23
――――深夜三時。使用者もまばらな地下駐車場。そこにバラライカとロック、そして板東の姿があった。
周囲はコンクリートの壁に囲まれ、逃げ場など存在しない監獄のような印象を抱かせる。この場にバラライカを呼び出したのは板東だ。鷲峰組で意見を固めたため、その会合を行いたいと連絡を寄越した。バラライカは夜更けであることなど気にも留めず、ロックを引き連れてこの場へと赴いた。
「
「姐さん、もう一度聞きまっせ。肩ァ並べて一緒にやってく気にはならへんのか」
その言葉に、バラライカは表情一つ変えない。
「それは私に問うことではありません。貴方がたが問われることです。そして加えるならば、現状そう悠長に事を構えてもいられない」
「……どういうことや」
懐から取り出したパーラメントに火を点け、バラライカは告げる。それは彼女にとっても、そして鷲峰組にとっても凶報に違いないものだった。
「香砂会も我々と同じロアナプラの人間を雇っていたようです。それもとびきりの猛獣を」
ピクリと板東の眉が動く。
「……なんやと」
「ハッキリ言いますが、その男はその気になればこの街を火の海にすることも可能です。我々軍隊が為す事と同レベルの事を、奴は単身でやってのける」
ウェイバー、そう男は呼ばれているのだとバラライカは板東に伝えた。
俄かには信じ難いことである。ホテル・モスクワと同等の事をたった一人で遂行してしまう人間がこの世に存在しているなど。
だがバラライカ、そしてロックの顔色を見るに冗談や酔狂の類ではなさそうだ。
馬鹿げている、と吐き捨てたい気分だった。一体奴らは東京をどうしようというのか、焦土にでも変えようとしているのではないだろうな。そんな考えが思考の片隅でちらつく。
「板東さん。ウェイバーがこの件に関わってくるとなると、我々も本腰を入れなくてはなりません。早急に香砂会組長とその家族を誘拐しなければ」
「……そいつは出来ん相談や」
「貴方はあの男の恐ろしさを知らない。生半可な覚悟では、鷲峰組は消えて無くなることも有り得る」
「やとしてもや」
「……残念、本当に残念ですよ板東さん。もう少しだけこの関係が続いていれば、私も気が楽だったのですが。まあいいでしょう、瑣末なことだ」
言って咥えていた煙草を路上に吐き捨て、バラライカは踵を返す。話すことなどこれ以上ないと言外に伝えるように。
ロックもそれに慌てて続くが、そんな行動を許さない人間が居た。板東だ。彼はコートの内側に隠し持ってきていた白鞘を流麗な動作で抜き、背中を見せたままのバラライカへと突進する。
「待たんかい。まだ始末が残っとるんやぞ、この外道ォッ!!」
バラライカの心臓を目掛けて、鋭利な刃が突き出される。
しかしその刃が彼女の皮膚を切り裂くことは無かった。何処を狙われるのか予め分かっていたかのような動作で身体を横にずらして板東の一突きを躱すと、振り向きざまに顔面へと肘を叩き込む。
ベキリと骨の折れる粉砕音が地下駐車場に響く。バラライカは追撃の手を緩めない。残った手で板東のコートの襟を掴みそのまま引き寄せ、白鞘を握っていた右腕を血塗れた手で握る。自由の利かなくなった坂東の右腕を、一切の容赦無く叩き折った。くぐもった悲鳴が漏れる。
痛みに顔を歪める板東の背後へと周り首を締める。
完全にバラライカの一人舞台だった。
ギリギリと板東の首に力を込めながら、彼女は板東の耳元で囁く。
「白兵戦は久しぶりだが、身体は覚えているものだな。さてロック、私が今から言うことを訳せ。なるべく強い言葉でだ」
「で、でも……」
「訳せ」
有無を言わせぬバラライカの威圧感に、ロックは従う他無かった。
「今夜は特別だ、本当のことを話してやろう」
顔を血に染めながらも戦意を失わない板東に敬意を表すように、彼女は言葉を続ける。
「肩を並べてやっていく。成程確かにそんな選択肢もあるだろう。だがそれは事務屋の仕事だ、私には必要がない」
分かるか? そうバラライカは板東へと問い掛けた。
「私がこの国で望んでいるのは破壊と制圧。他の一切には興味がない、妥協もない。私はな、地獄の釜の底でどこまで踊れるのか、それ以外に興味がないんだよ」
「……ッ!」
「しかも相手はウェイバーだ。私と共に地獄の最下層で踊る極悪人。相手としてこれ以上適している人間も居まい」
鷲峰組と香砂会。其々がホテル・モスクワとウェイバーを日本へ呼び寄せた時点で、あるいはこの未来は確定していたのかもしれない。彼を、彼女を日本へ招くことが無ければここまで大きな事態には発展しなかっただろう。
だがそれは過ぎた事。今更何を思った所で、この現実は変わらない。
「賽は投げられた。そういうことだ、バンドウ」
「……ク、ガッ……!」
締める力が更に強まる。
「それでは時間もない。……また、いずれ」
そう言った直後、バギンッと一際大きな破砕音。板東の首の骨がへし折られる音だった。
力の完全に抜けた骸を地面に放り捨て、バラライカは携帯を取り出す。連絡先は恐らくボリスだろう。
彼女が通話する様子を、ロックはただ呆然と眺めていることしか出来なかった。
「私だ、状況は終了した。大きめのトランクを一つ持って迎えに来い」
24
「……ック、ロック!」
耳元で名前を叫ばれ、ロックは鉛のように重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。視界いっぱいに広がるのは眉尻を下げるレヴィ。
どうやら自分はホテルに戻り、テーブルで酒を呷ったまま眠りに落ちてしまっていたらしい。シャワーも浴びずにいたからか身体が汗ばんで酷く気持ち悪い。テーブルの上には灰皿とウイスキーボトル、倒れたグラスがそのままになっている。
まだ酒が抜けていないのか霞がかった頭を覚醒させるために数度頭を横に振る。
「大丈夫か、ひでえ汗だぜ」
「寝てたのか、俺……」
「一、二時間てとこだ。なんだかうなされてたぜ、古いビュイックみてえな息してよ」
ロックの向かいに置かれていた一人掛けのソファにレヴィも腰を下ろす。
横になっていたグラスを手に取り、半分程空いたボトルウイスキーを注ぐ。
「なんだか悪い夢を見てたみたいだ」
「深酒はいけねえな、シャワーでも浴びてきたらどうだ。これから慌ただしくなる、そう呑気に構えてもいられねえぞ」
ストレートウイスキーを一息に呷り、レヴィはロックを見据えた。
「状況が変わった。姉御は後継と補充兵を迎えに行くってんでついて来いとよ。こっちに居る遊撃隊は大使館と貨物船に分かれる。補充兵はみんな渋谷配備だ」
「……ウェイバーさんか」
「ああ。姉御はやる気だ、ボスが相手となりゃあ遊撃隊も今までみてえなヌルい戦法は使わねえ。ハナから全開だ」
ウェイバーとバラライカ。
ロアナプラ筆頭の悪党二人が互いの存在に気付き、そして対立の構図を取っている。これはもう悪夢以外の何物でもない、ロックは額に手を当てた。
「出来ることならバラライカさんには気付いて欲しくなかった」
「そりゃ同感だがよ、こうなっちまった以上切り替えるしかねえ。ボスと姉御が本気でやり合うとなると、あたしたちは身の振り方を考えなきゃいけねえしよ」
「……レヴィはウェイバーさん側に付くと思ってたけど」
「本心を言えば今すぐにでも向こうに行きたいね。ただあたしはロックの用心棒としてここへ来た。依頼は最後までやり遂げるぜ、ロックが姉御側に付いたままだってんならあたしもそうだ」
受けた依頼は必ず完遂しろ、そうボスに言われてるからよ。レヴィはそう言って小さく笑った。
「……やっぱり争いごとになるのか」
「そりゃなるさ。ホテル・モスクワはやる気だ。嵐が来るぜロック、血と鉄の嵐だ」
25
午後十時。鷲峰組の屋敷の一室。畳張りのその部屋の中央に、銀次と吉田が向かい合わせになって座っていた。
室内には二人以外の姿はない。雪緒には少し席を外してもらっている。他の組員たちも同様だ。
重苦しい雰囲気の中、俯いたままの吉田がようやく口を開いた。
「……
「……何時で」
「今朝方や。事務所ン前にトランクが一つおっ放り出されて……」
吉田の目尻には涙が溜まっている。銀次はその報告を聞き、ただ静かに拳を握った。恐れていた事態が起こってしまった。それをただ静観することしか出来なかった己の無力さが腹立たしい。
「……葬儀は、どないなんねや銀の字」
「まだ表沙汰にゃ出来ません。若頭にゃ申し訳ねえが、浄土に行くなァ今しばらく待ってもらうことになりやす」
「畜生……! あのロシア人どもッ……!」
サングラスをずらして涙を拭う吉田の肩に、銀次はそっと手を置いた。
「吉田、若頭は臆病者でも頭が弱かったわけでもねえ。誰がやっても早晩ここに行き着いた」
銀次自身、どうにかしなくてはならないと考えてはいた。だが雪緒の今後を思うと、どうにも後一歩が踏み出せなかった。その一歩を、板東は何の躊躇いもなく踏み込んだのだ。己の命を賭して、鷲峰という家を守るために。
「……香砂の言いがかりはどうにかしなきゃいけねえ、若頭はァ頭が回りすぎた。何も間違っちゃいねえ」
「せや……、兄貴は頭の切れるお方やった。これから一体どうなるんや、ワシらのこの先は……」
「心配しなさんな吉田」
吉田の言葉に、銀次は一つ頷いた。
板東の死を以て、ようやく男は覚悟を決めた。いつまでも意気地のない御託を並べるのはもう終いだ。自分だけがいつまでも夕闇でのうのうと過ごすわけにもいかない。
雪緒がこちら側へ来てしまう可能性はある。それだけが気がかりだ。だがこれ以上、板東の思いを踏みにじるわけにはいかなかった。鷲峰組の兄貴分がその命を賭けてまで守ろうとしたこの組を脅かす奴らを、これ以上のさばらせておくわけにはいかない。
銀次は瞳の奥に固い決意を滲ませて言う。
「……後の事ァ、任せておけ」
そんな男たち二人の会話を、雪緒は部屋の外で聞いていた。
板東が死んだ。未だにその事実に実感が湧かない。昨日まで一緒に食事を取っていたあの人がもうこの世界には居ないなど、どうにも雪緒には信じられなかった。
そういう世界に関わっているということは理解しているつもりだった。いつ道端で野垂れ死んでいても不思議ではない、そんな暗闇の世界なんだと分かった気になっていた。
だがいざそのことを目の当たりにすると、どうにも脳がそれを受け入れようとしない。それを受け入れてしまった時、自分が自分で無くなってしまうような気がして。
結局、雪緒という少女は心の何処かで表側の世界に住まうことを望んでいたのだ。父が死に、鷲峰組を愛することができるようになったとしても、彼女は全身を暗闇に浸かることを避けていた、拒んでいた。
それではいけない。雪緒は口を噤んで考える。人生の全ては選択の連続。ならば、どの道を選ぶのか。
鷲峰の娘として、今自身に何が出来るのか。しばしその場で考え込んで、彼女はやがて心を決めた。
襖の取手に手をかけて、銀次と吉田の居る部屋の中へと入っていく。
「お嬢……」
少女の神妙な顔付きに、吉田は不安そうな顔色を浮かべた。
「銀さん、吉田さん。私、考えたんです」
二人の前に正座し、真っ直ぐに二人を見つめる。銀次も吉田も、雪緒から目を逸らさない。
「香砂会の取り決め、覚えておいでですか。私であれば対等の条件で引き立てるという、あの件です」
「お嬢それはっ……!」
雪緒の発言に、思わず吉田が声を荒らげる。
彼女が言ったのは鷲峰組組長就任の件。前組長と血の繋がりのある雪緒であれば、香砂会は組長の就任を認めるというものだ。
しかしそこに、対等な立場など存在していない。
「……お嬢、そいつはいけねえ。あんなものァ香砂のチンピラの因縁だ。真に受けなすっちゃァ……」
「でも、他にはもうないのでしょう? 鷲峰組に残る最後の道標が私なら、それはもう仕方のないことなんです」
銀次と吉田の反対は簡単に予想できた。二人は雪緒のことを本当の娘のように慕い、可愛がっている。そんな少女が自分たちと同じ泥沼の殺伐とした世界へ足を踏み入れるというのを、そう簡単に容認できるわけがなかった。
それでも、雪緒は自分の考えを変えない。
鷲峰組を守るために最も現実的な手段は自身が組長に就任することだ。ならば、何を迷う必要がある。
「もしも私だけが日の当たる路を歩むのなら、引換にあなたたちは冥い野辺を彷徨うことになる。一家を護り一家に殉じた百十余名の人生と、私の人生とを引換に」
私はそれを認めるわけにはいかないんです、そう言う雪緒の決意は固かった。
そんな少女の姿を見て、銀次は言葉を詰まらせる。
「……お嬢、あっしは……」
こうなることだけは避けたかった、そんな銀次の想いが言葉の端々から感じ取られる。
「お嬢が人の道を歩んで、真っ当な幸せを掴んでいただく。それだけが、それだけが願いだった……」
ズボンに皺が出来るのも構わず、銀次は力の限り握り締める。
「俺はそのために、そのためだけに今日まで生きてきたんだ……!」
これでは今まで何の為に坂東と衝突してまで過ごしてきたのか。それすら意味のないことだったというのか。
このままでは坂東の死は、ただの犬死になってしまうではないか。
「俺はァ憎くて堪らねえ、香砂のドブ鼠もロシアの悪党も。どいつもこいつも俺たちを滅茶苦茶にしようとしやがる……!」
歯を食縛る銀次の顔を、雪緒はじっと見つめたまま。
「――――ねえ、銀次さん」
優しい声音で、雪緒は次いで外へと視線を向ける。
「雪の夜は、綺麗なんですね。私今まで雪の夜は嫌いでした。吸い込まれそうで、すごく怖かった。でも今は不思議とそう感じない、どうしてでしょうか」
ハッと、銀次は顔を上げた。
目の前に座る少女の瞳はどこまでも真っ直ぐで、迷いがない。
恐怖は感じているだろう。後悔はなくとも、自身の境遇を呪ったことだってあるはずだ。それでも彼女は、振り向くことだけは決してしない。
その少女が意を決して言う。おそらくは彼女にとって、最初で最後のわがままを。
「銀次さんは、私を護ってくださいますか」
その言葉に銀次も、そして吉田も姿勢を正し、彼女の前に頭を垂れる。
年端もいかない少女の大きな決意を、自分たちが無碍にするわけにはいかない。何に変えても、この少女を護りぬくと誓う。銀次と吉田の二人の心境は、語らずとも一致していた。
「――――不肖、鷲峰組若頭代行松崎銀次。七生を以て御身御守護を勤めさせていただきます」
今この瞬間。鷲峰組の方針が固まる。
それは無数にある選択肢のうち、最も険しく困難な茨の道。少女と男たちはその道を進む。引き返すことはない。例えその命を散らすこととなろうとも、その全ては雪緒と共にある。
26
「そうですか。分かりました、手筈通りに」
そう言って通話を終える。持っていた携帯電話をベッドへ放り投げ、俺は天井を仰ぎながら溜息を吐き出した。
ベッドの上でMP7の手入れを行っていたグレイがそんな俺を不思議そうに眺めている。
「どうしたの、おじさん」
「どうも事態はややこしくなりつつあるみたいだ」
今の電話は香砂会からのものだ。何でもつい先程鷲峰組の方から連絡があったらしく、鷲峰雪緒が組長に就任するとの旨を報告してきたのだそうだ。香砂会の出した条件を呑み、全ての始末を付けるために。
当然香砂会は口先だけの約束など守るつもりはないだろう。難癖つけて雪緒を就任させまいとするはずだ。そこで俺の出番となるわけである。
電話を寄越した東堂が言うには鷲峰との会談は明日の夜。場所は香砂会屋敷だ。その会談にもしも雪緒が現れなかった場合、全ての約束を反故にすると伝えたらしい。
つまりはそれまでに雪緒を誘拐し、香砂会の屋敷へと向かわせないようにしろということだ。
「別に干渉するわけじゃないが、どうもキナ臭くなってきたな」
依頼として引き受けた以上は最後まで完遂するが、香砂会の黒々とした思惑が透けて見えるようであまり良い気分ではない。
あの雪緒という少女。高市で一度話しただけの少女だが、纏う雰囲気は間違いなく表の人間のそれだ。横の男が纏うような血腥い臭いは微塵も感じられなかった。周囲の人間がこれまで守ってきていたのだろう。それほどまでに大切にされてきた少女が、組長に就任すると言い出した。これは鷲峰のほうで何かそうせざるを得ない状況に陥ったと考えるのが妥当だ。
鷲峰の事を考えたところで俺に関係が無いことくらいは承知しているが、全体像も見えないままに動くというのも憚られる。
また東堂の方へ連絡を入れてみるか。そう考えて手を伸ばした携帯が、タイミング良く震えた。いつもとは違う着信音が室内に響く。この着信音が鳴るよう設定してあるのは今のところ三人だけだ。そしてほぼ間違いなく今電話を繋ごうとしているのはあの女だろう。
画面に表示される名前を見て、やっぱりなと苦笑する。
「もしもし」
『用件は言わなくても分かるわよね?』
携帯越しに聞こえてきたバラライカの声に、ああと返す。
「鷲峰組と香砂会の件だろう」
『ええ、貴方香砂会の方に付いているみたいだけれど、私たちは鷲峰組の方に付いているわ』
「どうせ協力体制なんざ言葉だけだろう」
『当然ね。日本のヤクザなんかと同じ歩幅で歩けるものか』
だろうな、と内心で頷く。
バラライカという女はとにかく戦争を好む。研鑽された己とその軍隊の全てが発揮される戦場さえあれば、他には何も望まないような人種だ。ウォーマニアックスだとかレヴィは言っていたが、そんなレベルじゃない。この女は最早ジャンキーだ。酒よりも、金よりも。破壊と制圧を望む生粋のバトルジャンキー。
『ウェイバー。私が今こうしてお前と話しているのは最後通告だ、戦況を見ればどんな状況なのかは分かっているだろう』
「分かってるよ、承知の上だ」
『退く気はない、ということか』
「確かにお前にゃ義理も恩もあるが、あいにく
正直な所を言えばバラライカと正面衝突なんて冗談じゃないが、ここで俺が依頼を蹴ってしまえば間違いなく香砂会は潰される。鷲峰組もろともだ。俺としては依頼主からきっかり料金を貰うまでは生きていて貰わなくてはならない。死ぬならせめてその後にしてくれ。
それに雪緒という少女も気にかかる。彼女が死のうが死ぬまいがどうでもいいが、俺たちのような悪党に利用されて捨てられるような人生を送るようならまた話は変わってくる。
『……そうか。精々周囲に気を配ることだ。我々ホテル・モスクワは立ち塞がる全てを殲滅するぞ』
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
内心の動揺を悟られぬよう、敢えて強気に笑う。
火蓋は切られた。これから先はバラライカをも相手取らなければならない。面倒なことになった、とは思わない。自身がそうなるように仕向けた節もある。
「おじさん、これからどうするの?」
通話内容を耳聡く聞いていたらしいグレイが俺にそう尋ねる。
そうだな、先ずは。
「身辺整理から始めよう。香砂会が何を考えてるのかは知らないが、俺を利用してるつもりだってんなら少しばかり痛い目見せてやる」
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「組長、ロシア人どもと連絡がつきやした」
「そうか、日時はこっちが指定した時間で大丈夫だろうな」
「はい、問題ないと」
香砂会屋敷。その一室に香砂政巳、両角、そして東堂の姿があった。
相変わらず和の雰囲気に不釣り合いなソファが存在感を放つ部屋だ。そのソファに背中を預け、香砂政巳はニヤリと笑う。
「これで向こうとの繋がりは確保できた。仮にウェイバーがしくじったとしても問題はねえ。そっちとは手を切って向こうと組めばいいだけの話だ」
香砂政巳はやはりウェイバーを信用していなかった。しかしそれは彼自身の能力が低いと断じているからではない。単純な戦力比だ。鷲峰組についたロシア人は少なくとも数十人、対してこちらはたったの二人。どちらが優っているかなど、わざわざ議論するまでもない。数は質に勝る。それが香砂政巳の持論だった。
しかも鷲峰組とロシア人たちの間には亀裂が走っており、共同歩調など無いも同然だという。渡りに船とは正にこのこと。
「鷲峰も潰せてうちも甘い汁を吸える。こんな良い方法はねえだろ、なあ両角」
「へい組長」
「…………」
香砂政巳に言われ笑う両角とは対照的に、東堂の顔色は優れない。喉の奥のつっかえが取れない、そんな表情を浮かべている。
「どうした東堂、えらく顔色が悪いじゃねえか」
「……組長、ウェイバーさんと手を切るってのは、あまり得策じゃねえかと思いやす」
「言ったろ、それはもしもの話だ。あの男が約束通り嬢ちゃんを浚ってこりゃあ文句はねえよ。だがな、ドンパチやるってなった時にどう見たって向こうの戦力に歯が立つとは思えねえ」
ここまで香砂政巳が強気に出るのにはそれなりの理由があった。
ひとつは自身の身の安全がほぼ保障されているということ。これまでの襲撃事件を経て、警察はこの香砂会の屋敷の周囲を常時警戒している。狙撃ポイントを除けば、その警戒網は見事という他ないほどだ。
もうひとつは香砂会が所有している武器の数。関東極道の中でもその量は随一であり、海外からも取り寄せたことがあるほどだ。
この二つが香砂政巳を強気にさせていた。
だが、それを知っている東堂の顔色は尚も優れない。
「あの人はまずい、本当に怒らせちゃいけねえ人種ってのは、きっと……」
「東堂、お前はあの男を買い被りすぎなんだよ」
東堂の言葉に被せるように、両角が鼻で笑う。
「ロアナプラだかなんだか知らねえがいけ好かねえ。あんな男のどこに警戒する必要がある」
そう言って笑う両角。彼はどうもあのウェイバーという男が気に入らなかった。どこか自分たちを見下したようなあの態度。全て見透かしているかのような視線。馬鹿にされているようで腹が立つ。
「両角の言う通りだ。ま、例え俺たちに歯向かってきた所で、うちの武器の数を前にゃあ何もできねえだろうがよ」
「――――何も出来ない、ね。どう思うグレイ」
「何もしなかった、というのが正しいわおじさん」
突如聞こえてきた話し声に、思わず三人の動きが止まる。その声は部屋の外から聞こえてくるものだった。男と幼い女の声は、少しずつこちらへと近付いてくる。
「全く、舐められたもんだよ俺も」
音もなく、襖が開かれる。
三人の瞳に写ったのは彼らが雇った男と、その助手だという少女。
「ど、どうやって入ってきた。周囲には警察の包囲網が……!」
「そんなものは知らん」
「他の人たちなら皆仲良く送ってあげたわ」
地獄へ、と少女は妖艶に微笑む。
その横に立つ男、ウェイバーは一歩室内へと足を踏み入れる。それに応じて三人がそれぞれ銃を抜くが、ウェイバーは全く表情を崩さない。
「馬鹿な、銃声なんて聞こえなかったぞ……!」
「サプレッサーだよ。俺のには取り付けてないが」
さて、とウェイバーは懐から銀一色のリボルバーを取り出して。
「面倒事は先に片付けよう。香砂会は今日で店仕舞いだ」
ウェイバー香砂会襲撃の理由と詳細は次回。