、銀色の髪が見えた。
資料で見た顔だった。連合の分析官は、この若者の容貌について、職務に関係のない注記を何行も書いていた。画面にも出ている。模型を持って笑っている映像を、将軍は一度だけ見た。それ以上見る必要を感じなかった。
実物は、画像よりも細かった。首も、手首も、力を入れれば折れそうだった。肌には傷一つない。一度も撃たれたことのない皮膚だと、グリーヴァスは思った。一度も撃ったことのない手だ。卓の上で紙をめくり、数字を並べ、その数字で戦争の代わりができると信じている手だ。
共和国は、戦う代わりに、この顔を送ってきた。
グリーヴァスは椅子を引き、ようやく腰を下ろした。ドロイドの護衛が背後に立つと、共和国側の随員の何人かが目を伏せた。
銀髪の若者は、目を伏せなかった。こちらを見ていたが、怯えも、怒りも浮かべていなかった。興味深い機械を見る時のような、平らな目だった。
鈍いのだ、とグリーヴァスは判断した。恐れを知らない者は、恐れるべきものを知らないだけだ。
*
ドゥークーの随員が、文書を配った。
表紙には、評議会の紋章があった。シーアは頁を開き、最初の項目を読んだ。
共和国は、指定区域内の既存基地から九十日以内に撤収する。
附表に、基地の名が並んでいた。スルイス・ヴァン、軍用港。アナクセス、艦隊支援基地。ほかに十一。
アナクセスの名の上で、目が止まった。
ヘインの艦が交代を待っていた場所だった。レキューザントが外縁を回り続け、発着の予定を何度も組み替えた基地。離隔の距離を決め、曳船が貨物船を動かし、借り物の通信卓に備品番号を付けた場所。ヘインが報告の最後に、助かった、と一言添えた場所だった。この卓で、条文の雛形にしたばかりだった。
九十日。その間に、基地の人員を引き揚げ、隣接する民間港の救難と管制をどこかへ移す。その「どこか」は、附表のどこにも書かれていなかった。
二つ目の項目を読んだ。惑星防衛軍および企業保安部隊は、連合の保有枠の計数から除く。
四十八時間で艦隊指揮へ入る百六十隻が、欄ごと消えていた。ヴェルンがあの日、共和国の附則と引き換えに出した一覧だった。お互いの非常時が同じ欄に入る、と彼女は言った。その欄が、なくなっていた。
三つ目。連合側施設への査察は、施設ごとに管理者の同意を要する。
シーアは、自分の最終案の余白を見た。
査察の申請は、合同調整室がこれを受け付ける。
同意を求める先が施設ごとに分かれれば、申請をどこで受け付けても、同じことになる。ダーンの収容を否定した九日間が、査察のたびに繰り返される。三晩かけて書かれた一行が、一つの条項で意味を失っていた。
四つ目。本条約の発効は、連合に加盟を表明した全星系の独立を、共和国が承認することを前提とする。
一度目に読み違えたのではないかと思い、最初へ戻った。
読み違えてはいなかった。
顔を上げると、向かいでシンがこちらを見ていた。目が合うと、シンは卓の端へ視線を落とした。書類挟みの留め金の上に、まだ手を置いたままだった。
ヴェルンは、文書を読んでいなかった。表紙を開いたまま、その上に両手を重ねていた。シーアが見ていることに気づくと、彼女は小さく首を振った。知らなかった、という意味なのか、読まないで、という意味なのか、シーアには分からなかった。
*
「これは、私どもの委任の外です」
ベイルが言った。声は落ち着いていた。
「四つ目の項目は、軍事附属書で扱える事柄ではありません。共和国政府と元老院の判断を要します。ほかの三つは、昨夜、双方の頭文字を入れた文書の内容を、根本から変えるものです」
「承知している」
ドゥークーは穏やかに答えた。
「だから、評議会の代表として来た。昨夜までの文書は、評議会の承認を得ていない」
「承認を求める前に、変えるのですか」
「承認を求めた結果が、これだ」
ベイルは、自分の最終案の写しを卓の上で伯爵の方へ向けた。頭文字の入った頁が、開いたままになっていた。
「伯爵。この文書を作るのに、双方の代表団が二年を使いました。その間に、拘束されていた者が家族のもとへ帰り、衝突の寸前で止まった艦が何隻もあります。それを、評議会は一晩で読んだのですか」
「読んだ。よくできていると思った」
ドゥークーはベイルの写しを見ず、ベイルの顔を見たまま答えた。
「だが、よくできた文書は、それを守る力のない者の手の中では、紙にすぎない。共和国は千年、そうやって約束を書き直してきた。あなたも元老院にいる。知っているはずだ」
ベイルは、すぐには答えなかった。伯爵の言葉の半分が、自分自身が議場で何度も口にしてきた批判と同じ形をしていることに、気づいたのかもしれなかった。
それから、リンドを見た。武官団長は、軍事上の影響を説明するよう、シーアに目で合図した。
シーアは立ち上がった。
広間の中で、自分の椅子を引く音がひどく大きく聞こえた。
「一つ目の撤収について、申し上げます」
声は、思ったより普通に出た。
「附表の基地のうち、アナクセスとスルイス・ヴァンには、民間の港と造船施設が隣接しています。九十日で軍を引き揚げれば、救難と航路管制の一部も同時に失われます。昨年の帰還協定で使った医療回線は、スルイス・ヴァンの軍用港を経由していました。アナクセスでは、この卓で決めた離隔の取決めによって、先月から曳船が予定どおり動いています。前進配備の制限は、既に附属書で双方に掛けています。一方だけの撤収を求める理由を、軍事上の必要から説明していただけますか」
「説明か」
低い声が、卓の向こうから返ってきた。
グリーヴァスが、身を乗り出していた。金属の指が卓の縁に掛かり、磨かれた板に細い傷を付けた。
「サーティネイニアンの姫王子」
広間が静かになった。
シーアは、その呼び名を久しぶりに聞いた。学院で、カッシオたちが使っていた名だった。十歳だったからだと、ずっと思っていた。最年少の入学者で、周りより小さかったからだと。
将軍の口から出ると、その呼び名は、別のものに聞こえた。
「連合の資料に、そう書いてあった。画面で見るより、よく喋る」
将軍は咳をした。胸の奥で、また何かが擦れる音がした。
「お前は、一度でも自分の手で撃ったことがあるか」
「ありません」
シーアは答えた。隣でリンドが身じろぎしたが、口は挟まなかった。
「だろうな」
グリーヴァスの目が細くなった。笑っているのだと、少し遅れて分かった。
「数字を並べて、戦争の代わりにする。救難、航路、医療回線。曳船が予定どおり動いた。そういう言葉で船を数える者は、船が燃えるところを見たことがない。燃える船の中で、人がどういう声を出すかを知らない」
将軍は、卓の上に積まれたシーアの綴りを、顎で示した。
「二年分の紙か。その紙の上で、共和国は何隻の艦を沈めた。一隻もだ。共和国は千年、そういう者に艦隊を預けてきた。だから弱い。そして、弱い者同士で集まって、互いの弱さを条文にする」
グリーヴァスの目が、一瞬だけシンとヴェルンの方へ動いた。
「言葉で国を守れると思っている者は、こちらの側にもいる。今日で、それも終わる」
ヴェルンの手が、表紙の上でわずかに動いた。シンは顔を上げなかった。
シーアは、自分の手元を見た。
スルイス・ヴァンで、テムという操縦士が死んだ。エダという操縦士も死んだ。ホルトは《ケストレル》の右舷区画で死んだ。その名前を、シーアは報告書で読み、戦闘の記録で聞いた。燃える船の中で人がどういう声を出すかを、自分の耳で聞いたことは、確かになかった。
将軍の言うことの一部は、正しかった。
それでも、答えなければならないことは、変わらなかった。
「将軍の艦隊が、今、この星系へ何隻来られるかは、数えています」
シーアは言った。声の高さは、さっきと変わらなかった。
「軌道にいる連合の警備艦が、何隻か。そのうち、今日中に動かせるのが何隻か。将軍が乗ってこられた艦が、どこから、どの航路で来たか。附属書の数字は、そのために作りました。何隻持っているかではなく、どこへ、いつ、何隻来られるか。将軍がこの文書を通したいなら、その数字が変わる理由を、こちらへ示していただく必要があります」
グリーヴァスは、しばらく彼を見ていた。
黄色い目が、若者の顔の上をゆっくり動いた。何かを探しているようだった。恐れか、虚勢か、震えか。見つからなかったらしい。
それから、背もたれに身体を戻した。
「人形が、よく教え込まれている」
それだけ言って、将軍はもう、シーアの方を見なかった。卓の上の文書にも、ほかの共和国側の顔にも、目を向けなかった。興味を失った機械のように、ただ座っていた。
ドゥークーだけが、しばらくシーアを見ていた。
伯爵の視線は、将軍のそれとは違っていた。値踏みでも侮りでもなかった。何かを確かめるように、一度目を離し、それからもう一度だけ、若者の顔へ戻った。そして、何も言わずに視線を外した。
シーアは着席した。手のひらが、少し湿っていた。卓の下で、それを膝に押し当てて拭った。
*
休会を求めたのは、ベイルだった。
共和国側の控室は、いつもの会議室の隣にあった。扉を閉めると、広間の天井の響きが嘘のように消え、誰かの息を吐く音が大きく聞こえた。
法務担当者が、四つの項目を一つずつ本国の委任と照らし合わせた。どれも、武官団と文官団の権限では答えられない。答えられるのは、持ち帰ることだけだった。
「一つ目から三つ目は、昨夜の最終案の該当条項の撤回を意味します。四つ目は、条約の性格そのものを変えます。軍事附属書ではなく、国家承認の問題です」
「分かっている」
ベイルは言い、椅子に深く座り直した。首席代表が椅子の背にもたれるのを、シーアは初めて見た。
「本国への報告を口述する。記録を」
随員が端末を開いた。ベイルは、評議会の文書の四項目を読み上げ、それぞれに対する代表団の所見を付けていった。声は平らで、正確だった。ドゥークーの名も、グリーヴァスの名も、肩書と共に一度ずつ記録された。
口述が半ばまで進んだ時、連絡員が入ってきた。
専用の端末を、リンドへ差し出す。武官団長は認証を入れ、画面を読んだ。
読み終えても、しばらく顔を上げなかった。
「本国から命令だ」
リンドは端末を卓へ置いた。
「武官団は、本命令受領後二十四時間以内にラクサスを離れ、コルサントへ帰還する。現地の軍事協議は、文官団へ引き継ぐ」
控室が静かになった。ベイルは口述をやめ、端末を引き寄せた。
「まだ、報告を送っていません」
「送る前に、来た」
ベイルは命令の文面を読み、もう一度読んだ。それから、議長府への回線を開くよう随員に命じた。
回線は、すぐにつながった。応答したのは、議長府の幕僚の一人だった。最高議長は会議中で、首席代表からの照会は受け付けるが、命令は政府の決定として既に発令されている、という。
「理由を伺えますか」
『現地の情勢を踏まえた判断です。詳細は、帰還後に武官団長へ説明されます』
「文官団は残るのですか」
『首席代表の判断に委ねられています』
ベイルは礼を言って回線を閉じた。しばらく、何も言わなかった。
シーアは端末の画面を覗いた。命令の文面の下に、発令の時刻があった。
標準時一四時二〇分。
壁の時計を見た。ラクサスでは、まだ昼を過ぎたばかりだった。一四時二〇分なら、こちらでは朝の九時にもなっていない。ドゥークーが広間へ入るより、ずっと前だった。シーアが食堂でパンを食べ、リンドと広間の話をしていた頃だった。
「なぜ、この時刻なのでしょう」
シーアが言うと、リンドは首を振った。
「情報局が、先に何かを掴んだのかもしれん。評議会の決定を、傍受したのかもしれない」
それは、ありそうなことだった。《リスナー》のような船が、今もどこかで同じ回線を聞いている。評議会が朝に決めたことを、議長府が同じ朝に知っていても、おかしくはない。共和国は、交渉団より先に、交渉の終わりを知っていたのだ。
そう考えると、筋は通った。
シーアは端末をリンドへ返した。命令の時刻と、ドゥークーの到着が、同じ朝に重なっている。そのことを、彼はそれ以上考えなかった。考えるより先に、片付けなければならない仕事が、机の上に積まれていた。
ベイルが、文官団を残すと決めた。
「帰還協定と、合同調整室と、救難の回線。これを動かしている者を、全員引き揚げるわけにはいかない。私も、数日は残ります」
リンドは頷き、武官団から連絡官を二名残すと答えた。軍務上の照会に応じる者が一人もいなくなれば、窓口は形だけになる。シーアの名は、その二名に入らなかった。
*
再開した会合で、ベイルは、評議会の文書を本国へ送ると答えた。
昨夜の最終案は、双方の頭文字が入った文書として、記録に残す。その扱いについて、共和国は立場を留保する。帰還協定と合同調整室の運用は、両側の政府が別に決めた取決めであり、本日の文書によって停止されないことを確認したい。
「窓口は残す」
ドゥークーが答えた。
「これからも、必要になるだろう」
伯爵は、それが当然のことのように言った。ヴェルンが顔を上げ、伯爵を見た。何かを言いかけ、やめた。シンは、最後まで書類挟みを開かなかった。
ドゥークーは立ち上がった。グリーヴァスも、ドロイドを従えて扉へ向かう。
将軍は、共和国側の席の後ろを通る時にだけ、歩みを緩めた。重い足音が、シーアの椅子の真後ろで止まった。背中の上の方に、将軍の影が落ちているのが分かった。咳の音が、すぐ頭の上から聞こえた。
「次は、画面ではなく、照準の中で会おう。姫王子」
シーアは顔を上げなかった。振り返りもしなかった。手元の最終案の、余白の一行を見ていた。
「その時も、数えています」
将軍は咳のような音を立てた。笑ったのかどうかは、分からなかった。足音が再び動き出し、扉の外へ遠ざかっていった。
扉が閉まると、広間には共和国の代表団と、連合の代表団だけが残った。卓の向こう側に、空いた椅子が二つあった。職員の一人が近づいてきて、その二つを壁際へ運んでいった。
*
夕方、武官団の控室は箱で埋まっていた。
持ち帰る資料と、文官団へ残す資料を分ける。二年分の綴りを、一冊ずつ確かめていく。前進配備の附属書、艦艇の計数表、アナクセスの離隔図、帰還協定の実施記録。
残していくものは、交渉を続けるための資料だった。持ち帰るものは、これから別の用途に使われる。同じ頁でも、どちらの箱に入れるかで意味が変わった。
リンドは、古い版を綴った三冊の綴りを、持ち帰る箱に入れさせた。
「未決事項の一覧は、括弧の数が減っていく記録だ。向こうが何を譲り、こちらが何を譲ったか。それが全部書いてある」
「交渉を再開する時のためですか」
「それもある」
リンドは箱の蓋を閉じた。
「相手が何を大事にしていたかは、戦う時にも役に立つ」
シーアは、その言葉を聞きながら、七一号の申告を持ち帰る箱へ入れた。全長四千八百四十五メートル。完成予定、七九五六年。ヴェルンが封をしたまま卓へ置き、記録員が開封の時刻を読み上げた文書だった。署名されない条約の附属書に書かれたその数字が、明日からは脅威の評価に使われる。
ヘインへ、短い連絡を書いた。アナクセスが撤収要求の附表に入ったこと。条約は署名に至らなかったこと。離隔の取決めは、現地の運用として両側が維持する見込みであること。最後の一文は、書いては消し、書いては消して、結局、何も付け加えずに送った。
合同調整室の連絡官には、窓口の回線表を渡した。帰還、救難、医療、技術者の立入り。連絡官は受け取り、明日も同じ時刻に当直へ入ると言った。
「こちらの当直表は、変わりませんから」
連絡官はそう言って、壁の名簿を指した。二年前に借り物の卓を並べて始めた窓口の壁には、今は交代の名前が十数人分並んでいた。
廊下で、ヴェルンが待っていた。
彼女は自分の写しを胸に抱えていた。余白の一行が、表紙の端から少しだけ見えている。
「知らなかったのですか」
シーアが訊いた。ヴェルンは首を振った。
「今朝、伯爵が来るまで。シン議員は、朝の早い時間に知らされたそうです。私が聞いたのは、広間へ入る直前でした」
しばらく、二人とも何も言わなかった。廊下の窓から、庭の配線が見えていた。
「あの一行は」
シーアが言いかけると、ヴェルンは写しを少し持ち上げた。
「消していません。この写しは、私のものです。評議会が何を決めても、私が書いたことは変わりません」
それから、少し間を置いた。
「窓口は、残します。帰還の回線も、救難の回線も。私が当直に入れる間は、私が受けます」
「こちらも、同じ回線を残します。受けるのは、たぶん僕ではありませんが」
「分かっています」
ヴェルンは写しを抱え直した。
「冷めていないお茶を、一度くらい、ちゃんと一緒に飲みたかった」
シーアは笑おうとして、うまくできなかった。彼女も笑わなかった。二人は短く頭を下げ、それぞれの控室へ戻った。
シンに会ったのは、車寄せへ向かう途中だった。
連合の代表は、庭へ出る扉の前に一人で立っていた。夕方の光が、扉の硝子を斜めに通っていた。シーアに気づくと、少し迷ってから近づいてきた。
「今朝、あなたがあれを読む時の顔を、想像していました」
「どんな顔でしたか」
「今の顔です」
シンはそう言って、シーアの顔を見た。何も浮かんでいない顔だった。自分でも、そうだと分かっていた。
「私は、条約が欲しかった」
「知っています」
「条約で認められた独立なら、誰にも奪えないと、今でも思っています。伯爵は、条約で与えられたものは条約で取り上げられると言いました。私は、あの方が間違っていると思いたい」
シンは庭の方を見た。配線の山の横に、作業員が台車を運んできていた。
「あなたの国の人は、たいてい、あなたより話が長いと言っていましたね」
「はい」
「私の国の人は、たいてい、私より話が短い。今日、それが分かりました」
シーアは頷いた。何か言うべきだと思ったが、言葉は出てこなかった。シンは一礼し、庭の方へ歩いていった。
*
その夜、シーアは眠れなかった。
宿舎の窓から、会場の公館が見えた。いつもなら夜遅くまで灯りのついていた連合側の控室が、今夜は早くに暗くなっていた。代わりに、軌道の方で新しい光が一つ増えていた。夕方に到着したという、将軍の座乗艦だった。
端末を開いた。兄に、決裂したとだけ送ると、すぐに返事が来た。
《知っている。帰ってこい》
それだけだった。兄らしいと思った。
エレナへの文面は、なかなか決まらなかった。昨夜送った一行の下に、何を書けばいいのか分からなかった。書きかけては消し、端末を伏せ、また開いた。
結局、何も送らずに灯りを消した。
暗い部屋の中で、将軍の声を思い出した。一度でも自分の手で撃ったことがあるか。燃える船の中で、人がどういう声を出すかを知らない。
知らなかった。それは本当だった。
だが、知らないまま、二年間、数えてきた。何隻が、どこへ、いつ来られるか。その数を数えることで、ダーンは家へ帰り、アナクセスの曳船は動き、スルイス・ヴァンの三十四人は輸送船に乗った。将軍はそれを紙と呼んだ。
シーアは、寝台の上で目を開けたまま、軌道の新しい光を数えた。一つだった。明日の朝には、いくつになっているだろう。
*
C.R.C. 7955.089 ラクサス軌道
《アシュアランス》の搭載艇が、着陸場を離れた。
窓の下で、会場の公館が小さくなっていく。庭では作業員が、積まれていた配線を台車へ載せていた。一年以上、同じ場所に置かれていたものだった。署名式のために片付けているのではないことを、シーアは知っていた。何のために片付けているのかは、知らなかった。
艇が雲を抜けると、軌道に艦影が並んでいた。
連合の警備艦が、いつもの位置にいる。その向こうに、見慣れない大きな艦が一隻、新しく停泊していた。連合側の通知によれば、将軍の座乗艦だった。昨夜は一つだった光が、今朝は三つに増えていた。随伴艦が二隻、夜の間に到着していた。
トーリンは、艦橋で武官団を迎えた。
「出港の許可は取ってある。管制と警備側、両方から受領が返った」
「ありがとうございます」
「礼は要らん。前と同じ手順だ」
艦長は航法担当へ命じた。《アシュアランス》は泊地を離れ、指定された経路へ入った。
電子戦の表示に、捜索信号が映っていた。将軍の座乗艦からのものも、その中に混じっていた。火器管制の警告は出なかった。
二年前の到着の日、七十四秒間鳴り続けた警報は、今日は一度も鳴らなかった。あの日の照射の後に、訪問艦への追尾を制限する暫定措置が作られた。署名されない条約の、一番最初の成果だった。暫定措置は、まだ生きていた。
シーアは艦橋の後部で、遠ざかる惑星を見ていた。
持ち帰る箱の一番上に、自分の最終案の写しを入れてあった。頭文字の入った頁と、余白の一行。持ち帰る箱に入れるべきか、残していく箱に入れるべきか、最後まで決められなかった。結局、自分の手で持って艇に乗った。
ハイパースペースへの跳躍が近いことを、航法担当が告げた。
シーアは端末を開き、エレナへ送った。
《日取りは、決まらなかった》
送信の表示を確かめてから、次の一行を書いた。
《でも、帰る》
星の光が引き伸ばされ、ラクサスは見えなくなった。