翌日の午前中、仕事に区切りがついたところで、携帯を手に取った。電話帳の『くれあ』を選んで通話ボタンを押すと、何度か呼び出し音が鳴ったあと、聞き慣れた声がした。
『もしもし、たける?』
「帆羽さん。今、大丈夫?」
『ええ。どうしたの?』
「昨日、教えてもらった海沿いの遊歩道へ行ってきたんだ。また少し、思い出したよ」
一瞬、向こうが静かになった。
『本当?』
「ああ。一人暮らしを始める前に、二人から『このまま事務所に住めばいい』って言われてた」
『……あのときのことね』
声がやわらぎ、少し懐かしむような響きが混じった。
「……俺も、事務所に住んでたんだね」
『そうよ。日本へ来てから、しばらくは一緒に暮らしてたの』
机の上に開いた手帳へ目を落とす。昨日のページには、思い出したことがいくつか書き足してあった。
少しずつではあるが、以前の自分がどんなふうに暮らしていたのかは分かってきた。
けれど、思い出せたのは断片的な場面だけで、入院する直前のことはまだ何も浮かばない。
病院で目を覚ますまでに、自分に何があったのか。倒れる直前に何をしていたのかも、どこで倒れていたのかも、まだ知らなかった。
「帆羽さん。俺が倒れてた場所って、知ってる?」
少し間を置いて、返事が来た。
『街の外れにある湖のそばよ。取水塔の近く』
「取水塔?」
『ええ。私たちも、そこにいたの』
手帳へ書こうとしていたペンを止めた。
「二人も?」
『ええ』
「そのとき、何があったんだ?」
今度の沈黙は、さっきより長かった。
『……たける、明日、事務所へ来られる? るるかも一緒に話したいの』
電話では話しにくいことなのだろう。仕事の予定を確かめると、午後なら空けられそうだった。
「分かった。前と同じくらいの時間でいい?」
『ええ。午後3時に待ってるわ』
通話を終えてから、手帳へ予定を書き込んだ。その横に「取水塔」と書き足し、しばらくその文字を眺めた。
◇◇◇
翌日、事務所を訪ねると、帆羽さんが玄関で迎えてくれた。案内された部屋では、森亜さんがテーブルに地図を広げていた。マシュタンとシュシュタンも、ソファの背もたれからそれを覗き込んでいる。
挨拶をして、前と同じ窓際の席へ座った。帆羽さんがお茶を配り終えると、森亜さんが地図をこちらへ向けてくれた。湖のそばに、小さな丸がつけてある。
「たけるが倒れたのは、この辺り。湖岸から少し入った林の中」
近くには、岸と細い橋でつながった建物の印もあった。昨日聞いた取水塔はこれらしい。場所が分かっても、そのときの景色までは浮かんでこなかった。
帆羽さんが少し間を置いてから、口を開いた。
「これから話すこと、たけるには初めて聞くことも多いと思う。でも、全部本当にあったことよ」
「分かった」
今さら多少のことでは驚かないつもりだった。
「あの日、私たちはここで、怪盗団ファントムがある宝石を奪うのを止めようとしていたの」
「怪盗団……」
屋根の上を走っていた、黒いマントの人物を思い出した。あれも、その仲間だったのだろうか。
「取水塔の上には、ビッグマコトジュエルという大きな宝石があったの。ファントムが狙っていたのは、それよ」
聞きたいことは増えたが、まずは続きを聞くことにした。
「マコトジュエルは、人が妖精を信じる心から生まれたものなのよ」
背もたれに座っていたマシュタンが言った。
「昔は人間と妖精が一緒に暮らしていたけど、だんだん妖精を信じる人が少なくなったの。人から離れた『信じる心』が集まってできたのが、ビッグマコトジュエル」
「信じる心が、宝石に?」
「ええ。その力は、嘘を真実にすることだってできる。ファントムが狙っているのも、その力よ」
ただ高価な宝石を盗むという話ではないらしい。
嘘を真実にする、と言われても何ができるのかまでは想像がつかなかったが、好き勝手に使わせていい力ではなさそうだった。
マシュタンの話が終わると、森亜さんが続けた。
「ファントムを止めるのが、私たちの役目」
「探偵事務所の?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
森亜さんは少し間を置いた。
「私たちは、名探偵プリキュアとして戦ってる」
「……名探偵プリキュア?」
初めて聞く言葉だった。探偵という仕事からは、どうにも姿が思い浮かばない。
「見てもらった方が早い」
森亜さんが立ち上がり、ソファから少し離れたところでこちらを向いた。
「オープン、アルカナロッド……」
普段つけているペンダントを包み込むように握り、両腕を広げる。次の瞬間、その手には一メートルを超える長杖が現れていた。
続いて、空中に小さな白い宝石が現れた。
「それも、マコトジュエル?」
「うん。でも、さっき話したものとは別」
森亜さんが宝石を手に取った。
「プリキュアが使うマコトジュエルは、その人自身から生まれるのよ」
マシュタンが補う。
「名探偵として積み重ねてきた知識や経験、それに、その人の思いが形になったものなの」
「同じ名前だけど、別のものなんだな」
「そう」
森亜さんが白いマコトジュエルを長杖に装着すると、白い光が部屋いっぱいに広がった。
思わず目を細める。
光が収まったとき、森亜さんの姿は変わっていた。
「……あ」
白を基調とした華やかな衣装。長い金髪。
いつか商店街で、黒いマントの人物を追って屋根から屋根へ飛び移っていた少女だった。
公園で会ったとき、森亜さんは俺が迷子と歩いていたところを見たと言っていた。どこから見ていたのかまでは聞かなかったが、まさか屋根の上にいたとは思わなかった。
「髪の色も長さも変わるんだね」
「それだけじゃないわ。身体能力だって、ずっと強くなるんだから」
マシュタンが言う。屋根から屋根へ飛び移っていた姿を思い返せば、それはよく分かった。
「すごいな。プリキュアって、普通にいるものなの?」
「名探偵プリキュアになった人は、歴史の中でも数人しかいないでシュ。誰にでもできることではないでシュ」
シュシュタンがそう付け加えた。
「この姿の私は、キュアアルカナ。今存在しているプリキュアは、私とくれあだけ」
「帆羽さんもプリキュアなんだ」
「ええ。私はキュアエクレールっていうの」
帆羽さんが立ち上がると、胸元からペンダントと小さな青い宝石を取り出した。
ペンダントが光り、手のひらほどの香水瓶のような形へ変わる。そこへ青い宝石を取りつけると、水色の光が部屋いっぱいに広がった。
光が収まったとき、そこには青を基調とした衣装の少女が立っていた。髪は明るい水色に変わり、長さもさっきまでとは違っている。
「おお……」
帆羽さん――キュアエクレールが少し笑った。
「こんな感じよ」
帆羽さんが変身を解く。それを見届けてから森亜さんも元の姿へ戻り、再びソファへ座った。
そして、地図の取水塔へ指を戻す。
「あの日、ここに来たのは、ファントムのボス、ウソノワールと、その部下のアゲセーヌ」
「その相手と、二人で?」
「最初は私が戦ってた。たけるは、くれあやマシュタンたちと、岸の茂みで待ってた」
指先が橋の付け根から、岸沿いの林へ動いた。
「普段は、たけるには調べ物を手伝ってもらっていたのよ。資料をまとめたり、現地までの道を調べたり。あの日も、戦いに加わるはずではなかったんだけど……」
帆羽さんはそこで言葉を切った。
「私が動けなくなった」
森亜さんが静かに続けた。
「ウソノワールに追い詰められて、立てなくなってた。そのとき、たけるが念動力で私を助けてくれた」
「俺が?」
「うん。離れたところから、私の身体を引っ張って」
家で椅子を浮かせたときのことを思い出した。人間一人を動かすとなれば、あれとは比べものにならないはずだ。
「そのあと、くれあが初めてプリキュアに変身した」
「初めて?」
「うん。そして、ウソノワールと戦って、そのときにビッグマコトジュエルが砕けた」
帆羽さんが小さく頷いた。
「私はそのとき意識を失って、変身が解けたまま湖へ落ちかけたらしいの。そこから先は、るるかたちに聞いたことしか分からないわ」
森亜さんが続ける。
「たけるは、念動力で私たちを先に逃がして、自分は残った」
「一人で?」
森亜さんは唇を少し結んだ。じっと俺を見たまま、短く頷く。
「……うん」
俺は地図へ目を落とした。二人を先に逃がして、自分だけ残った。そう聞いても、そのとき自分が何をやって、何を考えていたのかは少しも思い出せない。
「しばらくして、ここで合流した。でも、たけるはすぐに倒れて、呼んでも返事がなかった」
森亜さんの指が、湖岸から林の奥へ動いた。
「そんなに、力を使ってたのか」
「うん。私たちと離れていた間に何があったのかは、分からない。でも、あんなに力を使うところを見たのは、初めてだった」
二人を助け、そのあと一人で逃げる間に、俺はどこまで無理をしたのだろう。
「記憶のことと関係があるのかまでは、分からないでシュ。ただ、倒れる前から、ずっと苦しそうだったでシュ」
前にここへ来たとき、森亜さんは力を使ったあとに倒れたことがあると言っていた。あれは、二人を助けた日の話だったのだ。
帆羽さんは何か言おうとしたが、うまく言葉が出てこないようだった。
病院では、昔の話を一度に詳しく聞くことは避けるようにと言われていた。二人があの日の経緯まで話さず、力の使いすぎにだけ注意したのも、そのためだったのだろう。
地図には、湖へ向かう道も載っていた。近くの駅から道を追ってみると、歩いて行ける距離らしい。
「この場所、今も行ける?」
「行けるけど……行ってみたいの?」
帆羽さんに聞かれ、頷いた。
「うん。二人も一緒に来てもらえると助かるんだけど」
「行く」
森亜さんがすぐに答えた。帆羽さんも、それなら、と頷く。
「あのあとも何度か様子を見に行ってるけど、今は危険もなさそうよ。ただ、途中で具合が悪くなったら、そこで引き返しましょう」
「分かった」
二人の予定と俺の仕事を確かめ、取水塔へ行くのは二日後の午後になった。森亜さんが場所に印をつけた地図を渡してくれたので、手帳と一緒に鞄へしまった。
◇◇◇
約束の日、探偵事務所で二人と合流し、取水塔へ向かった。
しばらくは住宅の間を歩いたが、やがて道の片側が林になった。家並みが途切れると、舗装された道から細い脇道へ入る。
マシュタンが森亜さんの腕から離れ、シュシュタンも帆羽さんの左手首から飛び立った。妖精たちが先へ見に行って戻ってくると、すぐに木々の間から湖が見え始めた。
岸から細い橋が伸び、その先に三角屋根の小さな建物があった。水面が近いせいか、林の中にいたときより風が冷たい。橋の向こうまで見渡せたが、人の姿はなかった。
「あれが取水塔?」
「うん」
もっと背の高いものを想像していた。地図で見た建物の印を思い出しながら眺めていると、森亜さんが道から逸れた茂みの中を指した。
「たけるが倒れたのは、こっち」
茂みに入って少し歩くと、太い木があり、その根元の向こうで地面が浅く窪んでいる。
「ここで、みんなと合流したの」
森亜さんが足元を見ていた。俺もしゃがんでみたが、湿った土の上に枯れ葉が積もっているだけで、何か思い出しそうな感じはなかった。
茂みを出て湖岸へ戻ると、枝葉に隠れていた取水塔がまた見えた。
「あの上に、ビッグマコトジュエルがあったんだな」
「ええ」
もう少し近くから見たくなり、橋へ向かった。森亜さんもすぐに隣へ来て、帆羽さんが反対側に並ぶ。橋の上を、三人でゆっくり進んだ。
中ほどまで来たところで、視界の端に黒いものが映った。
「……今」
足を止めて見上げる。
取水塔の屋根の上に、黒い人影が立っていた。
けれど、瞬きをした次の瞬間には消えている。
「たける?」
森亜さんの声がした。返事をしようとしたところで、耳の奥に鈍い音が響いた。
湖面が弾ける。
白い水飛沫が高く上がり、冷たい風が頬を打った。
――違う。
目の前の湖は、何も起きていない。
それなのに、音だけが消えなかった。
水の音に重なるように、誰かの叫び声が聞こえる。黒い光が視界を横切り、さっきまで静かだった湖岸に、別の景色が重なっていく。
◇◇◇
俺は岸の茂みに身を伏せていた。隣にはくれあがいて、少し後ろの木のそばにはマシュタンとシュシュタンがいる。枝の隙間から覗くと、湖岸で戦うキュアアルカナと、その向こうにある取水塔が見えた。
ビッグマコトジュエルは、取水塔の屋根のすぐ上に浮かんでいた。いくつもの面が白く光を反射し、岸から見ていても眩しい。その手前に立つ黒い人影が、ウソノワールだった。
ウソノワールが腕を振ると、黒い光が湖面をかすめて岸へ飛んだ。アルカナが後ろへ跳び、さっきまで立っていた場所から土と小石が飛び散る。
どうにか避けたものの、着地した途端に膝が折れ、その場へ崩れた。
『アルカナ……』
くれあが枝を掴み、身を乗り出しかける。
取水塔の屋根では、アゲセーヌが楽しそうにウソノワールへカメラを向けていた。
その間にも、ウソノワールの手には次の黒い光が集まっていく。
アルカナはまだ立ち上がれない。ようやく顔を上げたところへ、ウソノワールが腕を向けた。
俺は枝の間から手を伸ばし、アルカナの身体へ意識を集中させた。
人を動かしたことなんてない。それでも、今は少しでも横へ動かせればいい。
強く引き寄せる。
こめかみに痛みが走った。
アルカナの身体がふわりと地面を離れ、横へ引かれる。直後、さっきまで彼女がいた場所へ黒い光が落ちた。
衝撃で枝が大きくしなり、反射的に顔を伏せる。それでも意識だけは切らさず、アルカナを茂みの手前まで動かしたところで、地面へ下ろした。
『るるか!』
茂みから飛び出して駆け寄る。
身体を包んでいた白い光が消え、長い金髪が元の髪へ戻っていく。るるかは顔を上げ、何か言おうとしたが、そのまま咳き込んだ。
肩を支えて上体を起こす。立とうとしたものの、膝に力が入らないらしい。
『ちょっと待って。そのままで』
俺もしゃがみ、るるかの背中を支え直した。そのとき、さっきまで隠れていた茂みが青く光った。
そこから飛び出した人影が、俺たちの頭上を越えていく。
『……くれあ?』
るるかの声につられて見上げた。
長い髪をなびかせた、青い衣装の少女が取水塔へ向かっている。
ウソノワールが振り向き、目の前に黒い光を広げた。青いプリキュアは勢いを緩めず、その中心へ拳を叩きつける。
『はああああっ!』
『何だ、貴様は!』
青と黒の光がぶつかり、大きな音が湖に響いた。
俺はるるかに覆いかぶさり、反射的に顔を伏せる。強い風が背中を叩き、足元の砂利が転がった。
顔を上げると、離れた場所にいたアゲセーヌが取水塔の向こうへ吹き飛ばされていた。
ウソノワールも後ろへ弾き飛ばされ、そのままビッグマコトジュエルへ背中から激突する。
甲高い音とともに亀裂が走り、宝石が砕けた。
無数の光が空へ散る。
その下を、青いプリキュアが落ちてきた。
空中で変身が解ける。青い衣装が消え、髪が元の色と長さへ戻っていく。
目を閉じたくれあの顔が見えた。
『くれあ!』
声をかけても、くれあは反応しなかった。腕も脚も投げ出したまま、湖へ落ちていく。その胸元から、小さな青い光が離れた。
くれあのマコトジュエルだ。
吹き飛ばされていたウソノワールもそれに気づいた。空中で姿勢を立て直し、宝石へ手を伸ばす。
『それに触るな!!』
くれあの身体と宝石へ、同時に力をかけた。
二つの落ちる軌道が変わり、こちらへ引き寄せられる。ウソノワールの指が、青い宝石のすぐ脇で空を切った。
『何!?』
くれあの足が水面へ触れかけたところで、どうにか落下を止める。
頭の奥に、さっきより強い痛みが走った。
歯を食いしばりながらそのまま岸へ引き寄せ、るるかが伸ばした腕の中へゆっくりと下ろす。
『くれあ、聞こえる?』
返事はなかった。
るるかがくれあの顔を覗き込んでいる間に、少し遅れて青い宝石も飛んでくる。俺は右手を伸ばし、それを受け取った。
手のひらへ収まった途端、強い力が腕を伝って身体の奥へ流れ込んだ。
驚いて手元を見る。
けれど、確かめる暇もなく頭上から声が飛んできた。
『小僧!』
顔を上げると、黒い光が迫っていた。
避ける時間はない。
宝石を握りしめ、少しでも軌道を逸らせればと、黒い光を横へ押した。
軌道が曲がる。
黒い光はすぐ脇の湖へ突き刺さり、大きな水柱を上げた。ウソノワールの姿が水煙に隠れ、冷たい飛沫が顔に当たる。
同時に、握った指の隙間から青い光が漏れていた。
『たける、今の……』
俺にも何が起きたのか分からなかった。
けれど、もう一度くれあを持ち上げようとすると、今度はすぐに身体が浮いた。頭は痛いままなのに、さっきまで動かすだけでも苦しかった重さを、まだ支えていられる。
『るるか、くれあを連れて、できるだけここから離れて』
るるかはすぐには答えなかった。
くれあに添えた手を離さず、俺の顔をじっと見る。
唇を少し結んだあと、小さく頷いた。
『……分かった』
『俺もすぐに行くから』
『……絶対だよ』
るるかの身体にも力をかけ、二人を低く浮かせたまま、マシュタンたちのいる茂みへ運んだ。
水煙の向こうで、黒いマントが動く。
二人を地面へ下ろすと、るるかはどうにか立ち上がり、くれあの片腕を自分の肩へ回した。腰を抱えるようにして支え、くれあの足を少し引きずりながら、妖精たちと一緒に林の奥へ向かっていく。
それを確認してから、俺は反対方向へ走り出した。
風が水煙を払い、ウソノワールの姿が現れる。
『そのマコトジュエルを渡せ!』
腕が振られる。
俺は足元の砂利をまとめて浮かせ、そのままウソノワールへ飛ばした。
黒い光が砂利を吹き飛ばし、そのままこちらへ向かってくる。
右手を振る。
軌道が横へ逸れた途端、頭の奥に強い痛みが走った。
『っ……』
重いものを動かすより、あの光そのものを押す方がきついらしい。
もう、あの光に直接力をかけるのはやめた。
足元の砂を巻き上げる。乾いた土と枯れ葉まで一緒に浮かせ、ウソノワールとの間へ広げた。
『小賢しい!』
黒い光が砂煙を突き抜ける。
その前に、自分の身体へ力をかけた。
足が地面から離れる。
『うわっ……』
思ったより勢いがついた。身体が前へ押し出され、そのまま林へ飛び込む。枝が頬をかすめたが、走るよりずっと速い。
着地するなり太い木の陰へ回り、そのまま別の方向へ移動する。
背後で木が折れる音がした。
立ち止まっていれば追いつかれる。
枯れ枝を浮かせて別の方向へ飛ばし、茂みを揺らす。ウソノワールの攻撃がそちらへ向かった隙に、もう一度身体を浮かせた。
頭痛が強くなる。
それでも、るるかたちが離れるまでは止まれない。
何度目かに木の陰へ隠れたところで、湖の方から声が聞こえた。
『ウソノワール様!』
アゲセーヌだった。
木々の隙間から覗くと、林の上を飛んできたアゲセーヌがウソノワールのそばへ降りる。
『ヤバいって! ビッグマコトジュエルの光、あちこちに飛んでっちゃったんだけど!』
『……分かっている』
ウソノワールがこちらの林を睨んだ。
息を殺して、木の幹へ背中をつける。
『あいつ、追うの?』
『いや。今はビッグマコトジュエルの行方を確かめる方が先だ』
しばらくして、黒い気配が完全に遠ざかった。
それでもすぐには動かなかった。声も足音も聞こえなくなってから、ようやく木にもたれて息を吐く。
頭の奥が、脈を打つたびに痛んでいた。
握ったままの青い宝石を見る。指の隙間から漏れていた光は弱くなっていたが、身体の内側にはまだ妙な力が残っている。
るるかたちを探さないと。
木から背中を離し、二人を逃がした方角へ歩き出した。
さっき自分を浮かせたときのように念動力を使う気にはなれなかった。足元が少し頼りなかったが、歩けないほどではない。木々の間を進みながら、るるかたちの姿を探す。
『たける、こっち』
小さな声がした。
振り向くと、太い木の陰からマシュタンの顔が覗いていた。
幹の裏へ回り込む。少し地面が窪んだところに、るるかが座っていた。膝の上にくれあの頭を載せ、そばではシュシュタンがその顔を覗き込んでいる。
『……くれあは?』
『まだ起きない。呼吸は安定してるけど』
そばへ膝をつく。
くれあの胸は、小さく上下していた。顔色もひどく悪いわけではない。
息を吐いたところで、るるかの手が俺の肩に触れた。
『たける、大丈夫?』
答えようとしたが、すぐには声が出なかった。
それより先に、渡しておかなければならないものがある。
握っていた右手を開き、くれあのマコトジュエルをシュシュタンへ差し出した。
『これ……』
『分かったでシュ』
シュシュタンが両手を添える。
手のひらから青い光が離れた途端、身体の内側に残っていた力まで一緒に抜けていくような感覚がした。
『……あ』
頭の痛みが一気に広がった。
地面へ手をつこうとしたが、腕に力が入らない。
『たける!』
るるかの声が聞こえた。
そのまま身体が傾き――そこで、意識が途切れた。
◇◇◇
「……たける!」
すぐそばで声がして、顔を上げた。
視界に入ったのは、橋の白っぽい路面とコンクリートの欄干だった。いつの間にか、俺はその場にしゃがみ込んでいる。るるかがすぐそばで身体を支えてくれていた。
さらに顔を上げると、欄干の向こうに湖面が見えた。
「たける、分かる?」
「……るるか」
るるかはすぐには答えなかった。
俺の顔をじっと見つめ、それから小さく頷く。
「……うん」
「くれあは?」
「ここにいるわ」
反対側から声がした。
くれあが膝をつき、こちらを覗き込んでいる。一瞬だけ目を見開いていたが、すぐにいつもの表情へ戻った。
ちゃんと目を開けて、自分の声で返事をしている。
それを確かめて、ようやく息を吐いた。
握りしめていた右手を開く。手のひらには爪の跡だけが残っていた。
青い宝石はない。黒い光も飛んでこない。
橋の手すりは冷たく、湖から吹いてくる風が頬に当たっていた。
俺たちは、あの日の場所を訪ねに来たのだ。
少し前まで二人とこの橋を歩いていたことを、ようやく思い出す。
「……ここであったこと、思い出したよ」
「どこまで?」
るるかが聞いた。
「くれあがプリキュアになって、ビッグマコトジュエルが砕けて……二人を逃がしたあとも少し。林でみんなと合流して、俺が倒れるところまで」
二人は黙って聞いていた。
るるかは俺の腕を支えたまま、離そうとはしなかった。
「気分は? どこか痛む?」
「少し頭が重い。でも、大丈夫」
少し落ち着いてから、欄干のそばへ腰を下ろした。
くれあが鞄から水を出してくれたので、受け取って少しずつ飲む。るるかもすぐ隣へ座り、何も言わずに待っていた。
しばらくして顔を上げると、二人ともこちらを見ていた。
二人の顔を見ているうちに、別の景色が浮かんできた。
ロンドンにいた頃の、事務所の食卓だった。
初めて二人と会った日、妖精たちに促されて一緒に座ったものの、俺は何を話せばいいのか分からずにいた。くれあに聞かれたことへ短く答え、また黙ってしまうと、隣のるるかがパンの籠をこちらへ寄せた。
そのときの部屋も、今より少し幼い二人の顔も覚えていた。
ひとつ思い出すと、その次の記憶も続いて浮かんできた。
また同じ食卓を囲んだ日のこと。何度も顔を合わせるうちに、自分から話すことが増え、二人に頼まれた調べ物を持っていくようになったこと。
日本へ行くと決まった頃のことも、こちらで一緒に暮らし始めた頃のことも思い出した。
携帯を買った日の記憶は、もう店先だけで終わらなかった。海辺で一人暮らしの話をしたあとも、三人で事務所へ帰っていた。
病院では、二人の名前を教えてもらっても何も浮かばなかった。
今は顔を見ていると、どこで何を話したのか、そのとき自分が何を考えていたのかまで思い出せた。
「ロンドンで、初めて二人に会ったときのことも覚えてる」
くれあが息を呑んだ。
「妖精たちに呼ばれて、一緒にご飯を食べて。そのあとも、何度も」
「……うん」
「日本に来てからのことも、出てきた。ここだけじゃないみたいだ」
くれあは一度頷くと、顔を伏せた。空いている手で目元を押さえ、少し待ってからこちらを見る。
「……よかった」
笑っていたが、声は少し掠れていた。
俺も何か返そうとしたものの、うまい言葉は浮かばず、頷くだけになった。
隣では、るるかがまだ俺の腕から手を離していなかった。
顔を向けると目が合い、るるかはようやく少し笑った。
何も言わずにそばにいてくれることにも、覚えがあった。以前はこうして、返事を急がずに一緒にいることもよくあったのだ。
しばらく休んでから、手すりにつかまって立ち上がった。まだ足元が頼りなかったので、二人に肩を借りることにした。
二人が歩幅を合わせてくれる。
途中で一度取水塔を振り返ったが、三角屋根の上には何もなく、湖も静かなままだった。
岸へ着くまで、るるかもくれあも支える手を離さなかった。
その日は、そのまま家まで送ってもらった。
◇◇◇
数日後、仕事を終えた俺は、キュアット探偵事務所を訪れていた。
「お邪魔します」
玄関を開けると、奥からくれあが顔を出した。
「たける、いらっしゃい。勝手に入ってもいいのに」
「一応、人の家だから」
「今さら?」
「今さらでも」
くれあの横を通り、事務所へ向かった。るるかはテーブルに資料を広げていて、俺を見ると、そのうちの何枚かを差し出してきた。
「たける、これ、見て」
「何の資料?」
「今、調べてる依頼の。くれあの分と合わせたいんだけど」
いつもの窓際の席へ座り、紙束を受け取った。二人がそれぞれ聞き込みをした記録らしい。調べた順に綴じてあるので、同じ日の出来事が別々のページに書かれていた。
「時系列にしておく?」
「うん。お願い」
ノートパソコンを開くと、くれあも自分の分を持ってきた。日付と要点を入力していく間に、二人が聞き込みの内容を確かめ、書かれていないことを補ってくれた。マシュタンとシュシュタンも、そのとき一緒にいたらしく、ときどき話に加わった。
「たける、昨日の日付の紙、そっちにある?」
「これだな」
自分が持っている紙束から一枚抜いて、念動力でテーブルの向こうへ送った。るるかはそれを受け取り、くれあの持っている記録と見比べた。
入力を終えると、二人にも画面を見てもらった。いくつか補足を書き加えてから保存する。まだ詳しい時刻が分からないところもあったが、それは明日の調査で確かめるそうだった。
くれあがお茶を淹れに立ったので、るるかと紙を揃えて片づけた。窓から差す光が、来たときより長く床へ伸びている。仕事をしていると、ここでも時間が経つのは早かった。
お茶を飲みながら、図書館で借りた小説の感想を話した。読み終えたら話すと約束していたのに、取水塔のことがあって、まだ話せていなかったのだ。ひと通り話し終えると、るるかが棚から一冊持ってきた。
「次は、これ」
「短編集か」
「そう。仕事の合間にも読めると思って」
表紙を確かめ、目次を開いてみた。確かに、仕事の合間に読むにはよさそうだったが、短いからと何本も続けて読んでしまう気もする。
「借りていいのか?」
「うん」
本を閉じて、しばらく表紙を眺めた。
取水塔へ行ってから、自分のことを何度か思い返していた。
何歳で、どこに住んできたのか。誰と出会って、どこで何をして暮らしていたのか。病院で目覚めたときは、考えても何も浮かばなかったことが、今は普通に思い出せる。
二人に会う前の暮らしも、仕事を始めた頃のこともそうだった。昔の勉強ノートを開けば、そのページを書いていた日のことまで思い出せた。
前は、自分の人生に関わるところだけが綺麗に切り取られているようだった。
今は、思い返せば、その先にちゃんと自分がいる。
借りた本を鞄へしまおうとして時計を見ると、そろそろ夕飯の支度を始める時間だった。
自分一人なら帰りに適当なものを買ってもよかったが、まだ二人と話していたかった。
「このあと予定がなければ、うちで夕飯食べない?」
「行く」
るるかの返事は早かった。くれあもこちらへ顔を向ける。
「私も。何を作るの?」
「まだ決めてない。買い物して帰るつもりだったから、何か食べたいものがあれば」
「シチュー」
またすぐに答えが来たので、思わず笑ってしまった。くれあも笑いながら、それがいいわね、と言った。
背もたれに座っていたマシュタンとシュシュタンにも、声をかけた。
「マシュタンとシュシュタンも、シチューでいいか?」
「ええ。楽しみにしているわ」
「おかわりもできるでシュ?」
「少し多めに作るよ」
手帳を出し、冷蔵庫に残っているものを思い返しながら、買い足すものを書いていった。横から覗き込んだくれあが、パンも買っていこうと言う。
「あと、アイスも」
るるかが付け加えたので、それも書き足した。
お茶の片づけを手伝い、パソコンと借りた本を鞄へしまった。玄関では、るるかがマシュタンを抱き上げ、シュシュタンはくれあの左手首へ戻っていた。
「みんな、行きましょう」
「ああ」
外へ出ると、昼間より日差しが柔らかくなっていた。くれあが扉を閉め、俺たちは商店街へ向かって歩き出す。
隣では二人が、どの店でパンを買うか相談していた。いつもの店の名前が出たので、俺も頷いて話に加わった。
みんなで食べる夕飯が楽しみだった。
~終わり~
ここから、ある日、事務所で三人が作業しているところに、あんみくポチタンがやってきて、原作タイムラインに入るとか考えたけど、切りが良いので、投稿。
たけるの念動力の由来とか、ロンドンにいた時のやり取りとか、変身アイテムのバージョンアップとか、書きたいことはまだあるけど文章に繋げるには原作で開示されてる情報が足りない。
映画も公開されましたし、どっかのレイトショーで見に行きたい。