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LC-332-Y/arieSta
2047.08.24-Sat 03:40
Location : 豊島区 東京都
MoonAge : 2.4
Sectors : 2/88 fired
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午前三時四十分。ロクマルの屋上に、四人が揃った。
『気温二十六度。湿度八十一パーセント。電波天気、安定。東天、雲量ゼロ』
ハクが足元で読み上げた。
彗星の名前は言わない。星を見分ける機能はない。ハクにとって今夜の空は、雲がないというだけの空だ。
「みんな来た」とユキは言った。
「終電になんとか間に合いました。今度こそ一緒に見ます」
六月惑星パレードの夜、タキは機構の定例で来られなかった。あれから二ヶ月。タキはずっと「次は必ず」と言っていた。
七月にも日を決めていた。ダイチが「来させる」と言った、その七月だ。タキの休みが飛んで、流れた。
月はもう沈んでいた。空がいちばん暗い時間だった。
ダイチが望遠鏡から顔を上げた。
「導入した。順番に見ろ」
「肉眼じゃ無理なの?」
「無理だ。十等前後。肉眼で見える限界の、百倍暗い」
「ひゃくば……」
ユキは素直に天体望遠鏡の接眼レンズを覗いた。
黒い視野の中に、綿毛みたいな染みが一つあった。輪郭がない。中心がわずかに明るくて、そこから片側に、何かがかすかに伸びている気もする。気のせいかもしれない。
「……これ?」
「それだよ」とハルが言った。
「フィンレー彗星。周期六年半。近日点は、ちょうど今ごろだ」
「確か、七月って言ってなかった?」
「地球にいちばん近かったのが七月の下旬。近日点が今」とハル。
「明るさはほとんど変わらない。一ヶ月まるごとが見頃なんだよ」
「地味だね」
「地味だよ」
「大彗星じゃない。ほとんどの回は、誰にも気づかれずに通り過ぎる」
「氷と塵の塊なんだよ」とハルは続けた。
「太陽に近づいて、温められて、氷が溶けて、ガスと塵を吹き出す。それが尾になる。尾は燃えてるんじゃない。太陽の光と太陽風に流されてるんだ。だから尾は、いつも太陽と反対側を向く」
「だから明け方に見えるんですね」とタキ。
「太陽がまだ地平線の下にあるからですか」
「そう。彗星が太陽の側にいて、尾が太陽と反対の、上に伸びる」
「尾って、あの染みの片側のやつ?」
「そう。この明るさだと、あるかないかくらいかな」ハルは少し間を置いた。
「明るい彗星なら、二本見えるよ」
「え? 二本」
「太くて白いのがダストの尾。塵が太陽の光を反射してる。返してるだけだから、太陽と同じ色。塵は重いから軌道に置いていかれて、少し曲がる感じだね」
「そうなんだ。もう一本は?」
「イオンの尾。ガスが紫外線で励起されて、自分で光ってる。だから青い。軽いから太陽風にまっすぐ吹き飛ばされて、まっすぐ伸びるよ」
「返す光と、自分で出す光かー」
「そういうことになるね」
「同じ星から出てるのに、別々の方に行くんだ?」
「押してるものが違うからね」
「片方は光に押されて、片方は風に吹かれてる」
「ハルは見たことあるの? その二本」
ハルは接眼レンズから目を離して、東の空を見た。
何もない空だった。
「一回だけ」
★★★
「六歳の秋だった」とハルは言った。
「十月。父親に起こされて、暗いうちにベランダに出た。眠かったのを覚えてる。昼寝だったか、夜寝てたかは確かじゃないけど」
「彗星を?」
「うん。夕方の西の空だった気もするし、明け方だった気もする。どっちだったかは、もう曖昧なんだ。でも尾が二本あったのは覚えてる。片方が白くて、片方が青くて、根元でくっついてた」
「肉眼で?」
「肉眼で。望遠鏡なんかいらなかった。ただ空を見上げれば、そこにいた」
ユキは、その空を想像しようとした。
できなかった。
星のある空に、二本の尾を引いた彗星がいる。そんな空を、ユキは一度も見たことがない。
「その彗星の名前は?」
「あるよ。見つけた観測所の名前がついてる」ハルは少し笑った。
「二か所で別々に見つけたから、名前が二つ繋がってる。長い名前だ」
「今でも来るの?」
「来ない。周期が長すぎる。次は八万年後だと言われてた」
「八万年かー」
「八万年」
「八万年ですか」
「そう八万年」
四人で、暗い東の空を見ていた。
ハルが見たものを、ここにいる誰も見られない。八万年待っても、誰も。ハルだけが持っている。六歳の記憶の中に、二本の尾。
それは、ハルが星のある空を知っている、ということでもあった。
「ずるいね」
「何が?」
「ハルだけ、見たことあるの」
ハルが少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「ずるいな。確かに」
★★★
「でもさ、こっちのは、また来るんでしょ」
「フィンレー? 来るよ。六年半後にまた近日点を通る」
「六年半後っていうと」
「二〇五四年の春先かな」
ユキは指を折った。二〇五四年。壁を全部開ける予定より、後だ。たぶん。
「その時さ」
「うん」
「星、あるよね?」
ハルが黙った。
ダイチもタキも黙った。
「あるよ」とハルが言った。
「じゃあ、また四人で見よう。同じ望遠鏡で。同じ地味な染みを」
「地味って言うなよ」
「地味じゃん」
「地味だな」
「地味ですね」
ハルが笑った。
「三対一か」
四人で、少し笑った。
★★★
東の空が、ゆっくりと白み始めた。
望遠鏡の視野の中で、綿毛みたいな染みが、朝の光に溶けて、見えなくなっていった。
「終わり」とハルが言った。
「日が昇る」
四人とも、しばらく東を見ていた。
「見ました」とタキが言った。静かに。
「やっと見られました。一緒に……」
その声に、二ヶ月分の何かが混じっていた。
ユキはそれに気づいたけど、何も言わなかった。タキが見られてよかった。それで十分だった。
「写真、撮れた?」とユキ。
「撮った」とダイチ。
「露出を重ねた。尾も写ってるはずだ」
「六年半後のと、比べようね」
「比べる」
朝の光が、屋上を照らした。四人の影が、長く伸びた。
星はまだ、ない。
でも地味な彗星が来て、四人で見て、朝が来た。
「帰ろっか」
「寝て、起きたら、またケフェウス座」
「進める」
エレベーターで降りた。
朝の池袋。始発の電車の音が聞こえる。
「眠いです」とタキが言った。めずらしく。
「自分も」
「じゃあ、うちも」
「徹夜だからな」とハル。
「ハクは? 今どう?」
『日の出まで、あと二分』
ハクだけが眠くない。
四人とも、少し笑った。
外に出ると、夏の朝の光が白かった。
太陽だけの空が、青く、広く、広がっていた。
その空のどこかに、さっきまで彗星がいた。
もう見えない。
でも、いた。
六年半後にも、いる。
ユキは、見えなくなった東の空を、もう一度だけ振り返った。