二〇四七年七月七日、日曜の夜。
商店街に笹が出ていた。
短冊が下がっている。
子どもの字。
「じてんしゃがほしい」
「かぞくがげんきでいられますように」
「せかいへいわ」
一枚だけ、大人の字があった。
「星が見たい」
ユキは足を止めて、それを読んだ。
二年前まで、空に興味がなかった。
オリオンだけは知っていた。
おじいちゃんの三つ星。並んだ三つの点。それだけだった。それ以外の空は、ただの天井だった。
皆既月食という言葉も、知ってはいた。
月が地球の影に入って、赤くなる。高三の秋にもあったらしい。友達が写真をSNSに上げていた。見てない。夜に空を見上げる理由が、なかった。
ハルからグループメッセージが来たのは昼過ぎだった。
ハル : 今夜、皆既月食。月の出の時点でもう皆既に入ってる。十八時五十分、東南東の低い空。晴れ予報。壁の内側だから、月食は見えるよ
ユキ : 見る。十八時五十分、東南東ね
見える、のところだけ、少し強く読めた。
日が落ちる前に外に出た。梅雨の晴れ間。空気が湿って重い。空の開けたところまで歩いて、東南東を見た。
何もなかった。
空はまだ明るくて、月の出の時刻は過ぎているのに、月がどこにもない。
影の中で昇ってくる月は、見えない。
待った。
待つのは、慣れた。
この一年、ずっと待っている。
こぐまの答えは来年の三月。あと八ヶ月。空っぽの空を見上げて待つことなら、たぶん、日本で一番うまい。
十九時を過ぎて、空の青が濃くなった。
最初は、目の錯覚だと思った。
東南東の低いところ。何もなかった場所に、丸い、赤黒いものが、滲むように浮かんでいた。
現れた。
昇ったんじゃない。現れた。暗くなっていく空の中に、赤い円が、静かに、浮かび上がってきた。
ユキの空は、消える側だった。
星は、物心つく前に消えた。何かが空からいなくなる話ばかり聞いて育った。
空に何かが現れるところを、生まれて初めて見ている。
──そう思った瞬間、目の奥が熱くなって、赤い月がもっと滲んだ。
少しして、スマホが震えた。
ハル : その赤は、地球の大気を通り抜けた光。いま地球のどこかで起きてる朝焼けと夕焼けが、全部まとめて月に届いてる色
ユキ : 見えた。ほんとに赤い
世界中の朝と夕方が、あの円盤の上に乗っている。
ダイチとタキからも来た。
ダイチ: 食分一・七五。深い
タキ : 二十時二十五分に縁から戻ります
七夕なのに、織姫も彦星も見えない。
天の川も見えない。
でも月は赤い。
短冊の下で、子どもが月を指さして、なにあれ、と言った。お母さんが、お月さまだよ、と言った。子どもは納得していなかった。
ユキも、二年前なら納得しなかった。
二十時二十五分。
タキの言った通りだった。
円盤の縁に、白い光がひとすじ戻った。
まぶしかった。
たったそれだけの光が、赤全部より、まぶしかった。
月は、戻ってくる。
影に入っても、ちゃんと戻ってくる。
じゃあ、星も。
あと八ヶ月。
来週、二十一になる。
二十歳のユキは、空を待つ人間になっていた。
二年前のユキが聞いたら笑う。
でも、悪くない。
赤が抜けていく月を見ながら、ユキは短冊の字を思い出していた。
星が見たい。
「うちも」