とりあえず二話です。
4
日本の見慣れた居酒屋とは似ても似つかない酒場のカウンター席。
今日この日、全くもって理不尽な解雇通告を受け取った日本人ロックはなんとはなしにその名前をオウム返しのように呟いた。
「ウェイバー?」
酒を飲んでいたこともあり、いつもよりも少しばかり声が大きくなっていたこともあったのかもしれない。
しかしそれ以上に、その名前はイエローフラッグの中によく響き渡った。
理由は簡単。今までバカ騒ぎしていた店内の連中が、嘘のように静かになってしまったからだ。そのことに疑問を覚えるロックに、ダッチがその解答を示した。
「その名前、あまり大声で言わない方がいいぜ。言ったら呪い殺されるわけじゃねえが、この街に来て日が浅い連中はソイツの逸話に震えあがっちまうからよ」
そう言い新しいボトルを開けるダッチは、口にしているにも関わらずそういった負の感情は抱いていない様子だった。
ますます分からない。ロックは徐に店内を見渡した。
どう見たってカタギの人間には見えない。店内に設置された丸テーブルに着いているのは全身刺青の黒人だったり顔中ピアスだらけの強面、その隣に着く女たちも一般人とは思えない派手で露出の高い衣服を纏っている。テーブルの上のカードやグラス、財布なんかと平然と肩を並べて鎮座している拳銃が、しかしながら不自然と思えない程に使い手の連中が恐ろしいのだ。
そんな連中が名前を聞いただけで思わず口を閉じる程の人間。店の中央で乱闘紛いの殴り合いを起こしていた男たちまでがその手を止め、こちらを見ていた。
恐怖の象徴のような存在なのかと思えば、ダッチは気安くその名を口にしている。一体どんな人物なのか、ロックの中でウェイバーと呼ばれる人間の人物像が全く定まらない。
「気になるのかい? ウェイバーのことが」
「あ、えっと」
「ベニーだよ。反対側で飲んでるタフで知的な変人のお仲間さ」
ベニーと名乗る金髪髭面の青年は、ダッチやレヴィとは異なる雰囲気を醸し出していた。
どちらかと言えば、ロック自身に近いものを感じる。明白な戦闘タイプでないというだけなのかもしれないが。
それを伝えると、ベニーは小さく笑った。
「ボクは情報系統が担当だからね、二人みたいに敵本陣に突っ込んでドンパチやるなんてことはしないよ」
「……あんたはどうしてこの街に?」
「二年くらい前かな。以前はフロリダの大学に通ってたんだけど火遊びが過ぎてね、当時のマフィアとFBIを同時に怒らせちゃったんだ」
何でもないように話すベニーだが、ロックは思わず持っていたグラスを落としそうになった。
マフィアとFBIから同時に追われるなど異常だ。日本で言えばヤクザと特殊警察から追われるようなものである。一体どんなことをすればそんな事態に陥るのか。
「暫く逃げてたんだけどやっぱり捕まっちゃって、スーツケースの重石代わりに詰められそうになっていたのをレヴィに助けてもらったんだ」
「レヴィってあの女ガンマンか」
ちらりとロックは後方の丸テーブルに目をやった。
机上に置かれたバカルディをロックでもなくストレートで豪快に呷る彼女の姿は、どうしても人助けをするようには見えない。ふと視線が合えば、今にも噛み付いてきそうな険呑さだ。
「あれでも彼女、かなり大人しくなったらしいんだけど」
「は、あれで?」
「彼女ね、ラグーン商会に入る前は一時期ウェイバーの所にいたんだよ」
またウェイバー。姿さえ知らない人間が、この街の多くの人間に関わっている。
「ボクもそれ以前の彼女は知らないけど、今じゃすっかり丸くなったってウェイバーが言ってたよ」
「ベニーはそのウェイバーって人には会ったことあるのか?」
「勿論、ラグーン商会とも馴染みがあるよ」
そう答えてベニーはウォッカの入ったグラスに口を付ける。アルコール度数はそれなりに高い筈だが、ベニーはまるでジュースでも飲むようにそれを飲み干してみせた。
この街の人間は総じて酒が強いのだろうか。そうロックが思ってしまう程、この酒場の酒の種類は偏っていた。特例でミルクなども出してくれるようだが、基本的にビール、次いで度数の高い酒がカウンターの奥に並んでいる。高級酒は少ないようだが、大衆酒場などこのくらいのものだろう。
ロックの手元にもダッチに注がれた酒が残っている。カクテルなんて気が利いたものがあれば酔いもある程度コントロールできるが、この場にそんな洒落た酒があるわけがない。どころかソーダも見当たらない。皆ストレートかロックが基本だ。
「っと、すまねえ電話だ。ベニー、少し出てくる」
「誰からだい?」
「ウェイバー」
ぶふぅッ、とロックは口に含んだ液体を吐き出しそうになった。それをなんとか寸でのところで堪えて、口と鼻を押さえながらダッチを見る。
携帯を耳に押し当てて店の奥に消えていくダッチの声からは、先程までの陽気さは消えていた。
「どうしたんだろう」
「さぁ、でも彼が電話をかけてくるときは決まって仕事絡みだから、大方今日の件と関係してるんじゃないかな」
「今日の件って、俺から奪い取ったあのディスクのことか?」
昼間のことを思い出して顔を青褪める。銃口を突き付けられたことを鮮明に思い出してしまった。あれに勝る恐怖は、もしかすると今後訪れないのではないだろうか。そうロックに思わせるほどの恐怖だったのだ。
因みに、聞けばベニーはその時魚雷艇内部で通信役を担っていたらしい。時折ダッチが耳元の無線に話しかけていたが、その相手はベニーだったのだ。
「そう。詳しい依頼内容はダッチしか知らないからボクもさっぱりだけど、ホテル・モスクワからの依頼だし後ろに大きな獲物でも掛かってるんじゃないかな」
「ホテル・モスクワって、さっき言ってたこの街の……」
「ロシアン・マフィアだね。この街が一応街としての形態を保っていられるのは彼らのおかげでもあるんだよ」
「……? どういうことだ?」
「こと戦闘に関してホテル・モスクワは随一だ。それがロアナプラで抑止力になってるってこと。じゃなきゃ今頃世紀末だ」
日本人なら知ってるだろう? 北(ピー)の拳さ。ベニーは楽しそうに呟いた。なんでも日本の漫画やアニメは大のお気に入りなんだそうだ。
そういった方向には詳しくないロックだったが、流石に北斗の(ピー)は知っている。適当に相槌を打ったロック、それがベニーは嬉しかったらしい。日本の漫画などこの街で理解できる人間などいないからか、彼の口からは洪水のように次々とアニメや漫画の話が溢れてくる。
「おうベニーボーイ。そこらへんにしといてやれ、ロックが引いてるぜ」
「お帰りダッチ、電話はもう済んだのかい?」
ダッチが電話から戻ってきたことで、ベニーのアニメ論は終わりを迎えた。そのことに内心で安堵しつつ、しかしダッチの次の言葉で再び身体を強ばらせることになる。
「ちいとばかり面倒なことになった。なんでも連中、傭兵派遣会社を――――」
ダッチの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
瞬間、店内で閃光と共に爆発が巻き起こった。次いで轟く銃声。これが奇襲であることに気がついたのは、ラグーン商会の面々だけだ。他の人間はそのことに気がつく前に蜂の巣にされるか、爆発に飲み込まれて焼死体になっている。
爆発の寸前にシャツの襟を引っ掴まれカウンターへと放り込まれたロックは、なんとかその命を取り留めていた。見れば隣には飄々とした表情のレヴィ、反対にはやれやれと肩を竦めるベニーの姿がある。
「な、なんなんだ一体!?」
「大方ディスクを奪われたお前んとこの会社が雇ったんだろうよ。いきなり手榴弾とかやってくれるじゃねえか」
言いながらレヴィはホルスタに収められていた二丁の拳銃を引き抜く。弾倉を確認し、その口元を獰猛に歪める。その瞳が黒く、そして濁っていくような錯覚を覚えてロックは背筋を震わせた。
だが戦闘態勢に移行していく彼女に、一言物申したい人間がいたらしい。同じくカウンターに身を隠していたこのイエローフラッグの店主、バオである。
「やいレヴィ! またてめーらか! 一体何度この店壊しゃあ気が済むんだ!? 後で修理代請求すっからな!」
「あいよー」
「軽い! 全く誠意を感じねえよコンチクショウ! おいダッチ! しっかり耳揃えて払ってもらうからな!!」
「あいよ」
「ダメだこいつら死ねばいいのに!!」
バオの叫びも銃声の中に消えていく。
カウンターには防弾整備が施されているらしいので今は平気だが、このままでは埒が明かない。早急にこの状況を打開したいダッチは両手に拳銃、ベレッタM92FSlnoxを構えたレヴィへ声を荒げて。
「行けレヴィ!
その直後、レヴィが動いた。
一瞬にしてカウンターから飛び出し、空中で相手を確認、挨拶がわりとばかりに鉛玉をブチ込む。相手は手榴弾爆発による粉塵のせいか照準が定まっていないようだ。そんな相手に容赦無く発砲。いくつもの血飛沫が酒場の壁を彩っていく。
ここでようやく向こうも只者ではないと気がついたのか、イエローフラッグの正面に構えていたらしい人間たちの一斉射撃が起こる。外観が変わるほどの銃弾の嵐を凌ぐべく、レヴィは再びカウンター裏へと飛び込んだ。即座に空になったマガジンを引き落とし、新しいものを装填する。
「へいダッチ、アイツら一体なんなんだ」
「おそらくアイツらがディスクを奪い返そうとする連中が雇った奴らだ」
「掃除していいんだよな?」
「愚問だ。だがここじゃ分が悪い、ウェイバーにゃあ悪いが一先ずこの場を離れよう」
「サンセー」
ダッチの提案にベニーが右手を挙げる。
レヴィも特に異論は無いようで、ロックの首根っこを引っ掴んだまま店の裏口から抜け出す。尚も銃撃は止まないが、それらを一切無視して適当な車に四人は乗り込んだ。運転席にベニー、助手席にダッチ、後部座席にロックとレヴィを乗せた年代物のディーゼル車は、敵の追撃を掻い潜りながら大通りへと走り出した。
5
黄金夜会、と呼ばれる勢力がロアナプラには存在する。
この悪徳の都と呼ばれる悪の巣窟の、実質的な支配者たちと言っていい連中たちのことだ。
まずホテル・モスクワ。タイ支部の頭目であるバラライカを筆頭に部下も含めた全員が一線級の実力者たち。
次に三合会。こちらは香港マフィアで、タイ支部のボスの名前は
そしてコーサ・ノストラとマニサレラ・カルテル。イタリアンマフィアとコロンビアマフィアの組織である。
他にも幾つか傘下の組織はあるものの、これらの四つを総称して『黄金夜会』という認識で問題はない。この黄金夜会はロアナプラという地で多くの権利を有している。具体的にはその地位と利潤、この街で発生する収益には、全て黄金夜会が一枚噛んでいる。
それぞれが圧倒的な規模の組織であることは言うまでもなく、この東南アジアの中でも重要な拠点となるであろうロアナプラを支配したいとの思惑から集まった。
だが衝突したところでメリットはないと、こうして一時停戦のような形で纏まっているのだ。当然ながら共存意識などはこいつらに存在しない。隙あらば咬み殺す所存である。
弱肉強食。いつの世も変わらぬ不変の真理だ。
弱者は淘汰され、強者だけが生き残る。そうして形成されていったロアナプラのシステムとも言うべき黄金夜会。
その中の一人に、どういうわけか俺は数えられているわけだが。
「……どうしてこうなったんだ」
そのせいでここ数年、俺へ突っかかってくるような人間はすっかりいなくなってしまった。いや、不要な荒事を避けるという意味では全く以って助かるんだけれど。
なんでもこの街の若者の間では、俺に楯突くとその場で殺されるという与太話が実しやかに囁かれているらしい。とんでもない誤解だ、幾ら何でも即射殺なんてしない。
それもこれも、恐らくはバラライカや張と密接に関わってしまった故のことだと考えている。
黄金夜会の一大勢力、そのトップたちだ。関係を持っている人間なんてのはそう多くない。直通の番号を知っている人間なんてのは極少数だ。俺はそれを知っている。昔殺し合った仲ではあるが、今ではどちらともビジネスパートナーだ。ホテル・モスクワや三合会に比べれば俺の経営する仕事なんてのはちっぽけだが、それでも二人は対等に扱ってくれている。
言ってしまえば俺はきっと二人の紐みたいなものなのだ。今与えられている地位なんかもお零れを頂戴しているだけで、決して俺一人の力で掴み取ったものではない。
とは言えだ。例えどんな経緯があろうと、今こうして俺がこの悪徳の都である程度の地位を有していることには違いないわけで。
折角所有している諸々の権利をそのままにしておくのもどうかと思うのである。身に余ることくらいは承知しているが、宝の持ち腐れとするには惜しいものだ。
そこで数年前の俺が思い至ったのが個人経営の万事屋の真似事だ。
この街にやってきてから築いた人脈を使い、依頼された仕事をこなしていく。その幅も今ではすっかり広がって、当初は郵便配達や逃げた妻探しだったのが今では逃げ込んできたミャンマーの過激派部隊の殲滅なんてものが飛び込んできたりするのだ。
流石に一人で現役軍人たちを相手にしたときは死ぬかと思った。今思い出しても肝を冷やす。なんだか知らないうちに相手が全滅していたのが幸いだろう。特に何かを仕掛けた覚えはないんだが、何故か張には褒めそやされた。
「と、一応電話くらいしておいたほうがいいか」
イエローフラッグへ向かう道すがら、ふと足を止めた。
このまま直行しても問題はないが、いざ行ってみてその場にダッチが居なかった場合を考えると探すのが面倒だ。そう思い、ポケットに突っ込んであった最初期の携帯電話を取り出して耳に押し当てる。
通話はすぐに繋がった。
『もしもし』
「ああダッチ。俺だよ」
『一体どうしたってんだ』
唐突に俺から電話が掛かってきたことを疑問に思っているであろう彼に、俺はさっさと本題を切り出すことにした。
「今バラライカから依頼受けてるだろう?」
『何で知ってんだ?』
「本人から聞いたんだ。それでだ、どうも旭日重工は極秘にE・O社を雇って証拠隠滅を目論んでるらしい。まだそのディスク持ってんだろう? なら早いうちに届けることをおすすめするぜ、いつ襲撃されるかわからないからな」
『そいつはご丁寧にどうも。俺だっていつまでもこんな爆弾抱えたくはねえ、直ぐにでもバラライカに渡しに向かうさ』
「それなんだけどな、俺今イエローフラッグに向かってるから、なんなら代わりに渡しておいてやろうか?」
これは単なる親切心だ。
しかし、ダッチはその提案に首を横に振る。
『申し出は有り難いがこれはラグーン商会が受けた仕事だ。こんなんでもプロなんでな、最後まできっちりやり通すさ』
「ご立派だな」
『アンタに言われてもな』
その後二言三言適当に言葉を交わし通話を終える。
これでバラライカに依頼されたうちの一つは片付いたことになる。あと残るのはE・O社の迎撃だが。
「レヴィだっているし、俺必要ないんじゃねえかなぁ」
表通りを再び歩き出した俺はそう独りごちる。
彼女と共に過ごしたのは三年程だけだったが、恐ろしいスピードで強く逞しくなっていった。精神的に成長したことが大きな要因なのだろう。俺はただ寝床と簡単な依頼の世話をやいてやったくらいなので全く以て大したことはしていない。
始めは寝込みを襲われそうになったり(物理)、背後から刺されそうになったり(物理)したが、今ではすっかり大人しくなった。
なんとなく生前の自分の娘や孫と重ね合わせてしまって放っておけなかったのが彼女を家に寄せた理由なのだが、結果的には良かったと納得している。
あれだけ犬歯を剥き出しにして警戒していたのに、今では会うたびに身を寄せてくるのだ。たまに犬の耳と尻尾が幻視できそうになる。普段の冷徹な彼女からは信じられないだろう。俺だって信じられないもの。
昔のことを思い出していたからか、俺は通りの向こうが騒がしいことに今更ながら気が付いた。
多くの野次馬が集まってきているようで人だかりが出来ているが、その先にあるのは目的地でもあるイエローフラッグの筈だ。
首を傾げながらも、俺はその野次馬の群れの元へと向かう。
「……うわぁ」
視界に広がった光景は、思わず額に手を当てたくなるようなものだった。
このロアナプラきっての大衆酒場、イエローフラッグは消滅していた。より正確に言うならば、全壊していた。
こりゃまだバオが怒り心頭だろうなと店主の形相を想像する。実に鮮明に映し出されてしまった。
詳しい状況は未だ判断できないが、恐らくは危惧していたことが起こったのだろう。周囲に見られる銃痕や装甲車のタイヤの跡などからそう当たりを付ける。
確認の意味も込めて、俺は近くにいた野次馬の一人に声を掛けた。
「なあ」
「あん? なんだよ――――って、ううウェイバーッ!?」
青年が振り返り、俺を視界に収めたのと同時の驚愕の声に、周囲の野次馬たちの視線がイエローフラッグから俺へと一斉に切り替わった。
皆が皆どう表現したらいいのか分からない、酷く色褪せた表情を浮かべている。なんだどうした、別に取って食ったりしないぞ俺は。声をかけた青年に至っては既に涙目なんだが。
「これ、なにがあったか見てたか?」
「いいい、いいえ! 俺も爆発音がしたから覗きにきただけで! なんにもお伝えできるようなことは!」
「そうか。ありがとうな」
ジャケットのポケットから煙草を取り出し、口に咥えて火を点ける。
まずったな、これじゃ迎撃するにも追わなくちゃならん。なんとかラグーン商会だけで切り抜けてはくれないだろうか。
尚も俺の周りから動こうとはしない野次馬たちを不思議に思いながらも、面倒なことになったと内心で頭を抱えそうになる。吐き出された煙は、星の見え始めた仄かな夜空へと消えていった。
6
青年はこの瞬間、初めて恐怖というものを身近に感じた。
拳銃で撃ち合ったことはある。ナイフで斬り合ったこともある。しかし、人に声を掛けられただけでここまで濃密な死を思い描いたのは生まれて初めてだった。
声を掛けてきたのは、この街において絶対に怒らせてはいけないという男。本名不明、通称ウェイバー。東アジアの国を思わせる顔つきに黒髪、黒のパンツにグレーのジャケットという出で立ちの男は、この野次馬があふれる衆人観衆の中、誰にも気付かれることなくここにやって来たのだ。
実際、声をかけられるまで誰もこの男が居るなど気がつかなかった。気配を一切感じないのだ。だからこそ、恐怖は倍増する。
青年は聞かされていた。ウェイバーに関する様々な逸話を。
曰く、彼のジャケットのボタンが掛けられていないときは決して正面に立ってはいけない。
曰く、完全武装した他国の軍隊をたった一人で制圧した。
曰く、ロアナプラを裏で牛耳っているのは彼である。
曰く、半径三メートル以内で不穏な動きを見せれば射殺される。
などなど。
こういった話を挙げていけばきりがない。
そしてそれがただのデマでないことは、青年が今身を以て実証していた。
脚が無意識のうちに震え、奥歯が噛み合わない。何を質問されたのかすら覚えていない。実際の言葉を交わしたのほんの僅か。時間にしても十秒にも満たないだろう。
たったそれだけの時間にも関わらず、その場にいた野次馬たちは完全に男の発している気に圧されていた。周囲の人間たちも彼の逸話は耳にしていることだろう。だから動かない、動けない。今ここで僅かでも動けば撃たれる。そう誰もが本気で思っていたのだ。
加えて今のウェイバーのジャケットはボタンが掛けられていない。噂が本当であるならば、シャツとジャケットの間に吊るされたショルダーホルスタには彼の愛銃が眠っている筈だ。それを目覚めさせてはいけない。この場にいる全員の総意であった。
青年は必死に恐怖を堪えながら、ウェイバーがこの場を離れるのを待った。
彼は懐から取り出した煙草に火を点けて煙を燻らせると、そのままどこかへと立ち去った。
彼の姿が完全に見えなくなった瞬間、青年は地面に倒れるようにして座り込む。
あれが、この街の頂点に君臨する人間の一人。
汗も滲むほどの暑さだというのに、どうしてか身体の震えは止まらなかった。
未だロックと会えない主人公さん。