TSボクッ娘は完璧な王子様系怪盗を演じたいようです。 作:最高司祭アドミニストレータ
赤ちゃん回は今回のみとなります。
それではご覧ください。
転生初日はおむつ着用
〇月△日
泥のような深い眠りから覚め、ボクは新しい人生のスタートラインに立っていた。
…立っていた、というのは比喩表現だ。実際には立つどころか、指一本ろくに動かせない。
前世で病室のベッドから本を読み漁っていた知識で、「人間の新生児は目が見えない」とは知ってはいた…が、いざ当事者になると不便極まりない。
視界はすりガラス越しのようにぼやけ、光と影のグラデーションしか分からないのだ。首を持ち上げようとしても、頭がまるでボウリングの玉のように重たく、布団にめり込むばかり。
十代の知性があるのに身体が微動だにしないこのもどかしさ。前途多難すぎる幕開けである。
〇月×日
視覚が役に立たないボクにとって、外界を観測する唯一のレーダーは「聴覚」だった。
部屋の奥から、
『──続いてのニュースです。今日の国会では、今後の経済政策について激しい議論が…』
日本語だ。紛れもなく、前世で聞き馴染んだボクの母国語だった。
よかった。剣や魔法が飛び交う物騒な異世界や、魔物が跋扈する過酷な未開の地ではないらしい。テレビがあり、国会があり、日本語が通じる現代文明。
病弱だった前世のボクにサバイバル能力など皆無なので、この文明社会スタートは心底ありがたい。
△月〇日
授乳タイム。
「くっふふ! 今日もよく飲んでるねェ。お腹が空いてたのかい?」
頭上から特徴的な笑い声が降ってくる。ボクを産み落としてくれた母親──アンタゴだ。
姿はまだ輪郭しか見えないが、差し出される温かいミルクは五臓六腑に染み渡る。前世の病室で味気ない流動食ばかりだったボクにとって、この温もりはまさに『女神の慈愛』そのものだった。
…ただ、時折ボクの頬をツンツンと小突いてくる指先が、どこか実験器具を確かめるような冷徹さを帯びているのが微かに気にかかる。
まあ、気のせいだろう。
△月×日
毎日のバスタイムは、もはや命懸けのエクストリーム・スポーツだ。
なぜなら、母さんは毎回「タオルで完全に目隠しをした状態」でボクの身体を洗ってくるからだ。
「くっふふ…見えなくても分かるよォ…」と呟きながら、盲目の達人のような神がかった手つきで湯船の縁ギリギリを攻めてくる。滑って浴槽にドボンと沈まないか、毎日ヒヤヒヤして生きた心地がしない。
そもそも前世は男だったとはいえ、今のボクは正真正銘の女の子だ。女同士なのになぜ目隠しをする必要があるのか。倫理観への配慮なのか、それとも単なる盲目トレーニングなのか。
この母親、底が知れなさすぎる。
×月〇日
生後二ヶ月が過ぎ、視力が少しずつ発達してきた。
部屋の輪郭が鮮明になり、リビングの壁に掛けられた大きなカレンダーの文字が読めるようになった。
白地に黒々と印字された数字。そこには、目を疑うような数字が刻まれていた。
『2010』
2010年!?
これは、ボクが前世の病室で息を引き取った年号。未来でも過去でもない。ボクは死んだその年。おそらく死んだのとほぼ同じ時間軸で、この身体に生まれ変わったのだ。
タイムスリップなしの同時代転生。世界のルールがそのまま通用するというのは、将来設計において最大の追い風だ。
×月△日
母さんがソファの横のサイドテーブルに、読みかけの雑誌を放置していった。表紙にはカラフルな見出しが躍っている。『週刊ホシナギ』『最新ファッション特集』。
活字中毒の気があるボクは、ベビーベッドの柵の隙間からその雑誌の「漢字」や「見出し」を夢中になって目で追っていた。活字が読めるって素晴らしい。
ふと、背筋にツッと冷たいものが走った。視線を戻すとソファの背もたれから母さんが顔を出し、怪しい色のエナジードリンクを片手に、白銀の瞳でジ〜っとボクの動きを観察していた。
「くっふふ」
なぜ笑う。ただの赤ん坊の気まぐれな視線誘導ですよ、と言わんばかりに慌てて天井を見つめ直した。
あの爬虫類のような観察眼は心臓に悪すぎる…っ。
〇月〇日
母さんが「ほら、おもちゃだよォ」と、プラスチック製の知育用ガラガラをベッドの中に放り込んできた。
振るとカラカラと安っぽい音が鳴る、絵に描いたような乳幼児用の玩具だ。
このボクが、そんなプラスチックの塊を振って喜ぶとでも思ったのだろうか。ボクはガラガラを一瞥しただけで完全に無視し、窓の外の雲の流れを優雅に眺め続けた。
直後、ベッドの横で「カチッ」とボールペンをノックする音がした。
見ると母さんがノートを広げ、何やら真剣な顔で数式じみたメモを走らせていた。赤ん坊におもちゃをスルーされた親が取るリアクションではない。
〇月△日
首すわりのトレーニングを開始した。うつ伏せになり、自力で重たい頭を持ち上げる訓練だ。怪盗として夜の闇を駆けるためには、強靭な首と体幹が必要不可欠である。
「ふんぬっ…!」と気合を入れ、腕に力を込めて頭を持ち上げようとする。
…が、持ち上がらない。
頭が重すぎる。首の筋肉が生まれたての子鹿並みに貧弱なため、数ミリ浮いた瞬間に力尽き、顔面から敷布団へとズブッと沈没した。鼻が塞がってリアルに窒息しかけた。
遠くで母さんが「おや、布団と同化したねェ」と呑気に笑っていた。
呑気に笑わないで助けてよ!
△月△日
よだれの決壊。
口腔周辺の筋肉が未発達なせいで、気がつくと口角から滝のようによだれが垂れ流れてしまう。
頭の中では「やあレディ、今夜の月は美しいね」と完璧な台詞を構築しているのに…ッ。
母さんに「くっふふ、大洪水だねェ」と笑われるたび、ボクの尊厳は音を立てて削り取られていっちゃうじゃないか!
×月×日
オムツ交換。
こればかりは、何回経験しても魂が砕け散りそうになる。
成人一歩手前まで生きた記憶を持ったまま、他人に下半身を丸出しにされ、手際よく綺麗に拭き取られて新しいオムツを当てられるのだ。
屈辱のあまり両手で顔を覆い、般若心経を唱える勢いで無の境地に逃避するボク。
そんなボクの羞恥心など知る由もなく、母さんは「はいはい、綺麗になったよォ」とパパッとテープを止めていく。早く…早く自立してトイレに行けるようになりたい…!
〇月×日
生後半年。奇跡の瞬間が訪れた。
寝返りの完全習得である!
腰をひねり、反動をつけて足を振り下ろすと、コロンと身体が回転し、視界が劇的に反転した。うつ伏せの状態でしっかりと自分の首を持ち上げ、リビングの全景を見渡す。
生まれた時のぼやけた視界、動かなかった手足。そこから半年、ボクは自らの力で世界を広げたのだ。
前世の病室では決して味わえなかった「身体を自力で動かす達成感」に、ボクは思わず「あーうー! (やったぞー!)」と歓喜の雄叫びを上げた。
△月〇日
離乳食の洗礼を受けた。
母さんが小さなスプーンで運んできたのは、人参とほうれん草とおかゆをすり潰した、緑色の謎のペーストだった。
見た目はかなり怪しいが、これも成長のためのエネルギーだ。前世の英国紳士のようにエレガントに味わおうと、口を小さく開けて迎え入れた。
…マズい。いや、マズいというか、素材の味そのまんますぎて味がしない!
思わず「ブフォッ!」と盛大に吹き出してしまい、母さんの白衣に緑色の飛沫が直撃した。彼女は無言で眼鏡を外し、怪しい薄ら笑いを浮かべながらティッシュで顔を拭いた。
「ほう? 吹き出しの初速度、仰角ともに素晴らしい軌道だねェ」
怒るポイントが完全に理系研究者のそれだった。命の危機を感じ、残りは全部泣きながら飲み込んだ。
×月〇日
ついに「ハイハイ」の猛特訓が実を結び、四つん這いで前進できるようになった!
頭の中の精神が「全速前進!」と号令をかけても、プニプニの短い手足は思うように連動せず、右手と右足が同時に出てバランスを崩す。膝がカーペットに擦れて熱い。
それでも自分の意思で行きたい方向へ移動できるというのは、震えるほど感動的な体験だった。
前世の病室では、ベッドから窓際までの数歩すら許されなかったのだ。リビングの絨毯は、今のボクにとって無限に広がる大冒険の荒野だった。
〇月△日
ハイハイによる探検の末、ついに部屋の最深部──テレビ台の下へと到達した。見上げる巨大なブラウン管画面には、朝のニュース番組が映し出されている。画面の隅に表示された日本地図、首都東京の位置、見慣れた気象衛星の雲画像。
どれをとっても、前世のボクの記憶と寸分の狂いもない。ここはパラレルワールドでも異世界でもない、正真正銘の「日本」だ。前世で培った常識や知識がそのままアドバンテージとして使える。ボクはテレビ台に手をかけ、心の中で不敵な笑みを浮かべた。
△月×日
本棚の最下段を物色し、埃をかぶった分厚い写真アルバムを引っ張り出すことに成功した。
器用に小さな手でページをめくると母さんの若い頃の写真や、見知らぬ街の風景が収められていた。
海と山に挟まれ、赤レンガの倉庫や古い洋館が立ち並ぶ、坂道の多い美しい港町。アルバムの余白には、几帳面な文字で『星凪市』と記されていた。
前世の記憶にはない地名だがこの起伏に富んだ地形、高低差のある建造物…!
素晴らしい! まるで怪盗がワイヤーアクションを繰り広げるために誂えられたような、立体都市じゃないか!
×月△日
探検に夢中になるあまり、ガラステーブルの鋭利な金属製の角に向かって勢いよくハイハイで突進してしまった。
(しまっ、頭を打つ!)と目を瞑った瞬間。
フワリと身体が浮き上がった。
「おや。危ないねェ」
気がつくとボクのロンパースの背中部分が、母さんの長い指によって片手でひょいとつまみ上げられていた。
彼女はソファに深く腰掛けたまま、手元のエナジードリンクを一滴もこぼすことなく、音もなく腕を伸ばしてボクを捕獲したのだ。
どんな動体視力と反射神経をしているんだ。この母親、ただの変人研究者ではない。身体能力のスペックが異常すぎる。
〇月〇日
テレビを使った母さんの「実験」が行われた。
母さんはリモコンを操作し、幼児向けのアニメ番組と、国会の党首討論の生中継を交互に切り替えてボクの反応を試してきたのだ。
アニメは色彩がチカチカして目が疲れるので視線を逸らしていたのだが、国会中継に切り替わった瞬間、ボクは知的好奇心からついつい身を乗り出して画面を凝視してしまった。
背後から「カシャリ」とポラロイドカメラのシャッター音が響いた。振り返ると、母さんが『政治経済に強い関心を示す生後八ヶ月』と書かれたラベルを写真に貼り付けていた。
罠だった。完全に罠に引っかかった…。
△月△日
ベビーカーに乗せられて近所をお散歩。すれ違った近所の優しそうな奥様が、「あら〜! 色白でとっても可愛い赤ちゃんでちゅね〜!」と笑顔で声をかけてくれた。
ボクは完璧なアイドルスマイルを返してあげた。
が、後ろでベビーカーを押していた母さんが、いつもの薄ら笑いでこう言い放ったのだ。
「ええ、とても観察しがいのある面白い個体ですよォ」
奥様の顔が引きつり、「あ、お大事に…」と足早に逃げ去っていった。
頼むから世間一般の「母親の擬態」をしてくれ。ボクまで変人だと思われるじゃないか。
×月×日
小児科で初めての予防接種を受けた。
ボクにとって、注射針の痛みなど恐るるに足りない。前世の病室では毎日点滴と採血の嵐だったのだ。「フッ、ボクを泣かせられるかな?」と余裕の笑みで腕を差し出した。
プスッ。
──ギョエエエエエッ!? 痛い! 痛すぎる!!
赤ん坊の皮膚と痛覚神経、敏感すぎるだろ!
ボクの大人のプライドは光の速さで消滅し、待合室中に響き渡る声で「ぎゃあああん!」と全力で号泣した。
〇月×日
一歳を迎え、ついにソファを使った「つかまり立ち」に成功した!
△月〇日
一歳半。足腰が安定してきたと同時に、ボクの中で「言葉を話したい」という強烈な欲求が爆発寸前になっていた。
思考だけなら完璧な語彙力があるのだ。大人と対等に議論がしたい。
テレビでちょうど国会議事堂が映っていた。
ボクはソファでエナジードリンクを飲む母さんに向かい、「ねえ母さん、あれは現代の権力の象徴たる国会議事堂だね。あの中で繰り広げられる政治劇についてキミの意見を聞きたいな」と、知的な問いかけを放とうと息を吸い込んだ。
「あれ、なぁに?」
絶望した。脳内から口元へ出力される回路で、高度な日本語がすべて幼児語へと強制変換されてしまうのだ。
母さんはテレビを一瞥し、「あれはこの国で一番偉い人たちが集まってお話をする場所だよ」と、皮肉混じりに教えてくれた。
バカにせず教えてくれたのはありがたいが、自分の舌足らずさが情けなくて泣きたくなる。
×月〇日
ふと思うことがある。たまには…ほんの少しだけでいいから、絵本に出てくるような「優しいお母さん」に、よしよしと無条件で甘やかされてみたい。
前世では家族の温もりを知らず、ベッドの上で一人で過ごす時間が長かった。だからこそ、この赤ん坊という生き物の本能も相まって、無性に人肌恋しくなる瞬間があるのだ。
ボクはおずおずと、パソコン作業中の母さんの足元へすり寄り、服の裾をキュッと引っ張ってみた。構ってアピールだ。
母さんはカタカタとキーボードを叩く手を止め、椅子の上からボクを見下ろした。
「…ん? なんだい、糖分が足りないのかい? 私のエナジードリンクを一口飲むかい?」
「う、うあー!(違うそうじゃない!)」
猛毒のような緑色の液体を差し出され、ボクは全力でハイハイして逃げ出した。この人に母性を求めたボクが愚かだった。
〇月△日
生まれてから一年半。
ボクの第二の人生は、思い通りにいかないことの連続だ。走ることもできない。満足に喋ることもできない。よだれは垂れるし、オムツは外れない。母親はマッドサイエンティストの気配しかしない。
でも──。
ボクは今、確かに生きている。
息を吸っても肺は痛まない。心臓は元気に脈打っている。毎日少しずつ、確実に手足が大きくなっている。前世であれほど欲しくてたまらなかった「健康な身体」が、ここにあるのだ。
(見ていろよ、世界。この身体を完璧に乗りこなせるようになったその日こそ、ボクの華麗なるショーの幕開けだ!)
ボクはふかふかのカーペットの上に立ち上がり、テレビの向こうの未来へ向けて、心の中で不敵に笑ってみせた。
…まあその前にまず、明日の離乳食を完食しなければならないのだが。
投稿時間の相談です。
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