悪徳の都に浸かる   作:晃甫

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 小話集。予定変更で三本構成。


026 やがて来る嵐の前に

1. 水は方円の器に随う

 

 神様と呼ばれるモノの存在が確かに存在するというのであれば、万人に平等を与える筈だ。世界中に生きとし生ける人々は誰もが自由と平和を愛し、笑顔が絶えない世界を短い人生目一杯使って謳歌する。戦争なんて存在しないし、そもそも隣国と啀み合うこともない。天然資源は周辺諸国に平等に分配され、発展途上国には先進国から技術提供が積極的に行われる。貧困地域には食料の配給が、富裕層には多くの納税が。もしも本当に神様なんて存在が居るのだとすれば、そんな風に誰もが等しく平等な世界を作り上げている筈なのだ。

 そうでなければおかしい。

 そうでないのだとすれば。

 

「神様なんて居ない」

 

 吐き捨てるように炎天下の日差しの下で少女が呟いた。ジリジリと肌を焼く日差しを見上げて、直ぐにその眩しさに目を細める。

 カラカス。そう呼ばれる地域の 貧困街(バリオ) にその少女は立っていた。ベネズエラの首都であり世界的都市であるこのカラカスだが、富裕層と貧困層の差が大きなことでも有名だ。身に付けている衣服も片やブランド物のスーツ、片や薄汚れた布切れと言えばその差が理解できることだろう。治安も悪く、人口当たりの殺人事件の発生率は日本の東京の百倍である。

 少女は無造作に伸ばされたボサボサの黒髪を鬱陶しげにかきあげて、往来を歩く大人たちに視線を向ける。

 皆一様に生気のない、死んだような眼をしていた。

 この貧困街と呼ばれる場所は、言うなればベネズエラの肥溜めだ。表向きは世界的先進国を謳っておきながら、弱者に救済の手を差し伸べることは決してない政府が長い年月をかけて作り上げた亡者の街。国の汚点と言えるこの場所を、政府はあまり表沙汰にしたくはないのだろう。故にカラカスにありながらほぼ隔離されたような状態にあり、一般人は寄り付こうともしない場所となっていた。

 

 少女はそんな場所に生まれ、これまでの十数年を生きてきた。

 父親は熱心なカトリック教信者だった。母親はそこまで宗教に固執するようなタイプではなかったが、何かあると神様とやらを持ち出して少女に言い聞かせていた。

 そんな両親たちの言葉を鵜呑みにして無邪気に信じていた数年前の自分を、少女は殴り飛ばしてやりたい気持ちになる。

 

 神様なんて居ない。この世界のどこを探しても。

 

 神様が本当に居るなら、あれほど熱心に毎日祈りを捧げていた父が通り魔なんかに刺されて死ぬはずがない。

 神様が本当に居るなら、情緒不安定になってしまった母が自分たちを残して蒸発するはずがない。

 神様が本当に居るのなら、神様はそんな不幸な自分たちを救わないはずがない。

 

「……バカバカしい」

 

 少女はそこで思考を止め、盛大な溜息と共にそんな言葉を吐き出した。

 結局、この世界はどこまでいっても残酷なのだ。少女を含め、残された五人の子供たちがこの場所で生きていくにはなりふり構っていられない。命懸けの盗みを幾度となく繰り返し、逃げ切れずに捕まったことも一度や二度ではない。その度に少女は手痛い仕打ちを受け、身体中に痣を作った。

 全ては生きるため。

 掃溜めみたいなこの場所でどれだけ悪態をつこうと、此処で生きていくしか少女に道はないのだ。

 

 そう、思っていた。

 

 継ぎ接ぎだらけの家を離れ、少女はバリオを出てカラカスの中心部へと向かう。

 目的は言うまでもなく窃盗だ。世界的都市を宣言しているだけあり、そこかしこに観光客と思しき人間が見られる。少女が狙うのは決まってそうした人たちだった。カラカスに住む人間たちはバリオの存在を知っているために警戒心が強い。それに対して他所からやってくる観光客というのは恐ろしく警戒心が低かった。財布をポケットに入れたままにするなんて、現地の人間はまずしない。

 こうした観光客たちは、少女からすれば鴨が葱を背負っているようにしか見えないのだ。

 

 大きな通りから一本外れた通りに入った少女は、こちらに向かって歩いてくる男に目を付けた。暑さ故かグレーのジャケットを肩に引っ掛け、ズボンのポケットには黒の長財布の先が見えているその男はどう見てもこの国の人間ではない。顔立ちからしてアジア系だろうか。額に汗を滲ませて歩くその男に、少女はごく自然に近付いていく。

 これまでの経験上、最も警戒心が低いのがアジア系、更に言えば日本という島国の人間だ。それに照らして考えると、視線の先に居る男は当たりだった。

 すれ違いざまに素早く財布を抜き取ろうと考え、少女は気だるげに歩く男に近寄っていく。

 

 そして、交錯の瞬間。

 財布を取ろうと伸ばした少女の腕が、男にがっちりと掴まれた。

 

「……え」

「は?」

 

 予想もしていなかった男の行動に、眼を丸くして掴まれた腕に視線を落とす少女。

 自慢する程でもないが、少女は自身の素早さを自覚していた。平和ボケした東洋人にその動きを見切られるほどトロくはないつもりである。にも関わらず、完璧なタイミングで腕を取られた。まるで最初から財布を狙われていることを知っていたかのように。

 未だ掴まれたままの腕から男へと視線を移す。

 何を考えているのか全く分からない真黒な瞳が、ただ無感情に少女を見下ろしている。背中に流れる冷や汗を感じながら、少女はあくまでも強い口調で言い放った。

 

「腕、離してよ」

「ああ、悪いな」

 

 間断無く返って来た言葉に、少女は内心で驚愕していた。

 少女が口にしたのはベネズエラで広く使用されているスペイン語だ。どこからどう見てもアジア人なこの男は、そのスペイン語を理解するどころか平然と口にしている。違う、今まで目にしてきたアジア人とは、その性質が異なっている。少女はそう直感する。

 解放された腕を数度さすり、少女は男に訝しげな眼を向ける。

 

「この辺りじゃ見ない格好だな、貧困街の子か?」

 

 その言葉に再度驚く。

 現地の人間でも無ければ貧困街など口にしない。先も言ったように政府は貧困街の存在をひた隠しにしようとしている節があるため、一般の観光客の眼にはまず触れないし耳にも入らない。

 ますますもってこの男の存在が不可解になる中、少女は率直な疑問をぶつけた。

 

「アンタ、何者?」

「何者って言われてもね、しがない只のおじさんだよ」

「只のおじさんがスペイン語話したり貧困街なんて単語口にしたりしないよ」

 

 そう言われて困ったように後頭部を掻く男は、数秒の沈黙の後にこう言った。

 

「ウェイバー、ちょっと治安の悪い街に暮らしてるダンディなおじさんだ」

 

 これが少女、ファビオラ・イグレシアスとウェイバー。二人の邂逅の瞬間だった。

 

 

 

 2. 雲集霧散

 

 ここ数日のロアナプラは、何処か騒々しい。

 街に住む人間の多くは落ち着きがなく、口々に噂話を言い合う。それらの噂話のほぼ全てが黄金夜会の一角、ウェイバーに関するものだった。

 そんな噂話で賑わっているのはロアナプラを代表する大衆酒場、イエローフラッグであっても例外ではなく。

 

「おい聞いたかよあの話」

「ああ、何でもまた一人女を囲ったんだろ」

「おいおいアイツぁ弟子取ったりしないんじゃなかったのか?」

「こないだの銀髪のガキん時もそうだったが、俺にはあの人が何考えてんのか全く分からねえよ」

 

 様々な憶測を多分に含んだ噂話が悪徳の街を駆け巡ったのがほんの二、三日前の事。今や街中その話で持ちきりだった。

 そんな話を耳にして、眉間に皺を寄せる男が一人。最近常連としてようやくバオに名前を覚えてもらったその男は、数ヶ月前にロアナプラにやってきた日本人、英一。

 

「俺はその女を生で見たがよ、あの風貌は東洋人だぜ」

「うげッ、ウェイバーや張と同類かよおっかねえ」

「わかんねえぜ? そこの英一みたいなのかもしれねえ」

「ウェイバーんとこの人間に限ってそれは無ェよ」

 

 自身のすぐ傍で行われる会話のやり取りを無視して、英一は無言でグラスを呷った。注文してから手をつけていなかったジンを一息で飲み干して、酒臭い息を大きく吐き出す。

 英一も当然ながらウェイバーが女を連れて戻ってきたことは知っていた。真っ先にその光景を目にしたと言っていい。何故なら彼はウェイバーの帰りをずっと港で待ち続けていたのだから。

 

 数ヶ月前、初めてこの悪の巣窟に足を踏み入れた英一。意気揚々と乗り込んだ彼に待ち構えていたのは、洗礼とでも言うべき血腥い揉め事。日本の悪党とは根本から異なるこの街の人間たちに気圧され足の竦んでいるところを助けてくれたのが、今街中で噂となっている男ウェイバーだった。

 ウェイバーが黄金夜会の一角を担う超大物であると知ったのは、彼に助けてもらった直後のこと。この街で一旗上げてやろうと勇んでいた当初の目的を結果的に果たしたことにはなるが、そんなことよりも英一はウェイバーのその強さに惹かれ、憧れた。世界中から忌避されるこの悪徳の街で、多くの人間から畏れられるその人間性。

 同じ男として、単純にあの人のようになりたいと思ったのだ。故に、英一は即座に彼に弟子入りを嘆願した。彼の近くに居ることで、彼の持つ強さに近づきたいと思ったのだ。

 しかし、英一のその嘆願はすげなく断られてしまった。生憎弟子を取る気はないらしい。彼の事務所に十二、三歳程の銀髪の少女が住んでいることを後から知った英一は自身が弱いから弟子入りを断られたのだと思ったが、街の人間たちの話を聞くにどうもそう簡単な話ではないらしいことに気がついた。

 

 酒場の人間たち曰く、

 

「あのガキはウェイバーを狙ってる命知らずだよ、最近は大人しくなったみてェだけどな」

「バラライカんとこの人間に喧嘩吹っ掛けて生き残ってる子供だ。関わり合いにゃあなりたくねえな」

「毎日ウェイバーの命を狙ってるって話だ」

「自分を狙ってる殺し屋を手元に置くなんざアイツは頭がイカれてるよ」

「おいあんま大声出すんじゃねえよ。もし聞かれたら殺されるぞ」

 

 自身の命を狙っている殺し屋を手元に置く。この言葉だけを聞けば、頭の狂ったイカレ野郎にしか思えない。しかしウェイバーという男についてそれなりの知識を獲得していた英一は、ウェイバーの真意に気が付いていた。

 

(流石はウェイバーさんだ。どこから襲われるか分からないよりも分かった方がいいもんな。殺し屋の一人くらい返り討ちにすることわけないだろうに、器がデケェぜ)

 

 認識の齟齬はあるようだが、英一の考えていることもそこまで的外れという訳ではなかった。 

 ウェイバーの考えを読める(それが正解だとは言っていない)英一であるが、今回の噂の件に関しては全く理解出来なかった。

 

 数日前、情報屋が仕入れた情報によりウェイバーがロアナプラに戻ってくることを知った英一は、直ぐ様港へと向かった。船の到着時刻など聞いていなかったために夜通し待つことになってしまったが、それでも一向に構わなかった。

 そんな英一の前に一隻の船が飛び込んできたのが港にやってきてから十一時間後のこと。

 直接会うことが憚られた英一はコンテナ街の影からウェイバーが降りてくるのを待った。そしてようやくウェイバーの姿を発見したと思ったら、どういうわけかその後ろに見覚えのない女が続いていたのである。

 

 面白くない。これが現在イエローフラッグで酒を呷る英一の率直な想いだった。

 自身があれだけ頼み込んでも断られ続けたというのに、噂の女はさも平然とウェイバーの事務所に出入りしている。それがどうしようもなく気に入らなかった。

 

「オイお前飲み過ぎじゃねえのか」

「別に平気っすよこんくらい」

 

 バオの言葉にも適当に答え、豪快にジョッキを傾ける。中身を一息で飲み干すと、酒臭い息が口から漏れた。

 アルコールが回っている。そのことに気がつかないくらいには出来上がってきた英一は、普段であれば考えられないような大胆なことを思いつく。

 

「……そうだ、直接聞いて確かめよう」

 

 ゲップと共に呟かれた言葉に、それをカウンターで耳にしたバオが顔を顰める。

 

「やめとけ、関わり合いになるもんじゃねえよ」

「だってよーバオさん。俺あんなに弟子入りお願いしてるのにさー、なのによー、あの女は自分とこに置いてよー」

 

 陽は沈みかけているとは言え、時間帯で言えばまだ泥酔する輩が続出するような時間でもない。

 英一も本来そこまで酒に弱くはないが、今回に限れば様々な想いが渦巻いた結果酒の回りを加速させているようだった。

 

「ウェイバーにも何か考えがあんだろうよ。おめェが詮索するようなことじゃねえ」

「でもよー」

「でもじゃねえ、ほらよ」

 

 ぶー垂れる英一の前に新しいジョッキが乱暴に置かれた。それを一口含んで、鬱屈とした溜息を吐き出す。

 この街で名を挙げてやろうと息巻いていた頃と比べて幾らか落ち着いた彼ではあるが、やはり当初の野望が完全に消えた訳ではない。男たるものというスタンスでこれまで過ごしてきたのだ、そうそう諦められるものでもなかった。

 ジョッキ片手にそろそろ本気でウェイバーの事務所に突撃してみようか、そんなことを思っていた時。

 それは突然やって来た。

 人相の悪い厳つい男たちの声がピタリと止む。椅子を引く音やグラスを置く音すら消え失せた。

 イエローフラッグと通りを数本挟んだ場所にあるカリビアン・バーでしか起こらないこの現象を、英一はよく知っている。

 入口の扉が滑らかに開かれる。先月破壊された際に立て付けを良くしたために、これまでのように軋んだ音は一切出なかった。

 

 英一はカウンターに腰を下ろしたまま、扉の方を振り返りはしなかった。誰がやってきたのかなど店内の反応を見れば分かる。悪態ばかりのチンピラどもが縮こまる相手など、この街には片手の指程しかいないのだから。そしてその中に、この酒場を行きつけにしている人間は一人しかいない。

 即ち、ウェイバーである。

 英一が憧憬すら抱く程心酔する、一等の大悪党。

 

「…………?」

 

 事ここに至ってようやく、英一は店内の空気がいつもとは微妙に異なっていることに気が付いた。

 背後に聞こえる足音は一つではない。少なくとも三人以上の足音がカウンターへと近づいてくる。ウェイバーと行動を共にする人物を考え、そして直ぐにその結論に辿り着く。

 

(あの女か)

 

 二つ隣の席に着いたウェイバーたちを、グラスを傾けながらなんとはなしに見やる。

 途端、英一はビールを豪快に噴き出した。

 そして瞬時に理解する。後ろのテーブルの客たちが一様に大人しくなってしまったその理由を。イエローフラッグ内は、未だ嘗てない緊張感に包まれていた。長年ウェイバーと関わってきたバオでさえ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。

 店内の異様な静けさをしかし、件の人間たちは全く気に留めていなかった。

 

「バオ、とりあえずビールをくれ」

「私オレンジジュース」

「あ、私も同じものを」

 

 ウェイバーの隣に座る銀髪と黒髪の少女は、この異様な空気に気がついていないのか平然としていた。いや、もしかすると気づいていて敢えて無視しているのかもしれないが。

 いや。いやいや。

 そんなことよりも。

 笑顔でオレンジジュースを飲む銀髪の少女も、静かにグラスを傾ける黒髪の少女にも。確かにそれなりの興味関心はある。しかし、今はそれよりも英一ならびに店内の悪漢どもの視線を独占する人間の存在があった。イエローフラッグが爆発一歩手前の爆弾を前にしたような緊張感に包まれているのは、ウェイバーとその人間が同じ場所に居るからだ。

 少女二人とウェイバーを挟む形で腰掛けたその人物は、カウンターに頬杖をついて事も無げに言った。

 

「随分と寂れた店ね」

 

 他の人間がこんなことを言えば、額に青筋を浮かべたバオから間違いなく怒声が飛んでくる。

 

「そう言うな、この店の静かな雰囲気が気に入ってるんだよ」

「普段はもう少し活気があるんじゃないかしら」

「いつもこんな感じだよ、なあバオ」

 

 誰もその会話に割って入ることが出来ない。

 直ぐ傍に座る英一はおろか、店主であるバオでさえも。

 

 黄金夜会の一角、ホテル・モスクワの大幹部バラライカ。

 とんでもない大物の登場に、バオは店が壊滅する様を幻視した。

 

「それで? どこから話を始めればいいかしら」

「そう急くなよ。酒場に来たんだからまずは酒だろ?」

「私の満足する酒が出てくるとは思えないけれど。それにこれだけ人が多いと会話の内容に気を遣うわね」

 

 空気が一瞬で張り詰める。周囲の人間たちはこの重苦しい空気に窒息しそうだった。小さな物音すら立てまいと、先程からグラスに口を付けたまま微動だにしない男までいる始末である。

 ウェイバーとバラライカ。二人の因縁じみた過去はこの街に長く住む人間なら誰もが知っている。まさかここでその続きが始まるのではないか、店内の男たちの顔から瞬く間に血の気が引いていく。

 

「それにしても、まさかこの街で顔を合わせることになるとは思わなかったわ、ミス鷲峰」

「私も、まさかこんなに早く貴方とお会いするとは思っていませんでした」

 

 ウェイバーを間に挟んで行われるバラライカと黒髪の少女の会話は、英一には聞こえなかった。ただあのバラライカと対等に会話をしているという時点で只者ではないということだけは理解することが出来た。大量に摂取したはずのアルコールはいつの間にか抜け、妙な緊張感だけが英一の体内に残る。

 憧れの存在たるウェイバーがすぐ近くに居るというのに、彼はその場から動くことが出来なかった。

 彼の周囲を囲む人間たちの規格外さを目の当たりにして萎縮してしまっていた。

 

(……ああ、)

 

 中身が半分程になったジョッキを片手に、英一はぼんやりと思考する。

 

(ウェイバーさんに近づくには、バラライカとタメ口で話せるようにならないとダメなんだな)

 

 どこか間違った思考のまま、英一はビールを流し込む。

 彼がウェイバーに弟子入りする日は、まだまだ遠そうだ。

 

 

 

 3. 泥中の蓮

 

「起きてください」

「……まだ六時なんだけど」

 

 肩を揺すられる感覚に目を覚ます。途端、視界いっぱいに少女の顔が飛び込んできた。おう、なんだこの状況。

 若干状況理解が追いつかなかったものの、それも一瞬のこと。すぐに俺自身が事務所のソファで寝落ちしてしまったのだと理解する。無造作にハネた髪の毛を掻きながらゆっくりと上体を起こすと、少女は小さく溜息を零した。

 

「昨日も言ったじゃないですか、寝るならきちんとベッドで寝てください。事務所のソファをベッド代わりにしないって」

「いやさ、わざわざ自室まで戻るのが面倒でな」

「ほらジャケットもシワだらけじゃないですか。アイロン掛けるので脱いで下さい。ついでにシャワーも」

 

 少女、鷲峰雪緒に言われるがまま、俺はジャケットを脱いで彼女に手渡す。欠伸を噛み殺しながらブラインドを上げて陽の光を室内へと取り入れると、ようやく眠気が取れていく。

 昨日、というかつい数時間前までカリビアン・バーで飲んでいたため若干身体が酒臭い。二日酔いにはなっていないが、体内にはまだいくらかのアルコールが残っているようだ。重たい足取りのまま自室へ戻り、バスタオルと着替えを手にシャワールームへと向かう。

 熱めのシャワーを頭から浴びることで完全に眠気を吹き飛ばし、酒臭さも流していく。

 

「おはようおじさん」

「おはようグレイ、あと使用中だ戻れ」

 

 なんで普通に入ってきてるんだこの娘っ子は。誰か入っているとシャワー音から簡単に分かるだろうが。ニコニコ顔で入ってきたグレイを即座に叩き出す。ぶー垂れているようだがそんなことは関係ないのだ。この狭い空間の中で命を狙われるとか冗談じゃない。レヴィを置いていた時もここで殺されそうになったことがあったのだ。あの時はどういうわけか顎を強打したらしいレヴィが失神したが。

 命の危険を回避し、迅速にシャワーを済ませて事務所の奥にある生活スペースへと戻る。

 

「あ、朝ごはんの準備できてますよ」

 

 扉を開けたら四人がけのテーブルの上に簡単な朝食が人数分並べられていた。

 普段料理を全くしない俺からすれば、こんな朝から食事を摂ること自体が珍しいことだった。グレイも朝は得意な方ではないため、起きてくるのは昼過ぎだ。

 しかしながら雪緒がこのロアナプラに来てからというもの、これまでの生活リズムは一変した。炊事や洗濯といった家事全般を請け負った雪緒は、俺やグレイの生活リズムの改善を半ば強制的に行ったのである。食事は毎日三食きっちり摂る。脱いだ物は脱衣カゴへ入れる。三日に一度は部屋の掃除をするなど。まるで母親のようだった。事実グレイとのやり取りを見る限り完全に母と子の構図である。

 

 シャワーを終えたグレイもテーブルに着いて、三人揃って食事を始める。

 

「ニンジンが入ってる……」

「好き嫌いはしちゃダメよグレイちゃん」

 

 なんてほのぼのとしたやり取りをしているが、この二人は其々これまでにかなり難しい人生を送ってきている。

 グレイは幼い頃より殺しを仕込まれてきた子供ながらの殺人鬼。度重なる殺人を経てそれを何とも思わないほどに感覚が麻痺してしまっている。

 そしてつい四日前にこの邪悪な都に足を踏み入れた鷲峰雪緒。

 日本の極道一家、鷲峰組の総代である彼女はホテル・モスクワと兄貴分である極道、香砂会を相手取って壊滅状態に陥った。組の中枢たる若頭と側近は殉職。残った組員たちは日本の各地へと住まいを移すこととなった。総代たる雪緒は死亡した仲間たちの仇討ちのため、この街で力を蓄える道を選んだのだ。

 

 そんな過去を持つ二人であるが、目の前ののほほんとした光景を見せられてはとてもそんな悲惨な経歴の持ち主だとは思えない。既に街中で雪緒の噂が流れているようだが、本人もそんな噂を気にした様子はないようだった。

 

「ウェイバーさんの今日の予定は?」

「ん、特にないな。仕事は昨日片付けたし」

「じゃあマーケットに買い物に行きませんか。グレイちゃんも一緒に三人で」

 

 グレイの口にニンジンを強引に突っ込みながら、雪緒はそう提案した。

 

「……そうだな、それもいいか」

 

 むーむー唸るグレイを視界の隅に追いやって、雪緒の提案を受け入れる。

 朗らかに笑う彼女のぎこちない笑顔に、触れることはしなかった。

 

 ロアナプラのメインストリート近くに軒を連ねる露店の多くは、早朝より商いを開始している。売り物は果実だったり焼き物だったり様々だが、今俺たちがやって来ているマーケットは基本的に食材が多く売られているエリアだった。無論、今までこの辺りのマーケットを利用したことはない。あるのは何本か向こうの料理街とブラックマーケットだけだ。

 通りの左右に設置されている露店が、高市の出店と同じように見えたのかもしれない。どこか懐かしむような視線を向ける雪緒の前に立って、ゆっくりと歩き始める。

 

「……なんだかざわついてませんか?」

「さあな、この辺りのマーケットは滅多に来ないんだ。このくらいの活気が普通じゃないのか?」

「いえ、あの。明らかに私たちを見てるみたいなんですけど」

「ま、この街じゃ俺はそこそこの有名人だしな」

 

 そのくらいの自負はある。黄金夜会の一角として数えられているのだから。流石にバラライカや張なんかの知名度に比べれば霞んでしまう程のものだろうが。

 

「ねえおじさん、私あれが食べてみたいわ」

 

 つい、とジャケットの裾を引っ張られる感覚に視線を落とすと、グレイが一軒の露店を指差していた。その先にあるものを見て、俺は即座に首を横に振る。

 

「やめとけ。あれ前にロックに貰って食べたことあるが食えたモンじゃなかったぞ」

「そう言われると余計に気になるわ」

「犬っコロの餌の方がまだマシだよ」

 

 白い果実を思い出し、あの不快な味が蘇る。できれば二度と口にはしたくない。

 なんてことを考えているうちに、雪緒とグレイはかなり先へと進んでいた。多くの人間たちが集まる場所だ、逸れると些か面倒である。二人の後ろ姿を見失わぬよう、早足で二人の後を追った。

 

 その後約二時間程かけてマーケットを回り、少し早めの昼食を格安料理屋で摂ろうと店内に足を踏み入れた瞬間、唐突に声を掛けられた。

 

「あら、珍しいわねウェイバー。この辺りに顔を出すなんて」

 

 屈強な男たちを背後に並べ、葉巻を咥える女。顔に大きな火傷の痕を持つ彼女は、この悪徳の街の実質的支配者。

 即ちバラライカだ。そういえばここら一帯はホテル・モスクワが取り仕切っているんだったと今になって思い出す。

 バラライカは直ぐに俺から後ろに居た雪緒へ視線を移し、小さく口角を持ち上げた。

 

「また会ったわねミス鷲峰。ウェイバーが手元に置いたという話は本当だったか」

「…………」

 

 雪緒は何も答えない。それを気にすることもなく、再びバラライカは俺へと視線を向けて。

 

「そうだウェイバー。貴方この前軍曹と酒を飲んだんでしょう? 夕方には私も時間が取れる。その酒場に案内してもらえるかしら」

 

 唐突なその発言に真意を測りかねていると、

 

「別に何も企んじゃいないわ。ただこの前の事の顛末とそこの小娘の経緯を聞きたいだけよ。たまには外で飲むのも悪くないでしょう?」

「……分かったよ、但し後ろに居る部下は連れてくるなよ。バオが失神しちまう」

 

 その言葉を聞いて満足そうに微笑んだバラライカは踵を返し、雑踏の中へと消えていった。

 ふと視線を雪緒へ向ければ、俯いたまま静かに拳を握り締めている。

 乗り越えなければならないと分かっているのだろう。だが、人はそう簡単に思考を切り替えられるものではない。多大な怒りと追随する恐怖。それらがいっぺんに押し寄せてきている筈だ。バラライカとは雪緒にとっての仇に他ならない。この街の絶対的な力の象徴であり、そして今の雪緒では決して届かない高みの人物。

 少女の内に渦巻く感情を、俺は完璧に理解することなど出来ない。

 親しかった人物を殺された少女が殺した張本人と対面した時の感情など、分かる筈も無かった。

 

「……ウェイバーさん」

 

 程なくして、雪緒の口から言葉が漏れる。

 

「私も、その酒場に行ってもいいですか?」

 

 どうして、などとは聞かない。顔を上げた少女の顔には、ある種の決意が滲んでいたのだから。

 

「……いつまでも過去にしがみついているわけにはいきませんから」

 

 強がりだろう。そんなことは俺だけでなくグレイも見抜いているに違いなかった。あの日、半ばから折れた白鞘を抱いて泣き崩れた日のことを、そう簡単に忘れられるわけがない。

 ただ、その事を自身のどこかに必死に落とし込もうと少女は努力している。

 ならば、それなら。

 彼女を引き取った自分の責任として、それを後押ししてやるくらいのことはしてやるべきだ。

 少女の傷も被った泥も、その全てを受け入れてやるくらいの器量はあるつもりである。でなければそもそもグレイを住まわせたりはしない。

 

 雪緒の取り繕ったような笑みは未だ消えない。

 だが今はそれでもいい。雪緒もグレイも、いつか本心から笑える日が来るのであれば、今は。

 

 自分のことを悪党だなんだと言っているにも関わらず柄にもないことを考えていたが、そろそろお腹が限界らしいグレイが俺のジャケットをぐいぐい引っ張って料理店の中に引きずりこんだことで意識を外へと戻す。

 まあ、たまにはこういうのも悪くない。

 三人揃って丸テーブルに着いたところでそう思う。

 

 世界中の悪党が集まるこの悪の吹き溜まりで、今日も硝煙の匂いに塗れた一日が過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 




 次回よりカット予定だった偽札編。二話予定。


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