誰も、理由を知らなかった。
二〇二八年の秋。ある夜を境に、星が消えた。
前触れはなかった。天気予報は晴れを告げていた。日没後、澄みきった空。そして午後九時十七分、地球上のすべての天文台や観測所が同じ記録を残した。
恒星光、可視・近紫外の観測帯域で受信不能。
パニックが起きた。
宗教団体は「審判の日」を叫んだ。
各国政府は原因不明のまま記者会見を開いた。
SNSには「見えない壁」「神の盾」「宇宙人の仕業」という言葉が溢れた。
電波望遠鏡は動き続け、星の存在を確認し続けた。
星は消えていない。ただ、光が来ない。
太陽系の外縁、約一光年の彼方に、何かが現れていた。暗黒星雲に似た粒子の幕。
球状に、完璧に、太陽系を包んでいた。
原因不明のまま、一年が経った。
二年が経った。
何年かが過ぎ、国際研究機構が設立された。世界中から撃たれていた電波の反射が、二年をかけて返ってきた。
確定したのは「約一光年」という数字だけだった。闇雲に予算が投じられ、闇雲に研究者が消耗し、やがて各国は「対処不能」という共通認識のもとで静かに諦めていった。
そして数年後の二〇三六年。
ベテルギウスが爆発した。
七百光年の彼方で、星が死んだ。光は見えなかった。暗黒星雲が遮っていたから。だが、世界中のニュートリノ検出器が同時に反応した。
超新星爆発。
天文学者たちは壁の向こう側で何が起きたかを推定し、そして安堵した。ガンマ線バーストの射線は、地球からわずかにずれている、と。
衛星がいくつか不調になった。電子機器が一時的に停止した地域があった。だが深刻な被害はなく、世界は「射線がずれていたおかげだ」という説明を受け入れた。それよりも目の前の問題の方が大きかった。
星が見えない。八年経っても、壁は消えない。
爆発のニュースはすぐに忘れられた。見えない星が爆発したところで、見えない空の下では実感が湧かない。壁の正体は依然としてわからなかった。星を奪った幕は、答えを返さないまま、ただそこにあり続けた。
また時間が流れた。
衛星の姿勢制御システムは全面的に更新された。機構は看板を掛け替えながら生き残った。やってます、というアピールのために。月と惑星だけが変わらず空に残り、その下で、星のない夜が日常になっていった。
気づいた人が出たのは、それからさらに数年後のことだ。
クリスタルが、光る。
新月の夜だけ。
夜の開けた屋外だけ。
特定の方向に向けて、微かな光が漏れ出る。
かつて星の光を受け続けた石英や蛍石の中に、その星の記憶が残っていた。
星への道が、地面の中に埋もれていた。
★★★
報告書の末尾に、ハルは一文を書いた。
消されるだろうな、と思いながら書いた。
「見えないことは、存在しないことの証明ではない」
会議室は白かった。壁も机も、投影された資料の背景も白い。そこに並ぶ数字だけが黒く、冷たく、動かなかった。
太陽系外縁の散乱データ。
反射率の異常。
恒星光の一斉減衰。
そして、機構の結論。
壁は、不可逆の遮断層である。
「天音《あまね》研究員」
議長席の声は、穏やかだった。穏やかな声で、人はよく人を黙らせる。
「君の追記部分ですが」
「はい」
「推測が多い」
ハルは頷かなかった。
「観測不能になった対象について、存在の可能性を完全に捨てるのは早いと考えています」
「それは哲学ですか」
「観測論です」
隣の席で誰かが小さく息を吐いた。
ハルは画面を切り替えた。
恒星光の消失曲線。通常の減衰ではない。完全な消滅でもない。遮蔽に近い。しかも、方向ごとにわずかな遅れがある。
「星が消えたのではなく、星と地球の間に何かが入った可能性があります」
「それが壁でしょう」
「はい。ですが、壁が檻であるとは限らない」
その言葉で、部屋の温度が一段下がった。
「どういう意味です」
「遮っているものが、攻撃のためではなく、防御のために配置された可能性です」
沈黙。
誰も笑わなかった。笑われるより悪かった。誰も、考える価値があるものとして受け取らなかった。
「天音研究員」
議長は、少しだけ声を低くした。
「現在、機構が最優先で行うべきは、社会不安の抑制と、既存観測網の再編です。壁の動機を想像することではありません」
「動機ではありません。構造の話です」
「同じです」
「違います」
言った瞬間、戻れない線を踏んだとわかった。
それでも、ハルは続けた。
「星は見えません。でも、星がなくなったと決めるには早すぎる。壁を壊す方法を探すべきです。少なくとも、穴が開く条件を探す価値はあります」
「穴」
別の委員が、紙を置いた。
「君は、壁に穴を開けると言っているのか」
「可能性です」
「社会に出せる言葉ではない」
「だから内部報告書に書いています」
今度は、はっきりと溜息が聞こえた。会議はそこで終わらなかった。しかし、ハルの発言はそこで終わったものとして扱われた。
後日、修正版の報告書が回ってきた。
末尾の一文は削除されていた。
「見えないことは、存在しないことの証明ではない」
代わりに、こう書かれていた。
「現時点で有効な回復手段は確認されていない」
正しい文だった。
正しいが、何も始まらない文だった。
異動通知が届いたのは、その三日後だった。
観測計画本部から、資料整理室へ。
機構はそれを「専門知識を生かした後方支援」と呼んだ。ハルは、そういう言い換えの上手さが嫌いだった。
その夜、中野の部屋でハルは削除前の報告書を印刷した。紙の末尾に、赤いペンで同じ一文を書き直す。
見えないことは、存在しないことの証明ではない。
そして、その下にもう一行だけ足した。
ならば、見えない星を探す人間が必要だ。
それから数か月後。
金髪の少女が、光る石を持って現れる。