約束の木曜日は、午後2時半を少し回ったところで家を出た。帆羽さんがメールで送ってくれた住所を地図で確かめながら歩いたが、道順は複雑ではなく、約束の10分ほど前には目的の建物が見えてきた。正面玄関の上には、『キュアット探偵事務所』の看板がある。
「ここか」
探偵事務所と聞いて、雑居ビルの一室のようなものを想像していたので、思っていたより大きかった。寮も併設されていると聞いていたから、その分の広さもあるのだろう。入口脇の呼び鈴を押すと、間もなく足音が近づき、扉が開いた。
「たける、いらっしゃい」
出迎えてくれたのは森亜さんだった。公園で会ったときより表情が柔らかく、俺の顔を見ると、すぐに扉を広く開けてくれた。
「道、迷わなかった?」
「ああ、大丈夫だったよ」
「よかった。入って」
「お邪魔します」
玄関に入って奥へ視線を向けると、廊下の先にある扉の陰から、小さな顔が覗いた。公園で森亜さんが抱いていた、狐のようなぬいぐるみだ。最後に目が合った気がしたことを思い出した直後、それがふわりと宙に浮いた。
羽もないのに床を離れ、そのまま目の高さまで上がってくる。近くで見ると耳も表情もよく動いていて、作り物の動きには見えなかった。
「よく来たわね、たける」
喋った。
少し前なら、自分の正気を疑ったかもしれない。けれど今の俺自身が、念じるだけで物を動かせる。目の前で浮いて喋るものを見て、そんなことがあるはずはないと言い切るのは難しかった。
「ぬいぐるみじゃなかったのか」
「失礼ね。るるかのおとも妖精、マシュタンよ」
「妖精……なるほど」
マシュタンは空中で胸を張った。
「……それだけ?」
「何が?」
「もう少し驚いてもいいんじゃないかしら?」
「驚いてはいるよ。喋るとは思ってなかったし」
そう返しても、マシュタンは納得していない顔で俺を見ていた。
「最近、変なことが続いてるから。そういうものもあるんだろうなって、とりあえず受け入れることにしてる」
マシュタンは俺の顔をしばらく眺め、小さく息を吐いた。
「そういうところは変わらないのね」
「以前も?」
「ええ」
即答されて森亜さんを見ると、そちらも頷いていた。俺には以前の自分と比べようがないので、そうなのだと思っておくしかない。
マシュタンが呆れたように首を振ったところで、廊下の奥から帆羽さんが顔を出した。
「たける、いらっしゃい」
「こんにちは、帆羽さん」
帆羽さんが近づいてくると、左手首に巻きついていた小さなものが顔を上げた。チュチュで見たぬいぐるみだ。こちらへ目を向けたかと思うと、手首から離れ、マシュタンの隣へふわりと浮かび上がった。
「シュシュタンでシュ。くれあのおとも妖精でシュ」
「そっちも妖精だったのか」
思わず帆羽さんを見ると、笑いながら頷いた。
「そうよ。店では大人しくしてたから、分からなかったでしょう?」
「ああ。ぬいぐるみだと思ってた」
俺は改めて、目の前に浮かぶシュシュタンへ顔を向けた。
「よろしく、シュシュタン」
「よろしくでシュ」
シュシュタンが小さく頭を下げたところで、帆羽さんが近くの扉を示した。
「今、お茶を淹れてるところなの。そこの部屋が事務所だから、座って待ってて」
森亜さんが奥へ向かって歩き出した。
「手伝う」
「うん、お願い」
「私も行くわ」
マシュタンとシュシュタンも、森亜さんたちのあとを飛んでいった。一人残った俺は、さっき示された事務所へ向かった。
◇◇◇
事務所は、思っていたよりも温かい雰囲気の部屋だった。大きなテーブルを囲むようにソファや椅子が置かれ、棚には本や資料が収まっている。来客と話すための場所なのだろう。午後の光が差し込んでいて、仕事場というより、落ち着いた応接室に近く見えた。
どこに座るかは言われていなかったので、窓に近いソファの左端を選んだ。明るいし、真ん中より端の方が落ち着く。背もたれに身体を預けて部屋を見回し、ここで二人が探偵の仕事をしているのか、と考えた。以前の俺も、来たことがあるのだろうか。
廊下から足音がして、帆羽さんがお茶を載せたトレイを持って戻ってきた。その隣を森亜さんが歩き、マシュタンとシュシュタンは少し上を並んで飛んでいる。ところが、部屋へ入ったところで二人の足が止まり、妖精たちも宙でぴたりと静止した。
「どうかした?」
俺の顔というより、座っている場所を見ているようだった。何かまずかったのかと思ったが、帆羽さんはすぐに首を振った。
「ううん。何でもないの」
そう言いながら森亜さんと目を合わせ、二人で小さく笑う。マシュタンが嬉しそうに耳を動かし、隣のシュシュタンも笑ったような顔で頷いた。少なくとも悪いことではなさそうだ。誰も説明する様子がなかったから、俺もそれ以上は聞かなかった。
帆羽さんがテーブルにティーセットを並べ、森亜さんの隣に座る。マシュタンとシュシュタンは、並んでソファの背もたれに降りた。
「どうぞ」
「ありがとう」
カップから紅茶の湯気が上がっていた。横に用意された砂糖の包みを一つ開けて中身を入れ、スプーンでゆっくり混ぜる。ミルクには手をつけずに飲むと、ちょうどいい甘さだった。
カップを置いて顔を上げると、また二人と目が合った。森亜さんはじっとこちらを見たままで、帆羽さんは口元を押さえている。
「……何?」
「ううん」
「またそれ?」
「気にしないで」
二度続けば気にもなるが、問い詰めるようなことでもなかった。ひとまず紅茶に戻ると、今度は帆羽さんが、退院してからどう過ごしていたか尋ねてきた。
仕事を少しずつ再開していることや、家の中の物の場所にも慣れてきたことを話した。近いうちにチュチュに、もう一度行きたいと思ってると言うと帆羽さんは気軽に誘ってくれた。
「またいつでも来てね」
「そのうち行くよ。他のケーキも気になるし」
「チーズケーキじゃなくて?」
「次もチーズケーキになる可能性は高い」
帆羽さんが笑い、森亜さんも口元を緩めた。マシュタンたちにも話を振って、妖精とはどういうものなのか聞いてみたが、人間とは違う種族だということ以上は、簡単には説明できないらしい。俺も詳しいことまで知りたいわけではなかったので、ひとまずそれで納得した。
並んでいる二人を眺めているうちに、ふと思い出した。
「そういえば、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「俺って、昔から念じるだけで物を動かせた?」
自分で言っていて妙な話だとは思うが、森亜さんたちは特に驚いた様子もなかった。
「うん」
「使ってたわね。割と普通に」
「やっぱりそうなんだ」
試しにテーブルの端に置かれたスプーンへ意識を向ける。軽く引き寄せると、スプーンがふわりと浮かび上がり、そのままこちらへ寄ってきた。
「こんな感じで?」
「そう」
森亜さんが答えた。ただ、その声はさっきより少し硬かった。
「……退院してからも使ってるの?」
「たまに。物を取るときとか」
「重いものも動かした?」
今度は帆羽さんが尋ねてきた。
「一度、椅子を浮かせてみた。できたけど、頭が痛くなったから、それからは軽いものだけにしてる」
二人が顔を見合わせた。
「何?」
「……軽いものだけにして。前にも、大きな力を使ったあとで倒れたから」
森亜さんはそこで言葉を切り、しばらく俺の顔をじっと見ていた。
「重いものは動かさないで。少しでも頭が痛くなったら、すぐやめて」
「……分かった。気をつける」
帆羽さんも頷いた。俺はスプーンをテーブルへ戻した。椅子を浮かせたときの痛みを考えれば、二人の忠告を軽く聞き流す気にはなれなかった。
それから話題は探偵の仕事へ移った。森亜さんも少しずつ話してくれた。二人で依頼を受けたり、調査に出たりすること。帆羽さんが最近、正式に探偵になったこと。聞けば答えてもらえるし、二人も俺の仕事について尋ねてくるので、病院にいた頃より、会話はずっと自然に続いた。
あのときは、何を聞いても記憶の話につながってしまいそうで、どこか言葉を選んでいた。今は、お互いに最近のことや仕事のことを話せる。二杯目の紅茶を飲み終える頃には、初めて訪ねた場所だという緊張も、ほとんど薄れていた。
それでも、最初の二人の反応だけは気になっていた。カップをテーブルへ戻し、向かいに座っている二人を見る。
「さっきから、何か気になる?」
「何が?」
「二人で顔見合わせてただろ。俺、何かしたかなって」
帆羽さんが少し困ったように笑い、森亜さんを見た。森亜さんはしばらく黙っていたが、やがて俺を見た。
「変わらないんだな、と思って」
「変わらない?」
「うん。座る場所」
その目が、俺の座っているソファへ落ちた。
「たける、前もそこによく座ってた」
「ここに?」
「うん」
窓際の左端を、改めて見てみた。ただ座りやすそうだと思って選んだだけで、特に何か感じたわけではない。俺がソファを眺めていると、帆羽さんも続けた。
「お茶の飲み方も同じなのよ。砂糖を一つ、ミルクは入れない」
思わずカップへ目を落とした。
「あと、チーズケーキもね」
「あれも好きだったんだ?」
「ええ。好きだった」
楽しそうにそう言う帆羽さんを見て、店で感想を聞かれたときのことを思い出した。あのとき、あんなに嬉しそうだったのも、同じ理由だったのかもしれない。
「気になってたなら、ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいよ。何だろうと思ってただけだから」
そう答えると、帆羽さんの表情が和らいだ。森亜さんも、じっとこちらを見たまま、少しだけ表情を緩めた。
昔の景色を思い出したわけでも、懐かしいと感じたわけでもない。それなのに、二人には、俺の何でもない仕草の中に見つけられるものがあるらしかった。
これまで自分について確かめてきたのは、暮らすために必要なことばかりだった。住む場所と仕事、それから身につけている技術。それが分かれば生活はできるし、実際、退院してからもどうにかなっていた。
けれど、誰と何を食べ、どこに座って、どんな話をして過ごしていたのか。そういう時間も、俺の人生にはあったのだ。俺が思い出せなくても、目の前の二人は覚えていて、同じ場所に座っただけで、こんなふうに笑ってくれる。
「……なるほどな」
「たける?」
「いや、何でもない」
改めて部屋を見回した。この場所で、以前の俺は二人とどんなふうに過ごしていたのだろう。
それを、もう少し知りたいと思った。
◇◇◇
話が途切れたところで、俺は手元のカップから顔を上げた。帰る前に、二人へ聞いておきたいことがあった。
「俺が前によく行ってた場所って、どこかある?」
帆羽さんと森亜さんが顔を見合わせた。先にこちらへ向き直った森亜さんが尋ねる。
「……行ってみるの?」
「うん。少し、知ってみたくなった」
今日もここへ来なければ、以前の自分がよく座っていた場所さえ知らないままだった。ほかにも馴染みの場所があるのなら、行ってみたい。二人にそう伝えると、森亜さんは少し考えてから答えた。
「商店街」
「この前会った公園近くの?」
「うん。あそこはよく行ってた」
「ほかには、図書館かしら」
帆羽さんが続けた。
「たける、一度行くと、なかなか帰ってこなかったから」
「そんなに?」
「読むものがあると、長いのよ」
それには今の俺にも心当たりがあった。手帳を取り出して商店街と図書館を書き留めると、森亜さんが海沿いの遊歩道も教えてくれた。そこは少し遠いらしいので、行き方も一緒に聞いておく。
「商店街なら、一緒に行く?」
「案内してもらえると助かるよ。森亜さんも?」
「うん。三人で行こう」
予定を確かめると、数日後の午後なら都合が合った。待ち合わせの時間と場所を書き込み、手帳を閉じた。
◇◇◇
約束の日、待ち合わせ場所へ着くと、二人はすでに来ていた。挨拶を交わし、そのまま商店街へ向かう。一人で買い物に来たときよりも、歩く速度はゆっくりだった。
帆羽さんは店先の品物を見て足を緩め、森亜さんも気になるものがあればそちらへ目を向けた。以前からある店や、最近入れ替わった店を教えてもらいながら歩いたが、昔の景色が浮かんでくることはなかった。
「あそこのパン屋、私たちがこっちに来た頃からあるのよ」
「入ったことは?」
「あるわ。帰りに寄ってもいいわね」
森亜さんも頷いた。あとで戻ってくることにして歩き出し、ふと隣を見ると、いつの間にか森亜さんがアイスを食べていた。
「……いつの間に買ったの?」
「さっき」
「全然気づかなかった」
「るるか、アイス好きだから」
帆羽さんは慣れた様子でそう言った。森亜さんは気にする様子もなく、アイスを食べながら歩いている。
そのまま時計塔のある広場へ進んだ。
「今日は何か思い出した?」
「今のところ何も」
「そっか」
「まあ、来るだけで何でも思い出せたら苦労しないだろ」
「それもそうね」
帆羽さんが笑った。森亜さんも特に残念そうな顔はしなかったので、こちらも気が楽になった。二人と店を見て歩くだけでも、退屈はしなかった。
広場を抜けてしばらくすると、短い電子音が聞こえた。ポケットへ手をやったが、俺の携帯電話ではない。顔を上げると、少し先にある販売店で、店先の端末が音を鳴らしていた。
ガラスには新しい機種の広告が貼られ、ショーケースには何台もの携帯電話が並んでいる。そちらへ目を向けた途端、足が止まった。
「……あ」
見たことがある。
◇◇◇
『ねえ、たける。こっちとこっちなら、どっちがいいと思う?』
すぐ横で、くれあが二つの携帯電話を指差している。片方を眺めては、またもう片方へ視線を戻す。今日は三人で携帯電話を買いに来たのだが、くれあは二つの機種の間でなかなか決めきれずにいた。
『何を一番よく使いそう?』
『電話……だと思うけど』
『調査のときに持ち歩くなら、電池が長く持つ方がいいかな』
二台の横に置かれた札を見比べた。片方は軽さを売りにしていて、もう片方は少し大きい代わりに電池が長く持つ。
『くれあなら、こっちだと思う。一日外にいることもあるだろ』
『こっちの方が重いのね』
『持ってみて気にならないなら。途中で電池が切れるよりはいいと思うけど』
くれあは勧めた方を手に取り、親指でボタンを押してみた。
『じゃあ、これにしようかしら』
『使いづらくなければ、いいと思うよ』
『たけるがそう言うなら、これにする』
『最後は自分で決めろよ』
そう言いながら反対側を見ると、るるかは別の端末を手にしていた。
『るるかは?』
『これにする』
『もう決めたの?』
『うん』
機種を確かめた。くれあに勧めたものより軽く、必要な機能はひと通り揃っている。
『いいと思う。通話もそんなに長くしないだろ』
『しない』
『じゃあ、電池も困らないかな』
『るるかだけ早くない?』
くれあが不満そうにこちらを見た。
『決める条件がはっきりしてるから』
『私は?』
『見た目も気にするから、そこで時間がかかる』
『悪い?』
『悪いとは言ってないよ』
くれあは手元の携帯を見たあと、ショーケースに残っている色違いへ目を向けた。
『……こっちの色もいいのよね』
『ほら』
『何か?』
『いや、何でも』
るるかが小さく笑った。くれあが最後まで色を迷っている間に、俺は自分の分も選び、二人へ言った。
『買ったら、この辺で一度、電話とメールを試しておこう。分からないことがあれば、すぐ店で聞けるし』
『そうね』
『うん』
そこで景色が変わった。次に見えたのは、店の外のベンチだった。俺はそこに座り、膝の上へ箱と説明書を広げている。隣のるるかも携帯を操作し、くれあは俺たちの前に立っていた。
『るるか、と』
教えてもらった番号を登録し、次にくれあの名前を入れる。保存した直後、手の中で着信音が鳴った。
『もしもし、たける?』
目の前のくれあが、携帯を耳に当てていた。声は受話口からも、本人の方からも聞こえる。
『いや、見えてるけど』
『ちゃんと繋がるか確認してるの。声、聞こえる?』
『聞こえるよ』
『私も。じゃあ、大丈夫ね』
くれあは満足そうに通話を切った。続いて電子音が鳴り、画面にるるかからの文字が表示される。
『届いた?』
『届いた。文字も大丈夫』
『じゃあ、こっちも大丈夫』
俺が携帯を置こうとすると、くれあが声をかけた。
『たけるからも送って』
『俺も?』
『三台とも確認するんでしょう?』
そうだった。自分で言ったのだから、最後までやらないといけない。短い文を作って二人へ順番に送ると、画面を見たくれあが顔を上げた。
『「テスト」。それだけ?』
『動作確認なんだから十分だろ』
『もう少し何かあるでしょう』
『試験送信に何を求めてるんだよ』
『たけるらしい』
隣でるるかが笑った。
◇◇◇
「たける」
瞬きをすると、目の前に帆羽さんの顔があった。俺はベンチではなく、携帯電話の店先に立っていた。森亜さんも隣にいて、こちらを見ている。
「大丈夫?」
「……うん」
一度息を吐く。頭が痛くなったりはしなかった。
ポケットから携帯を取り出し、電話帳を開く。そこには、記憶の中で入力していた二人の名前があった。
「ここで携帯買った? 三人で」
森亜さんの目が大きくなった。帆羽さんも、何も言わずに俺を見ている。
「……思い出したの?」
「多分」
少し先へ目を向ける。記憶の中で三人並んで携帯をいじっていたベンチが、今も同じ場所にあった。
「あそこで、買ったばかりの携帯を試した。番号を登録して、電話したり、メールを送ったりして」
「うん」
森亜さんが頷いた。
その声を聞いていると、さっきまで見えていた景色がまだ頭のどこかに残っているような気がした。
「俺、二人のこと名前で呼んでたな」
「……ずっと、そう呼んでた」
るるかと、くれあ。
電話帳には初めからそう書いてあった。それでも、自分の口からその名前を呼んでいた記憶があるのは、これが初めてだった。
二人の顔を見ながら、試しに呼んでみようかと思う。けれど、今はまだ少しためらった。
「頭が痛くなったら、すぐ言ってね」
帆羽さんに言われ、顔を上げた。
「大丈夫だよ。気分も悪くない」
「そう? よかった」
二人がようやく表情を緩めた。
俺は手帳を取り出し、店の名前と、今思い出したことを短く書き留めた。
書き終えてから、もう一度ベンチを見た。しばらく眺めてから手帳を閉じると、帆羽さんが声をかけてきた。
「もう少し歩く?」
「ああ。パン屋にも寄るんだろ」
「そうだったわね」
手帳をしまい、二人と歩き出した。通りを戻ると、パン屋から焼けた生地の匂いがしてきた。
帆羽さんは店に入るなり棚の前で足を止め、どれにするか迷い始めた。俺と森亜さんは少し離れたところで、その様子を眺めながら待った。
◇◇◇
翌日は午前中で仕事を切り上げ、昼食を済ませてから図書館へ向かうことにした。その前に、昔の自分が読んでいた本がないか、本棚を確かめてみる。
専門書を何冊か抜いていると、その間に薄いノートが挟まっていた。退院して部屋を調べたときにも見かけたが、中までは読んでいなかったものだ。
表紙の裏には自分の名前があり、中には本の題名やページ番号、短いコードや説明が書き込まれていた。日付も残っている。仕事の記録ではなく、本を読みながら勉強していた頃のメモらしい。
本棚には見当たらない題名だったので、ノートを鞄へ入れて図書館へ向かった。
館内に見覚えはなかった。コンピュータ関係の棚を探すと、ノートに書かれていた本の一冊が見つかったので、窓際の閲覧席へ持っていく。
Webページの作り方について書かれた本だった。
図書館の本と見比べながらノートのページをめくると、その余白には短いコードと一緒に、試した結果が細かく書き込まれている。『こっちだと位置がずれる』『Netscapeでは崩れる』といった一言の横には、別の日付で修正方法が付け足されていた。
「……ここで詰まってたのか」
今なら原因にはすぐ気づける。
さらにページをめくると、書き込みの内容も少しずつ変わっていった。最初は本の説明やコードを細かく書き写していたのが、途中からは試した方法や、うまくいかなかった理由だけが短く残されている。
日付を見ると、このノートは何か月にもわたって使われていたらしい。
「ちゃんと勉強してたんだな、俺」
ノートを書いていた頃のことは、何も思い出さなかった。入院中、キーボードに手を置けば自然に指が動いた。けれど、その前にはこうして分からないことを調べ、何度も試していた時間があったのだ。
ノートを閉じて鞄へ戻し、本を棚へ返す。せっかく来たので、今の仕事に使えそうな技術書を一冊選んだ。
そのあと小説の棚の前を通りかかると、見覚えのある作者名が目に入った。
「この人……」
入院中に森亜さんが持ってきてくれた本と同じ作者だった。題名は違うが、あの本は面白かった。
少し迷ってから、その本も手に取った。
窓際の席へ座り、技術書を脇に置いて、小説を先に開いた。一章だけのつもりだったが、気づけばその先まで読み進めていた。
主人公は、肝心なことを話さない男を疑っていた。それでも、男が火事の建物に取り残されると、逃げかけた足を止めて助けに戻る。
信用できない相手でも、見捨てることはできなかったらしい。そういうところは、嫌いじゃなかった。
森亜さんもこの本を読んだのだろうか。どこが面白かったか、一度話してみたい。そう思いながら読み進めていると、館内の時計が目に入った。
「……もうこんな時間か」
まだ先は長いので、続きを読むのは家に帰ってからにした。小説と技術書を一冊ずつ借りて外へ出ると、建物の影が来たときより長く伸びていた。
◇◇◇
その日の夜、夕食の片づけをしていると、部屋の方から着信音が聞こえた。手を拭いて戻り、テーブルの携帯を取る。画面には『るるか』と表示されていた。
向こうから電話が来るのは珍しかった。通話ボタンを押すと、少し間を置いて声がした。
『……もしもし、たける?』
「うん。こんばんは」
『こんばんは。今、大丈夫?』
「大丈夫だよ。夕飯が終わったところ」
『そっか』
次の言葉が来なかったので、ソファへ座りながらこちらから話した。
「今日、図書館へ行ってきたよ」
『どうだった?』
「何も思い出さなかった。家で昔の勉強ノートを見つけたから、そこに書いてあった本を探してみたんだ」
『あった?』
「あった。今ならすぐできることも、初めは結構苦労してたみたいだ。間違えたところまで書いてあったよ」
『……そっか』
「あとは、普通に本を読んできた」
テーブルの上には借りてきた本があった。俺は手を伸ばして、小説の方を取った。
「そうだ。森亜さんが見舞いに持ってきてくれた本、あっただろ。同じ作者のを借りてきたんだ」
『どれ?』
題名を伝えると、すぐに返事が来た。
『それ、私も読んだ』
「本当? あの人の本、好きなの?」
『うん』
「だから持ってきてくれたんだ」
『たけるも好きそうだと思ったから』
「当たってたな。今日も途中でやめられなくて、結局借りてきたよ」
『よかった』
森亜さんの声が少し明るくなった。俺は図書館で気になっていたことを思い出して、続けた。
「あの、疑ってた男を助けに戻るところ、よかったな」
『あそこ、私も好き』
「助けたあとにまた喧嘩するんだよな」
『うん。でも、最後の――』
「あ、待って。俺、まだ最後まで読んでない」
向こうが静かになった。
『…………』
「今、ネタバレしようか悩んだ?」
『悩んでない』
「絶対しようとしただろ」
『ない』
返事だけは速かった。思わず笑っていると、森亜さんは、続きは読めば分かる、と言った。
『読み終わったら、感想聞かせて』
「ああ。読み終わったら連絡するよ」
『約束』
「分かった。また話そう」
少し間を置いて、返事が来た。
『……うん』
「じゃあ、また」
『またね、たける』
携帯を置いて、本を開いた。森亜さんが言いかけた結末が気になって、栞を抜く前に残りの厚さを確かめる。今晩は、少し遅くまで読んでしまいそうだった。
◇◇◇
海沿いの遊歩道へ行ったのは、それから数日後だった。
仕事を少し早めに切り上げ、教えてもらった道を歩いて海の方へ向かう。少し距離はあったが、歩いて行けないほどではなかった。住宅街を抜ける頃には、風に潮の匂いが混じり始めた。
「……結構いいところだな」
海に沿って、遊歩道が長く続いていた。低い柵の向こうでは水面が日差しを細かく反射し、遠くには船も見える。上着の前を閉じ、ゆっくり歩き始めた。
以前は調査の帰りなどに、三人で寄ることがあったらしい。しばらく歩いても覚えのある場所は見つからなかったが、波の音を聞きながら歩くのは気持ちがよかった。ベンチへ腰を下ろすと、長い距離を歩いてきた足も少し楽になった。
海を眺めているうちに、少し先の坂道が気になった。遊歩道から小高い広場へ続いている。もう少し遠くまで見渡せそうだったので、帰る前に上ってみることにした。
坂を上り切り、広場の端の手すりへ手をかけたところで、足が止まった。
すぐ脇には古びたベンチがあり、手すりの向こうには水平線が見える。その景色に、覚えがあった。
◇◇◇
『本当に一人で住むの?』
くれあが尋ねた。反対側にいたるるかも、海からこちらへ顔を向ける。
『そのつもり』
『このまま事務所に住めばいいじゃない』
『それだと今までと変わらないだろ』
『変わらないと、だめ?』
くれあの顔を見ながら、少し言葉を探した。
『今の暮らしが嫌なわけじゃないよ。ただ、自分で部屋を借りて、自分だけで生活してみたいんだ』
『今までだって、自分のことは自分でやってたでしょう?』
『食事とか洗濯はね。でも、家賃も払って、仕事もしながら生活して、それでちゃんとやっていけるのか試してみたい』
それまで海を見ていたるるかが口を開いた。
『事務所でも、自分で暮らせる』
『それ、一人暮らしとは言わないだろ』
『自分の部屋はある』
『そういう問題じゃなくて』
るるかと言い合っていると、くれあが手すりへ視線を落とした。指先でその縁をなぞりながら、小さくつぶやく。
『寂しくなるわ……』
その一言で、少しだけ言葉に詰まった。
俺が帰れば二人がいて、二人が調査から戻れば俺もいる。それが当たり前になっていた。
新しい部屋に置く家具や食器のことは考えていたのに、そこで一人で食事をすることまでは、あまり考えていなかった。
寂しくはなるのだろう。
それでも、一度決めたことをやめる気にはならなかった。
『何かあったら、事務所に行くよ』
『何もなくても来て』
くれあがすぐに返した。るるかも隣で頷く。
『毎日来ればいい』
『毎日は無理だって』
『じゃあ、よく来て』
『まあ、それなら』
『うん』
るるかはそれで納得したらしい。くれあも少し安心したように笑った。
そんな二人を見て、俺も頷く。
『分かったよ。用事がなくても、ちょくちょく顔出すから』
『約束ね』
『分かったって』
それからしばらく、三人とも何も言わなかった。
手すりにもたれたまま海を眺める。遠くを船がゆっくり横切っていくのを、そろそろ戻ろうかと誰かが言い出すまで、三人で見ていた。
◇◇◇
上着の裾が音を立てた。瞬きをすると、隣には誰もいない。二人が立っていた場所にも午後の日差しが落ちているだけで、俺はしばらく手すりから手を離せなかった。
「一人暮らしを始める前か……」
入院中、後見人からは、仕事を始めたのは俺自身が望んだからだと聞いていた。あのときは、自分でやりたい、という言葉の意味までは分からなかった。
けれど、今ならあのときの気持ちが少し分かる。
退院して家の中を確かめ、仕事を再開したときも、自分で暮らせそうだと分かることが嬉しかった。記憶を失っても、その部分は変わらなかったらしい。
近くのベンチへ座り、今度は二人のことを考えた。病院では友達だと教えられたが、一緒に暮らしていたことまでは知らなかった。俺が引っ越すことを、二人はあんなに惜しんでいた。
「……思ってたより、ずっと近かったんだな」
何もなくても来て、と言った声を思い返す。事務所へ招いてくれたときも、帆羽さんは同じような気持ちだったのだろうか。
手帳を開き、今日思い出したことを書き留めた。ベンチを立つ頃には、風が少し冷たくなっていた。
坂を下り、駅へ向かって歩きながら、次はいつ二人と会えるだろうと考えた。