悪徳の都に浸かる   作:晃甫

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017 TOKYO SHOCK

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 鷲峰組の台所に、まな板の上で食材を素早く刻んでいく男の姿があった。

 松崎銀次だ。高市の時のようなロングコートは当然脱いでおり、板前のような格好で台所に立っている。その隣には若頭、坂東の姿もあった。どうやら二人は鍋物を作っているようで、ぐつぐつと煮え立つ出汁の中へ白菜や豆腐、鶏肉なんかを順に投入している。

 そんな中、スーパーの袋を漁る坂東が口を開く。

 

「……銀公よ。あのロシア人ども、悪党どころか怪物や」

「なんだってあんな連中を引き込みなすったんで、若頭(カシラ)

 

 鍋の火加減を確かめながら、銀次はそう返す。坂東も視線は前を向いたまま会話を続けた。

 

「香砂会を黙らすには力が足りん。いくら和平会の決定に反するとは言え、既成事実を作ってしまえば手打ち金やらで片はつく」

「……外の連中は信用ならねえ。よっくわかってた筈でしょうや」

 

 坂東の決定を、銀次は未だ認めてはいない。

 このまま現状が変わらなければ鷲峰組は香砂会に潰される。そんなことは銀次も良く分かっていた。

 しかしここで反旗を翻せば、雪緒をも危険に巻き込む可能性がある。前組長の娘を、銀次は決してこんな泥沼の世界に引き摺り込みたくは無かった。

 その考えは坂東にも理解できる。しかしここで手を拱いている場合ではなかった。事態は既にそこで悩むような段階では無かったのだ。手段になど拘っていればあっという間に組は崩壊する。それが分かってしまったからこそ、動かざるを得なかった。

 坂東も銀次も、互いの考えは痛いほどに理解していた。 

 ただ、重きを置く視点が違っただけのこと。

 

「……ほんなら座して死を待つか? 香砂会はワシらが必死で拓いてきた縄張り(シマ)、根こそぎかっ浚うつもりやで」

 

 組を守ろうとする坂東と、雪緒を守ろうとする銀次。二人が守ろうとするものはどちらも大切で、どちらもたった一つしか存在しない掛け替えのないものだ。

 故に彼らは譲れない。それが結果的に組に反すると知っていながら、それでも尚戦うことを諦めない。

 

「香砂ンとこの組長就任会。あれでハッキリ分かった。盃はもう、保証にはならへん」

「……若頭、味醂を取っていただけやすか」

「おいよ。……正直参るわなぁ、香砂会を潰したところで上におるのは関東和平会。関八州の任侠組織が結集して作られた連絡会や、逆らう極道はどこにもおれへん」

「香砂会に楯突きゃあいずれはそうなる。分かってたことじゃあねえですかい」

 

 言われ、坂東は小さく息を吐いた。

 

「当然や。しかしな、そういうのを気にせん連中もおる。例えばあのロシア人どもや、えらいこっちゃで」

 

 ホテル・モスクワ。

 ロシアに本拠地を持ち世界各地に支部を持つ巨大マフィア。

 バラライカをこの地へ招いたことは、もしかしたら失敗だったのかもしれない。そう思いはするが、坂東は決して口には出さなかった。口に出してしまえば、もう二度と後戻りはできないような気がしてならなかった。

 

 

 

 19

 

 

 

「ベニーかい。必要なものは大体買い揃えたよ。他に何か足りないものは?」

『ありがとう、助かったよ。バンコクの泥棒市場まで足を伸ばすのはどうにも億劫でね』

 

 代々木駅のホームに設置された公衆電話で、ロックはロアナプラに居るベニーと連絡を取っていた。彼に頼まれていた基盤を始めとした品は昨日までに殆ど買い揃えてあり、先程ケンシロウとトキのフィギュアを購入したことで全てを揃えたところだ。

 

「ああ、そうだベニー。レヴィからの頼まれものがあるんだ」

『なんだい?』

「ソード・カトラスを送ってくれ、と。ブーゲンビリア貿易に渡しておけば、海兵隊特急便(レイザーネックエクスプレス)でこっちに着くはずだ」

『穏やかじゃないな。嵐が吹きそうかい』

「そうでなきゃいいんだけどね」

『同感だ、カトラスの方は手配しておくよ。じゃあまた』

 

 通話を終えて受話器を戻す。

 駅構内にはこの雪で運転を見合わせる旨のアナウンスが先程から流れている。その放送を耳にして、ロックは溜息と共に白い息を吐き出した。この雪では恐らくタクシーも碌に機能していないだろう。電車の運転再開を待つしかないが、再開時間が未定のままこの場に留まるには些か寒すぎる。

 一度出て近くの喫茶店にでも入ろうか。そう考えている時だった。前方から歩いてくる一人の少女と目が合う。向こうもそれでこちらの存在に気がついたようで、二人揃って呆けた声を口に出していた。

 

「あっ、あの、この間……!」

「ああ、夜店の! 偶然だね!」

 

 名前も知らない少女との再会を果たしたロックは、それを素直に喜んでいた。

 

「びっくりしちゃった。お仕事ですか?」

「今日は買い物で秋葉原。えーと、」

「あ、名前まだ教えていませんでしたね。雪緒です、今日は予備校なんです」

「僕は岡島、岡島緑郎です」

 

 互いの自己紹介を済ませた二人は、流れ続けるアナウンスに耳を傾ける。

 

「まだかかるみたいですね、困るなぁ」

「あのさ、ここの駅前、喫茶店とかあるのかな。もし良かったら」

 

 ロックのその提案に、雪緒は数秒考えてから。

 

「……うん、それもいいかな。じゃあご案内します」

 

 そう言ってにっこりと微笑んだ。

 代々木駅を出ると、空から降る雪が目を引いた。この調子だとしばらく止みそうにない。ロックは雪緒に先導されながら、駅前の交差点近くの喫茶店へと入っていく。

 喫茶店特有の香ばしいコーヒーの香りが鼻を擽る。店員に案内され、二人は窓際のテーブル席へと腰を下ろした。

 ロックはホットブレンド、雪緒はホットココアをそれぞれ注文して、店内の暖かさにホッと息をつく。

 

「こんなに雪を見たのは久しぶりだよ、寒いのも」

「そうなんですか?」

「日本に来る前はタイにいたんだ」

「亜熱帯ですものね、滅多に雪は降らないでしょう。日本は久しぶりなんですか?」

「そうだね、一年ぶりくらいかな」

 

 ロックがロアナプラへとやって来て一年。随分早いものだと感じる。小学生時代の夏休みが過ぎていくスピードのようだ。それが濃密な日々を過ごしていたからなのだろうことは、ロックにもなんとなく予想がついていた。

 

「ご実家には帰られたんですか?」

「……いや、戻ってないよ。戻る気もないんだ」

 

 その言葉に、雪緒は眉を下げる。

 

「一年間も音沙汰無しだったからね、どの面下げて会いに行けばいいか分からないってのもある」

「でも、顔を見ればきっと喜ぶと思いますよ」

「そうかもしれない。でも本当の理由は、俺が会う必要を感じないからなんだ」

 

 ウェイトレスが運んできたコーヒーを一口飲んで、ロックはそう言った。

 

「日本に戻るまで、俺は家にどうやって顔を出すかを考えてた。でもいざ日本に戻ってみれば、そんな気が毛ほども起きないんだ。親不孝ものだよ、俺は」

「……嫌いなんですか? 家のことが」

「どうかな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「昔の私みたいですね、岡島さん」

「君と同じ?」

 

 雪緒の言葉に顔を上げて、ロックは彼女と視線を合わせる。

 

「私も昔、家のことが嫌いでした。でも、父が死んでから気付いたんです。私がこうしていられるのは育ててくれた家があったから。だから帰るべき場所はそこなんだって。今は私、父のことも家のことも愛してますよ」

 

 父の死を受け入れ、家のことを愛しているとまで言い切る少女が、ロックはどうしようもなく眩しく見えた。

 裏側を望んだ自身とは違い、彼女はどこまでも表側の人間なんだなと思う。その純粋さがロックには眩しく、そして尊く見えたのだ。

 ロアナプラでの人生を選んだことに後悔はない。雪緒と出会った日、あの場所でレヴィに伝えたことは紛れもない本心だ。今更未練など無いし、完全に断ち切ったつもりである。

 自身はもうそちらへは戻らない。だからせめて、彼女にはいつまでもそちらの世界で笑っていて欲しいと思う。身勝手なエゴだとは理解しているが、そう思わずにはいられなかった。

 

「岡島さん。人ってね、サイコロと同じだってあるフランス人が言ったんです」

「サイコロ?」

「はい。自分で自分を投げるんです。自分が決めた方向に。それが出来るから人は自由なんですって」

 

 中身が半分程になったカップに視線を落としながら、雪緒は穏やかに話を続ける。

 

「皆境遇は違ってて、でもそんなに小さな選択でも、自分を投げ込むことだけは出来る。それは偶然とか成り行きとかじゃないんですよ。自分で選んだ結果、そうですよね?」

「……ああ、そうだね。今俺がここにこうして居るのも、幾つかの選択をしてきた結果なんだ」

 

 そこには偶然も成り行きも介在せず。

 ただ己の選択が反映された結果しか存在しない。

 

「あ、少し待ってもらえますか」

 

 横に置いていた学生鞄の中から漏れる着信音に気がついて、雪緒はそそくさと携帯電話を取り出した。待受画面に表示されている名前を確認し、通話ボタンを押す。

 

「はい雪緒です。銀さんどうしたの?」

 

 ロックは彼女の通話が終わるのを残ったコーヒーを飲みながら待つことにした。

 人生は選択の連続、全くその通りだと納得する。日本に思い残すことも未練も無いと思っていたが、彼女のその言葉で完全に吹っ切れたようだった。

 

「……うん分かってます、電車が動くようになったら直ぐに帰るから。今は岡島さんという方と一緒に雪やどりです」

 

 電話の向こうに居る人間はさぞ雪緒のことを心配しているのだろう。彼女の仕草からもそれを伺うことが出来る。

 

「ほら、この間高市でお会いした、そう日本人の。え、ただお話していただけですよ。……そう、坂東さんがいらしているの。じゃあ早く帰らないと」

 

 ピタリと、ロックのカップを持つ手が止まる。

 今、彼女は何と言った? 坂東、と口にしなかっただろうか。

 昔は家のことも父のことも嫌いだった。しかし今はその両方を愛している。坂東という名前。確か鷲峰組は数年前に組長を亡くしている。家のことも、極道という一般人とは違う道を歩んでいれば嫌うのも道理ではないか。

 ロックの中で、散りばめられていたピースが急速に埋め合わされていく。

 出来れば思い過ごしであってくれ、そう思わずにはいられなかった。

 通話を終えたらしい雪緒は携帯電話を鞄に戻すと、帰宅の準備を始めた。

 

「すみません岡島さん。私そろそろ行きますね、雪も止んだみたいだし」

「……雪緒ちゃん、すまない。君の名字が思い出せないんだけど、何て言ったっけ」

 

 ロックの質問に、雪緒はさして疑問を抱くこともなく答える。

 それは、ロックが最も聞きたくはなかった名字だった。

 

「はい、鷲峰です。鷲峰雪緒、いかめしい名字でしょう?」

 

 

 

 20

 

 

 

「ありゃ、何であの子とロックが一緒に居るんだ」

 

 代々木駅前のコンビニで鷲峰の娘である雪緒を待っていたら、どういうわけかロックを引き連れて喫茶店へと入っていった。

 ううむ、本当なら駅から出てきた彼女に声を掛けて喫茶店にでも誘う予定だったんだが。折角都合良く雪も降って電車も運転見合わせになっていたというのに。これじゃコンビニで時間を潰していた意味が無くなってしまう。

 

「どうするのおじさん、あそこに割って入る?」

「いや、流石にロックの前で彼女と接触するのはまずい。ロックはバラライカ側の人間だし、あの子が鷲峰の娘だって知ってる可能性も高い」

 

 俺がどんな依頼を受けて日本に来ているかは向こうは知らないだろうが、出来ることなら敵対組織側に付いているという情報は知られない方が良い。もっともあの夜にロックとレヴィと出会ってしまった時点でバラライカに情報が伝わっている可能性もあるんだが、恐らくそれはないのだろうと予想する。

 バラライカと俺は直通の連絡先を持っている。もしも俺が日本に来ていると彼女が知れば、真っ先に連絡を寄越すだろう。それが無いということは、今のところは向こう側に情報が行っていないということになる。ロックが独断でそうしているのか、レヴィの提案なのかは定かでないが。どちらにせよ好都合だ、このまま何事もなく事が進められればそれが一番。

 そんな俺の希望に反していずれはバラライカに漏れると思うが、せめてそれが終盤であってほしいものだ。

 

「折角待ち伏せしてたのに」

「お前はコンビニのホットスナック買い食いしてただけだろうが」

 

 当然のように俺の財布持ってやがるし。

 とりあえずその両手に持った肉まんとホットドッグを食べ終わってから話しなさい。

 

「あの子も喫茶店を出れば家へ帰るだけだろうし、今日の所は諦めたほうが良さそうだな」

 

 香砂会の方には今日誘拐を実行すると言ってあるが、こうなってしまっては致し方ない。ここで無理に動いて事態を悪化させるわけにもいかないだろう。香砂政巳には上手く言っておく他あるまい。

 

「香砂会の屋敷へ向かうか。今日の話だけしておかないとな」

「そうね」

 

 雪の弱まった街中を、俺とグレイの二人は歩き出した。

 道路を挟んだ向かい側ではロックと雪緒の二人も喫茶店を出て帰路につくようだが、彼らが俺たちに気がつくことはなかった。

 

 

 

 

 

「……それで、おいそれと帰ってきたと」

「まあそういうわけです」

 

 香砂会の屋敷へと到着し、通された和室で香砂政巳は眉間に皺を寄せた。隣に座っているボディガード、両角も不機嫌さを隠そうともしていない。

 そんな二人に対し、俺はどこまでも無表情を。グレイは少女らしい笑みを浮かべたまま視線を交える。

 時刻は既に午後六時を回っており、外は完全に宵闇に支配されていた。

 

「……ウェイバーさん、あんた自分で言ったよな。誘拐することが一番効率が良く鷲峰を落とせると」

「言いましたね」

「……こっちもそう時間があるわけじゃねえ。この揉め事を和平会に持ち込むわけにゃあいかねえんだ。出来ることならすぐにでも実行に移してもらいたいんだが」

 

 依頼する側、ということを考えてなんとか平静は保っているようだが、香砂会もそこまで余裕があるわけでもないのだろうか。

 和平会にまで規模が広がるのは確かにまずいだろう。面子もあるだろうし、何より子分の躾も出来ていないと吐露するようなことはしたくない筈だ。

 

「ですから、今日のところはタイミングが悪かったんですよ。彼女も一人じゃありませんでしたし、駅前は人目に付きすぎる」

「そのくらいどうにかできるんじゃねえのかよ」

 

 そう低い声で言ったのは両角だった。どうもこの男に俺は毛嫌いされているらしい。いや、向こうの好感度などどうでもいいが。

 

「できますよ。ですが貴方がたはそれを望まなかったではないですか。前回俺は言いました、俺が持つ戦力全てを行使し鷲峰組を壊滅する、それでいいのかと。それを香砂会は拒んだのです」

「それは確かにそうだが……」

「だったら今この場で見せてみろよ、その戦力とやらをよォ!」

 

 両角のその安い挑発に、俺は心底呆れたという意味を込めて溜息を吐き出した。

 正直言ってそんな戦力俺は持っていないし、鷲峰を壊滅させるための策を用意しているわけでもない。グレイに限って言えば十分な戦力になるけれど。

 ここでリボルバーを抜いて二人の眉間に突き立ててやれば向こうの疑念も晴れるのかもしれないが、そんな気すらも起こらない。

 何だ、極道の輩は総じて交渉事が下手糞なのか。自身の感情制御も出来ないようじゃこの場に立つ資格すら無い。その点だけで言えば香砂政巳の方はギリギリ及第点と言ったところか。厳しい目付きは相変わらずだが、両角のような暴走はしていない。

 

「両角、やめねえか。こっちは依頼してる立場なんだぞ」

「しかし組長(オヤジ)……」

 

 そんな二人を前にして、くすくすと笑いが漏れる。

 

「……何がおかしい? お嬢ちゃん」

 

 その出処は俺の隣、グレイだった。今の今まで無言を貫いていた少女は香砂政巳と両角の二人を見つめたまま、少女らしからぬ妖艶な笑みを浮かべている。

 

「ふふ、ごめんなさい。ついおかしくて」

 

 だってそうでしょう? とグレイは言葉を続ける。

 

「――――目の前の相手から一瞬でも視線を逸らすなんて、殺してくれと言っているようなものだわ」

 

 瞬間。両角の額に銃口が向けられた。

 グレイがコートの内側に隠し持っていたMP7だ。その早業に、両角と香砂政巳の息を呑む音が聞こえる。

 

「大丈夫よ、撃ったりしないから」

「……このジャリィ……!」

「グレイ」

 

 俺の一言で、グレイがMP7を下ろす。

 本来ならグレイを叱りつける場面なんだろうが、両角の態度は俺からしても些か目に余る。彼の態度は良く言えば素直、悪く言うならば考えなしの馬鹿だ。内心でグレイ良くやったなどと考えつつ、俺は正面を見据えたまま動かない。

 両角は尚も怒り冷めやらぬといった感じでグレイを睨み付けていたが、香砂政巳がそれを手で制した。

 

「ウェイバーさん。隣りのお嬢ちゃんの今の動きだけでもアンタらが只者じゃねえのは分かる。三日だ、三日後までに鷲峰の娘を攫ってくれ」

「善処しましょう」

 

 香砂政巳の提案に、俺は柔かに頷いた。

 

 

 

 21

 

 

 

 香砂会組長とその依頼者たちが会合を終えて和室を出てくる。

 日本人の男と銀髪の少女が廊下を歩いていく姿を捉え、それをこっそりと眺めている男の姿があった。屋敷の台所から観察を続ける男の名は千尋、金髪ホスト風の青年だ。

 彼の視線は来客の二人、もっと言えば少女の方へ向けられている。どこか熱の篭ったその視線には、己の欲望がこれでもかと詰め込まれていた。

 

(うわ近くで見ると益々イケてんなあの子。こりゃマジで目っけもんだ、どうにかしてヤれねえかな。チャカにも連絡して場所取って貰うか)

 

 肩まで伸びた美しい銀髪。遠目からでも分かる整った顔立ち。小柄な体躯。そのどれもが千尋の性的衝動を駆り立てる。

 出来ることなら今すぐにでも後ろから襲ってしまいたい。横の男が居なければ実際に行動に移していただろう。屋敷の中でなら強姦など幾らでも揉み消すことが出来るし、後始末も楽だ。

 その事を想像して、千尋は粘ついた笑みを浮かべる。

 まだ、まだだ。

 今はこの衝動に耐えて、耐えて、そして一気に爆発させる。あれほどの上物、一回で使い捨てるには勿体無い。先ずは必要なモノを手元に揃えておかなくては。拘束具にシャブは必需品だ、あとはそうだな。千尋の思考はそちらへと向かい、男と少女の二人が玄関を出て行ったことに気が付かなかった。

 彼は気が付かなかったのだ。

 少女が出て行く間際、台所を見ながら小さく嗤っていたことに。

 

「組長、どうしますか」

 

 ウェイバーとグレイが出て行った後の和室で、香砂政巳と両角は腕を組んで再びソファに腰を下ろした。

 

「あのお嬢ちゃんの実力は相当のモンだろう、それを飼い慣らしてる奴も只者じゃあねえな」 

 

 実を言えば、香砂政巳はウェイバーの実力をそこまで信用してはいなかった。

 たった一人で軍隊ともやり合えるという前情報からして胡散臭い。おまけに誘拐という手段を提示したにも関わらず今日の成果は無し。いよいよ以てこれは掴まされたかと考えたが、先程の少女の動きを見てその考えを改めた。

 あの少女を飼い慣らしているということは、少なくともウェイバーという男はそれ以上の実力を備えているということだろう。ならば何も問題はない。こちらが望む方向へと、あの二人ならば導いてくれるに違いない。

 

「ま、もしもあの二人が使いモンにならなかったらそん時ゃそん時よ。なに心配すんな、ちゃんと手は打ってある」

 

 それも極上のな、香砂政巳はそう言って笑う。

 万が一ウェイバーが失敗し、鷲峰組が派手に動き回るようなことが続いても問題はない。抑え込むだけの布石は整えてあるのだから。

 

「奴らの襲撃には注意するよう各事務所に言っておけ。またいつ起こるかわからん」

「へい」

 

 香砂政巳はこの時点で二つの誤解をしていた。

 一つはウェイバーという男の存在。彼は極道程度が手綱を握れる程小さな人間ではない。もしも張がこの場に居れば間違いなく口を挟んだだろう。あの男を掌握することなどまず不可能だと。

 もう一つは布石が既に完成していると思っていたこと。布石はあくまで布石でしかなく、確定されたものではない。香砂政巳の予見が的中するとは限らない以上、この布石は効果を発揮しない可能性も十分に有り得たのだ。

 この誤解は、現段階ではまだ小さな綻びを生む程度のものでしかない。

 しかし状況が進み、何度かの分岐点を経た後、この誤解は取り返しのつかない程大きなモノへと変貌する。

 

 

 

 22

 

 

 

「鷲峰組からは何か?」

「いえ、まだ検討中かと思われます」

 

 ロックたちが宿泊するホテルの一階、幾つものテーブルが設置されたフロアの一角に、バラライカやロックを含めた四人が腰を据えていた。

 夕食時ということもありロックとレヴィはホテルのフレンチを、バラライカはロシアンティーを手元に置いている。今回もボリスの手元には何もないが、彼は既に携帯食料で補給を済ませた後だった。

 

「時間の無駄だな、他の動きは」

「香砂会組長宅と事務所へ機動隊を張り付け襲撃に備える模様。○六○○時に鷲峰組組事務所に捜査課の警官が事情聴取へ」

 

 ボリスの報告に、バラライカは顎に指を添えて。

 

「露見は時間の問題だな。本隊をマリアザレスカ号に移した方がいいかもしれん」

「それともう一つ、大尉殿の耳に入れておきたいことが」

「何だ軍曹、言ってみろ」

 

 先程までとは表情の違うボリスと視線が交錯する。

 ロックとレヴィは二人の会話を流し聞き程度で耳に入れていたが、次の瞬間全身をハンマーで殴られたような衝撃が襲う。

 

「香砂会組長宅の偵察班が、ウェイバーと思われる東洋人が敷地内から出てくるのを確認したそうです」

 

 途端に動きが止まり、スッとバラライカの目が細められる。

 彼女が次に呟いた言葉のトーンは、ロックがこれまで聞いたこともない程底冷えしたものだった。

 

「…………何だと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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