ロスト・コズミック   作:シグワン

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第5話 イータ星の重さ

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LC-071-H/arieSta

2045.12.02-Sat 11:20

Location : 中野区 東京都

MoonAge : 23.2

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 η(イータ)星のクリスタルを機構が管理するこぐま座の石版(原盤《マスターピース》)に収めたのは、三週間後のことだった。

 

 こぐま座のη(イータ)星は五等星であり、ポラリスより十数倍暗い星だが、石版が必要としているのは明るさじゃなく、その星だけが持つ光の色という仮説。それは何百万年も燃え続けた星の指紋みたいなもの。

 

 石版は思ったより大きかった。ハルは珈琲を一口飲んでから、三十センチの宇宙の縮図に目を落とした。

 

 海底から引き揚げられたこぐま座原盤は、縦横それぞれ三十センチほどの黒い板で、表面に七つのくぼみが精密に刻まれていた。くぼみの配置は実際のこぐま座の星の位置を縮小したもので、ポラリス(北極星・α(アルファ)星)を中心に、β(ベータ)星、γ(ガンマ)星、そしてη(イータ)星などのくぼみが丁寧に配置されている。

 

「数万分の一の縮尺だ。くぼみの深さも、星の等級に合わせて違ってる。明るい星のくぼみは深い」とダイチが板の前にしゃがんで言った。

 

 ユキは石版を指先でなぞった。くぼみの縁がざらついて、爪に引っかかる。

 

 ——なんか、覚えがある。

 

 この感じ。くぼみに指が落ちる感触。湘南で拾ったあの板。リュックの底に眠ってるやつ。全然違うけど。あっちは灰色でボロボロで、海の匂いがした。こっちは黒くて精密で、研究施設の蛍光灯の下にある。

 

 でもなんか。

 

「ユキ?」とダイチ。

 

「ん。なんでもない」

 

 ふと、石版を裏返してみた。右下の隅に、小さな刻印があった。数字に見える文字が二文字、横に並んでいる。

 

 88

 あるいは、

 ♾️

 ♾️

 

「これ何」

 

 ハルが覗き込んだ。

 

「ああ、それ。機構も意味がわからないまま放置してるやつだ。ロット番号じゃないかって言う人もいるけど、確証はない」

 

 ユキは刻印を親指でなぞった。くぼみと同じ精密さだった。

 

「誰が最初にこれ作ったんだろ」

 

「わかってない。石版が最初に見つかったのは九年前、スウェーデンの研究者が海底から引き上げた遺物の中に混じってたらしくて。最初は誰も意味がわからなかった。スタークリスタルとの関係が判明して、機構は作り直せないまま、この原盤をそのまま使ってる」とハルが答えた。

 

「海底」

 

「古いものじゃないはずなんだ。素材の分析では暗黒星雲出現の前後に製造されたものと推定されてる。でも誰が、何の目的で作って、なぜ海底にあったのかは謎のままだよ」

 

 ユキはくぼみの一つに指先を当てた。

 

 なめらかな凹面。精密な加工。

 

「暗黒星雲を張った存在と、石版を作った存在が同じだったりして」

 

「その可能性は機構でも議論されてる。幕を張った何かが、同時に幕を取り除く方法も残していったとしたら……。まあ、証拠はないけどね」とハルは言った。

 

「ロマンはあるね」

 

「そう、ロマンはある」とハルは笑った。

 

 ハルは少し声のトーンを落として言った。

 

「ただ、一つだけ。スタークリスタルの蓄積光は有限。使わなくても、ごく少しずつ漏れてる。永遠に持つわけじゃない」

 

「どのくらい持つの」

 

「わからない。まだ誰も正確には測れてない。でも、急がない理由にはならない」

 

 田中がケースを持ってきた。中にはこぐま座の残りのスタークリスタルが並んでいた。ポラリスに対応するα(アルファ)星のクリスタルを筆頭に、各星のくぼみに合わせて慎重に配置していく。

 

 残りは、ユキが持ってきたη(イータ)星のクリスタル。

 

 ダイチから手渡されたそれは、薄い青みがかった石英で、内部に細かい亀裂が走っていた。どこも指さなかった時期が長かったクリスタル。湘南の砂浜でハズレだと思っていた石。

 

「ご自分で入れますか?」と田中が聞いた。

 

「うちがやります」

 

 田中が頷いた。

 

 ユキはη(イータ)星のクリスタルをくぼみに合わせてそっと置く。

 

 何も起きなかった。昼間だから当然だ。星蛍光(せいけいこう)は夜の外じゃないと光らない。でも石版はこれで完成した。七つのうち七つが、今、埋まった。

 

「形としては完成。ただ、三個は出力が基準ぎりぎりだ。次の照射までに、交換できる個体が見つかれば替えたい」とダイチが言った。

 

 村上が静かに拍手をした。研究員たちも続いた。

 

 ユキは石版を見ていた。

 

 七つのクリスタルが並んだ黒い板。これが増幅施設に運ばれて、次の照射セッションで光の柱になる。その光が一光年先の幕に届いて、こぐま座の領域に穴を開けるはずだ。

 

 答えが出るのは二年後だ。

 

「ユキ。どんな顔してんの」とハルが隣で言った。

 

「普通の顔」

 

「泣きそうな顔だよ」

 

「してない」

 

「してるよ」とダイチが言った。

 

 ハルと同じことを言うのに、こちらは断言だった。

 

「うるさい二人とも」

 

 ユキは立ち上がって、石版から視線を外した。目が少し熱い。施設の乾燥した空気のせいだと思うことにした。

 

 その夜、マルイチに戻ってから──三〇一号室をユキが前に勝手にそう呼び始めていた──

 

 ダイチがタブレットを持ってきた。

 

「次の候補、出た」

 

 画面には星座の一覧が表示されていた。こぐま座の隣に位置する星座、りゅう座(Draco)だ。

 

「こぐま座の次はりゅう座が自然だ。北天で隣接してる。座標の基準が定まれば、そのまま展開できる」とダイチは言った。

 

「りゅう座か。主要星が十六、一番明るいγ(ガンマ)星が二等星。こぐま座より主要星が多いね」とハルが呟いた。

 

「石版ってどうなるの?」

 

「機構が設計中だと思う。でも」とダイチが続ける。「自分たちが先に動いていい。クリスタルの採集、次の新月までに始めたい」

 

「ハル。どこで採れそうかわかる?」

 

「りゅう座は北天だから、北海道か北ヨーロッパが効率いい。スカンジナビア半島に個人のハンターのネットワークがある。連絡取ってみるよ。あっちは白夜(びゃくや)の時期を避ければ新月セッションもやりやすい」

 

「北海道行きたい。採石ルート、心当たりあるし」

 

「決まりだな」とダイチ。

 

 ユキのポケットの中で、指がクリスタルに触れた。

 

 窓の外の夜空に、木星が白く光っていた。

 

 惑星だけの空。

 

 でも今夜は少し違って見えた。

 

 北の暗闇に、見えないりゅう座がある。電波望遠鏡の観測データの中に、γ(ガンマ)星の存在が確認されている。見えないだけで、ある。

 

「りゅう座、晴らそうね」

 

 二人が頷いた。

 

 木星は、静かに輝き続けていた。

 

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