『葛城』をやっています。VTuberってなんですか? 作:とくめい
ホテルを出て最初に立ち寄ったコンビニで、結衣はたまごサンドとカフェラテを買った。
まだ六時前だった。
自動ドアが開くたび、山から下りてきた冷たい空気が足首を撫でていく。
レジの前には長距離の運転手らしい男が二人、無言でおにぎりの棚を眺めていた。深夜の気怠さと、朝の冷気が混ざり合う独特の空気感。
だが、戒がレジへ持っていったのは、ブラックコーヒー一本だけだった。
その時から気になっていたらしい。
車が国道へ出て五分もしないうちに、運転している戒へ向けて助手席から声が飛んできた。
「戒さん、朝ごはん食べないんですか?」
「朝はあんまり食わないな」
「昨日の夜も、あまり食べてませんでしたよね?」
「…………」
二人のあいだに、奇妙な沈黙が落ちた。
フロントガラスの向こう、対向車線を朝いちばんの配送トラックが一台、水飛沫を上げてすれ違っていく。
戒はハンドルから目を離さず、ただ短く息を吐いた。
「……怪異と対峙する時は別だ。腹の底に俗世の食べ物が詰まっていると、彼岸との境界が鈍る。それに、運転する前に腹いっぱい食うと眠くなるからな」
「これから怪異を祓いに行く人が、そんな理由で大丈夫なんですか」
結衣はドリンクホルダーの缶コーヒーを指で押した。
「コーヒーだけじゃ、栄養は取れませんよ」
「コーヒーは眠気覚まし用だ」
欠伸を噛み殺しながら答える戒の目の下には、うっすらと隈が浮いていた。
結衣ははっとする。
身体を洗うときも近くで待機してくれていたように、自分が眠っている間も、戒は眠らずに見守ってくれていたのかも知れない──そう考えると、自分だけ呑気に朝食をとっていることが、少し申し訳ない気持ちになった。
とはいえ、戒は食事をとらなくても良いのだろうが、結衣の方は別である。
昨夜のホテルでの一件以来、極度の緊張が和らいだことで、ようやく食事が喉を通るようになっていた。
──これから向かう先にあるのは、自分のちっぽけな想像など容易く蹂躙してくる、人間の理屈が通じない『異常』そのものだ。それならば胃に詰められるものは詰めて心の余裕を確保し、万全を期す以外に、自分が備えるべきことはないように思われた。
ふと、戒が自分を横目で見ていることに結衣は気がつく。
「……何ですか?」
「いや。腹が減っては戦はできない、からな」
「それ、私が図太いって呆れてます?」
「そうじゃない」
戒は静かに首を振る。
「体調の話だ。
戒の意外な言葉に、結衣の咀嚼がピタリと止まった。
「……つわり? 何の話ですか?」
「今回の怪異は『宵月ましろ』を乗っ取り信仰を得たあと、結衣の身体から受肉しようとしている。オカルト的な表現になるが、お前は今、怪異を産み落とすための『母胎』にされている状態だということだ」
あまりに唐突で気味の悪い説明に、結衣は口の中のたまごサンドをカフェラテで無理やり流し込んだ。
戒の横顔に、冗談を言っているような気配はない。不気味な想像が急速に膨らみ、結衣は自らの下腹部へ恐る恐る手を当てた。
「いや……いくら何でも、そんな……。流石に私のお腹に何かがいるなら、自分でも分かると思いますけど……」
恐怖を誤魔化すように、引き攣った声が車内に響く。
戒はすぐには答えなかった。ハンドルを握ったまま、横目で、微かに強張っている結衣の横顔と、下腹部に当てられたその手を、ただ静かに見透かすようにじっと見つめていた。
その沈黙に、結衣の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
数秒の後、戒は視線を前へ戻し、淡々と言った。
「物理的に結衣が腹を痛めて出産するわけじゃない。受肉という事象は、怪異が幽世から現世に顕れるための儀式で、現実の出産を模倣しているだけだ。だから結衣の身体は今、いわば霊的な想像妊娠のような状態にさせられている。まあ、妊娠を想像しているのは怪異の方なんだが」
人が神を想像することによって夢の内側に生み成したように、「それ」は想像によって、胎の内側に人をつくり出す。
「平気なら別にいいさ」
強い朝日にサンバイザーを下ろしつつ、戒は付け加えた。
どうやら、自分の言葉尻や態度から『何か』を疑われたわけではないらしい。そういう話は早めに共有してほしい。抗議の声を飲み込みつつ、しかし結衣は、自分の身に異常が起きていないことに少しだけ安堵した。
このまま水子堂の件も、大した波乱なく終わってほしい。
「……でも、これから私の身に起こることが『出産』を模しているのなら、それは私と、誰の子ということになるんですか」
結衣の問いに対して、
「さあな」
と戒はすげない。
「托卵じゃあるまいし」
という結衣の言葉には、
「案外、そういうものかも知れんな」
と返した。
「気がつかないうちに孕まされているなんてのは、そこまで狂った話じゃない。人間同士だってあり得ることだ。だが……きっかけはあるはずだ」
戒はハンドルを切りながら、前を見据えたまま言った。
「無論、きっかけはある。だが厄介なことに、それが見つかる頃には手遅れなことがほとんどだ。……石ころを蹴っただけで、土着神を産み続けることになった男を知っている」
「石ころ」
「石ころだ。人間には到底理解できないような些細なきっかけで、現実と接続してしまう怪異もいる」
戒は横目でこちらを見た。
「その挿し口になってしまった感想は」
「最悪、です」
「だろうな」
市街地を抜けると、次第に民家が減っていった。
コンビニの看板も、ガソリンスタンドも見えなくなる。代わりに増えていくのは、色の褪せた農業倉庫と、無人の野菜直売所と、朽ちかけた看板ばかりだった。
やがて道路の左右は杉林だけになった。昨夜の雨を含んだ枝葉が、朝の光を鈍く返している。同じ景色が延々と続くせいで、進んでいるのか同じ場所を回っているのか分からなくなってくる。
その間、二人のあいだに会話はなかった。
やがてガードレールが途切れ、舗装が荒れはじめる。タイヤが時折小石を跳ね上げ、車体の底で乾いた音を立てた。
結衣がスマートフォンの画面を点けると、電波の入らない場所のようで、画面の隅に『圏外』の表示が出ていた。指で何度か画面を撫でてみたが、表示は変わらない。
この辺りだ、と戒は言う。
車を停め、エンジンを切る。
タイヤとエアコンの音が消えた途端、それまで一切聞こえていなかった沢の水音が、耳の中へなだれ込んできた。どこか高いところで鳥が数度鳴いて、また静かになる。
急に世界から切り離されたように、自分たちの呼吸の音だけがやけに大きく響いた。
結衣が顔を上げると、道の先に朽ちた門扉が見えた。
昼なのにぞっとするほど光の入らない林道の入口が、まるでこちらを吞み込もうとするかのように、二人へ向けて口を開いていた。
◆
藤沢から聞いていた目印は、拍子抜けするほどそのまま残っていた。
膝まで草に埋もれた古い林道。踏むたびに湿った土がずるりと沈む。途中で欠けたまま放置された石段は、苔がびっしりと生え、足の裏を滑らせた。
片方の柱が沈んで大きく傾いた鳥居は、もはや潜るというより跨ぐような高さになっている。その奥の社殿は屋根が半分落ち、垂木がむき出しのまま雨ざらしになっていた。賽銭箱があったはずの場所には、腐った板きれが数枚転がっているだけだ。
さらにその先へ進むと、不自然に草木の途切れた場所へ出た。
周囲は雨を吸って濃く匂う夏草に覆われているのに、そこだけ、まるで丸く切り抜いたように何も生えていない。赤茶けた土が剥き出しで、雫を落とすものが何もないぶん、空気までひどく乾いて見えた。
「……ここ」
結衣が足を止める。
中央に、コンクリートで作られた地下への入口があった。藤沢が配信の中で語った記憶と同じものだ。
戒は入口の前へしゃがみ、土へ指を触れた。
冷たい。
地面が濡れているだけなら不思議ではない。山の土は昨夜の雨を吸っている。
けれど、指先から手首、肘へと這い上がってくるこの感覚は、水の冷たさとは違った。冷えているのは温度ではなく、もっと内側の、脈が通っているあたりだ。
「いるな。かなり弱ってるけど」
「……それって戒さんのお姉さんのお陰ですか?」
事務所での一件で、戒の姉──葛城朔が入れた横槍について、結衣は聞いていた。戒は頷く。
「姉には千里眼のような能力があってな。祓う対象までの距離を無視できる。今も姉の『視線』は感じる」
「それだけの能力があるんなら、お姉さんに任せても良いんじゃないですか?」
戒の視線が何もないところで留まる。おそらくその『千里眼』の先に、戒の姉がいるのだろうと結衣は思った。
「姉弟の仲が悪いというのは抜きにしても、姉の退魔は本来、国家の存亡に関わる規格の怪異に対して行われるものでな。暗殺のためにミサイルを撃つようなものだ。危険を承知でも、現地にいって根治するのに越したことはない」
おそらく事務所では葛城家に伝わる呪詛で『産道』を拓き、怪異を元いた場所まで押し戻した──そんなところだろうと戒は見当をつけていた。
そのとき、ガサリ、と草むらが動いた。
「……っ」
結衣が反射的に戒の袖を掴んだ。
揺れる草の隙間から、黒く長い脚が一本、伸びてくる。続いて二本。三本。そして、脚の付け根にあたる大きな胴体が、ゆっくりと草をかき分けて姿を現した。
昨夜から何度か顔を出している、あの巨大な蜘蛛だった。
「戒さん……」
「土蜘蛛だ。安心しろ、敵じゃない。少なくとも結衣を食う側じゃない」
戒の言うとおり、土蜘蛛は二人を気にする様子もなく、地下への入口へ向かって歩いていく。そのまま暗い階段の奥へ音もなく消えた。
「……入っていきましたね」
「どうも気になるらしいな。行くぞ」
「はい」
結衣もスマートフォンのライトを点け、慌てて後を追った。
入口をくぐった途端、空気が変わる。草いきれも、湿った土の匂いも、三段と下りないうちに消えてしまった。代わりに下から這い上がってくるのは、冷えた水と黴の匂い、そこへ細く混じる、どこかで肉を腐らせているような、嗅いだあとまで鼻の奥にこびりつく匂いだった。
◆
地下へ続く螺旋階段も、藤沢の話と一致していた。
壁も段も、打ちっぱなしのコンクリートが剥き出しのままだ。手摺は錆びて、ところどころ根元から浮いている。天井から時折、思い出したように大きな滴が落ちてきて、首筋や肩を冷たく叩いた。足元には薄く泥が溜まり、踏みしめるたび靴底で粘つく音を立てる。
結衣は戒のすぐ後ろを歩いていた。手摺には触れていない。何がこびりついているか分からないものに、人はそうそう手を伸ばせない。
懐中電灯の光が壁を舐めるたび、凹凸の影が伸びたり縮んだりしながら後ろへ流れていく。振り返れば、入口の四角い光が下りるほどに小さくなっていくのが分かった。
十段で、切手ほどに。二十段で、爪の先ほどに。そのうち壁の曲がりに隠れて、それも見えなくなった。
怖がっているのは、時々大きくなる息遣いで戒にも分かった。だが、遅れずについてきてはいる。
数分ほど下りたところで、戒の足が止まった。
「……変だな」
「何がですか?」
戒は懐中電灯を壁へ向ける。
光の輪の中に浮かび上がるのは、黒く垂れた水染み。走った亀裂。剥がれ落ちて骨材の覗いたコンクリート。
それだけだった。
「風車がない」
結衣も周囲を見回した。
藤沢の話では、壁も、床も、数え切れないほどの風車で埋め尽くされていたはずだった。暗い地下で、風もないのに何千本もの羽根が回り続けていた。その音に誘われ、藤沢はここへ入った。
しかし実際には、一本もない。
戒は壁へ近づき、指先で表面を確かめる。
何千本もの風車が本当に取り付けられていたなら、全部片付けられたところで何か残る。釘穴。擦った跡。湿気による色の差。
どこにもなかった。
もう一段下りて、もう一度触れる。同じだった。反対側の壁も、床の隙間も。
何十年と誰も手を触れていないコンクリートが、ただ黙って濡れているだけだ。
「ここではないんでしょうか?」
「いや、場所はここで間違いないはずだ」
「じゃあどうして……」
結衣は意味を理解できずにいた。あるはずのものがないのでは、まるでパラドックスのように聞こえる。
「怪異が絡む事件では、怪異は犯人ではあり得ない。どちらかというと、トリックそのものに近い」
戒は独白するように言う。その声は、水気を含んだ地下の空気に低く吸い込まれていった。
「あるいは舞台装置に。密室であったり、完全犯罪のためにあるような機械自体に、怪異の在り様は似る」
戒の言葉に、結衣は思考を整理する。
最初に藤沢と会った夜。怪異は藤沢の娘の声を使ったという。妻の声も。誰の姿を使えば藤沢が動揺するのか、怪異には分かっていた。
もしこの怪異が人間の記憶を読むことができるのなら、転じて頭の中に偽りのイメージを見せることだってできるのかも知れない。まるでビデオメッセージのように。
ただ、それがなぜ風車だったのか。その理由だけが分からない。メッセージならば、そこには伝えたい意図が存在するはずだ。
二人はさらに階段を下りた。
最深部には、小さな空間があった。
思っていたより広くない。八畳ほどだろうか。天井が低く、戒は少し首を竦めなければならなかった。
正面に、古びた祭壇がある。供物を置いたらしい台はとうに割れ、その手前で石碑が崩れかけたまま傾いていた。何が刻まれていたのか、苔と水垢に埋もれて、もう読み取れない。周りには朽ちた木片が散らばっている。柱だったのか、それとも別の何かだったのか。
床には浅く水が張っていた。足を下ろすと波紋が音もなく広がり、壁まで行き、返ってきて、また足に当たる。
その手前に、土蜘蛛がいた。長い脚を広げ、じっと奥を見ている。近づいても、動かなかった。
戒が、蜘蛛の視線の先へライトを向けた。
結衣が小さく息を呑む。
それは一見して、黒い泥の塊のようにも見えた。祭壇の陰で、身を寄せるように蹲っている。
けれど表面には大小いくつもの『目』があった。人のものではない。魚のそれに近い、瞼のない丸い目だ。それが全部、こちらを向いている。まばたきをしない。焦点も合っていない。それでも、確かに見ていた。
向けられる視線の感触は、東京の防音ブースで背中を撫でていったものと、同じだった。
「……小さい」
結衣が呟く。泥の塊の大きさがという意味ではない。その体躯に纏う『力』は、消えゆく火のように小さく弱々しかった。
戒が一歩近づくと、怪異の身体が動いた。逃げるように後ろへずるりと下がる。戒はそこで眉を寄せた。
「
名乗る。
反応は、はっきりしていた。
全身が震え、目という目が一斉に細くなる。塊は水を跳ねさせながら壁のほうへ退がり、石碑にぶつかって、それでも下がろうとした。行き場がないと分かると、今度は床に張りついて、少しでも小さくなろうとする。
戒はしばらく、その様子を見ていた。
――知っている。葛城という名前が何を意味するのか。自分を待ち受ける運命を知っている。
一方で、戒の頭に浮かんだのは、なぜ、という疑問だった。
なぜ、東京で結衣の背後にいた『モノ』は、戒が名乗っても何の反応も示さなかったのか。神道や陰陽道の護符を見せても動じなかったのか。
その時は、格が違いすぎるのだと考えた。強すぎるがゆえに、恐れがないのだと。
「戒さん?」
隣で結衣が心配そうに声をかける。
「……後で話す。今はまず、目の前のものを片付ける」
戒は袖を捲った。右腕に刻まれた朱と黒がゆっくり浮かび上がる。強まる戒の霊力に、怪異は怯えるように逃げようとした。
「悪い。外に出したままにはできない」
戒は一気に距離を詰める。怪異も俊敏だったが、戒は予め動きを想定していたかのように最短距離で怪異に到達した。そのまま頭部──と思わしき箇所を鷲掴みにする。
冷たい、と思ったのは最初の一瞬だけだった。
次の瞬間には、腕が灼けていた。
流れ込んでくる。
まず、土の匂いがした。それから、乾いた音。何千という羽根が一斉に回る音。
──あれは幻ではなかった。かつて、本当にここで鳴っていたのだ。誰かが刺し、誰かが供え、誰かが数えた。
数えきれない小さなものたちの気配。堂に置かれ、名前を呼ばれないまま置かれ、そのうち置かれもしなくなったもの。村があった。人がいた。畏れられていた。名前があった。
黒い身体が崩れ始める。声なき叫びが空間を震撼させ、結衣は思わず耳を塞いだ。泥が戒の腕へ絡みつき、そのまま朱と黒の中へ吸い込まれていく。
抵抗は最初だけだった。激しく暴れることもない。むしろ縋るように、腕へ寄ってくる気配さえあった。腐りかけたものが、ようやく片付けられるときの、あの諦めに似た動き方だ。
時間にして十数秒ほど。最後に床へ残った黒い染みまで消えて、それで終わった。
「……祓ったんですか?」
結衣の問いかけには答えず、戒は手を開いたり閉じたりしていた。
目を閉じ、深呼吸する。再び目を開いたとき、鋭い眼光を結衣の背後に向けた。
「なるほど」
と戒は呟く。
「そういうことか」
その瞬間、結衣のスマートフォンが不意に振動した。圏外にも関わらず通知が来ていた。『宵月ましろ』──生配信の知らせが。
戒の頷きを見て、結衣は震える指で配信アプリを起動した。見慣れた青い瞳の、現実には存在しないもうひとりの結衣。視聴者数は0を示していた。
≪おはよう≫
それは加工された音声ではなく、結衣自身の声だった。
≪結衣ちゃん≫
と、『宵月ましろ』は言った。
「なんで……? 祓われたんじゃないの?」
「俺はずっと勘違いをしていた。さっき祓ったのは、『古い方』だ。この水子堂で古くから祀られていた神を祓った。だが、敵は一人ではなかったんだ」
戒は結衣の端末を指で示す。
「藤沢さんに憑いてきた奴が、結衣に根を張り、宵月ましろを使ってる。ずっとそう思ってた。だが違う。古い怪異は事務所へ枝を伸ばして、新しい怪異を産み落としたんだ」
「あれは、宵月ましろを操っている怪異ではなかった……」
「
結衣は首を横に振る。
「妻が妊娠すると、夫の調子が悪くなる事象を指す。男が産みの苦しみを代行することで、妻の苦しみは軽減されると考える因習も存在するんだ。今回の古い怪異はブラフを成立させるために、ほとんどの怪奇現象を事務所やタレントの周囲で引き起こすことで、あの建物にいた『誰か』を代理母にした」
「代理母……」
「水子堂の古い神は結衣の身体をいたわったんだ。悪阻がなかったのはそのためだ。その苦しみを、もっと相応しい者に代行させたんだ」
藤沢がここから連れてきた怪異は産婆の役割を果たしていた。自分がこの世界に産まれるわけではなく、新しい怪異を産む介助を行っていたのだ。
その怪異は古来から存在していたがために、『葛城』の名やその恐ろしさを理解していた。
対して今しがた誕生しようとしている怪異──宵月ましろへの『信仰』を臍帯から受け取り、結衣を母胎として破ろうとしている胎児に相当するその怪異は、『葛城』の名を知らない。だから戒の名乗りを受けても動じなかった。
まったく未知の、新生の怪異。
≪正解≫
と『宵月ましろ』を乗っ取った怪異が笑う。人の笑い方を、寸分違わず真似ていた。
≪でもまだ途中点かな。代理母の名が抜けているよ。あの事務所にいた者のうち、私は一体誰を代理母にしたと思う?≫
「答えるなよ」
戒は結衣に向けて鋭く警告する。
「これは怪異の問いかけだ。返事をするな。俺の問いにだけ答えるんだ。結衣は──藤沢さんと関係があったんだな?」
結衣の表情が僅かに強張る。瞬時に答えることができないことは、戒にも分かった。
「こんなことを問われるのは嫌だろうな。ただ、こいつと結衣を切り離すには、何から生まれたのかを知らないとまずい」
躊躇い続ける結衣だったが、やがて口元が微かに動いた。
「はい……社長と。一年ほど前まで関係がありました」
「……でも、フェアな関係ではなかったんだな? 結衣は『ちゃんと人を好きになったこともない』と口にした。それに藤沢社長には家族がいる。最初の夜、怪異は奥さんと娘さんの声を使って社長の携帯を鳴らしたからな」
「そのとおりです。奥さんも、娘さんもいるのは知っていました。関係を持つようになったのは、ユニットでの活動に暗雲が立ち込めたときのことです。……最初はただの相談でした」
ファン同士の争い。ユニット内での軋轢。理想と現実の差に苦しむとき、藤沢はいつも話を聞いてくれた。
――結衣ちゃんは悪くない。俺は分かってるよ。君には才能がある。
それは当時の結衣にとって、一番欲しかった言葉だった。相談は仕事が終わった後まで続くようになり、事務所に二人だけ残ることも増えた。
「好きでした。だから……騙されただけだとは思ってないです。それも、思いたくないだけなのかも」
絞り出すような結衣の声が、冷たい石壁に吸い込まれていく。
「俺が何かを咎める立ち位置にあるわけじゃない。……悪質だとは思う。社長が所属タレントに手を出した。しかも相手は、会社や同期のことで弱ってて、自分を頼ってた人間だろ。ただ、結衣が自分で選んだと思ってる部分まで、俺が被害だと決めつける気はない」
≪私、知っているよ。結衣ちゃんも本当は分かっている。藤沢社長が、結衣ちゃんを都合よく利用していたってこと。弱っているところにつけ込んで、自分だけ欲求を満たしていたってこと≫
「お前は黙ってろ」
結衣は大きく息を吸い、感情の波が溢れないようにゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「……昨日の話。キスの」
結衣は自嘲するように、困ったように笑った。
「一回、私からしようとしたんです。避けられました」
――俺には家族がいるから。
身体の関係を持っていながら、あの人はキスだけは頑なに拒んだ。
「今考えると、都合よく使われてただけなんだなって分かりますけど」
戒は何も言わなかった。その身勝手な境界線が藤沢にとって何だったのか。本人にすら分かっていなかったのかもしれない。
「それから……妊娠もしました。社長の子です。発覚したときは、目に映る世界がすべて反転してしまったかのような気分でした」
「……産みたかったのか?」
戒は静かに問う。
冷たい地下の空気に、水滴の落ちる音だけが響いた。
「正直、分かりません」
「............」
「産みたいという気持ちは当然ありました。でも私なんかが母親になれるのかという不安も同じくらいあったんです。だから社長に相談しました。社長は優しく話を聞いてくれました。そして、『結衣のためにもこの子はおろそう』と。私には配信者としての才能があり、そして事務所を支える柱だということを、社長は私に話しました。その子を産んでしまえば、今まで築き上げてきたものがなかったことになる──当時の私には、それがこの世界でただ一つの『正しいもの』に聞こえたんです」
そうして結衣は堕胎を決めた。
人工妊娠中絶の相談を受けた医師は、まだお腹の中の赤ちゃんは『人』として個を形成していないのだと告げた。結衣はその言葉にすがった。
けれど、それは本当にただの言葉に過ぎなかった。胎の中で産まれる日を待っていたその子が、『人』としての在り様を持っていないかどうかなど、結衣には知りようがなかった。
果たして本当に私は、その子の未来を想ってこの決断に至ったのか──。その疑念に囚われたのは最悪なことに、手術を受けたあとだった。
「よく頑張ったね」
手術明け、事務所に戻った結衣を、藤沢は抱きしめた。
だが結衣の心の中では恐ろしいことに、自分は自らの子を殺したのではないかという思いが取り憑き始めていた。
「……あれから、ちょうど一年経ちました。もしあの時、諦めずに産んでいたら……今頃やっと生まれて、数ヶ月。首が据わって、少しずつ笑うようになる頃なんです。街を歩いていると、すれ違う親子を見て、どうしても立ち止まってしまうんです。ベビーカーの中で無邪気に笑っている赤ちゃんや、お母さんと手を繋いで歩く子を見て……。もしあの子がここにいたら、あと何年くらいで、あんなふうに一緒に歩いてたのかなって。私に似て、ゲームばっかりする子になったのかな、とか……」
結衣は小さく笑おうとして、顔を歪めた。ポロポロと、堪えきれなくなった涙がコンクリートの床に落ちる。
「でも今度は逆に、私みたいなのが母親じゃ、かわいそうだったのかなって思うんです。こんな私のところに生まれるくらいなら……生まれない方がよかったのかなって。……分かんないんですよ。だってもう永遠に確かめられないから」
≪確かめられるよ、ママ≫
端末の向こうで『宵月ましろ』が言う。
≪まだ間に合う。ちゃんと結衣ちゃんの子として産まれることができるんだよ。そうすることができるよう、私が神様にお祈りしたから──結衣ちゃんはきちんと『宵月ましろ』という受け皿を用意してくれた。あとは結衣ちゃん自身が私を受け入れてくれれば≫
戒は画面を睨んだ。
藤沢がこの水子堂に迷い込んだ時、彼の中にはすでに「自分のせいで堕ろさせた命」への罪悪感があった。古い怪異はそれを見た。だから風車の幻を見せ、家族の声を使い、藤沢が一番目を逸らしたいものと、一番失いたくないものをまとめて使った。
古い怪異の力、藤沢の後ろめたさ、結衣の後悔、ファンの感情。全部が混ざって生まれた怪異。
『……私は、ましろ』
その時。画面の中の姿が、一瞬だけ小さくなった。
少女より、さらに小さい、幼い影。小さな手が画面の内側から触れてくる。
『……ママ。ママぁ』
生きていれば数ヶ月の乳児であるはずなのに。その声は、たどたどしく言葉を覚えた『幼児の声』だった。
結衣の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。ずっと底に押し込めていたものが、その声に激しく揺さぶられる。
「……あの子?」
「違う!」
戒は鋭い声で言い放った。結衣がすがるように振り返る。
「でも……っ!」
「違うと言ってる。それを、あの子だと思うな」
戒は画面を見下ろした。間違いない。あの中にいるのは、この娘の腹の中にいた命の残滓だ。捨てられた場所から、母親のほうへ手を伸ばしている。
だが。もしあれが自分の子どもだと認めてしまえば、結衣は永遠に暗闇の底へ引きずり込まれる。生きていくためには、あれは「ただのバケモノ」でなければならない。
「こいつは、結衣の中にある後悔を使ってるだけだ」
戒は嘘をついた。
「本当なら、まだ言葉も喋れないはずだろう。なのにお前がさっき『あと何年かで手を繋いで歩けたのかな』と想像したから、こいつはその『もしも』の未来の姿を引っ張り出して、揺さぶっているだけだ。その子が何を思ってたかなんて、誰にも分からない。だから勝手に、恨んでることにするな。思い上がるな」
結衣の唇が震えた。
『ママ』
「返事をするな」
『マ、マぁ……』
結衣は目を閉じた。涙が流れる。それでも、返事はしなかった。
やがて幼い声が消えて、画面にまた宵月ましろが現れる。
≪……ずるい。戒さんがいるから≫
「そうだな」
戒は一歩前へ出た。
≪結衣ちゃん。これでいいの? 私なら、配信のことも、同期のことも、社長のことも、全部代わってあげられる。楽になれるよ≫
今や何万人もの人間が、怪異を宵月ましろと認知している。それでも、結衣だけはまだ認めていなかった。現実と冥界が接続する扉は、あと一枚しかない。画面にノイズが走る。
≪ママ。大丈夫。全部赦してあげるよ。ね? それでいいよね?≫
その瞬間、地面から突き出た巨大な二本の『根』が、結衣と戒をそれぞれ捕らえた。
『根』は二人に強く巻き付き、そのまま宙へ持ち上げる。
結衣の視線の先にあったのは、永遠に停止した成れの果て。泥。その無数の瞳のひとつひとつに、恐怖に歪んだ自分の顔が映っていた。
あまりの力に、結衣は呻き声を上げる。戒も同様だったが、呪詛自体は途切れていない。十分反撃はできると踏んでいた。
しかし『根』は結衣に、かつてないほど深く根付いている。この状態で祓えば、結衣ごと傷つける可能性があった。とはいえ硬直状態を続けていれば、いずれ事態を視ているだろう葛城朔から産道を接続される恐れがある。あの姉が結衣に配慮して祓うなど、期待できるはずもない。
「結衣! 気をしっかり持て! いま祓う」
通常の祓いでは効かずとも、『葛城』の術は別だ。結衣さえもうしばらく耐えきれれば、怪異だけを喰らうことも造作はない。
≪ママ≫
と怪異が声を出す。
≪ママ≫≪ママ≫≪ママ≫≪ママ≫≪ママ≫
声が速くなった。
返事がないからだ。返事がないから、もっと呼ぶ。呼んでも駄目だから、もっと近づく。近づいても届かないから、また呼ぶ。
言葉はそれしか知らないのだろう。ほかに呼び方を教わっていないのだ。
狭い地下に、幼い声だけが重なって反響しはじめた。壁に当たって返り、捻じれて、いくつもの声のように聞こえてくる。まるでここに置かれていったものが、全部いっぺんに呼んでいるみたいだった。
そして、泥の表面から、細い腕が伸びた。
小さかった。結衣の手首ほどの太さもない。
その先の指が、宙に浮いた彼女の脚へ触れようとして──通り抜けた。濡れたスカートの布を揺らすことも、重さを預けることもなく、そのまま向こう側へ出てしまう。
少し行ったところで止まり、しばらく浮いたまま動かなかった。
何が起きたのか分かっていないのだ。
やがて、また戻ってくる。
≪ママ≫
もう一度。掴めない。
掴めないということ自体が分からないのだろう、まったく同じ動きをもう一度した。掴めない。もう一度。掴めない。もう一度。
覚えたばかりの動作を、うまくいくまで繰り返す子どものやり方だった。
うまくいく日が、来ることはないのに。
「……戒さん」
結衣の声が微かに震えていた。
「これ、私を殺しに来てるんじゃないです。抱っこしてって、言ってるんです」
戒は答えられなかった。母親のところへ来ただけのものが、母親を喰い破ろうとしている。こいつに悪意はない。悪意がないまま、この娘を殺す。
「返事をするな。抱くな。触ろうとするな。……一度でも受け入れたら、そいつはお前の内側に入る」
「分かってます」
「分かってない」
「分かってます」
結衣が、こちらを見た。
涙で顔が濡れている。それなのに、目だけが据わっていた。
――ああ。
その時、戒には分かってしまった。この娘は、もう決めている。
理屈で止まる人間の目ではない。呪われた人間が、最後に自分でそちら側へ足を踏み出す時の目だった。
あの時も止められなかった。その前も。
「駄目だ」
声に、力が入らなかった。
「これ、私の責任です。戒さんは止めてくれました。何回も。だから、これは私が勝手にやることです」
言うな、と思った。
言われるほうが、よほど堪える。
≪ママ。わたし──≫
「────ごめんね」
戒が自分の名を叫ぶのが聞こえた。だが結衣はゆっくりと目を開き、『それ』を見て、『それ』を認めた。
その瞬間、水の落ちる音が消えた。地下の空気が、すとんと落ちる。
――渡った。
結衣の視界が暗くなった。
◆
「ましろちゃんはいま、幸せですか?」
ある日の生配信、コメント欄にそういうメッセージが寄せられたことを、結衣は思い出していた。
結衣は、学校で孤立していたことなどが思い返されて、「幸せじゃないと思う」と打ち返そうとした。だが、送信しようとする指が寸前で止まった。
幸せじゃないと感じるのはあくまで結衣であって、「ましろ」は関係がないような気がしたのだ。もちろん「ましろ」は結衣の生き写しであるが、それは共同体よりも主従関係というほうが見合っていた。
この子は生きている。結衣以上の存在には決してなれないとしても。ただの絵でしかないとしても、生きていないなんて根拠は、どこにもないような気がした。
目の前に、その子が立っている。
地下でも、配信画面の中でもない。足元に地面の感触がない。それなのに、結衣はそこに立っていた。
「分かっているのに、どうしてわたしを産んでくれなかったの?」
ましろが結衣に問う。
「どうして分かっていたのに、あなたのことを産まなかったんだろう」
結衣の頬に雫が流れる。手を伸ばした。今度は、液晶の壁はなかった。
けれど、指はやはり触れなかった。この子はある意味で、非存在的で在り続ける生命だった。
「ごめんね。ごめん。私、あなたのこと……名前も、つけてあげられなかった」
呼びたいのに、呼ぶものがない。一年、一度も口にしなかった。考えることすら自分に許さなかったから、そこには最初から何も用意されていない。
「ずっと、考えないようにしてました。忘れたふりして、次の日も配信して。……そうやって一年、経ちました」
涙が顎を伝って落ちた。落ちた先に、床はなかった。
「でも忘れてなかった。毎日、数えてたの。今日で何ヶ月とか、今頃こうしてたのかなとか。……ずっと、ずっと考えてた」
結衣は顔を上げた。ぐしゃぐしゃの顔で、それでもまっすぐに、その子を見る。
「あなたのこと、ちゃんと考えてたよ」
ましろは何も言わなかった。ただ、その輪郭が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。張りつめていたものが解けるみたいに、滲んで、やわらかくなる。
「だからね。あなたは、『宵月ましろ』にはなれないよ」
ましろが、じっとこちらを見ている。
「だってあれは私の過去だから。私が始めて、私がつくり出して、私が捨てて、どうしようもなく取り戻せなくて──それでも私であり続けるものだから。誰にも代理することなんてできない」
誰も周りにいなかった頃。スマートフォンに自分で描いた絵を映し、一人で喋ったあの時から。ましろは結衣であり、結衣はましろだった。
「私はあなたのお母さんにはなれなかった。それは一生、私の罪です。でも、あなたは私になろうとしなくていい。ずっとここにいなくていい」
結衣は両手を、そっと差し出した。
触れられないと分かっていて、それでも、抱くかたちにする。指を軽く曲げて、掌を上に向けて。
赤ん坊の頭を支えるときの、あの形だった。誰に教わったわけでもないのに、身体が覚えている。
小さな掌がひとつ入るくらいの、空っぽの隙間が、彼女の腕の中にできた。
「もう、大丈夫だから。……行っていいよ」
行っていいよ。
言った瞬間、結衣の顔が崩れた。
こらえていたものが一度に決壊して、声にならない声が漏れる。肩が跳ね、背中が丸まって、彼女はそのまま嗚咽した。
それでも、手だけは退かなかった。差し出したかたちのまま、震えながら、そこに留めている。
「行っていいよ。ちゃんと見てるから。……行って」
「大丈夫だよ、ママ。分かっている」
ましろが言った。そうして背を向け、つたなく歩き出す。
「待って。行かないで」
自分でも矛盾していると分かっていた。行っていいと言ったのは自分だ。それでも、口が勝手に動いた。
ましろは振り返り、笑顔を浮かべた。
「わたし、幸せだよ。分かっている」
その言葉と共に、ましろの姿が光に溶けるように薄れていく。
結衣の意識もまた、急速に現実へと引き戻されていった。
◆
現実世界。
結衣の身体から、フッと力が抜けた。
同時に、彼女の全身を締め上げていた無数の『根』の拘束が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
戒はその隙を見逃さなかった。
「──っ!」
右腕を『根』の中心へ差し込み、結衣の身体と怪異の結合部を鷲掴みにする。
朱と黒の刺青が一斉に脈打ち、腕の中の『獄』が口を開けた。
引き剥がす。
結衣の内側から、ズルリと根が抜けていく感触があった。あれほど深く根付いていた怪異が、今は一切の抵抗を見せない。
結衣が向こう側で何かを語りかけたことで、怪異の側から彼女を『手放した』のだ。
泥の塊が、足元から崩れ始める。
無数の瞳が、最後に一度だけ結衣のほうを向いた。
それから、黒い泥の津波となって、戒の右腕の中へ流れ込んでいく。
何十、何百という怨嗟の声が、呪いとして戒の神経を焼く。戒は奥歯を噛み割りそうなほど食いしばり、そのすべてを裡へと呑み込んでいく。
だが、最後にひとつだけ、異質なものが混じった。
それは泥の塊からふわりと分離し、腕の中へ落ちることなく宙に浮いた。
両手で包めるほどの、輪郭のはっきりしない、かすかに発光する白い球体だった。
戒は咄嗟に手を止めた。
――これは、喰えない。
葛城の腕は、呪いや悪意を閉じ込めるための『獄』だ。このような、呪いすら持たない純粋な命の残滓を入れる場所ではない。
戒はゆっくりと右腕を退いた。
すべての泥を喰い尽くし、拘束を失った結衣の身体が落ちてくる。
戒はそれを受け止め、そのまま冷たい水溜まりの上に膝をついた。腕の中の結衣は、泣きはらした顔のまま気を失い、浅く息をしている。
白い球体は、二人のすぐ上に浮いていた。
葛城には怪異を『祓う』方法しかない。喰うか、縛るか、力で消滅させるかだ。
このような無害な魂を、どこへどう『送る』のか。そんな優しい術を、戒は教わっていない。だから、ただ黙って見ていることしかできなかった。
それは急いではいなかった。むしろ、名残惜しむようにさえ見えた。
気を失っている結衣の顔のすぐそばまで下りてきて、そこで一度、ぴたりと止まる。
触れたのかどうか、戒には分からなかった。結衣の指が僅かに動いたようにも見えたし、気のせいだったようにも見えた。
そして、白い球体は消えた。
溶けたのでも、弾けたのでもない。
最初から、そこにいなかったみたいだった。
水の音が、戻ってきた。
戒は天井を見上げる。
剥き出しのコンクリートしかない。何も視えないし、何も感じない。
葛城の目でも、そこから先は追えなかった。
腕の中で、結衣が浅く息をしている。生きている。
戒はしばらく、そのまま動かなかった。
力任せに引き剥がし、喰らい尽くすことなら、いくらでもできた。
だが、それをすれば、泥の中に残っていた小さな命の残滓もろとも、ただの呪いとして処理することしかできなかっただろう。
純粋な魂だけを残し、あんなふうに穏やかに手放させる術など、俺は知らない。
ただ人間の母親が、不器用な言葉を並べただけだ。
それで、退魔の術では絶対にたどり着けない結末を、この娘は自分の力で引き寄せてみせたのだ。
――参ったな。
戒は、そう思うことしかできなかった。
◆
雲の切れ目から差した光に、結衣は目を覚ました。
最初に感じたのは、頬に当たる石の冷たさだった。それから、肩のあたりに乗った重みが上着だと気づく。
身体を起こすと、自分は石床の上で横たわっていた。身体には戒が羽織っていた上着がかけられている。
視線を巡らせると、少し離れた位置で戒が古い石段に腰かけているのが見えた。
「起きたか」
と戒は言う。火を点けていない煙草をケースに戻した。
「……終わったんですね」
「ああ」
「本当に?」
「今度はな」
結衣は長く息を吐いた。
戒の更に奥では、足を折りたたんだ土蜘蛛が、その役割を終えたかのように鎮座していた。
どうやら自分は、地下で気を失っていたらしい。あの螺旋階段を、人ひとり抱えたまま昇ってきたのだろうか。この人が。考えて、結衣は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
近くに置かれていたスマートフォンを点けると、もう夕方に近かった。通信が繋がっている。調べてみても、履歴も含め、『宵月ましろ』の配信が行われていた形跡はなかった。
「私、生きてるんですね」
「返事をした時は、どうなるかと思ったがな」
「……ごめんなさい」
「まったくだ。どうしてあんな真似を」
「なぜですかね」
結衣は顔を俯けた。
「一年、無視してきたんです。見ないふりして、数だけ数えて。……ここまで来て、まだ黙ってろっていうのは、無理でした」
「赦されたかったのか」
「違います」
結衣は首を振った。それだけは、はっきりしていた。
「赦してほしいなんて思ってません。たぶん一生、赦されないです。……ただ、行っていいよって、言ってあげたかった」
「『あの子』とやらが、結衣の産むはずだった子ではなかったとしてもか」
「なかったとしても、です」
戒はそれ以上、問い質さなかった。
「戒さんが祓ってくれたんですよね」
「……最後、お前を掴んでた『根』が緩んだ。一瞬だけな。その隙に切り離した」
「緩んだ?」
「ああ。あの状態から抜けるには、内側から力を抜いてもらうしかなかった。俺の腕力でどうこうなるもんじゃない。……そういう意味でなら、お前は自分で帰ってきたんだ」
「私が?」
「向こうで何をしたのかは知らん。そこは俺の管轄外だ」
結衣は自分の掌を見た。何も残っていない。抱いたはずの重さも、体温も。それでも、指の形だけは、まだあの時のままだった。
「あの子……私を恨んでたと思いますか」
「そんなこと、分からんさ」
と戒は背を伸ばした。
「だがお前は返事をし、存在を認めた。あの瞬間、怪異は間違いなく実在したんだ。だからその問いには意味がない。何かが分かったとしても、それはお前の理解であって、お前に許された理解に過ぎない。そして理解である以上、あの怪異に関する真実でもないんだ」
「でも、罪は残ります。私の罪は、紛れもない真実です」
戒は、すぐには答えなかった。怪異なら祓える。呪いなら喰える。
けれど、人間がやったことまで、葛城には喰えない。
「……俺なら、いつまでも背負うことを選ぶ」
戒は言った。突き放すような冷たさではなく、ひどく静かな響きだった。
「俺は、罪は消えないと思っている。何をどうしても。後からどれだけ善いことをしても」
戒は自分の右腕へ目を落とす。
「俺が誰かに取り返しのつかないことをしたなら、一生覚えていたい。思い出すたびに痛ければいいとも思う」
「……苦しくないですか」
「当然苦しいな。でも、痛かったことを、後から善いことをしたから痛くなかったと、忘れたと、嘘をつくのは嫌なんだ。ただ……覚えてることと、幸せになっちゃいけないことは、別だ」
結衣が目を上げる。
「いつか、本当に好きだと思える相手ができて。その人との間に、もう一度子どもを授かることがあるなら。忘れるな。今日までのことも。全部背負って、それでも」
戒はそこで言葉を切り、木漏れ日の差す林道の先へ視線を向けた。
「その子を、この世界の誰よりも愛してやれ」
結衣は目を伏せた。やがて、頬を一筋だけ涙が流れた。
戒は拭ってやらない。慰めもしない。もうそれは、自分の仕事ではなかった。
「……偉そうですね」
「悪かったな」
「戒さん、子どもいないんですよね。結婚も」
「してない」
「説得力……」
「だから最初に、俺の考えだって言っただろ」
結衣は涙を拭いた。ほんの少しだけ笑う。
「でも、覚えておきます。全部。私の罪を」
結衣は立ち上がった。そして、地下へと続く階段の方を見る。
地下は確かにあった。古い怪異もいた。新しく生まれた怪異も。けれど、風車だけは、最後まで一本も見つからなかった。
「……帰りましょう」
「ああ」
二人は山を下りる。
来るときには気づかなかったが、林道の脇には野の花がいくつも咲いていた。名前も知らない、小さな白い花だ。誰も見ないまま咲いて、誰も見ないまま枯れていくのだろう。
怪異は、常に理不尽だ。
たとえ原因を祓ったと思っても、失ったものが戻るわけではない。人間がしたことまで、なかったことにはならない。本当にままならない。
それでも、今日、二人で生きて山を下りている。
戒は一度だけ振り返った。
杉の間から、崩れかけた社殿の屋根が見えた。もう誰も来ない場所だ。
忘れられていく場所だった。
――逝けただろうか。
分からない。葛城の自分でも。
いや、葛城だからこそ分からないのだろうか。
それでも。
戒は、柄にもなく一度だけ目を閉じ、その魂に祈りを捧げた。
◆
同じ頃。
東京の空は、分厚い雨雲に覆われていた。窓を打つ雨粒が、ビルの明かりを滲ませて幾筋も流れ落ちていく。
人気のない薄暗い夕暮れのオフィスで、藤沢は一人、デスクに突っ伏して浅い眠りについていた。
スタッフはすでに全員帰っている。
不意に揺さぶられたかのように、藤沢の意識は覚醒した。机に接していた顔を歪ませる。
藤沢は夢を見ていた。内容は思い出せない。だがこの世のものとは思えない恐怖が、藤沢を心の底から震撼させていた。目は赤く充血している。
胸の苦しさを覚える。
ふと、背後の廊下の方から微かな音が聞こえた。
ペタ、ペタ。
裸足の足音だった。
濡れた足の裏が、リノリウムの床から剥がれるときの、あの粘つく音。
藤沢は振り返ることができなかった。部屋の蛍光灯は点いているのに、まったく明るさが足りていないような気がする。論理的な思考が上手く働かない。観念的なイメージばかりが脳に先走った。
ペタ、ペタ。
それは、大人の足音ではない。
よちよちと歩くような、ひどく覚束ない、湿った足音だった。
「……誰だ?」
と藤沢は震える声で、背後の暗がりに声をかけた。返事はない。
ただ、水に濡れたような小さな足音が、ゆっくりと、だが確実に藤沢のデスクへと近づいてくる。
反して、現実感は後退していく。
まるで再び夢の続きが訪れるかのようだった。
机の上のスマホが震える。
ペタ、ペタ。ペタ。
藤沢の脳裏に、半年前に迷い込んだあの気味の悪い地下室の記憶がフラッシュバックした。
無数の風車。妻と娘の声。
そして――決して忘れることのできない、自分が捨てさせた命の記憶。
足音が、すぐ後ろで止まった。
『……パパ』
振り向いてはいけない。
答えてもいけない。
それでも。
藤沢は、ゆっくりと背後を振り返った。
そこに何が立っていたのか、彼の目にしかわからない。
ただ藤沢は、床に膝をつき、暗がりに向かってそっと両腕を広げた。
ひどく穏やかな顔だった。
「……ごめんな」