転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
けど、あの性格だからなあ、きっと時間はかかったハズ、という解釈から、この形になりました。
「最近」
「うん」
「外から呼んだ人と、毎日会ってるそうね」
お茶を飲んでいた。危なかった。もう少しで噴いた。
「誰から聞いたの?」
「誰でもいいでしょう」
「調べた?」
「調べてないわ」
「本当に?」
「少ししか」
「調べてるじゃん」
「カイエンが教えないからでしょう!」
「聞かれてないし」
「聞かれる前に言いなさい!」
無茶だ。でも、この人はいつも本気でそう思っている。
「ビスケット=クルーガー」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「プロハンター。石を探す人」
ちゃんと調べてる。
「何を習ってるの?」
「いろいろ」
「何?」
「いろいろ」
「カイエン」
「何?」
「隠してる?」
「契約内容だから」
姉さんの目が細くなった。
まずい。
これは、まずい言い方だった。姉さんが引っかかるのは、内容そのものではない。自分の知らないところに、自分の入れない場所ができていることだ。それを「契約」という言葉で線引きされるのが、たぶん一番よくない。
「カミィに?」
「姉さんだけじゃないよ」
「カミィにも?」
「一応」
「どうして?」
「どうしてって」
「カイエンはカミィの弟でしょう?」
出た。
「それと契約は別じゃない?」
「別じゃないわ」
「別だよ」
「別じゃない!」
駄目だ。
「会う」
「やめた方がいいと思う」
「どうして?」
「先生だから」
「だから会うのよ」
「……そうなるよね」
こうなると、もう予定の話しか残らない。
「明日」
「姉さん、公務でしょ」
「じゃあ明後日」
「俺がいない」
「その次!」
もう止まらない。こういう時、姉さんは止まらない。
◆
数日後。
その時、俺は動けなかった。正確には、動いてはいけなかった。
「腰落とさない」
「はい」
「肩の力抜いて」
「はい」
「あと四十秒」
《纏》を維持したまま、片脚で立つ。
単純。ものすごく単純。そして、ものすごく嫌な課題だった。
「カイエン」
声がした。反射的に顔を向けかける。
額を、指で戻された。
「前」
「はい」
「カイエン」
「姉さん、ちょっと待って」
「何で?」
「今、途中」
「止めればいいでしょう」
「先生?」
「あと三十秒」
ビスケは俺だけを見ていた。
「聞こえなかった?」
「聞こえてるよ」
「そうじゃないわ」
足が震える。今、喧嘩しないでほしい。
「あなた」
姉さんの声が、俺の向こうへ飛ぶ。
「この子を止めなさい」
「あら」
そこで初めて、ビスケが姉さんを見た。
笑った。
「ごめんなさいね。今、途中なの」
「カミィを待たせるの?」
「あと二十秒だけ」
「どうして?」
「ここで止めたら、この子のためにならないもの」
「カイエン」
「俺に振らないで」
膝から下が、もう自分のものではない。
「十秒」
「カイエン!」
「はい!」
「返事する相手違う!」
「姉さん、今無理!」
「三、二、一。はい、終わり」
足を下ろす。
痛い。ものすごく痛い。
「姉さん」
「遅い!」
「三十秒くらいじゃん」
「カミィを待たせた!」
「ごめん」
俺は息を吐く。それから、二人を見た。
とうとう、会ってしまった。
◆
姉さんが先にビスケを見る。
顔。
服。
髪。
上から下まで。
隠す気もない。
「あなただったのね」
ビスケはにこにこしている。
「初めまして。ビスケット=クルーガーよ。ビスケって呼んでね」
「カミーラよ」
「知ってるわ。第二王子様でしょう?」
「そうよ」
姉さんがまた、じっと見る。
「思っていたより小さいのね」
「あら。そう見える?」
「見えるわ」
「よく言われるの」
笑顔。声も柔らかい。俺には分かる。別に、機嫌がいいわけではない。
「この人が先生?」
「うん」
「何の?」
「いろいろ」
「またそれ?」
「本当にいろいろなんだって」
姉さんがビスケを見る。
「カイエンに何を教えているの?」
「あら」
笑顔のまま。
「契約内容を第三者には話さないことになってるの」
「カミィは第三者じゃないわ」
「契約ではそうなるわね」
「姉よ」
「そうね」
「ならいいでしょう?」
「よくないわね」
姉さんの眉が少しだけ動いた。
「どうして?」
「アタシが契約してるのはカイエンだから」
「じゃあ」
嫌な予感。
「カミィとも契約しなさい」
来た。
「お断りするわ」
早い。
姉さんが止まった。この人が言葉に詰まるのは珍しい。欲しいと言って断られた経験が、たぶん、あまりない。
「……何で?」
「一年間、この子を見る契約だもの」
「カミィも一緒に見ればいいでしょう?」
「嫌よ」
「お金なら払えるわ」
「そうでしょうね」
「宝石も」
一瞬。本当に一瞬だけ、ビスケの視線が俺へ来た。
「先生」
「何よ」
「今、ちょっと揺れた?」
「揺れてないわよ」
危ない。
「とにかく」
ビスケが姉さんへ戻る。
「追加の弟子を取る契約じゃないの」
「カミィは弟子じゃないわ」
「じゃあ、なおさら教える理由がないわね」
「カイエン!」
「俺に言わないで」
「何でこんな人を呼んだのよ!」
「いい先生だから」
「カミィの言うこと聞かないわ!」
「そこも含めて」
「カイエン!」
睨まれた。でも、ビスケは笑ったまま一歩も引かなかった。姉さんも帰らなかった。俺は、その真ん中で片脚の痛みに耐えていた。
ビスケの理屈は正しい。一年ぶんの時間を売った相手は俺で、それ以上でも以下でもない。
姉さんが腹を立てる理由も、俺には分かる。この人にとって、俺は昔から自分の側にいるものだった。その俺が、勝手に外から人を呼んで、勝手に何かを教わっている。説明もしない。
黙っていたことは、謝るべきだと思う。
でも。
それと、先生を差し出すことは別だ。
姉さんが腹を立てるのは分かる。だからといって、姉さんが欲しがったものを全部渡していい理由にはならない。
◆
「じゃあ、見てる」
「姉さん?」
「見るだけならいいでしょう?」
「先生」
「邪魔しないなら、アタシは構わないわよ」
「本当に?」
「追い払うのも面倒だもの」
姉さんが勝った顔をする。
「ただし」
ビスケが人差し指を立てた。
「口を出さない」
「何で?」
「邪魔だから」
姉さんが何か言いかけて、やめた。
「途中で止めろと言わない」
腕を組む。
「退屈でも騒がない」
目を逸らした。
三つ並べられて、三つとも自分ができそうにないと分かったのだと思う。
「できる?」
「できるわ!」
嫌な予感。
するなあ。
◆
三十分後。
「つまらない!」
「姉さん」
「ずっと同じことしてるじゃない!」
「騒がないって言ったでしょう?」
ビスケは振り向きもしない。
「何なのよ、それ!」
「教えない」
「何で!?」
「契約」
「ケチ!」
「そうね」
「カイエン!」
「だから俺に振らないで」
帰った。ものすごく怒って。
二日後、また来た。
「何してるの?」
「基礎」
「また?」
「また」
「昨日も?」
「昨日も」
「明日も?」
「多分」
姉さんが、信じられないものを見る顔をした。
「つまらなくない?」
「別に」
「変」
「そう?」
「変よ」
しばらく見ていた。その日も、途中で帰った。
◆
それから、時々、姉さんが混ざるようになった。正確には、勝手に混ざった。
最初は身体の基礎。
走る。
止まる。
姿勢。
足運び。
呼吸。
「何でこれをカミィまでやるのよ!」
「姉さんがやるって言ったんじゃん」
「もっと面白いの!」
「ないよ」
「嘘!」
「ないわよ」
ビスケまで言った。
「まず自分の身体をまともに使いなさい」
「使えてるわ!」
「じゃ、そこから動かないで」
「簡単よ!」
三秒後。
転んだ。
「カイエン!」
「俺、何もしてない!」
「笑った!」
「笑ってない!」
「顔が笑ってる!」
怒って帰った。それから一週間、来なかった。
◆
その一週間、カミーラは中庭へ近づかなかった。行く理由がないからで、あそこには、同じことばかり繰り返している弟と、王子の言うことを聞かない小さな女がいるだけだ。
つまらない。本当に、つまらない。
だから行かない、とカミーラは決めていた。
ただ、廊下の窓は別だった。中庭に面した回廊は、カミーラの部屋から食堂へ向かう道の途中にあるのだから、通るのは仕方がないし、通るついでに目に入るのも、仕方がない。
カイエンは、いつも同じ場所にいて、同じ時間に、同じ姿勢で、同じことをしている。小さな女が何か言うとカイエンが直し、また何か言われて、また直す。
見ていて何が面白いのか、まったく分からなかった。
それなのに、足が止まる。
「カミーラ様、お時間が」
「知ってるわ」
歩き出す。
三歩で、また止まる。
「……ねえ」
「はい」
「あれ、何日やってるの?」
「カイエン殿下でございますか?」
「他に誰がいるのよ」
「私どもの存じ上げる限りでは、随分と前から……」
「随分?」
「はい」
「何年も?」
「おそらくは」
知っている。昔から知っている。庭で走っていた頃からずっと、この弟はそうで、自分が飽きても、怒って帰っても、次の日には同じ場所にいた。
あの頃は、それを腹立たしいと思っていたし、今も腹立たしい。
腹立たしいのだが。
「……つまらない」
口に出してみても、何も解決しなかった。
◆
次の週。
「今日は何するの?」
いた。
「姉さん」
「何よ」
「来たんだ」
「来たわよ」
「そう」
「何?」
「別に」
昔から、姉さんはこうだった。
嫌ならやめる。
腹を立てたら帰る。
もう絶対やらないと言う。
でも、何日かすると自分で戻ってくる。だから俺も、迎えには行かない。
「じゃあ走る?」
「嫌」
「今日は走らない日」
「じゃあやる」
「どういう基準?」
俺にも分からない。
◆
身体の基礎に混ざるようになってから、姉さんにも念へ触れるための入口だけは教え始めた。
といっても、座る。
呼吸を整える。
身体の内側へ意識を向ける。
そこまでだ。
それ以前に教えなかったのは、教える機会がなかったからでもあるし、教えたくなかったからでもある。俺自身が独学だったから、それ以上を人に教えるのが怖かった。まして、外から無理矢理精孔を開く方法なんて論外だ。あれは相手の身体を壊しかねない。
姉さんで試すわけがない。だから、自然に、自分で開けるのを待った。
問題は、姉さんだった。
「まだ?」
「まだ」
「何も起きない」
「すぐ起きるとは言ってない」
「カイエンは?」
「三日」
「じゃあカミィも三日」
「姉さん、三日連続でやらないじゃん」
「忙しいのよ!」
「それは本当だけど」
本当に忙しい。姉さんだけじゃない。俺もだ。
今日は姉さんが外交関係の席。明日は俺が国内視察。その次の日は、二人とも王宮にいても時間が合わない。
ようやく合ったと思ったら。
「つまらない」
十分で姉さんが帰る。これで進む方が不思議だと思う。ビスケが来てからも、そこは変わらなかった。
「目閉じて」
「閉じた」
「呼吸」
「してる」
「内側」
「見えない」
姉さんの眉が寄る。
「見るんじゃなくて感じる」
「何を?」
「それを探してるんだって」
「分かりにくい!」
「俺も誰にも教わってないんだから仕方ないだろ!」
助けを求める先を、姉さんは間違えない。
「先生!」
「何?」
「教えなさい!」
「契約外」
「ケチ!」
「何度目よ、それ」
ビスケは、姉さんに新しいことを教えない。でも、俺が教えている内容が危なければ止める。
間違っていれば。
「そこは違う」
と俺へ言う。
姉さんではなく、俺へ。
「坊や。呼吸を意識させすぎ」
「え?」
「それじゃ呼吸の方に集中が行くでしょう」
「あ」
「自分ができた方法を、そのまま人に押しつけない」
「はい」
「カミーラ。今の忘れて」
「カイエン、下手!」
「うるさいな!」
結果、俺の勉強にもなった。人に教えるというのは、自分が分かっていることを渡す作業ではないらしい。相手が何につまずいているかを、こちらが探す作業だ。
◆
それでも姉さんは続かなかった。というより、続いたり続かなかったりした。
三日来る。
十日来ない。
一回だけやる。
次は二週間後。
公務。
機嫌。
退屈。
俺の予定。
姉さんの予定。
全部が綺麗に邪魔をする。だから、姉さんが初めて本格的に念へ触れるまでには、それなりに時間がかかった。
◆
ある日。
姉さんは珍しく静かだった。目を閉じて座っている。俺は少し離れた場所で《纏》の調整。ビスケは俺の肩の偏りを見ていた。
「右」
「はい」
「違う。戻しすぎ」
「はい」
「姉さん?」
返事がない。珍しい。
「姉さん」
「ちょっと」
ビスケの声。
「今、声かけない」
低い。俺は口を閉じた。
見る。
姉さん。
何も変わらない。
いや。
薄い。
本当に薄い。
でも、出ている。
姉さんの身体から、オーラが漏れている。
◆
「……何これ」
姉さんが目を開けた。自分の手を見る。
「カイエン」
「動かないで」
「何で?」
「今、精孔が開いてる」
「できた?」
「開いただけ」
「できたのね?」
「だから、まだ――」
「カミィできた!」
「話聞いて!」
オーラが漏れている。喜んでる場合じゃない。
「先生」
「坊や」
「はい」
「アンタが教えなさい」
「俺?」
「今まで教えてたの、アンタでしょ?」
「そうですけど」
「アタシは間違ってたら止める。それだけ」
「はい」
押しつけられた。
「何をこそこそ話してるのよ!」
「姉さん」
「何!」
「今から纏をやる」
「それが念?」
「念の基礎」
姉さんの目が光った。
「もっとすごいのは?」
「今はない」
「絶対あるでしょう!」
「あるけど教えない!」
「何で!?」
「順番!」
「カイエン!」
「いいから聞いて!」
姉さんが不満そうに黙った。
奇跡だ。
「身体から出てるの、分かる?」
「分かる」
「外へ逃がさない」
「どうやって?」
「身体の周りに留める」
「だから、どうやって?」
「感覚」
自分でも駄目な説明だと思う。
「説明になってない!」
「俺もそう思う!」
「坊や」
「はい」
「慌てない」
「はい」
深呼吸。俺が落ち着く。
「姉さん」
「何よ」
「最初から」
自分の《纏》を意識する。
「出てるものを止めようとしなくていい」
「さっき留めろって言ったじゃない」
「止めるんじゃなくて、身体の周りに置いておく感じ」
「分からない」
「俺も最初分からなかった」
「カイエンはできるじゃない」
「今はね」
姉さんが俺を見る。それから自分の手。
目を閉じる。
呼吸。
オーラが散る。
寄る。
また散る。
「違う」
「分かってる!」
「いや、今のは俺じゃない」
「じゃあ誰よ!」
「先生」
ビスケが、姉さんではなく俺を見る。
「坊や。肩」
「あ」
「自分まで崩してどうすんの」
「はい」
「カイエン!」
「姉さんも集中して!」
「してる!」
大変だ。
◆
姉さんの《纏》は下手だった。当然だ。今、初めてやった。
外へ逃げる。
偏る。
薄い。
崩れる。
「姉さん、そこ」
「どこ?」
「肩」
「分からない!」
「一回崩して」
「嫌よ! 今できてる!」
「できてない!」
「できてる!」
声が重なる。
「坊や」
「はい」
「一回、何も言わないで」
「はい」
黙る。姉さんが自分でやる。
崩れる。
眉を寄せる。
もう一度。
さっきと少し違う。
もう一度。
また違う。
俺には、何が違うか分かった。
良くなっている。
少しずつ。
確実に。
誰にも直されていないのに、自分で寄せていっている。
俺がそれをやるのに、どれだけかかったか。
「……へえ」
ビスケが初めて、姉さんを見てそう言った。
「何よ」
「別に」
「今、何か言ったでしょう」
「気にしなくていいわ」
「気になる!」
「集中」
「カイエン!」
「俺じゃない!」
また崩れた。
◆
その日は、当然、長くは続けなかった。初めて精孔が開いた。初めて《纏》へ触れた。
それだけだ。
「今日は終わり」
俺が言う。
「まだできるわ」
「駄目」
「何で?」
「疲れてるから」
「疲れてない」
「疲れてる」
「疲れてない!」
「帰ったら寝るよ、多分」
「寝ないわ!」
絶対寝る。
「明日は?」
「姉さんの予定次第」
「カミィは来るわ」
「公務あるでしょ」
「終わったら来る」
「俺がいないかも」
姉さんが止まる。
「どこ行くの?」
「俺にも公務あるから」
「やめなさい」
「無理」
「じゃあ早く帰ってきなさい」
「努力します」
「絶対よ」
「はい」
そこまで言って、姉さんはようやく帰った。
◆
扉が閉じる。静かになった。
「先生」
「何?」
「どうでした?」
「何が?」
「姉さん」
「何が聞きたいの?」
「才能」
ビスケが俺を見る。
「気になる?」
「俺が三日だったから」
「そうねえ」
少し考える。
「今日だけ見れば?」
「はい」
「化け物寄り」
やっぱり。
「特に?」
「感覚」
ビスケが自分の腕を指で叩く。
「最初の纏なんて下手で当たり前。でも、崩した後の修正が速い。一回身体で掴んだものを、次に持ってくるのも上手い」
「オーラの量は?」
「今判断することじゃない」
「ですよね」
「覚えたばっかりの子を、量だけ見て強い弱いなんて言うほど単純じゃないわよ」
「はい」
「ただ」
「ただ?」
「素質はある」
ビスケが、姉さんが出ていった扉を見る。
「かなりね」
嬉しい。
少し。
それから。
「やっぱり俺たちの家って、変なのかな」
「何?」
「俺も早かった。姉さんも、あれだけまともに続けてないのにこれでしょう?」
「それだけで家系まで話広げるのは早いわね」
「ですよね」
「アンタの兄弟、他にもいるんでしょ?」
「いっぱい」
指では足りない。
「じゃ、全員見てから悩みなさい」
「それはちょっと」
「何よ」
「怖い」
「何が?」
「全員そうだったら」
ビスケが俺を見る。
「アンタ」
「はい」
「時々、十三歳とは思えない顔するわね」
「王子なので」
「便利ね、その言葉」
「結構」
◆
「それより」
「はい?」
「アンタの方」
「俺?」
「発」
「まだ作りません」
「即答ね」
「必要なものが見えてないので」
「そう」
ビスケが俺の肩を叩く。
「じゃあ纏」
「はい」
「右肩」
「はい」
「絶への切り替え」
「はい」
「練も最初から」
「はい」
まだ増える。
「足運びも」
「はい」
「今日もう結構やったんですけど」
「だから?」
「やります」
「……そういうところよ」
「何が?」
「何でもない」
また変な顔をされた。
◆
その夜、カミーラは寝室で一人、床に座っていた。寝るつもりはなかったし、あの弟は「帰ったら寝る」などと言っていたが、冗談ではない。
王になるカミィが、弟の予想通りに眠ってやる義理はどこにもない。
目を閉じる。
呼吸を整える。
身体から出ているものを、身体の周りに置く。
――置く、というのが、そもそも分からない。
昼間はできた。できたはずだ。それなのに、あの時と同じようにやっているのに、同じにならない。
散る。
寄る。
また散る。
「……何なのよ」
誰にも聞かれていない場所で、初めて素直な声が出た。
棚の上で、黒くて丸くて不格好な猫が笑っている。ずっと昔、あの弟が外国から持って帰ってきたものだ。
名前は、まだ決めていない。
「あなたはいいわね」
猫は何も言わない。もう一度、目を閉じる。
呼吸。
置く。
散る。
置く。
少しだけ、留まった気がしたが、気がしただけかもしれない。それでも、もう一度やった。
次に気がついた時には、朝だった。床の上で丸くなって眠っていた自分に気づいて、カミーラはしばらく動かなかった。
「……言わなければいいのよ」
言わなかった。
◆
姉さんは来なかった。公務だった。俺も午後から外へ出る。朝、いつもの場所で、ビスケからその日の課題を受ける。
「移動中は纏」
「はい」
「絶は安全を確保できた場所だけ」
「はい」
「十五分二回」
「昨日は三回でした」
「今日の仕事長いでしょ」
数が一つ減っている。
「分かるの?」
「予定表くらい見るわよ」
「先生っぽい」
「先生よ!」
「はい」
課題はまだ続く。
「あと、帰ったら足運び」
「はい」
「昨日の続き」
「はい」
「姉さんが来たら?」
ビスケが俺を見る。
「何でアタシに聞くのよ」
「一応」
「アタシはアンタの先生」
「はい」
「あの子には、契約の範囲を超えて新しいことは教えない」
「はい」
「目の前で纏が崩れてたら?」
「それは?」
「見てて気持ち悪いから直す」
笑った。
「先生」
「何よ」
「姉さんのこと、ちょっと気に入った?」
「調子乗らない」
「はい」
怒られた。
◆
俺はその日も基礎をやった。
昨日できたことを今日も。
今日できたことを明日も。
その繰り返しの合間に、時々、姉さんが混ざる。混ざったと思えば消える。消えたと思えば、何事もなかった顔で座っている。こちらの都合など、いっさい考えていない。昔からそうだった。たぶん、これからもそうだと思う。
それでいい。
俺は俺で続ければいい。姉さんは姉さんで、戻ってきたい時に戻ってくればいい。
迎えには行かない。
行かないが、いつも同じ場所にいる。
それだけは、決めている。
この一年が終われば、先生は行ってしまう。契約とはそういうものだし、俺からそれを延ばすつもりもない。
でも、教わったものは残る。残ったものを毎日続けるのは、契約とは関係のない話だ。
少なくとも今は、それで十分だった。
明日は、ウマ娘側の更新を予定しているのでお休みです。
そちらは、また別な赴きで連載してきた作品なので楽しんでいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。