声を聞いた者もいなかった。空が割れたわけでも、海が赤く染まったわけでもない。
ただ、その瞬間、地球上のすべての生き物が一つのことを知った。
南極に、何かがある。
それを使えば、過去を見ることができる。あるいは、未来を見ることができる。どちらか一方だけ。一度選べば、もう一方は永遠に失われる。
神が現れた日、誰も神を見なかった。
声を聞いた者もいなかった。空が割れたわけでも、海が赤く染まったわけでもない。
ただ、その瞬間、地球上のすべての生き物が一つのことを知った。
南極に、何かがある。
それを使えば、過去を見ることができる。
あるいは、未来を見ることができる。
どちらか一方だけ。
一度選べば、もう一方は永遠に失われる。
なぜ知っているのかと聞かれても、誰も説明できなかった。
頭の中に声が響いたわけではない。文字を読んだわけでもない。まして緯度や経度を教えられたわけでもない。
ただ、そちらが分かった。
渡り鳥が海の向こうを目指し、鮭が生まれた川へ戻る。それに近いのではないか、と生物学者は説明した。
もっとも、鳥や鮭に尋ねた者はいない。
その日のうちに、世界中の研究機関が動き出した。
神経科学者は人間の脳を調べ、物理学者は宇宙線や電磁波を測定した。精神科医は集団幻覚の可能性を検討し、各国の軍は衛星を南極へ向けた。
人間だけなら、まだ説明のしようがあったかもしれない。
だが、動物たちも動き始めた。
渡り鳥の一部が渡りの経路を外れた。
鯨の群れが南へ向かった。
南極では、ペンギンたちが同じ場所へ集まり始めた。
「こいつらも分かってるんだよな」
ホワイトハウス地下の会議室で、エドワード・グラント大統領は衛星映像を眺めていた。
白い氷原を、黒い点がいくつも動いている。
「少なくとも、偶然とは考えにくいです」
隣に立つダニエル・ハートが答えた。
四十八歳。量子情報を専門とする物理学者で、大統領科学顧問になってから三年になる。世界中の科学者から届く報告をまとめるため、この三日間ほとんど眠っていなかった。
「犬も?」
「異常行動が確認されています」
「鯨は?」
「南下している群れがあります」
グラントは画面を見た。
「ペンギンは……まあ、見れば分かるか」
一羽が転んだ。
腹を氷につけたまま少し滑り、何事もなかったように立ち上がった。
グラントが笑った。
「未来を見たいのかな」
「なぜです?」
「明日の魚の場所が分かる」
「昨日の魚がよほど美味しかったのかもしれません」
グラントは声を出して笑った。
それから映像を止めた。
画面の中で、ペンギンが片足を上げたまま静止した。
「神、か」
ハートは返事をしなかった。
「君は神だと思う?」
「科学者としては判断できません」
「神じゃないと思う?」
「それも判断できません」
「便利だな、科学者は」
「最近よく言われます」
グラントは椅子にもたれた。
彼は敬虔な信者ではなかった。
子供の頃は母親に連れられて教会へ通った。大人になってからはクリスマスと選挙前くらいしか行かなくなった。神がいるのかと尋ねられれば、「いても驚かない」と答える程度だった。
だが、今は違った。
人間だけなら、未知の脳現象と言えたかもしれない。
鳥だけなら、地磁気の異常を疑えたかもしれない。
人間も、犬も、鯨も、鳥も、ペンギンも、同じ瞬間に同じ何かを知った。
それを奇跡と呼ぶ人間を、以前のようには笑えなかった。
「今後、これを神と呼ぶ人間を笑うな」
ハートが振り向いた。
「命令ですか?」
「いや」
グラントは停止したペンギンを見た。
「俺がもう笑えないだけだ」
黒い物体が発見されたのは、その二日後だった。
南極の氷の下、世界中の生き物が知っていた場所に、それは埋まっていた。
高さは成人男性の胸ほどだった。
石にも見えた。
金属にも見えた。
だが、そのどちらでもなかった。
表面には継ぎ目も傷もない。
削れない。
溶けない。
凍らない。
電気を流しても、磁場をかけても、放射線を照射しても、何も起きない。
年代も分からない。
地球上に存在する元素からできているのかさえ、まともに判定できなかった。
それでも、それを初めて見た研究員たちは同じことを言った。
これだ。
誰に教えられたわけでもなかった。
自分たちが南極にあると知っていたものは、これだ。
人類はそれを「鍵」と呼んだ。
やがて、鍵についてもう一つのことが分かった。
正確には、思い出した、と言うべきなのかもしれない。
誰もが最初から知っていたのに、あまりにも異常なため、理解するまで時間がかかった。
鍵は、一人に過去や未来を見せるものではない。
一度だけ作動する。
過去か、未来か。
どちらかが選ばれた瞬間、その作用は地球上のすべての生き物に及ぶ。
人間だけではない。
犬も。
鳥も。
魚も。
昆虫も。
誰が選ぶかは関係ない。
誰が同意したかも関係ない。
一人が決めれば、全生命が見る。
そして一度作動すれば、もう一方を選ぶ機会は永久に失われる。
最初に大規模な基地を建設したのはアメリカだった。
南極の領有権とは別に、輸送能力と軍事力を背景に施設を急速に拡張し、鍵を事実上の管理下に置いた。
世界は反発した。
当然だった。
これはアメリカに与えられたものではない。
人類に与えられたとさえ言い切れない。
神が与えたのだとすれば、神は国境を知らなかった。
それでもアメリカは鍵を手放さなかった。
「三割は国益だ」
ある日の会議で、グラントが言った。
ハートは資料から顔を上げた。
「何の話です?」
「鍵を手放さない理由だよ」
グラントは南極基地の映像を指した。
「過去か未来か。いつ使うか。最後に決められる場所を持っている。それだけでも大きい」
「作動すれば、アメリカだけが情報を得るわけではありません」
「分かってる。全生物だ」
「未来を独占することはできません」
「未来はな」
グラントは黒い物体の拡大写真を開いた。
「でも、こいつは別だ」
世界中の研究機関が鍵を欲しがっていた。
もし原理の一部でも分かればどうなるか。
全生命へ同時に作用する技術。
過去や未来へ接触する技術。
既存の物理学を根底から覆す何か。
兵器、通信、医療、エネルギー。
何に応用できるのかさえ分からないからこそ、各国は恐れた。
「もし他国が持っていて、向こうだけが解析に成功したら?」
グラントが聞いた。
「現在まで、解析できる兆候はありません」
「現在まで、だろ」
「はい」
「十年後は?」
「分かりません」
「百年後は?」
「分かりません」
グラントは苦笑した。
「ほら。それだけで手放せない」
すでに何千回もの実験が行われていた。
削ろうとした。
削れなかった。
レーザーを当てた。
変化しなかった。
極端な高温と低温にさらした。
何も起きなかった。
表面を原子単位で観測しようとした。
結果は、理解を深めるどころか「何を測定しているのか分からない」という報告を増やしただけだった。
「それが三割」
ハートが言った。
「ああ」
「残り七割は?」
グラントは画面の中の鍵を見た。
「怖いんだ」
「他国に奪われることが?」
「それだけじゃない」
グラントは首を振った。
「誰かが押すことだ」
ハートは黙った。
「国じゃなくていい。宗教団体でも、金持ちでも、狂人でも、ただ好奇心に負けた奴でもいい」
「はい」
「そいつが未来を選んだ瞬間、俺も見る」
「はい」
「君も」
「はい」
「八十億人全員」
「人間だけではありません」
グラントは窓の外を見た。
基地の外にペンギンの群れがいる。
「あいつらもか」
「はい」
グラントはしばらく黙っていた。
「アメリカが持っているのが正しいとは言わない」
「……」
「でも、誰かが持たなきゃならないなら、俺は自分の目の届かないところに置いておきたくない」
ハートはグラントを見る。
「他の国の指導者も、同じことを言うと思います」
グラントは笑った。
「それが一番困るんだよ」
国際会議が始まった。
議題だけを見れば、単純だった。
過去か。
未来か。
当初は未来を支持する者が多かった。
次の巨大地震を知る。
新しい感染症を知る。
戦争を知る。
まだ発見されていない治療法を知る。
百年後の科学技術を見る。
人類がどこまで進歩するのかを見る。
そして何より、人類がいつまで存在するのかを知る。
「私でも未来を選ぶと思う」
グラントが言った。
「過去を見ても、起きたことは変えられない」
会議に招かれていた哲学者が手を挙げた。
「大統領。一つよろしいですか」
「どうぞ」
「未来なら変えられると、誰から聞きました?」
グラントは一瞬、質問の意味が分からなかった。
「未来が分かるんだろう。悪いことが起きるなら避ければいい」
「避けられる未来なら、そうです」
「避けられない未来がある?」
「その可能性があります」
グラントはハートを見る。
ハートは少し考えた。
「明日の正午、大統領が赤いネクタイをしている未来を見たとします」
「だったら青を着ける」
「普通はそうします」
「なら未来は変わる」
「変えられるなら」
グラントは眉を寄せた。
「変えられないなら?」
「何らかの理由で、結局あなたは赤を着ける」
「青を選べるのに?」
「青を選んで未来を変えようとすることまで、最初から未来に含まれているのかもしれません」
グラントは黙った。
「それは、かなり気味が悪いな」
未来について彼が恐怖を口にしたのは、それが初めてだった。
それでも未来には価値がある。
別の日、一人の医師が言った。
「一時間後に大統領が死ぬとします」
「最近、この会議で何度も殺されるな」
笑いが起きた。
「しかも、絶対に避けられません」
「最悪だ」
「ただし、今それを知ることができます」
グラントは少し考えた。
「家族に電話する」
「はい」
「言いたかったことを言う。必要な指示も出す」
「つまり、結果を変えられなくても、未来を知ることには意味がある」
グラントは頷いた。
未来が固定されていても、知ることには価値がある。
議論は再び未来へ傾いた。
そのとき、先ほどの哲学者が言った。
「もう一つあります」
グラントは嫌そうな顔をした。
「今度は何だ」
「我々は、未来を見るという言葉の意味を知りません」
「未来を見ることだろう」
「映像を見るのですか?」
グラントは答えかけて、止まった。
「違うのか?」
「誰もそう教えられてはいません」
会議室が静かになった。
哲学者はホワイトボードの前に立った。
「十秒後を見るとします」
今、と書いた。
その右に、十秒後。
「ただし映画を見るように未来を眺めるのではない。十秒後の自分自身として、その時間を体験するとしましょう」
「十秒後の俺になる?」
「そうです」
「それで?」
「十秒後のあなたも未来を見ていたら?」
グラントは少し考えた。
「さらに十秒先を見る」
哲学者はその右に、二十秒後、と書いた。
「二十秒後のあなたも同じことをしていたら?」
三十秒後。
四十秒後。
五十秒後。
文字が横に伸びていく。
「それでも、いつか私は死ぬ」
グラントが言った。
「そこで終わる」
「普通に時間が流れているなら」
「その言い方はやめてくれ。嫌な予感がする」
何人かが笑った。
哲学者は最初の「今」を指した。
「今のあなたが未来視を終えるには、十秒後のあなたの体験が終わる必要があるとします」
「分かった」
「十秒後のあなたは、二十秒後を見ている」
「なら、それが終わるのを待つ」
「二十秒後のあなたは三十秒後を見ている」
グラントの顔から笑いが消えた。
哲学者は四十秒後の右に、さらに線を引こうとした。
「待て」
手が止まった。
グラントはホワイトボードを指した。
「じゃあ、最初の俺はいつ戻る?」
誰も答えなかった。
「いつ目を開ける?」
哲学者はペンを置いた。
「分かりません」
外から見れば、一秒後に目を開けるかもしれない。
その可能性もある。
「なら問題ないじゃないか」
グラントが言った。
「戻ってきたあなたにとっては」
哲学者はボードにAとBを書いた。
Aは、一秒後に会議室で目を開けた自分。
Bは、未来を体験している自分。
「同じ俺だろ」
「そうかもしれません」
「そうじゃないかもしれない?」
「分かりません」
「Bはどうなる」
「未来を見ています」
「その未来で?」
「さらに未来を見る」
「その先は?」
哲学者は答えなかった。
グラントはBを見つめた。
「宇宙が終われば?」
「最後の未来視が終わるのを、その一つ前のあなたが待っているとしたら。その一つ前を、さらに前のあなたが待っているとしたら」
「宇宙が終わっても?」
「最初のあなたまで戻ってこられるとは限りません」
グラントは椅子の背にもたれた。
「苦しいのか」
「分かりません」
「眠れる?」
「分かりません」
「気が狂ったら終わる?」
「分かりません」
グラントはしばらく黙った。
「死ねる?」
哲学者はすぐには答えなかった。
「死ねるなら、まだ救いがあります」
その瞬間、誰かが手にしていたペンを落とした。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
翌朝、「未来牢」という言葉が世界中を駆け巡った。
もっと長い呼び名も生まれた。
不老不死の自我の終身刑。
科学者たちは、その呼び方を嫌った。
未来視が主観的な体験だという証拠はない。意識がAとBに分かれる証拠もない。未来の自分がさらに未来を見るとは限らない。
仮定の上に仮定を重ねた思考実験にすぎない。
それでも、人々は怖がった。
起きる証拠がないことと、起きない証拠があることは違う。
しかも、実験はできない。
一人だけ未来を見せて様子を見ることはできない。
鍵を作動させた瞬間、それが最初で最後の本番になる。
人間も。
犬も。
鯨も。
鳥も。
虫も。
海底の生き物も。
全生命を被験者にした、一度きりの実験になる。
同じ頃、世界では別の言葉が広まり始めていた。
方舟。
ノアの方舟だった。
最初に言い出したのが誰なのかは分からなかった。熱心なキリスト教徒だったとも、宗教とは無縁の大学生だったとも言われた。
その考えは、信仰のない人々にも広がった。
理由は単純だった。
なぜ、未来を見る力なのか。
見る必要のある未来があるからではないのか。
そして、なぜ今なのか。
なぜ二〇二六年なのか。
国際会議に招かれた宗教学者が言った。
「ノアの物語では、洪水が来ることを知らされました」
「今回は何も聞いていない」
グラントが答えた。
「そうです」
「方舟らしきものだけ置いていった?」
「これが方舟なら」
グラントは鍵の写真を見る。
「未来を見れば、洪水が来るかどうか分かる」
「おそらく」
「でも、未来を見ること自体が危険かもしれない」
「そうです」
グラントは椅子にもたれた。
「ずいぶん不親切な神だな」
「贈り物なのかもしれません」
「罠かもしれない」
「試されているのかもしれません」
以前のグラントなら、その言葉を聞いて笑ったかもしれない。
今は笑えなかった。
「俺は神を信じてるのかな」
誰にともなく言った。
ハートが答えた。
「私に聞かないでください」
「科学顧問だろ」
「専門外です」
グラントは少し笑った。
「ただ」
ハートが続けた。
「神ではないと言い切れるほど、我々はこれを理解していません」
グラントは窓の外を見た。
ペンギンたちがいる。
「ノアの船にも動物が乗ったな」
誰も答えなかった。
その夜から、グラントは時計を見るようになった。
午前三時十七分。
眠れずに、ハートへ電話をかけた。
「大統領?」
『未来が固定されているとする』
ハートはベッドから起き上がった。
「はい」
『明日の俺は、今の俺を覚えているんだよな』
「普通に考えれば」
『なら、明日の俺にとって、この電話はもう過去なんだ』
「そうなります」
沈黙があった。
『妙な感じだ』
「寝たほうがいいですよ」
『もう一つ』
「はい」
『未来の俺が未来を見ていたら、そいつも今の俺のことを覚えてるのか』
ハートは答えを探した。
見つからなかった。
『いや、いい』
電話が切れた。
翌朝の会議で、グラントは何度も時計を見た。
一秒進む。
さっきまで未来だった一秒が過去になる。
また一秒。
また一秒。
未来がこちらへ近づいてくるのではない。
自分のほうが、そこへ落ち続けているように思えた。
数日後、グラントはハートに言った。
「未来牢なんて、使わなくても入れるのかもしれないな」
「どういう意味です?」
「見ろよ、俺たちを」
机には未来についての報告書が積み上がっていた。
「朝から晩まで、まだ起きてもいないことの話しかしてない」
未来が怖いのなら、過去を選べばいい。
そう主張する人々が増えた。
過去なら、すでに起きている。
人類の起源。
失われた文明。
歴史上の未解決事件。
生命が誕生した瞬間。
地球の形成。
宇宙の始まり。
過去から自然の法則を学べば、未来を予測することにも役立つ。
安全保障担当の補佐官は、もっと現実的な理由から過去を支持した。
「過去を選べば、未来視という危険そのものを消せます」
グラントは彼を見る。
「未来を軍事利用する国もいなくなる」
「使えないんですから」
「鍵を奪う理由も減る」
「少なくとも未来を見るためには」
グラントはハートを見た。
「それが一番安全か?」
ハートは黙った。
「その顔をするたびに話が悪くなるな」
「過去が安全だとは確認されていません」
「過去まで何が怖いんだ」
神経科学者が答えた。
「見る量を選べるとは限りません」
「どういう意味だ」
「昨日の朝食だけを見ることができるなら、問題は小さいでしょう」
「できなかったら?」
「過去そのものを受け取る可能性があります」
昨日。
百年前。
一万年前。
恐竜の時代。
生命の誕生。
地球の形成。
宇宙の始まり。
グラントは顔をしかめた。
「全部?」
「可能性の話です」
「人間の脳に?」
「はい」
「耐えられるのか?」
「分かりません」
「壊れる?」
「否定できません」
「全員が?」
神経科学者は答えなかった。
答える必要もなかった。
グラントは窓の外を見た。
ペンギンがいた。
「未来を選べば、全生物を終わらない未来に閉じ込めるかもしれない」
誰も口を挟まなかった。
「過去を選べば、全生物の頭に宇宙の歴史を流し込むかもしれない」
「どちらも最悪の場合の仮説です」
ハートが言った。
「分かってる」
グラントは額を押さえた。
「説明書くらいつけてくれてもよかっただろ」
「なら、使わなければいい」
宗教学者が言った。
その意見は以前からあった。
神は力を与えた。
しかし、使えとは言っていない。
鍵を封印する。
誰にも触れさせない。
人類は昨日まで、過去も未来も見ずに生きてきた。
なら明日も、それでいい。
グラントも、その案には惹かれた。
「それでいいんじゃないか」
安全保障補佐官が首を振った。
「誰が守るんです?」
「国際社会だ」
「いつまで?」
「必要なだけ」
「百年?」
グラントは答えなかった。
「千年?」
「その頃には、新しい組織ができている」
「その組織を信用できる保証は?」
「なら監視を――」
「大統領」
補佐官が遮った。
「一人でいいんです」
グラントは黙った。
「世界中の人間が使わないことに同意しても、一人でいい」
病気の子供を救いたい親。
未来の市場を知りたい投資家。
神から命じられたと信じる者。
戦争に勝ちたい国家。
世界の終わりを見たい者。
あるいは、ただ知りたいと思った誰か。
その一人が鍵までたどり着けばいい。
「だから過去を選ぶべきです」
補佐官は言った。
「今、未来という選択肢そのものを消す」
宗教学者が首を振った。
「我々にそんな権利があるのでしょうか」
「未来視そのものが兵器になり得ます」
「人間の話ではありません」
補佐官が眉をひそめた。
宗教学者は窓の外を指した。
ペンギンがいた。
「あの生き物に、過去を見たいか聞きましたか」
「そんなことは不可能です」
「そうです」
宗教学者はグラントを見る。
「では、なぜ我々が決めていいのでしょう」
誰も答えなかった。
人間が鍵を発見した。
人間が基地を建てた。
人間が鍵を囲った。
人間がPASTとFUTUREという文字を書いた。
人間が会議を開いた。
けれど、鍵が作用する相手は人間だけではない。
「神は」
グラントがゆっくり言った。
「人間に渡したわけじゃないのか」
ハートが答えた。
「少なくとも、そう考える根拠はありません」
グラントは窓の外を見る。
「勝手に代表になっただけか」
そこで宗教学者が言った。
「もう一つ、気になっていることがあります」
グラントは彼を見る。
「何だ」
「我々は先ほどから、百年後や千年後の話をしています」
「それが?」
「百年後の人類なら鍵を理解できるかもしれない。だから、それまで待てばいい」
「合理的だと思うが」
「百年後が来るなら」
誰も動かなかった。
グラントの表情が変わった。
「どういう意味だ」
「なぜ二〇二六年なのでしょう」
また、その問いだった。
「神が存在するのか、これが神の意思なのか、私には分かりません。しかし仮に、これが方舟なのだとしたら」
「洪水か」
「はい」
宗教学者は静かに続けた。
「我々はなぜか、洪水が遠い未来に来ると思っています」
「……」
「百年後かもしれない」
グラントは鍵の写真を見る。
「十年後かもしれない」
誰も動かなかった。
「一か月後かもしれない」
グラントが顔を上げた。
「明日かもしれない?」
宗教学者は答えなかった。
安全保障補佐官が口を開いた。
「根拠がない」
「ありません」
宗教学者はあっさり認めた。
「明日、人類が滅びるという証拠はどこにもありません」
「なら――」
「同じように、明日も人類が存在するという保証はありません」
会議室が静まり返った。
「もし明日、我々がまだ知らない何かが起きるとして」
宗教学者は鍵を見る。
「今日、未来を見ることができたなら」
グラントが言った。
「防げたかもしれない」
「そうです」
「でも、未来を見たせいで全生命が未来牢に落ちるかもしれない」
「そうです」
「使わなければ?」
「何も起きないかもしれません」
「起きるかもしれない」
「はい」
グラントは長く息を吐いた。
「結局、何も教えてくれないんだな」
宗教学者は首を振った。
「一つだけあります」
「何が?」
「これが」
彼は鍵の写真を指した。
「今、ここにあるということです」
その夜、グラントはまた眠れなかった。
午前三時十七分。
時計を見る。
三時十八分。
あの日、神と呼ばれる何かが現れた理由を考えた。
百年前では駄目だったのか。
恐竜の時代では駄目だったのか。
人類が生まれる前では駄目だったのか。
なぜ、自分が大統領をしている、この年なのか。
明日、何かが起きるからなのか。
それとも、何も起きないのか。
考えているうちに三時十九分になった。
三時二十分。
グラントは笑った。
未来を見ないための会議を続けながら、世界中が未来のことしか考えられなくなっている。
三時二十一分。
彼は時計を伏せた。
最終会議の前夜、グラントとハートは二人で鍵を見ていた。
厚いガラスの向こうに、黒い物体がある。
世界最高水準の研究者が集められた。
膨大な予算が使われた。
二十四時間、実験が続けられた。
それでも最初の日から、ほとんど何も進んでいない。
「百年研究したら分かると思うか?」
グラントが聞いた。
「分かりません」
「千年なら?」
「それも分かりません」
「君たち科学者、本当にその言葉が好きだな」
「分からないものを分かったと言うよりは」
「それはそうだ」
グラントはガラスの向こうを見る。
「これ、贈り物だと思うか?」
「分かりません」
「それもか」
グラントは笑った。
「俺は最初、そう思った」
「はい」
「次に、方舟なんじゃないかと思った」
「はい」
「最近は試験なんじゃないかと思うことがある」
「神が人間を?」
グラントは首を振った。
窓の外にペンギンがいた。
「人間だけじゃないのかもしれない」
しばらく二人とも何も言わなかった。
「馬鹿みたいだろ」
「何がです?」
「アメリカ大統領と物理学者が、神の意図を話してる」
「世界中の生き物が同じ機械の影響を受けるんです。今さらでしょう」
グラントは少し笑った。
「ノアは楽だったのかな」
「楽?」
「洪水が来るって教えてもらえた」
「ああ」
「少なくとも、何を怖がればいいかは分かった」
目の前の鍵は何も教えない。
未来を見ろとも言わない。
過去を見ろとも言わない。
使うなとも言わない。
グラントはガラスに近づいた。
「神は一度だけ答えたのかもしれないな」
「何にです?」
「さあな」
黒い表面に、自分の姿がぼんやり映っていた。
「二度目は、何も答えてくれない」
翌日、世界中が南極からの中継を見ていた。
鍵の前には、人間が作った二つの装置が置かれていた。
PAST。
FUTURE。
文字も、ボタンも、配線も人間が作った。
その間にある黒い物体だけが、人間のものではなかった。
グラントは鍵の前に立った。
過去。
未来。
過去を選べば、未来視という危険を消せる。
その代わり、地球上の全生命に何が起きるか分からない。
未来を選べば、明日起きる災厄を知るかもしれない。
人類を救えるかもしれない。
あるいは、人間も動物も、未来の中へ永遠に置き去りにするかもしれない。
使わなければ、今日は何も起きない。
だが鍵は残る。
明日も。
十年後も。
百年後も。
――そこまで世界が続けば。
グラントは右手を上げた。
二つのボタンの間で、手が止まった。
世界中が待っていた。
彼は過去を見たかった。
人類がどこから来たのか知りたかった。
彼は未来を見たかった。
明日も人類が存在するのか知りたかった。
そして何より、何も見たくなかった。
指一本で、全生命の運命を決めたくなかった。
長い時間が過ぎた。
やがて、グラントの手が下がった。
「選ばない」
誰かが息を吐いた。
「今は、選ばない」
ハートが彼を見る。
「理由を聞いても?」
グラントは二つのボタンを見た。
「分からなすぎる」
それは演説というより、告白に近かった。
「百年後なら、もっと分かっているかもしれない。鍵の仕組みも、未来が変えられるのかも、過去を見ることで何が起きるのかも」
ハートは黙っている。
「そのときの人間に任せる」
「いつです?」
「何?」
「十年後ですか。百年後ですか」
「分からない」
「その人たちは、我々より賢いでしょうか」
「そう願う」
「我々より慎重でしょうか」
「そう願うよ」
ハートは少し迷った。
それでも尋ねた。
「その人たちは、本当にいるんでしょうか」
グラントの視線が止まった。
誰も言葉を発しなかった。
なぜ二〇二六年なのか。
その問いだけが残った。
その夜、人類は鍵を封印した。
永久にとは決めなかった。
十年とも、百年とも決めなかった。
次にいつ議論するのかも決めなかった。
今は使わない。
決まったのは、それだけだった。
世界中で中継を見ていた人々は安堵した。
誰も未来牢に落ちなかった。
誰の脳も壊れなかった。
鳥は飛び、魚は泳ぎ、人々は夕食を食べた。
子供を寝かしつけた。
明日の目覚ましをセットした。
明日の予定を確認した。
いつものように、「また明日」と言って別れた。
少なくとも、その夜は何も起きなかった。
基地を離れる前、グラントは一人で外へ出た。
風が強かった。
遠くにペンギンの群れがいる。
しばらくしてハートも出てきた。
「寒くないですか」
「寒い」
「中に戻りましょう」
「もう少し」
一羽のペンギンが群れを離れた。
短い脚で、ゆっくり歩いている。
「ハート」
「はい」
「あいつに聞けたらな」
「何をです?」
「過去と未来、どっちがいいって」
ハートはペンギンを見る。
「答えてくれるでしょうか」
「案外、魚のことしか考えてないかもしれない」
「そのほうが幸せかもしれません」
グラントは少し笑った。
「最初の日、俺も同じこと言ったな」
「覚えています」
二人はしばらくペンギンを見ていた。
「俺たちは未来を見るのが怖くて、未来の人間に決めさせることにした」
グラントが言った。
「はい」
「卑怯だったかな」
「私には分かりません」
「そう言うと思った」
グラントは白い息を吐いた。
「でも、決められなかった」
その声は風に消えそうなほど小さかった。
「大統領でも?」
「大統領だから決められると思うか?」
ハートは答えなかった。
ペンギンはまだ歩いている。
グラントが空を見上げた。
「明日も晴れるかな」
「南極の天気なら予報があります」
グラントは笑った。
「そういう意味じゃない」
ハートは何も言わなかった。
遠くで低い音がした。
氷の割れる音だった。
二人が同時に振り返った。
何も起きていない。
白い氷原が、どこまでも続いているだけだった。
グラントはしばらくその景色を見ていた。
「神はどう思ってるんだろうな」
返事はなかった。
「行きましょう」
ハートが言った。
グラントは頷いた。
二人が基地へ戻り始めても、ペンギンはまだ歩いていた。
鍵へ向かっているのか。
海へ帰るのか。
最後まで分からなかった。
その夜、人類は未来を見なかった。
翌朝のことは、まだ誰も知らない。
次回もよろしくね