第21話 太陽だけの朝
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LC-201-AI/arieSta
2046.06.05-Tue 07:14
Location : 三鷹市 東京都
MoonAge : 0.3
Sectors : 2/88 fired
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朝が来た。
当たり前のことだ。りゅう座に向かって光の柱を放った夜が明けて、地球は自転して、太陽が東から昇った。いつも通りの、太陽だけの朝。陽の光で見えないだけで月もいるけど。
ユキは三鷹の施設の窓際で、紙コップの自販機コーヒーを持ったまま、空を見ていた。六月の朝。雲が薄い。空は青い。青いだけだ。
昨夜のことが嘘みたいだった。
エルタニンが光った。
光の柱が伸びた。四十六分間、揺れずに、りゅう座の方向へ。あの光は今、秒速三十万キロで暗闇の中を走っている。
一年後に暗黒星雲に届く。
晴れたら、恒星の光がまた一年かけて地球に届く。
合計二年。
でも、窓の外は六月の朝で、空は青くて太陽がある。
「今日から二年か」
声に出してみたら、胸のあたりにずしっと来た。二年。七百三十日。朝を七百三十回迎えて、その間ずっと、光は走り続ける。
施設の中はまだ片付けの途中だった。
昨夜の照射で使った機器をダイチとタキが梱包作業をしている。村上は朝一で機構の上層部への報告に出た。田中が記録データの転送をしている。研究員たちは交代で仮眠を取っていた。
ハルだけが、廊下の隅で珈琲を飲んでいた。
「おはよ」とユキは言った。
「おはよう」とハルが答えた。
紙コップの縁に指を沿わせながら。声はいつも通りだった。でもユキは、ハルの目の下がいつもより少し暗いのに気づいた。
「寝た?」
「少しだけ」
「うちも」
二人で窓の外を見た。太陽だけの空。惑星さえ今は見えない。昼間は、いつもこうだ。夜は月と惑星が見える。昼は太陽だけ見える。空が明るいから、暗黒星雲は見えない。星が消えていることすら忘れられる時間帯。
ユキは、昼の空が嫌いじゃなかった。
でも今朝は少し違った。
夜は、暗闇の向こうに何かがあると感じられる。クリスタルが光る。光の柱が伸びる。見えないけど、そこにある。
でも昼は、そもそも暗闇がない。暗闇がないから「その向こう」もない。太陽の光が塗りつぶしてしまう。
昼は、星に近づけない時間なんだ。
「ハル」
「なに」
「昨夜の光、今どのへんかな」
ハルは少し考えた。
「秒速三十万キロだから……今朝の時点で、地球から約七十四億キロ。太陽から冥王星くらいの距離かな。太陽系の端に差しかかってるよ」
「まって。
「速いけど、一光年は遠い」
ユキはコーヒーを一口飲んだ。ぬるくなっていた。
「うん。遠いね」
「ああ。遠いよ」
遠い。それだけで十分だった。
「ねえ。うちさっき、ふと思ったんだけど」
「ハルって、季節で星座が変わるの、実際に見たことある?」
ハルが珈琲のカップを止めた。
少しだけ間があった。
「ないよ。プラネタリウムと、大学のシミュレーションで覚えた。俺の目で実際に夜空を見上げて、先月と違う星座が昇ってくるのを確認したことは、一度もない」
「というより、見える時期に夜空をちゃんと観たことがなかった。光害もあったけど、星に興味がなかったからね」
ユキは少し黙った。
「天文学者が星を見たことないって、笑える話だろ」
「笑えない」
ハルは少し目を細めた。笑ったのか、泣きそうだったのか、よくわからない顔だった。
ダイチが廊下の奥から歩いてきた。
手にはタブレットとリュック。足音が正確に等間隔だった。メトロノームみたいだ、とユキはいつも思う。
「梱包作業完了。器材十七点、全数確認済みだ」
「タキは増幅器の後処理中。残り工程から逆算してあと五十八分はかかる」
「お疲れー」とユキ。
ダイチはハルの手元を見た。
「珈琲、何杯目?」
「三杯目」
「昨夜から?」
「今朝だけで」
ダイチは何も言わなかった。ただ少し眉を寄せた。
「一つ聞きたい」
ハルが紙コップを置いた。
「先月の急用のこと?」
「そう」
ユキも少し身体の向きを変えた。聞くつもりだったわけじゃない。でもダイチが聞いてくれるなら、聞きたかった。
ハルは窓の外を見ながら話し始めた。
「知り合いの研究者から呼ばれた。天文台にいた頃の先輩でさ。暗黒星雲を通過する電波に、ノイズじゃないパターンがあるかもしれないって。五日間、データを見せてもらった」
「結論は」
「出なかった。パターンがあるように見えるけど、統計的に有意とは言えない。でも自然現象だけでは説明しにくい構造が含まれてた」
沈黙。
「……自然現象じゃないなら、何だろ」とユキは聞いた。
「わからない。だから結論が出なかった」
ハルの声は落ち着いていた。嘘をついている感じはしなかった。でもユキは、ハルが全部を話していないことに気づいていた。
なんとなく。
根拠はない。
ハルが「根拠がない話はしない」人間だと知っているから、逆に、言わなかった部分があるとわかる。
追及はしなかった。
ハルが話す時が来たら話す。
それでいい。
「データはもらえない?」とダイチが聞いた。
「まだ無理だよ。先輩の研究で、公表前のデータだから」
「了解」
ダイチはそれ以上聞かなかった。
タブレットに視線を戻して、昨夜のりゅう座照射のデータログを開いた。技術者の切り替えは早い。
ユキだけが、もう少しハルを見ていた。
ハルの右手が、一瞬だけ震えた。紙コップの中のコーヒーが、小さな波紋を立てた。
ユキの心臓が跳ねた。
見てしまった。見なかったことにはできない。
タキが施設の奥から出てきた。
「増幅器の後処理、完了しました。全パラメータ正常です」
「ありがとう」とユキ。
「それと」タキが少し声を落とした。
「ハルさんの話、廊下で聞こえてしまいました。すみません」
ハルが首を振った。
「聞かれて困る話じゃないよ」
「暗黒星雲の電波異常ですか」とタキは繰り返した。
声のトーンを意識的に下げているのがわかった。廊下は機構の施設だ。壁に耳がある。
「機構内のアーカイブに、類似の報告がないか……確認してみます」
ハルが少し目を見開いた。
「……できるんですか?」
「電波観測のアーカイブにアクセス権があります。増幅施設の設計で使ったことがあるので」
「助かります」とハルが言った。
声に、少しだけ本音が混じった。
ユキは三人を見回した。疲れた顔が四つ。でも止まっていない。昨夜の照射が終わって、今朝にはもう次のことを考えている。
窓の外、太陽が高くなっていた。六月の朝が、昼に変わろうとしている。
りゅう座に向かって放たれた光は、今もどこかを走っている。一年後に届くか、二年後に晴れるかは、わからない。わからないまま、朝が来て、昼が来て、夜が来て、また朝が来る。
その繰り返しを二年分。
「帰ろっか」とユキは言った。
「今日は寝よう。明日から、ケフェウス座の話を始めよう」
三人が頷いた。
施設を出ると、六月の日差しが眩しかった。太陽だけの空が、青く、広く、何もなく広がっていた。
ユキは少しだけ空を見上げて、目を細めた。
太陽しかない。ように見える。でも、月もいる。惑星もいる。壁の向こうには、星もいる。
あの向こうで、うちらみんなの光が走ってる。
それだけで、今日はいい。