いつもの席で、もう一度   作:ろむろむ

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いつもの席で、もう一度
前編


 

 目を開けて最初に見えたのは、白い天井だった。何度か瞬きをするうちに視界がはっきりして、薄い色のカーテンや、枕元に立つ点滴台が目に入る。消毒液の匂いもしたので、ここが病院だということはすぐに分かった。

 

 身体を起こしかけると、痛みというほどではないが、長く眠ったあとに無理やり起こされたような鈍い重さが頭の中に残っていた。喉もひどく渇いていたので、手の届くところにあったナースコールを押す。

 

 やってきた看護師に水をもらい、頭が少し重いことを伝えると、いくつか体調について聞かれたあと、名前を尋ねられた。

 

和戸(わど)たけるです」

 

 自分の名前は、考えるまでもなく答えられた。俺がどうして入院しているのか聞くと、看護師は、外で倒れて救急車で運ばれてきたのだと教えてくれた。けれど、倒れた覚えがない。それどころか、その直前に何をしていたのかも思い出せなかった。

 

 看護師が医師を呼びに行っている間、自分の記憶を確かめてみた。名前は分かるし、壁の時計も読める。点滴やナースコールが何をするものかも知っていて、今こうして考えること自体に不自由はない。

 

 ところが、自分が何歳で、どこに住んでいるのかを考えた途端、何も浮かばなくなる。家族はいるのか、昨日まで誰と何をして暮らしていたのか。思い出そうにも手がかりがなく、自分の人生に関わるところだけ、綺麗に切り取られているようだった。

 

「……これは困ったな」

 

 口にしてみても、状況は変わらなかった。

 

 その後の診察で、俺は16歳で、今は1998年だと教えられた。ここはまことみらい市にある病院らしい。新しく聞いたことはちゃんと覚えていられるのに、これまでの自分についての質問には、ほとんど答えられなかった。

 

 医師からは、無理に思い出そうとしないようにと言われた。周囲の人から昔の出来事をまとめて詳しく聞くことも、しばらくは避けた方がいいらしい。聞かされた話を繰り返し考えているうちに、自分で思い出した記憶と混同してしまうことがあるという。

 

 それなら、まずは生活に必要なことから教えてもらおう。それ以外は急いで掘り返さず、何か思い出したときに改めて考えることにした。手がかりもないまま頭を抱えているより、今の俺には、そのくらいがちょうどいいと思った。

 

     ◇◇◇

 

 後見人だという人が病院へ来てから、ようやく自分の暮らしについて具体的なことを聞くことができた。

 

 俺はイギリスのロンドン生まれで、両親はおらず、今はまことみらい市で一人暮らしをしている。未成年なので契約や手続きの一部は後見人に任せているものの、普段の生活はほとんど自分でしていたらしい。仕事もしていて、生活費はそこから出しているという。

 

「俺、働いてるんですか?」

「ああ」

「16歳で?」

 

 思わず聞き返すと、後見人は少し笑った。

 

「君が自分でやりたいと言ったのだよ」

「自分で……」

 

 Webサイトの制作やデザインを請け負って、それなりに収入を得ていたそうだ。説明を聞いていても、他人の話をされているようで、どうにも実感が湧かなかった。

 

 それが変わったのは、後見人が持ってきてくれたノートパソコンに触れたときだった。キーボードに手を置くと指が自然に動き、画面に表示されるHTMLの意味も分かる。どうやって知識を身につけたか思い出せないのに、使い方で迷うことはなかった。

 

 読み書きができるのと同じなのだろう。身につけた過程を思い出せなくても、そこで身につけた技術まで消えたわけではない。それが確かめられただけで、退院後の生活も、どうにかなりそうな気がしてきた。

 

     ◇◇◇

 

 入院中には何人か見舞いに来てくれた。仕事関係の人もいれば、以前から世話になっているという大人もいたが、顔を見て何か思い出すことはなかった。相手も事情を聞いているらしく、昔の話を長々と続ける人はいなかった。

 

 俺と同じくらいの年頃の女の子が二人やってきたのは、入院して数日経った午後だった。

 

 ノックのあと、青い長髪の少女が先に入室してきた。すっと背筋が伸びていて、落ち着いた顔つきをしている。けれど、俺と目が合うとその場で足を止めた。その後ろから、くすみがかったベージュ色の髪をした少女が続く。唇を軽く結び、ベッドの上の俺をじっと見ていた。

 

「たける」

 

 青い髪の少女が、確かめるように名前を呼んだ。初めて会う相手への声のかけ方ではない。それは分かったが、声にも顔にも覚えはなく、俺は少し迷ってから挨拶を返した。

 

「……こんにちは」

 

 少女は一瞬だけ目を伏せ、それから笑った。

 

「こんにちは」

 

 後ろの少女はすぐには何も言わなかった。俺がそちらへ目を向けると、小さく頭を下げた。

 

「……こんにちは」

 

 二人がベッドのそばまで来ると、青い髪の少女が改めてこちらへ向き直った。

 

帆羽(ほわ)くれあです。こっちが森亜(もりあ)るるか」

「帆羽さんと、森亜さん」

「うん」

 

 名前を繰り返すと帆羽さんが頷いた。森亜さんはその隣で、何も言わずに俺を見ている。

 

「二人とも、俺の知り合い?」

 

 帆羽さんは森亜さんをちらりと見てから、俺に答えた。

 

「うん。友達だよ」

「そっか。ごめん、二人のことも覚えてないみたいだ」

「謝らないで」

 

 ほとんど間を置かずにそう言われ、森亜さんも小さく頷いた。それ以上、謝るのも違う気がして口を閉じたが、ほかに何を話せばいいのか思いつかなかった。

 

 二人もしばらく黙っていた。やがて、帆羽さんがベッドのそばで俺の顔を覗き込む。

 

「体は大丈夫?」

「うん。もうほとんど」

「よかった」

 

 森亜さんも、そこでようやく肩の力を抜いたように見えた。そのあとは帆羽さんが当たり障りのない話をして、俺が答え、森亜さんが静かに聞いていた。少なくとも、最初のように何も話せずにいることはなかった。

 

 面会時間が終わる頃、二人はベッドのそばを離れ、帰り際にも俺へ声をかけてくれた。

 

「またね、たける」

 

 俺は最後まで二人を名字で呼び、二人は最初から最後まで俺をたけると呼んだ。その呼び方の違いだけが、静かになった病室で、妙に印象に残っていた。

 

     ◇◇◇

 

 それからも二人は、ときどき病院へ顔を出してくれた。昔の俺のことを詳しく話すわけではなく、帆羽さんが最近あったことを話したり、三人で病室のテレビを眺めたりして過ごした。

 

 何度か会ううちに、二人についても少し分かってくる。帆羽さんは話題が途切れると、自分から次の話を見つけてくれる。森亜さんは自分から長く喋ることは少ないが、尋ねればちゃんと答えてくれるし、静かにしている間もこちらの話を聞いている。慣れてしまえば、その違いで困ることもなかった。

 

 何度目かの見舞いのときには、森亜さんが紙袋を持ってきた。ベッドのそばまで来ると、そのまま俺へ差し出す。

 

「これ」

「何?」

「本」

 

 受け取って中を覗くと、文庫本や雑誌が何冊か入っていた。入院中に退屈しているだろうと思って、選んできてくれたらしい。

 

「ありがとう。ちょうど読むものなくなってた」

「……うん」

「るるか、結構悩んで選んでたのよ」

 

 横から袋を覗き込んだ帆羽さんが、笑いながら付け加えた。森亜さんは少しだけ眉を寄せ、隣を見た。

 

「……くれあ」

「本当でしょ?」

 

 森亜さんが止めようとしても帆羽さんが悪びれないので、何となくおかしくなった。俺は袋の中の本をもう一度見てから、森亜さんに言った。

 

「じゃあ、大事に読まないとな」

「普通に読めばいい」

「そっか」

「……うん」

 

 返事をした森亜さんの横で、帆羽さんがまた笑った。俺まで少し笑ってしまったが、森亜さんも嫌そうには見えなかった。

 

 その日から、持ってきてもらった本を少しずつ読むようになった。どれも面白く、俺の好みには合っていた。

 

     ◇◇◇

 

 検査を重ねても、記憶の状態を説明できるような明確な要因は見つからなかった。身体の調子は安定していたので、しばらく無理をせず、何か思い出したら簡単に書き留めておくようにと言われ、退院が決まった。

 

 退院の手続きは後見人が済ませてくれた。そのまま後見人の車で自宅の前まで送ってもらい、着いた建物を見上げても、懐かしさは湧かなかった。

 

 部屋の前まで行けば手元の鍵で扉は開くのに、中にあるものはどれも初めて見る気がする。靴を脱いで上がってからも、その感覚は変わらなかった。

 

 後見人は冷蔵庫を開け、最低限の食料が入っていることを確かめてくれた。現在受けている仕事の相手には事情を伝えてあるから、焦らなくていいという。

 

「何かあれば連絡を。無理はしないように」

「分かりました。いろいろありがとうございました」

 

 玄関で見送って鍵をかけると、部屋は静かになった。窓際の机にはパソコンがあり、本棚には専門書と小説が並んでいる。ベッドに小さなテーブル、それからソファ。生活に必要なものは揃っていて、散らかっている様子もなかった。

 

 まずは何がどこにあるのかを確かめて、これからの生活に困らないようにしよう。

 

     ◇◇◇

 

 退院して数日が経つ頃には、家の中で物を探すことも減ってきた。最初は食器の場所すら分からず、棚を一つずつ開けて探していたが、キッチンのどこに何があるのか覚えてしまえば、料理にも困らない。洗濯や掃除の手順も身体が覚えていて、買い物に行けば必要なものも自然と選べた。

 

 仕事も、体調を見ながら少しずつ再開した。休んでいていいと言われていたが、何もしないでいるのも退屈だったのだ。以前の自分が残したデータや作業記録を開くと、途中まで作られたWebページをどう仕上げようとしていたのか、おおよその見当はついた。HTMLも画像編集も、操作のたびに考え込むようなことはなかった。

 

 仕事相手のことだけは覚えていないので、過去のやり取りを確認する必要があった。それでも、実際に手を動かしてみると、自分がこの技術で暮らしていたという話にも実感が湧いてきた。

 

 その日も昼過ぎまでパソコンに向かっていた。作業に区切りがついて椅子の背にもたれると、肩が思ったより固まっている。軽く回しながら画面の隅の時計を見て、そろそろ休むことにした。

 

「コーヒーでも淹れるか」

 

 キッチンで湯を沸かし、棚からマグカップを取ろうと手を伸ばしたが、指先があと少しのところで届かない。なんとか取れないものかと腕を伸ばしながら、「もうこっちに来い」と考えた瞬間、マグカップが手のひらに当たった。

 

「……ん?」

 

 反射的にマグカップを掴む。今のは、明らかにマグカップ自体が動いた。

 

 確かめるために元の位置へ戻し、棚から少し離れる。さっきと同じように、こちらへ来るよう意識を向けた。今度は声にも出してみる。

 

「……来い」

 

 底を擦る小さな音を立てながら、マグカップがこちらへ動き始めた。慌てて意識を緩めるとぴたりと止まり、再び引き寄せようとすると、また動き出す。

 

 試しにティースプーンにも同じように念じてみると、するすると手元まで滑ってきた。

 

「マジか」

 

 キッチンから部屋に戻り、机の上の紙束に意識を向けてみると、やはり動いた。ならばと、今度は紙が上へ浮かぶところを想像してみる。すると端がふわりと持ち上がり、そのまま一枚だけが紙束を離れて宙へ浮かんだ。思わず声が漏れ、集中が途切れた途端、紙はひらひらと床へ落ちた。

 

 そこからは、ほとんど実験だった。ペンを浮かせ、空の箱を引き寄せ、本棚から本を抜いてみる。コーヒーの入ったマグカップも持ち上げられたし、そのまま左右へ動かすこともできた。どうやら重くなるほど強く集中する必要があるものの、軽いものならそれほど苦労せず扱えるらしい。

 

 では、椅子くらいの重さならどうだろう。床から浮くところを思い描くと、四本の脚がわずかに持ち上がった。

 

「でき――」

 

 喜びかけた瞬間、こめかみの奥を締めつけられるような痛みが走った。反射的に力を抜くと、椅子が鈍い音を立てて床へ落ちる。俺は額を押さえ、その場で痛みが引くのを待った。

 

 幸い、頭痛はすぐに薄れた。さっきまでの軽い物では何ともなかったことを考えると、重い物ほど負担も大きくなるらしい。さらに重そうなソファが目に入ったが、試すのはやめておいた。限界を確かめるために倒れていては意味がない。

 

 念じるだけで物を動かす力。知っている言葉を当てはめるなら、たぶん、あれだ。

 

「念動力……サイコキネシス?」

 

 少なくとも普通の人間が使えるものではないはずだ。けれど、そう考えたところで、目の前で起きたことは変わらない。昔から使えたのか、それとも最近になって使えるようになったのか。そういったことは、入院中に誰からも聞かされていなかった。

 

 分からないことは増えたが、考えても答えが出るわけでもない。当面は軽いものだけにしておこうと決め、机の横のリモコンを引き寄せてみる。ふわりと浮いてこちらへ寄ってきたリモコンを手に取る。さっきのような頭痛もなく、拍子抜けするほど簡単に動かせた。

 

「まあ、便利だね」

 

 冷めたコーヒーを飲みながら、とりあえずは、そういうことにしておいた。

 

     ◇◇◇

 

 午後は買い物に出ることにした。冷蔵庫の中身が減っていたし、家に籠もってばかりいるのもよくない。この数日で自宅の周りの道はだいたい覚えたので、天気がいいのを口実に、いつもより少し遠回りして商店街へ向かった。

 

 その途中、ふと視界の上を何かが横切った。何気なく見上げると、黒いマントが風を受けて大きく翻っている。身につけているのはトップハットと、目元を隠す仮面。ほかの呼び方が思いつかず、見たままの言葉が口から出た。

 

「……怪盗?」

 

 その人物は、三階建ての建物の屋上をかなりの速さで走っていた。端まで来ても足を緩めず、そのまま隣の建物へ跳ぶ。

 

 さらに少し遅れて、長い金髪の少女が現れた。白を基調とした華やかな衣装をまとい、こちらも屋根から屋根へ飛び移りながら、黒い人物を追っている。

 

 二人はあっという間に建物の向こうへと消えていった。

 

 しばらく見上げたまま考えてみたが、警察の追跡には見えなかった。黒い方が怪盗なら、あの白い方はいったい何なのだろう。

 

「魔法少女……?」

 

 見た目からすると、それがしっくりきた。冗談みたいな話だが、ついさっき、自分が念動力を使えると知ったばかりだ。そんなものはいないと断言はできない。俺が知らないだけで、こういったものは他にも存在しているのだろう。

 

 二人の行方は気になったものの、追いかける理由はないし、そもそも屋根の上を走れない。俺は視線を道へ戻し、予定通り商店街へ向かった。

 

     ◇◇◇

 

 ひと通り買い物を済ませた頃には、日が少し傾いていた。買い物袋を片手に商店街を歩いていると、人の流れから外れたところに、小さな男の子が立っているのが見えた。5、6歳くらいだろうか。辺りをきょろきょろ見回しては、通り過ぎる大人の顔を追っている。

 

 迷子だろうか。男の子を怖がらせないよう少し距離を空け、目線を合わせるようにしゃがんだ。

 

「どうしたの。お母さんかお父さんとはぐれた?」

 

 男の子は「お母さん」と言いながら頷いた。どこではぐれたのか尋ねると、大きな時計のある場所だと教えてくれた。商店街の入口近くに、時計塔のある広場があったはずだ。

 

「お母さん、どんな格好だった?」

「赤いの。あと、白いかばん」

「髪は長い?」

「ながい」

 

 赤い服と白い鞄、それに長い髪。それだけ分かれば、探しようはありそうだ。

 

「じゃあ、時計のところまで戻ってみよう。お母さんも戻ってるかもしれないし」

 

 男の子に歩幅を合わせて来た道を戻りながら、人混みに目を配る。赤い服の女性を見かけるたび、男の子に確認した。広場までに見つからなければ、近くの店か交番に相談すればいい。

 

 そう考えていたところで、頭上から硬い足音がした。顔を上げると、黒いマントが屋根を横切り、少し遅れて白い衣装の少女も同じところを飛び越えていく。さっきの二人だ。

 

「まだやってるのか」

「なに?」

「いや、何でもない」

 

 俺を見上げた男の子にそう返して、前へ向き直った。今は母親探しの方が先だ。

 

 時計塔に近づくにつれ、男の子も落ち着かない様子で辺りを見回すようになった。そして広場へ入って間もなく、こちらへ走ってくる女性が見えた。赤い上着を着て、長い髪を揺らし、手には白い鞄を持っている。

 

「あの人?」

「おかあさん!」

 

 答える代わりに、男の子は駆け出した。女性もすぐに気づいて、その場にしゃがみ、飛び込んできた小さな身体を抱き止める。見つかったのなら、もう大丈夫だろう。

 

 母親に何度も頭を下げられ、男の子にも礼を言われたので、俺は軽く手を振ってその場を離れた。遠回りにはなったが、日が暮れる前に見つかってよかった。

 

     ◇◇◇

 

 さすがに歩き疲れて、帰り道の公園に入った。空いていたベンチに腰を下ろし、買い物袋を足元に置く。背もたれに身体を預けると、夕方の風が心地よかった。

 

 今日はずいぶんいろいろあった。家では念動力が使えると分かり、街では怪盗と魔法少女らしき女の子を見た。そんなことを考えながら公園の入口へ目を向けると、見覚えのある女の子が入ってきた。

 

「あ、森亜さん」

 

 くすみがかったベージュの髪に、静かな表情。病院へ何度も来てくれた森亜るるかだった。向こうも俺に気づいて足を止め、少し間を置いてからこちらへ歩いてきた。

 

「……たける」

「こんにちは」

「こんにちは」

 

 腕には小さな狐のようなぬいぐるみを抱えていた。大きな耳にアクセサリーまでついていて、ずいぶん凝った作りだ。森亜さんはベンチの近くまで来たものの、座ろうとはせず、俺の顔から足元の袋へ視線を移した。

 

「買い物?」

「うん。冷蔵庫の中が寂しくなってきたから」

「体は大丈夫?」

「もう平気だよ。仕事も再開したし」

「……そっか」

 

 小さく頷いたあとも、森亜さんはそこに立っていた。何か言いかけるように口を開き、けれど言葉にはせずに閉じた。病院でもときどき見た仕草だったので、俺は急かさず、次の言葉を待った。

 

「さっき、男の子と歩いてた」

「ああ、見てたんだ。迷子だったんだよ。お母さんも見つかって、一緒に帰っていった」

「そう。よかった」

 

 それを聞いて、森亜さんの表情もわずかに緩んだ。ただ、また静かになると、腕のぬいぐるみを抱き直し、じっと俺の顔を見つめている。まだ何か話したいのだろうかと思ったが、何を聞けばいいのかまでは分からなかった。

 

 記憶をなくす前の俺なら、こういうときに何を話せばいいのか分かったのかもしれない。とはいえ、黙って一緒にいるのが嫌なわけでもなかった。何度か顔を合わせるうちに、森亜さんの静かさには慣れてきていた。

 

「どうしたの?」

「……ううん。そろそろ帰る」

「そっか。俺も、もう少ししたら帰るよ」

 

 森亜さんは頷いて踵を返した。数歩進んだところで振り向き、今度は少しだけ笑ったように見えた。

 

「またね、たける」

「うん。また」

 

 そのまま出口へ向かう背中を見送っていると、腕の中の狐のぬいぐるみが、こちらを向いた。

 

 目が合ったような気がした。

 

「……ん?」

 

 思わず目を凝らしたが、確かめる前に森亜さんは公園を出ていった。ぬいぐるみも一緒に見えなくなり、入口に残っているのは通りを行き交う人だけだった。

 

「まあ、角度的にそう見えただけだよな?」

 

 今日はいろいろ見すぎたのかもしれない。もう少しベンチで休むつもりだったが、何でも不思議なものに見えてきたらきりがない。そう自分に言い聞かせて、俺も帰路につくことにした。

 

     ◇◇◇

 

 ある日の午後、仕事が一段落ついたところで、急にチーズケーキが食べたくなった。何かきっかけがあったわけではない。休憩しようと席を立ったとき、何となく頭に浮かんだだけだ。

 

 こういうものは、一度食べたいと思ってしまうと、なかなかおさまらない。冷蔵庫を開けてみたが、当然チーズケーキは入っていなかった。自分で作れそうな気もしたが、今から材料を揃えて焼くほどの情熱まではない。

 

「買いに行くか」

 

 先日の散歩で、商店街から少し外れた通りにパティスリーを見かけたのを思い出した。場所もだいたい覚えている。外へ出る口実にもちょうどよかった。

 

     ◇◇◇

 

 パティスリー・チュチュは、大きな店ではなかったが、通りに面した窓から明るい店内が見えた。レジ横のショーケースには焼き菓子やケーキが並び、店の奥にはいくつかテーブルも置かれている。扉を開けると、小さなベルが鳴った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 聞き覚えのある声に、ショーケースへ向けていた視線を上げる。青い髪をまとめ、店の制服を着た女の子がこちらを見ていた。

 

「帆羽さん?」

「たける?」

 

 一瞬、互いに顔を見合わせた。病院で会っていたときとは違いパティスリーの制服を着ていたので、すぐには分からなかった。帆羽さんの方も何度か瞬きをしてから、驚いた顔のまま笑った。

 

「びっくりした。たけるが来ると思ってなかったから」

「俺も、ここで働いてるとは思わなかったよ。散歩のときに店を見かけて、来てみただけなんだけど」

「そうだったのね。今日は何か探してる?」

「チーズケーキ」

「即答ね」

「今日はそれが目的だから」

 

 帆羽さんがまた笑って、ショーケースの中を示した。その左手首に、小さなぬいぐるみが巻きついているのが目に入った。全身で手首を抱えるような格好で、腕を動かしても落ちそうにはない。

 

 そういえば、森亜さんも公園でぬいぐるみを抱いていた。持ち歩き方は違うが、二人とも好きなのだろうか。それとも、こういうものが流行っているのかもしれない。

 

 帆羽さんがケーキの説明を始めたので、ショーケースへ目を戻した。何種類かある中からベイクドタイプのチーズケーキを選び、ふと奥の席を見る。持ち帰るつもりで来たが、空いているのなら、ここで食べていってもよさそうだった。

 

「ここで食べていけるんだよね?」

「もちろん。飲み物はどうする?」

 

 差し出されたメニューにはコーヒーもあったが、今は紅茶の気分だった。

 

「アールグレイで」

「分かったわ。では、こちらへどうぞ」

 

 帆羽さんに案内され、窓際の席へ座る。しばらくして運ばれてきたチーズケーキには薄く焼き色がついていて、フォークを入れると、少し抵抗があってから滑らかに沈んだ。

 

「……うまい」

 

 口にすると、思っていたよりもチーズの味が濃かった。けれど甘さの中にほどよい酸味もあって、しっとりした生地は重すぎない。紅茶を飲むと、アールグレイの柑橘系の香りが口の中をすっきりさせてくれる。もう一つくらい食べられそうだったが、夕食に響きそうなので、そこはやめておいた。

 

 食べ終えてゆっくり紅茶を飲んでいると、ほかの客の対応を終えた帆羽さんが、テーブルのそばへ来た。

 

「どうだった?」

「美味しかったよ。濃いけどしつこくないし、紅茶とも合ってた」

「本当?」

「ああ。また食べに来ようと思うくらいには」

「よかった」

 

 帆羽さんの表情がぱっと明るくなった。ずいぶん嬉しそうだったので、こちらまで悪い気はしない。自分が働いている店のものを褒められるのは、やっぱり嬉しいのだろう。俺も、作ったWebサイトを褒められたら、たぶん似たような顔をする。

 

「帆羽さん、ここで働いて長いの?」

「まだ半年くらいよ。もともとは情報収集のために始めたんだけど」

「情報収集?」

「本業は探偵なのよ。と言っても、ついこの間までは助手だったんだけどね」

「探偵?」

 

 聞き返すと、帆羽さんは当たり前のように頷いた。少し驚いたものの、16歳でWeb制作をしている俺が人のことを言えたものでもない。

 

 帆羽さんはテーブルの横に立ったまま、何か考えるように俺を見ていた。やがて、少し声を落とした。

 

「たける、今度、時間ある?」

「多分大丈夫。仕事も順調だし、調整できるよ」

「だったら……うちの事務所に遊びに来ない?」

「事務所って、探偵事務所?」

「ええ。るるかも、たけると話したがってたし」

 

 公園で会った森亜さんの顔が浮かんだ。何か言いたそうにしていたが、結局、短い話をしただけで帰っていった。あれは、まだ話したいことがあったのだろうか。

 

「森亜さんも探偵なの?」

「そうよ。すごい名探偵なんだから」

 

 自分のことを話すときより誇らしげな口調だった。病院では知らなかった二人の一面を知れたのも面白かったし、ゆっくり話す機会があるのなら、それも悪くない。

 

「いいよ。予定を教えてくれれば調整する」

「本当?」

「ああ」

「……そっか。じゃあ、るるかにも聞いて、連絡するわね」

「待ってるよ」

 

 帆羽さんが笑ったところで、店の奥から彼女を呼ぶ声がした。

 

「ごめん、戻るね。今日は来てくれてありがとう」

「こっちこそ。チーズケーキ、美味しかったよ」

 

 もう一度そう言うと、帆羽さんは嬉しそうに頷いて仕事へ戻っていった。俺は残っていた紅茶を飲み干し、少しの間、空になった皿を眺めた。

 

 記憶をなくす前、二人とどんな関係だったのかを、急いで聞く気はなかった。けれど、今の二人と話すことまで避ける必要はない。こうして店で普通に話していると、病院で話していた頃より、ずっと気楽だった。

 

 会計を済ませると、帆羽さんが頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

「また来るよ」

 

 店を出ると、午後の風は少し冷たかった。散歩がてら歩くには悪くない。次に来るときもチーズケーキにしようと考えながら、家へ帰った。

 

     ◇◇◇

 

 その日の夜、夕食と風呂を済ませたあと、俺は本棚から読みかけの本を抜いてソファに座った。日中はパソコンに向かっている時間が長いので、夜まで画面を見続ける気にはならない。テレビにも見たい番組はなく、入院中に森亜さんが持ってきてくれた本の続きを読もうと思ったのだ。

 

 栞を挟んだところから読み始め、しばらくした頃、テーブルに置かれた携帯電話が鳴った。手を伸ばすには少し遠かったので、目を向けて、軽く引き寄せる。携帯がふわりとテーブルを離れ、ちょうど受け取りやすいところまで寄ってきた。

 

 画面には『くれあ』と表示されていた。事務所へ行く予定の話だろうか。

 

「…………」

 

 病院で携帯の電話帳を確かめたときにも見た名前だが、今は帆羽さんと呼んでいるせいか、名字がない『くれあ』の表示には少し違和感がある。それだけ親しかったのだろうと思いながら、通話ボタンを押した。

 

「もしもし」

『もしもし、たける?』

「うん。こんばんは」

『こんばんは。今、大丈夫?』

「大丈夫だよ。本読んでただけだから」

『よかった。今日話してたことなんだけど、るるかとも相談したの』

 

 やはり事務所へ行く日の話だった。帆羽さんがいくつか候補日を挙げるので、テーブルの手帳を開き、仕事の予定と見比べる。締め切りの重なっていない日なら、少し作業を前倒しするだけで空けられそうだった。

 

「その中なら、木曜が空いてるかな」

『木曜日ね。時間は?』

「午後ならいつでも。そっちに合わせるよ」

『じゃあ、午後3時くらいでどう?』

「分かった。木曜の午後3時ね」

 

 手帳に書き込んだところで、肝心の行き先をまだ聞いていなかったことに気づいた。

 

「そういえば、事務所ってどこにあるの?」

『あ、そうだった。キュアット探偵事務所っていうんだけど、詳しい住所はあとでメールするわね。そんなに遠くないから』

「了解」

 

 これで予定は決まった。手帳を閉じてペンを置こうとすると、電話の向こうから帆羽さんの笑い声が聞こえた。さっきまでと違い、何かを堪えるような笑い方だった。

 

「……どうしたの?」

『ううん』

「いや、今笑っただろ?」

『だって、るるかがさっきからソワソワしてるから』

『くれあ!』

 

 少し離れたところから声が飛んできた。病院でも公園でも、こんなふうに声を張るのは聞いたことがなかったが、その声には覚えがある。

 

「あれ、森亜さん?」

『そう』

『……たけるに言わなくていい』

 

 間違いなく森亜さんの声だった。帆羽さんがまた笑うので、つられてこちらも少し口元が緩んだ。

 

「二人、一緒にいるの? もう結構遅いけど」

『私たち、探偵事務所の寮で暮らしてるの。部屋も隣なのよ』

「へえ。じゃあ、仕事が終わっても顔合わせるんだ」

『まあね。るるかとはずっとそんな感じ』

『くれあ』

 

 また森亜さんの声がした。今度はさっきより近い。こちらの話が気になって、電話のそばまで来たのだろうか。

 

『電話、代わる?』

 

 帆羽さんがそう尋ねた途端、向こうが静かになった。少し待っても話し出す様子がなかったので、俺の方から呼びかけてみた。

 

「森亜さん?」

『今、るるかがすごく困った顔してる』

『してない』

『してるわよ』

 

 公園で、何か言おうとして口を閉じていた森亜さんを思い出した。電話なら話しやすくなるというものでもないらしい。わざわざ代わってもらって、また二人で黙り込むのも落ち着かないだろう。

 

「まあ、木曜に会うんだし、そのときでいいよ」

『……うん』

 

 小さな返事が聞こえた。たぶん、森亜さんだ。

 

「じゃあ木曜、午後3時に」

『ええ。待ってるわ。あとでメールするね』

「うん、よろしく」

『またね、たける』

「また」

 

 通話を終え、暗くなった携帯の画面をしばらく眺めた。帆羽さんは話したいことを話し、楽しそうによく笑う。森亜さんはそれとはだいぶ違うけれど、少なくとも、俺が行くのを嫌がっているわけではなさそうだった。

 

「ソワソワしてた、か」

 

 本人が聞いたら、きっと否定するのだろう。そう思うと少しおかしくて、笑いながら携帯電話をテーブルへ戻した。

 

 木曜日には、二人のいる場所へこちらから会いに行く。病室で見舞いを待つのでも、街で偶然会うのでもない。以前の俺たちがどんな関係だったのかはまだ知らないが、今度会うのは、少し楽しみだった。

 

 閉じていた本を開き、止まっていたページの続きを読み始めた。

 

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