トイレ借りにちょっとそこまで。
25
「なんだ、もう終わってたのか」
用を済ませ半壊したカリビアン・バーに戻ってくると、レヴィとグレイの手によるものであろう愉快な死体が二つ、赤黒くなって転がっていた。
俺の姿を認めた途端に恐怖からか懐へと飛び込んできたメリッサを抱き留め、視線を周囲に向ける。取り敢えず、これ以上の追撃は無さそうだ。四重奏とか呼ばれているくらいだ、もう一人くらいその辺に潜んでいるんじゃないかと勘繰ったが、どうやら俺のアテは外れたらしい。
「お帰りなさいウェイバーさん。随分と長いトイレでしたね?」
「ん? あー、まあ何だ。たまたまここを狙ってた狙撃手を見つけてな」
「そうですか、
磁石のようにくっついて離れようとしないメリッサを何とか引き剥がしたところで、訳知り顔でニコニコと笑みを浮かべた雪緒が奥から姿を現した。
何となく勘違いが発生している気がするが、トイレに行くことをどう勘違いしているのか見当もつかない。ということで、一旦そのことは置いておき、木片が散らばるカウンターの一席に腰を下ろして一息。
「そういや、レヴィはどうした」
「服に血が付着してしまったので、着替えに。メリッサさんがシャツを貸してくれるそうで隣の住居に行っています」
血気盛んなラグーン商会のガンマンの姿が見えないことに気が付いて問いかけてみれば、雪緒からそんな返答があった。
……血ねェ。再び、床に転がる血達磨を一瞥。
いやいや、やりすぎだろアイツら。特に大男の方、下半身どこに置いてきたんだ?
「グレイ、お前やりすぎだぞ」
「当然の報いだわ」
隣のカウンターに座るグレイを見てぼやくと、少女は頬を膨らませてすげなく言い放った。
BARの整備の為か銃身の解体を始めていたグレイは、どうにも溜飲が下がらない様子。余程トサカにくることがあったのだろうか。今も掃除のため手を動かしながら、不機嫌そうに足を交互にゆらゆらと揺らしている。
「おじさんだって昨日の朝血塗れで帰ってきたでしょう?」
「胴体真っ二つにした返り血じゃねェぞあれは」
事務所へ戻る道中、街の奴らからは幽霊でも見るような目で見られたが。
「お前はその遊び癖をもう少し治すべきだな。いつか痛い目を見るぞ」
「おじさん相手にこんな事しないわ。はじめから全力で殺しにいくもの」
俺の寝首を搔こうとするんじゃねェよ。
最近はグレイからの襲撃も目に見えて減ってちょっと安心してたんだが、その実虎視眈々と獲物を狙っていたらしい。
そういや今朝も枕元にナイフが突き刺さってたっけか。これっぽっちも安心できる要素が無かったな。
「ウェイバーさん、この後のことですが」
「ん、ああ。目先の脅威は去ったと判断していいだろう。後はカウンターの裏で縮こまってるそこのお嬢ちゃんの扱いだが」
カウンターの向かい側、両手で頭を抱えて丸まっている中国人に視線を向ければ、彼女は目尻に涙を浮かべて金魚のように口をパクパクと動かしていた。グレイたちの銃撃戦が余程衝撃だったのか、中々その場から立ち上がれないようだ。
「ヘイ、そんなトコで丸まってないで出てきたらどうだ。
「お、終わったの……?」
「ああ、後片付けはまだだがB級スプラッタ映画じゃよくある光景だ。気にするな」
「おえ……」
そろそろと顔を上げてカウンター越しに俺の後ろの光景を目にした馮は、口元を押さえ再び蹲ってしまった。
ふむ、少しばかり刺激が強かったか。
「こんな光景見慣れてる方がどうかしてますよ」
「そうだな、お前もな」
溜息を吐き出しながらぼやく雪緒に、俺は小さく笑ってそう答えた。
出来ることなら馮の回復を待ってやりたいところだが、追撃が無いとも限らない。
「馮、吐きながらでもいいが聞け。今お前が置かれている状況を端的に説明すると、あと一本剣をぶっ刺せば吹き飛ぶ黒ひげ危機一髪ってとこだ」
「……死ぬ一歩手前って理解で合ってるかしら?」
「おじさんに盾突いた時点で死んでいるのだから、少しばかり状況は好転してるわね眼鏡のお姉さん」
「グレイ」
茶々を入れてくるグレイを諫める。
ようやく胃の中を空にしたらしい馮はよろよろと立ち上がり、原形を留めていた手近な椅子に腰を下ろした。
「さっきの三人が何故お前を狙っていたのか分かるか?」
「……口封じってところでしょうね。ああ、成程。知りすぎた私も父と同じように始末しようとしてたってこと」
まあ、まず間違いないだろう。
以前も張経由で俺に依頼を持ちかけてきたくらいだ。今もこの街と繋がりを持っていても何ら不思議ではない。
「加えて言えば、恐らくお前の身辺整理は既に終わっている筈だ」
「それじゃ……」
「戸籍上、お前はもう死人てことだ」
「……そう」
取り乱す様子もなく、馮は小さく呟いた。
俺を手に掛けようとこの街に足を踏み入れた時点で、或いは彼女は既にこの未来を予測していたのかもしれない。
「それで? 貴方は私をどうするつもり? 殺すの、それとも娼館にでも売り捌く?」
覚悟は出来ているとでも言うように、馮は気丈にも言い放った。それが強がりだということはその眼を見れば分かるが、どことなく昔のレヴィに似ている。
「ンなことしても俺にメリットが無い。それに命を狙われるのなンざ、俺にとっちゃガソリンスタンドでスピリタスを溢す程度の可愛いハプニングだよ」
実際この十年余りで命を狙われすぎて感覚が麻痺しているので間違ってはいない。
「かと言ってだ。俺の命を狙ったお前をこのままホイホイと解放する気も無い」
俺はロックと違って親切でも何でもない。
このままはいサヨナラでは俺の為に激昂したレヴィやグレイにも示しがつかん。
だからまあ、
普通にこのままロニーの所で洗濯機を買おうとすると、いくらぼったくられるか分かったもんじゃないしな。
「
「私に、何をさせようって言うの」
たじろぐ馮から視線を外さず、間髪入れずに告げる。
「洗濯するのにお前の腕が入用だ。精々俺の役に立て」
26
「そういうことか」
「みたいですね」
ウェイバーと馮のやり取りを耳にして、ロックと雪緒は大方の事情を理解した。
おそらくウェイバーは、最初からこうするつもりだったのだろう。
襲撃犯に敢えて襲わせ、中国軍が彼女を狙っていることに気付かせる。
ロック自身と同様にスケープゴートにされたのだ、今更故郷の地を踏める筈もない。かといってウェイバーが言うように、彼女一人でこの街を生き抜くことなど出来る筈もない。
そういう状況にした上で、彼女自身に今後の身の振り方を選ばせる。その実選択肢などあってないようなものだとしても、その裏に悪党の思惑があったとしても、馮は生きるためには選ばざるを得ないのだ。
「ホテル・モスクワかコーサ・ノストラかはまだ分からないけれど、彼女を保護するのは洗濯機のメンテナンスのためと見て間違いないだろう」
「随分回りくどいやり方をしますね」
「組織が大きくなると小回りが利かなくなる。社会じゃよくあることさ」
「ウェイバーさんは個人ですよ」
「…………よくあることさ」
27
「お、戻ってたのかボス」
「レヴィ」
馮の今後について一通り話終えた頃、衣服を取り換えたらしいレヴィが、黒のTシャツを着てバーへと戻ってきた。
メリッサが言うに客が忘れて行ったものだそうで、明らかにサイズが大きい。ダッチが横に二人並べそうなくらいの大きさである。首回りも大きいのか、肩の半分程まで見えてしまっている。
「また派手にやったなァ、レヴィ」
そんなレヴィに、ウェイバーは軽い調子で言った。
「ケッ、似合いの末路だ。早撃ちでボスに勝とうなンざ一億年早ェってンだよ」
「早撃ち?」
首を傾げるウェイバーに、隣から雪緒の声が飛ぶ。
「レヴィさんが相手をしたカウボーイハットの男ですよ。コロラドNo.1を自称していましたけど」
「ほォ……」
「思い出したらまたムカついてきた。おいロック、適当に棚からウイスキーを取ってくれ」
「あ、ああ」
レヴィもグレイと同様怒り心頭らしく、乱暴にカウンターに腰を下ろすと棚付近に立っていたロックへ酒を要請。
苛立ち紛れに足を踏み鳴らすレヴィを横目に見て、ウェイバーはゆっくりと腰を上げた。
「早撃ちねェ」
今朝の朝食を思い出しているかのような、そんな調子で。
「そいつァ、こォいうのを言うんだぜ」
――――銀色のリボルバーから、一発の銃声が轟いた。
弾数にして三発。
レヴィの頭、首、心臓の三か所に、正確無比に鉛玉が撃ち込まれる。
「ちょ、ウェイバーさん!?」
突然の凶行にロックは動揺の声を飛ばした。
だが当のウェイバーは表情を一切変えず、気だるげにリボルバーを仕舞うと。
「慌てンなよロック。こいつを見ろ」
血塗れで斃れ伏したレヴィの顎を掴み、そのまま一気に顔面の顔を剥いだ。
接着剤か何かで固定されていたらしい人工皮膚が、べりべりと剥がれていく。
「これは……!?」
人工皮膚の下から表れた顔はレヴィではなく、見たこともないアジア人のものだった。
「こいつも馮を狙った襲撃犯の一人だろう。四重奏とか言ってたからな。これで全員だ」
「成程。変装しているから本当の顔も分からず、リストにも顔写真が載っていなかったんですね」
得心した様子で雪緒が頷く。
「じゃ、じゃあ本物のレヴィは!?」
「てっめえクソジャリ! あたしのブーツとデニムと替えのTシャツどこに隠しやがった!?」
ロックの声は、直後の大きなレヴィの怒声で掻き消される。バーの隣に建つメリッサの住まいからそのまま走ってきたらしいレヴィがパンツ一枚で駆け込んで来た。
「……どうして偽物だって分かったんですか? 見た目だけなら同じでしたよ、私の目から見ても」
雪緒と同じ疑問をロックも抱く。
ここ一年生活を共にする彼の目から見ても、先ほどまでのレヴィは本物にしか見えなかった。
レヴィに化けていた襲撃犯の観察を粗方終えたらしいウェイバーは、物言わぬ死体を指差しながら。
「身体のラインが隠れる服装をした奴らが、内側に何か隠してるのは常識だ。あからさますぎてギャグかと思ったがな」
死体が着ていた黒シャツをまくりあげると、デザートイーグルとコンバットナイフが姿を現した。
「もう少し言うなら、アイツは俺がやったカトラスだけは肌身離さず持ってやがるのさ。黒シャツで上手く隠そうとしてたみたいだが、重心と腕の振り方からホルスタを付けていないのが分かった。それだけだよ」
「……じゃあ、もしも万が一、本当にレヴィさんがホルスタを忘れていただけだったら?」
「あの程度の早撃ち、レヴィなら普通に反応出来る。簡単な踏み絵みたいなモンさ」
どこか呆れたような表情を浮かべる雪緒に、ウェイバーは口角を吊り上げて笑った。
28
言葉にならない騒めきが、一行の歩みに合わせて周囲に伝播していく。
誰も彼もが眉を顰め明らかな怒気を隠そうともしないが、真一文字に引き結ばれた口から怒声や罵声が飛ぶことはない。言ったが最期、眉間で煙草を吸う事になる事を理解しているからだ。
周囲に屯する男たちの人数を鑑みれば、いっそ不気味な程の静けさが場を支配していた。
この場に於いて気兼ねなく口を開ける人間など、思考回路がぶっ飛んでいるイカレ野郎くらいのものだ。
「ここは」
目的の建物入口まで歩を進めてきたロックは目の前に聳え立つその建造物を見上げ、無意識のうちに呟いていた。
「ヘイ、ロック。何を呆けてやがる。ボスが行っちまうぞ」
煙草を咥えたレヴィが、扉を開いて内部へと入っていくウェイバーの背中を指差す。その背中に続いて雪緒とグレイ、馮も足を踏み入れており、レヴィとロックを残すのみとなっていた。
「コーサ・ノストラの方だったか……」
「ヘッ、あのガキんちょにとっちゃあ懐かしい場所じゃねェか。ま、あン時とは建物が変わっちまってるが」
ニヤリと口元を歪めるレヴィは煙草を吐き捨て、ブーツの裏で磨り潰して建物内部へと入っていく。それに続く形で慌ててロックも扉を潜ると、浴びせられる視線の数が一層増した。
表の通りに居た時点でそれなりの数の構成員から睨み付けられていたウェイバーたちであるが、内部へ足を踏み入れたことでその視線に鋭さが増したように感じられた。
端的に言ってしまえば居心地が最悪レベルである。同行を申し出た数十分前の己を殴りたい衝動に駆られるロックだった。
そんなロックの内心など露知らず、先頭を歩くウェイバーは周囲の視線を歯牙にもかけず先へ進んでいく。隣を歩くグレイは心なしか得意げである。その僅か後ろを歩く馮は初めて目にするイタリアン・マフィアの強面っぷりにおっかなびっくりといった様子だったが。
「ふふ、みんなおじさんを怖がってるみたい」
「お前も人の事言えねェぞ、グレイ」
くすくすと嗤うグレイに、ウェイバーは小さな溜息を溢した。ロックとしてもその意見には全面的に同意である。
今となっては過去の話になりつつあるが、ロックの数歩先を歩く銀髪の少女は当時のコーサ・ノストラの三分の一を壊滅させた殺し屋だ。当時の支部長だったヴェロッキオはオフィスデスクの上で縦に五等分の輪切りにされていた。それだけでこの少女の戦闘力、残虐性が知れるというものだ。
まあ、そんな怪物を飼い慣らしてしまう正真正銘の化物がその隣に居る訳だが。
その化物、もといウェイバーはお目当ての部屋のまでやって来ると、躊躇なくその扉を開いた。
「なッ、ウェイバー!?」
「久しぶりだなエミ―リオ。その奥の部屋に用がある、ちょっと通るぞ」
室内に居たコーサ・ノストラのタイ支部幹部の一人がウェイバーの突然の登場に目を丸くする。次いで慌てて腰掛けていた革張りの椅子から立ち上がり、ウェイバーの進路を塞ごうと歩み寄ってきた。
が、当然ウェイバーが止まる筈も無い。
エミーリオの静止の声を無視し、ずかずかと深紅のカーペットの上を進んでいく。
「どういうつもりだ!? アンタと揉めるような案件は無い筈だ!」
「そういうンじゃねェよ。言ったろ、ちょいと奥の部屋に用があるだけだ」
「今ボスは虫の居所が悪い! せめて日を改めてくれ!」
「アイツが上機嫌の日なんて無ェだろうが」
エミーリオの言葉には一切耳を貸さず、ウェイバーは目的の部屋である支部長室の扉を乱雑に押し開ける。
室内に居たロニーは苛立たし気に通話をしていたが、ウェイバーらを見て柳眉を吊り上げると、受話器を叩き付けるように戻した。
「オイオイ、
「ノックはしたぜ」
「馬鹿野郎、返事が無ェならそりゃ拒絶の合図だクソッタレ」
一触即発の空気が漂う。
黄金夜会の一翼を担う勢力同士が正面切って対峙しているのだ。
周囲を囲む構成員たちの表情も心なしか固い。
「……で、だ。ウェイバー。ぞろぞろと後ろにゴミ共をぶら下げて一体全体何の用だ? 見ての通り俺ァ今気が立ってる。お仲間の誕生パーティを祝ってやれる余裕は無ェ」
ロニーのその言葉に疑問を抱いたのは雪緒だった。
彼女の推測ではコーサ・ノストラとウェイバーの間で馮の身柄に関する取引が行われているはず。だとするならば、ロニーの反応は些か不自然である。
(……いえ、そうか)
そこまで考えた所で雪緒は勘付く。
今この場にはグレイと自分が居る。ここでその取引の話をしてしまうと、態々夜会でサシの取引に持ち込んだ意味が無い。コーサ・ノストラとしてはウェイバーに、ましてや過去自らの組織を半壊させた人間が居る所に依頼など出したくもなかった筈だ。プライドの高いイタリアン・マフィアのことだ、腸が煮えくり返るほどの思いに違いない。
その屈辱を押し殺してでもウェイバーへと依頼を出した理由。
馮のクラッキング技術がどうしても必要なのだ。それも彼の様子を見るに状況はかなり切迫している。
「ああ、こないだ話した件なんだが」
ウェイバーも直接的にその話を口にすることはない。あくまでも日常の会話を装う。
「言ってたろお前、イタリア製を勧めるってよ。ちょっくら手配を頼みたい」
「……なんだと?」
「そう怖い顔すンな。
ピクリと、ロニーの蟀谷がひくつく。
一瞬にして険悪な雰囲気が場を支配した。
右の肘を高級そうな机に置き、ロニーは身体を前傾させる。そこらのチンピラであれば恐怖のあまりデカい方をひり出してしまいそうな程の形相である。
「ウェイバー。テメエがどこで情報を掴んだのかは知らねェが、
「オイオイ何を勘違いしてやがるンだシャークボーイ。言ったろ、洗濯機さ」
宣戦布告。
ロニーはそう判断しようとして、しかしゆっくりと息を吐き出しその思考を中断する。
ウェイバーが態々敵の真っ只中にやってきて、そんな自殺行為をすることなどあるだろうか。
答えは否。
この男が何の企みも無く動くことなど有り得ない。何かある。
そのロニーの思考を裏付けるように、ウェイバーは続けて口を開いた。
「だがまあ、残念ながら俺は
「……
「だからお前に選んで欲しいんだよロニー。勿論、タダでとは言わねえ」
まるで詰将棋のようだ。
ウェイバーの後ろで会話を聞くロックはそう思った。
「その女が何だってンだ」
「コイツは元中国人民解放軍参謀部の人間でな、システムセキュリティにも明るい」
とりあえず以前のイエローフラッグで聞いた事を並べていくウェイバー。
「……てめえ」
「
「些か俺たちに都合が良すぎる話だ、何を企んでやがる?」
「言ったろ、洗濯機を選んでくれればそれでいい」
まさかロニーも目の前の男が本気で洗濯機と人間を物々交換しようとしているなどとは思わない。
アルバニア人どもの資金洗浄が滞ったところでウェイバー個人には何のデメリットもない。そしてコーサ・ノストラを手助けするメリットも無い。
おそらく、この件だけに収まらない企てがウェイバーにはあるのだ。
例えば、ヨーロッパに何か伝手が必要なのではないか。何せあそこには、ウェイバーですら対処を面倒がるICPOの本部がある。
ウェイバーに借りを作るのは甚だ不本意ではあるが、このままではアルバニア人の決めた期日に間に合わない。そうなればドン・モンテヴェルティからどんな制裁を受けることになるか。
己のプライドと組織を天秤にかける。
拮抗などするはずも無かった。
「……オイ、中国女」
十数秒の間沈黙を保っていたロニーが、ようやっと口を開く。
「何かしら」
「俺は嘘が嫌いだ。だから俺から嘘を吐くことは無ェし、お前が俺たちの役に立つ限りは仲間として敬意を払おう」
「そうね、パートナーシップは大切だわ」
瞬間、ロニーは馮の胸倉を掴み、目の前にまで引き寄せる。
突然の行動に咳き込む馮に構わず、コーサ・ノストラの支部長は冷たく言い放つ。
「だがな、もしもお前が嘘を吐いたら、俺はレディ・ファーストを反故にする。この意味が分かるな?
「っ、ええ、分かったわ」
「よし。早速仕事に取り掛かれ……と言いたいところだが、その前に隣で昼食を食ってこい。最高のパスタ・コン・サルデを出してやる」
掴んでいた胸倉から手を離し、胸を押さえる馮にロニーは告げる。
「ああ、それ俺たちも食わせてくれ。丁度いい時間だしな」
「……勝手にしろ」
29
「貴方には色々と世話になったわね」
数日後。
ラグーン商会のドック、その一室。
持ち込んだ荷物を整理しながら、馮はソファでバドワイザーを呷るロックに告げた。
「止してくれ。俺は何もしちゃいない」
「この街に完全には染まり切っていない貴方は、私の精神安定剤だったわ」
「そんな人を抗うつ剤みたいに言わないでくれ」
眉尻を下げるロックを見て馮は笑い、隣に腰を下ろす。
「とりあえずは一件落着ってところかい?」
「ええ、そうね。もう一つの件が片付けば」
「もう一つ?」
思い当たる節の無いロックは首を傾げ、それを見た馮はまた薄く笑った。
「
「あの女……ってジェーンのことか?」
「そ。あの性悪女のことよ」
ロックが持っていたバドワイザーを奪い取り、喉へと流し込んでいく。
「私がこの街で最初にあの女の依頼を受けたのは覚えてるでしょう? あの依頼、私を嵌める為の罠だったのよ」
「罠?」
「そ、あの女は私の過去の経歴まで洗ってたみたいね。その過程で私がアメリカに留学経験があること、私のやり口がアメリカで一時期猛威を振るったサイバーテログループのものとソックリであることに気が付いた」
「そうなのか?」
ロックの問い掛けに、馮はニヤリと口角を持ち上げる。
「まさか。全部でっち上げよ、向こうが私を隠れ蓑にして情報を抜き取ろうとしていることには気付いてたし」
空になった缶を握り潰して、馮は笑う。
「でもいい気にさせておくのもここまで。そろそろお灸を据えてやらなくちゃね」
クツクツと嗤う馮を見て、ロックは思う。
「……君も中々、染まり易いみたいだな」
目の前のディスプレイに表示される情報に我が目を疑った。
錯覚か、はたまた幻覚でも見ているのではないかと、ジェーンは自身の
「嘘、嘘ウソうそ……ッ!? 一体何がどうなってるの!?」
見計らったかのように掛かってくる電話を乱暴に取ると、やや焦燥に駆られたチームメイトの声が鼓膜を刺激した。
『ジェーン、俺だ。ロドニーからメールが来てるだろう、何か報告していない事はないか?』
「あるわけないでしょう!? それに何よこの金は、ザミドって誰よ!」
『知っていたら君に電話などしていない。ロドニーは俺たちの窓口だ。その彼がこのメールの件でお前の居場所を教えてくれと催促してきている』
ジェーンが開いたメールは、ザミドという男から振り込まれた巨額の不明金を示すものだった。
『端的に言おう、我々フォーラムは君の事を疑っている』
「ふざけないで! 私にだって何が何だか分からないのよ!?」
『ならそう担当者に釈明してくれ。ほとぼりが冷めるまで我々は君との連絡を絶つことにするよ』
「ちょ、そんな無茶苦茶な」
最後まで言い切ることも出来ず、通話は一方的に打ち切られる。
女の絶叫が海上で響き渡った。
30
「よいしょっと」
衣類が山積の洗濯カゴを持ち上げベランダへ向かう雪緒の姿を視界に収めながら、起き抜けの一杯となるブラックコーヒーを啜る。久々に自分で淹れてみたが、うん、不味いな。雪緒が淹れるコーヒーや紅茶に慣れてしまったことが大きいのだろうが、表現し難い渋みを感じる。
「新しい洗濯機の使い心地はどうだ」
テキパキと洗濯物を干していく雪緒に問い掛ける。
彼女はその手を止めることなく、俺の問いに答えた。
「いいですね。容量も大きくなりましたし、ダメージも入りづらいです。流石は最新のイタリア製」
「ロニーが態々イタリア本国から取り寄せた品らしいからな」
そうなのだ。
色々と面倒事はあったが、ようやく我が家の洗濯機が生まれ変わったのだ。
ロニーと取引をした際の交換条件として俺が提示したのだが、我ながら良い判断をしたものだと思う。洗濯機と告げた時のロニーの鳩が豆鉄砲食らったような顔も爆笑ものだった。普段いけ好かない表情ばかりの男の素っ頓狂な顔だ、グレイも隣で噴き出していた。
後日納品された洗濯機の内部にユーロ札が大量に放り込まれていたことには驚いたが。
「馮さんはこれからが大変ですね」
思い出し笑いをしていると、洗濯物を干し終えた雪緒が俺の対面に腰を下ろしながら言った。
「元を辿れば自業自得だ。この先どうなるかはアイツの腕次第だな」
中国軍への対応は張へぶん投げた。
これも元を辿れば軍のデータベースに情報が残っていたことが発端だ。事後処理を抜かったあいつが悪い。今頃悪態をつきながら仕事に追われていることだろう。
「雪緒、コーヒー淹れてくれるか」
「ふふ、わかりました」
空になったコップを渡すと、雪緒は柔らかく微笑んだ。
今日は仕事も入っていないし、久しぶりに羽を伸ばせそうだ。
などと考えていると。
「…………」
テーブルに置かれた固定電話が鳴る。
「チッ」
そこはかとなく嫌な予感に駆られながらも、受話器に手を伸ばす。
「俺だ」
ああ、クソッタレ。
嫌な予感てのは、総じて当たっちまうモンらしい。
息つく間もなく舞い込んでくる厄介事に、思わず大きな溜息を吐き出す。
「了解、二時間後にイエローフラッグで落ち合おう」
受話器を戻し、再度息を吐く。
全く、今週はてきめんに酷い週だ。
窓からロアナプラの街並みを一瞥して、しかしそれもまた良いかと薄く笑う。
嗚呼、どうにも俺は、中々にこの街に浸かっちまってるらしい。
次回は後日談3の予定。