第一話 善意という名の災難
戸籍の問題は、軍と契約する際に解決していた。
もっとも、解決したというのは、必要な手続きが完了し、ステラとジーミーが公的な身分を得たという意味である。
十一年間にわたって、誰が彼女を登録し、誰が土地の所有を認め、誰が賞金稼ぎとしての資格を与えたのか。
そうした疑問が解消されたわけではない。
調査は続いていたが、調べれば調べるほど、関係者の頭痛の種が増えるばかりだった。
それでも、政府の福祉担当者にとって、目の前の二人がこれから生活していくための環境を整えることは、別の問題だった。
戸籍ができた以上、国には彼らを保護する責任が生じる。
その中には、教育を受ける権利も含まれていた。
「では、お二人とも学校へ通われてはいかがでしょうか?」
担当者は、善意からそう提案した。
ジーミーには、同年代の子供たちと交流する機会が必要だろう。
そして、ステラについても、年齢相応の教育環境を整えることは当然の配慮だった。
ただし、担当者には一つ、大きな誤算があった。
ステラの外見である。
本人は十五歳だと申告している。
しかし、どう見ても十歳前後。
腰まで届く銀色の髪に、赤い瞳。人形のように整った顔立ちと、華奢な身体。
クラスの中に入れば、間違いなく一番背の低い子供になるだろう。
「お兄さんが学校へ通われるのでしたら、妹さんも一緒のほうが安心でしょう?」
「……」
その場にいたライアン警部は、顔を伏せた。
「……警部?」
「いや、すまん。少し待ってくれ」
肩が震えている。
「妹さんって……」
とうとう、耐えきれずに吹き出した。
「おい、ステラ! 妹さんだってよ!」
「……何か問題でも?」
ステラは、にこやかに答えた。
「私は十五歳よ」
「そうだな」
「ジーミーより年上よ」
「そうだな」
「私は姉よ」
「そうだな、妹さん」
「……」
ステラは、ライアンに向かって実に綺麗な笑顔を浮かべた。
ライアンは一瞬だけ口を閉じたが、すぐにまた笑い出した。
「いや、悪い悪い! まさかお前が妹扱いされる日が来るとはな!」
「ライアン警部」
「何だ?」
「覚えておきなさい」
「……おう」
その返事には、少しだけ警戒が混じっていた。
ともあれ、学校への編入を検討するため、二人には学力診断テストが実施されることになった。
ジーミーについては、大きな問題はなかった。
ステラが年齢相応の学力を身につけられるよう、これまでそれなりの教育を与えていたため、基礎学力は中学生相当。
年齢的には少し高めだったが、同年代の人間との交流経験が不足していることを考慮し、中学一年生から編入することになった。
問題は、ステラだった。
学力診断の結果は、申し分がなかった。
いや、申し分がなさすぎた。
試験官が用意した問題をほぼ完璧に解き、どの科目でも高い成績を収めた。
「……今から大学に入学しても、学力上の問題はないと思われます」
担当者は、試験結果を見ながら説明した。
「それなら、大学へ行かせればいいんじゃないか?」
ライアンが尋ねた。
「いえ、待ってください」
今度は、ライアン自身が首を振った。
「こいつに必要なのは、学力じゃない」
「と、いいますと?」
「常識だ。人として集団生活を送ることを覚えさせる必要がある」
ライアンは、真面目な顔で続けた。
「学校へ行かせましょう。同年代の人間と一緒に生活して、話をして、揉め事があれば解決して、失敗したらやり直す。そういう経験が必要なんです」
対ステラ研究班からも、賛成の意見が上がった。
「我々としても、同意します」
研究員が頷く。
「これまで彼女が接してきたのは、主に大人です。警察官、商人、技術者、軍人。いずれも、ある程度は理性的な判断や交渉が可能な相手でした」
「だが、子供は違う」
「そうです。子供の行動は、必ずしも合理性や損得勘定に従いません。知識や経験が不足しているだけでなく、感情の扱い方も未熟です。大人同士で通用する対応が、そのまま通じるとは限りません」
学校とは、良くも悪くも社会の縮図である。
そこには友情があり、助け合いがあり、互いを理解しようとする気持ちがある。
一方で、幼稚な悪意もある。
相手を傷つけるつもりがなくても、結果として傷つけてしまうことがある。
相手が嫌がっていることに気づかず、無邪気に質問を繰り返すこともある。
大人なら遠慮するようなことを、何のためらいもなく口にすることもある。
そして、本人に悪意がないからこそ、された側も簡単には怒れない。
ステラは、町でのいわれのない誹謗中傷にも耐えた。
軍部が裏で手を引いた、直接的な暴力にも耐えた。
しかし、ジーミーに対する直接的な暴力と、彼の命が危険にさらされたときだけは、明確に異なる反応を示した。
では、より純粋な悪意なき加害には、どう反応するのか。
それは、研究班にとっても未知の領域だった。
「……重い判断ですね」
研究員の一人が呟いた。
基地内の学校であり、生徒も含めて軍関係者の家族が中心となる。一般社会より安全面での管理はしやすい。
だが、子供たちの心まで管理できるわけではない。
ステラがどのように反応するか。
ジーミーがどのような影響を受けるか。
二人の関係が、学校という環境の中でどう変わっていくのか。
誰にも予測できなかった。
この複合軍事基地をステラの生活拠点とする決定が下されたときから、こうした可能性は検討されていた。
十年をかけて準備された巨大な複合基地。
そこは、軍事施設であると同時に、ステラに関する研究を進めるための環境という側面も持っていた。
基地に暮らす人々の日常は本物だ。
子供たちも、教師も、軍人も、普通に生活している。
だからこそ、その中で起きることにも意味がある。
そして、ステラをその日常の中へ送り込むことが決まった。
問題は、本人をどう説得するかだった。
第二話 依頼なら仕方がない
「嫌よ」
ステラは即答した。
「学校なんて行かないわ」
「……まだ説明もしていないんだが」
研究員が言った。
「説明するまでもないわ。私は忙しいのよ」
「何で忙しいんだ?」
「趣味よ」
「ロボットの建造か?」
「そうよ」
「学校へ行く時間がないほどか?」
「ないわ」
あまりにも迷いのない返答だった。
ステラにとって、学校へ通うことには、ほとんど利点がなかった。
学力を身につける必要はない。
技術を学ぶ必要もない。
友人を作る必要があるかと聞かれれば、ジーミーがいる。
そして何より、学校へ行けば、趣味に使える時間が減る。
ステラにとっては、由々しき事態である。
研究班は説得を試みた。
ライアンも説得を試みた。
福祉担当者は、教育を受ける権利の重要性を丁寧に説明した。
しかし、ステラは頑として首を縦に振らなかった。
「嫌よ」
「ステラ」
「嫌なものは嫌」
「お前な……」
「私には自由があるのよ!」
その主張自体は間違っていない。
ただし、今回ばかりは周囲も簡単には引き下がれなかった。
そんなときだった。
「姉さん」
ジーミーが口を開いた。
ステラは、弟へ視線を向ける。
「なあに?」
「俺は学校に行く」
「そうね」
「姉さんも一緒に来てくれないか」
「……」
ステラは黙った。
ジーミーが学校へ行くことには反対していない。
むしろ、同年代の人間と交流することは、彼にとって良い経験になるだろう。
問題は、自分まで行く必要があるのかということだ。
「ジーミー、あなたは一人でも大丈夫でしょう?」
「……姉さんが行かないなら、俺も行きたくない」
「それは駄目よ」
「じゃあ、姉さんも一緒に行こう」
「いや、だから……」
ジーミーは、いつもの無表情で言った。
「姉さんが学校に行かないなら、俺は姉さんが嫌いだ」
「……」
空気が止まった。
研究員が息を呑む。
ライアンが口元を押さえる。
ステラは、しばらくジーミーを見つめた。
その言葉が、彼にとってどれほど重いものなのか。
ステラには分かっていた。
少なくとも、ジーミーが本気で自分を嫌いになることを望んでいるわけではない。
だが、それでも。
「……ジーミー」
「何?」
「それは卑怯よ」
「そうか?」
「そうよ!」
ステラは、しばらく弟を睨んでいた。
やがて、深々とため息をつく。
「……分かったわ。行けばいいんでしょう、行けば」
研究員たちは、心の中で安堵した。
しかし、まだ終わりではなかった。
「ただし」
ステラが指を一本立てた。
「私が学校へ行くのは、ジーミーの依頼ということにするわ」
「……依頼?」
「そうよ。私は金さえもらえば何でもやる。学校へ行くのも仕事として引き受けるわ」
「いや、学校へ行くことに報酬は……」
「依頼よ!」
ステラは胸を張った。
「依頼である以上、報酬が必要でしょう?」
研究班は顔を見合わせた。
ライアンは、とうとう吹き出した。
「やっぱり金か!」
「失礼ね! これは契約の問題よ!」
「はいはい、契約ね、契約」
こうして、ステラの学校生活は始まることになった。
本人は最後まで納得していない様子だったが、ジーミーとの約束があり、依頼という形も整った。
ステラとしては、これ以上譲歩するつもりはなかった。
少なくとも、この時点では。
第三話 姉としての威厳
編入初日。
ステラは、ジーミーとともに教室へ入った。
新しい生徒が二人も来たのだから、クラスメートたちが注目するのは当然だった。
一人は、無口で落ち着いた少年。
もう一人は、銀色の髪と赤い瞳を持つ、小柄で人形のように整った少女。
教師は二人を教壇の前へ呼んだ。
「それでは、まず自己紹介をしてもらいましょう。お姉さんのほうからお願いします」
教師に悪意はなかった。
二人の事情は聞いている。
姉弟であることも、ジーミーがステラに育てられたことも、事前に説明を受けていた。
だからこそ、ごく普通に姉から紹介するように促しただけだった。
ステラは胸を張って一歩前に出た。
「ステラよ。よろしくね」
堂々とした挨拶だった。
本人としては、姉としての威厳を示すつもりだったのだろう。
ところが。
「えーっ、妹さん、可愛い!」
「ほんとだ! すごく可愛い!」
「お姉ちゃんぶりたいのよねぇ」
「分かるー!」
教室のあちこちから、そんな声が上がった。
ステラは固まった。
「……は?」
「妹さん、いくつ?」
「髪、すごく綺麗!」
「お人形さんみたい!」
悪意はなかった。
からかっているつもりもない。
彼女たちは、目の前にいる少女が可愛いと思ったことを、そのまま口にしただけだった。
しかし、その無邪気な感想は、ステラの姉としてのプライドを容赦なく貫いた。
「……私は」
ステラは、ゆっくりと口を開いた。
「姉よ」
「えっ?」
「私が、ジーミーの姉なの」
教室が静かになった。
生徒たちはステラを見た。
次に、ジーミーを見た。
そして、再びステラを見た。
「……え?」
誰かが呟いた。
無理もない。
どう見ても、妹である。
身長も低い。
顔立ちも幼い。
体格も、クラスの中で一番小さく見える。
その少女が、目の前の少年の姉だというのだ。
そして、話はそこで終わらなかった。
ジーミーが静かに口を開いた。
「姉さんには、昔から世話になっている。育ててもらったようなものだ」
「……」
今度こそ、教室は完全に静まり返った。
ステラは十五歳だと申告している。
ジーミーは、それより年下だ。
そこまでは、まだ分かる。
だが、目の前の少女は、どう見ても十歳前後である。
この少女が、少年を育てた?
誰が?
どうやって?
教師ですら、一瞬だけ言葉に詰まった。
そして、ようやく誰かが口を開いた。
「……すごいね、妹さん」
「だから、姉よ!」
ステラの声が教室に響いた。
こうして、彼女の学校生活は、最初の数分で大きな問題に直面することになった。
休憩時間になると、二人の周囲には生徒たちが集まった。
質問の嵐だった。
「ステラちゃん、何歳なの?」
「どうしてそんなに髪が長いの?」
「ジーミーくんとは、いつから一緒にいるの?」
「二人って、本当の姉弟なの?」
「その目って、カラコン?」
「普段は何をしているの?」
質問が次々と飛んでくる。
一つに答えれば、すぐに別の質問が重なる。
答えている途中で、さらに別の生徒が割り込んでくる。
質問には順序もなければ、統一された意図もなかった。
誰かは純粋に興味を持ち、誰かは会話のきっかけを探し、誰かは友達の質問につられて聞いている。
そして、質問した本人ですら、なぜそれを尋ねたのか分かっていないことがあった。
ジーミーは、早々に処理能力の限界を迎えた。
同年代の人間と会話をする経験が、圧倒的に不足していたのである。
彼は一つずつ質問に答えようとしたが、話題が次々と変わるため、どこまで答えたのか分からなくなっていった。
ステラは、もっと別の問題に直面していた。
彼女は質問を受けるたびに、相手の意図を分析した。
何を知りたいのか。
なぜ知りたいのか。
どのような回答を求めているのか。
その回答をした場合、次にどのような質問が来るのか。
相手の表情、声の調子、視線の動き。
得られる情報を収集し、可能性を比較し、最適と思われる回答を選ぶ。
それを、目の前にいる生徒一人ひとりについて行っていた。
しかし、質問の数は多すぎた。
しかも、子供たちの質問は唐突だった。
直前の話題とは何の関係もないことを、何の前触れもなく聞いてくる。
回答を終えたと思った瞬間、別の生徒が予想外の角度から話しかけてくる。
情報を集めれば集めるほど、考慮すべき可能性が増えていく。
ステラは対応を続けた。
続けようとした。
そして、やがて。
彼女の顔から、表情が消えた。
笑顔も、困惑も、怒りもない。
ただ、赤い瞳が相手を見つめている。
「……ステラちゃん?」
呼びかけられても、反応が遅れた。
「ねえ、聞いてる?」
「……はい」
返事はあった。
しかし、その声には抑揚がなかった。
生徒たちは少しだけ静かになった。
目の前にいる少女は、確かに綺麗だった。
だが、こうして表情を失った顔を見ていると、まるで人形のようにも見える。
誰かが、小さく呟いた。
「……吸血姫みたい」
その言葉に、周囲の生徒たちは頷いた。
「分かる」
「すごく綺麗だもんね」
「赤い目も、銀色の髪も」
「本当に、お人形さんみたい」
悪口ではなかった。
むしろ、褒め言葉に近かった。
彼女たちは、ステラの容姿と、どこか人間離れした雰囲気を素直に表現しただけだった。
その日、教室でステラは「吸血姫」と呼ばれるようになった。
もっとも、本人はそのあだ名を嫌がらなかった。
綺麗という意味なら、悪くない。
それに、呼び名そのものに特別な問題があるわけでもない。
ただし、その様子を監視カメラ越しに見ていたライアンと研究班は、別の理由で大いに盛り上がっていた。
「ぶはっ! おい、見たか、今の顔!」
「……警部、声が大きいです」
「いや、無理だろ! あいつ、完全に処理落ちしてるぞ!」
研究員たちも、笑いをこらえきれなかった。
画面の中では、吸血姫と呼ばれた少女が、無表情のまま生徒たちの質問に答え続けていた。
「……これは、貴重なデータですね」
「そうだな」
「今後の対人行動の分析に役立ちそうです」
「そうだな」
ライアンは、涙を拭きながら頷いた。
「……あいつ、帰ってきたら絶対に怒るぞ」
「ええ」
「お前らも覚悟しておけよ」
「警部もですよ」
「……」
一瞬、沈黙が訪れた。
それから、全員が再び画面を見た。
そして、また笑った。
その日、研究班の関係者は、ステラから何らかの報復を受けることを覚悟したのであった。
第四話 予測不能な人間
ステラの演算能力は、決して低くない。
むしろ、常識的な尺度で測ることができるのなら、極めて高いと評価されるだろう。
情報を収集し、整理し、比較し、そこから結論を導く。
複数の可能性を同時に検討し、結果を予測する。
それは、彼女がこれまで生きてきた中で、幾度となく役立ってきた能力だった。
賞金稼ぎとしての仕事でも、技術的な問題を解決するときでも、相手との交渉でも。
彼女は情報を使い、傾向を見つけ、次の行動を予測する。
大人の世界では、それで十分に通用することが多かった。
だが、子供たちは違った。
例えば、ある生徒が質問をしてきたとする。
「ステラちゃんって、好きな食べ物は何?」
ステラは質問に答える。
すると、相手は満足そうに頷いた後、突然こう言う。
「私、昨日ね、犬を見たんだ!」
……なぜ?
なぜ、食べ物の話から犬の話に移るのか。
何か関連性があるのか。
こちらの回答に対する感想なのか。
それとも、単に犬の話をしたくなっただけなのか。
ステラは考える。
相手の表情を確認する。
声の調子を分析する。
過去の会話を参照する。
しかし、どれだけ情報を集めても、明確な結論は得られない。
本人が、ただ犬の話をしたくなっただけだからだ。
別の生徒は、ステラの髪を褒めた。
「すごく綺麗な髪だね!」
「ありがとう」
「ねえ、触ってもいい?」
「……構わないわ」
その生徒は、嬉しそうに髪へ手を伸ばした。
そして、触れる直前になって言った。
「あっ、やっぱりいいや! 怒られそうだし!」
手を引っ込めた。
ステラは、彼女の手を見た。
次に、顔を見た。
何が起きたのかを理解するために、情報を整理する。
触ってもよいかと尋ねた。
許可した。
しかし、触らなかった。
許可が不十分だったのか。
返答に何らかの不快感が含まれていたのか。
あるいは、別の理由が生じたのか。
「……なぜ、やめたの?」
「えっ?」
「触ってもよいと答えたわ」
「うん。でも、何となく!」
「……何となく?」
「そう、何となく!」
生徒は笑った。
ステラは、黙った。
何となく。
その言葉は、説明になっているようで、説明になっていない。
しかし、その生徒にとっては、それで十分だった。
彼女は自分の判断に満足し、別の話題へ移っていった。
ステラだけが、その場に取り残された。
情報を集めれば集めるほど、処理すべき可能性が増えていく。
そして、彼女は気づかないうちに、教室にいる子供たちの行動を予測するため、常に演算能力を割り当てるようになっていた。
誰かが近づいてくる。
何を言うのか。
何を求めているのか。
どのような回答をすれば、相手は満足するのか。
声が聞こえる。
その声の主は誰なのか。
こちらへ話しかけているのか。
別の誰かと会話しているのか。
笑い声が上がる。
自分に関係があるのか。
何か問題が起きたのか。
それとも、ただ楽しいことがあっただけなのか。
子供たちが近くにいる。
それだけで、ステラは無意識に予測を始めていた。
そして、演算能力が消費されるにつれ、彼女の表情は乏しくなっていった。
言葉を選ぶまでの時間が長くなり、返答も短くなっていく。
「……うん」
「……そう」
「……分からない」
やがて、必要最低限の返事しかできなくなった。
それでも、ステラは学校へ通い続けた。
ジーミーとの約束がある。
依頼として引き受けた以上、途中で投げ出すつもりもない。
何より、学校生活には、これまで知らなかった情報が大量に存在していた。
分からないことがあるのなら、調べればよい。
予測できないのなら、情報を集めればよい。
彼女にとって、それは自然な判断だった。
ただし、その努力が、彼女を人間らしくする方向へ進んでいるのかどうかは、別の問題だった。
第五話 吸血姫の大作戦
学校へ通い始めて数日。
ステラは、自分の外見が問題の根本にあると判断した。
身長が低い。
顔立ちが幼い。
体格も小さい。
これらが原因で、周囲は彼女を妹として扱う。
ならば、対策は明白だった。
外見の印象を変えればよい。
「……というわけで、相談があるわ」
放課後、ステラはライアンのもとを訪ねた。
「何だ?」
「あなたの奥さんに会わせてちょうだい」
「……は?」
「女性のファッションについて、相談したいの」
ライアンは、しばらくステラを見つめた。
「……お前、何を企んでいる?」
「失礼ね。レディは、ただ年相応に見られたいだけよ」
「年相応?」
「そうよ」
ステラは、真剣な顔で頷いた。
「せめて、ジーミーと同年代か、それ以上に見られるようになりたいの」
ライアンは、口元を押さえた。
まずい。
非常にまずい。
笑ってはいけない。
ここで笑えば、確実に報復される。
しかし、目の前の少女は本気だった。
しかも、本人にとっては、かなり深刻な問題らしい。
「……分かった。妻に聞いておく」
「ありがとう。恩に着るわ」
ステラは満足そうに頷いた。
その後、ライアンの妻から、年齢相応の女性らしい服装や化粧について、いくつかの助言を受けた。
ステラは、それらを熱心に聞いた。
服装の選び方。
色の組み合わせ。
髪の整え方。
化粧による印象の変化。
そして、人間の視覚が、どのような特徴から年齢を推定するのか。
もちろん、最後の項目はステラ自身が勝手に加えたものだった。
彼女は学習を開始した。
基地内の電子データを収集し、十五歳前後の女子のファッションを調べる。
流行の化粧を調べる。
同年代の女子が好む話題を調べる。
服装と年齢の印象に関する情報を集め、どのような組み合わせが効果的なのかを分析する。
さらに、基地外のネット回線へアクセスし、最新の話題や流行についても情報を集めた。
問題は、その規模だった。
ステラは、必要な情報だけを少しずつ集めるということをしなかった。
必要だと判断した情報を、可能な限り大量に集めたのである。
基地内の情報システムに、突然アラートが鳴り響いた。
「何だ!」
「外部回線の通信量が異常です!」
「どこからだ?」
「……ステラです!」
「またか!」
研究班の執務室が騒然となった。
「何をしているんだ、あいつは!」
「基地外のネット回線を、ほぼ独占しています!」
「止めろ!」
「止めようとしていますが、必要な情報を取得するための通信が大量に発生していて……」
「いや、だから止めろと言っている!」
研究員たちは慌てて対応に追われた。
しかし、ステラ本人は、そんな騒ぎを知ってか知らずか、真剣に情報を収集していた。
そして、必要な知識を得たと判断すると、満足そうに頷いた。
「……ふふん。これで完璧ね」
翌朝。
ステラは、普段とは違う服装で現れた。
いつもより少し大人びたファッション。
整えられた銀色の髪。
そして、幼さを隠すための薄い化粧。
本人としては、完璧な仕上がりだった。
「どう?」
ジーミーに尋ねる。
「……似合ってると思う」
「そうでしょう?」
ステラは、満足そうに笑った。
「さあ、行くわよ!」
意気揚々と、学校へ向かった。
そして、教室へ入る。
クラスメートたちが、一斉に振り向いた。
ステラは、胸を張った。
「おはよう!」
一瞬の沈黙。
そして。
「わあ! ステラちゃん、今日も可愛い!」
「すごい、おしゃれしてる!」
「いつもより大人っぽいね!」
「何だか背伸びしてるみたいで可愛い!」
「……」
ステラは、固まった。
「ねえ、その服どこで買ったの?」
「化粧してる? すごく可愛い!」
「ステラちゃんって、ほんとにお人形さんみたい!」
彼女の努力は、完璧だった。
情報収集も、分析も、服装の選択も、化粧も。
すべて、目的に沿って行われた。
そして、結果は。
クラス全体の妹ポジションの確定だった。
「……どうして?」
ステラは、小さく呟いた。
誰も、その疑問には答えられなかった。
そもそも、彼女たちは、ステラを妹として扱うことに何の問題も感じていないのである。
可愛い。
おしゃれをしている。
少し背伸びをしている。
それが、彼女たちの感想だった。
そこに、ステラが姉として認められたいという事情は、ほとんど関係していなかった。
ステラは、これまでの情報を再確認した。
ファッションの選択に問題はない。
化粧の技術にも問題はない。
年齢相応の女性が着る服装としても、不自然ではない。
それなのに、なぜ。
なぜ、妹扱いされるのか。
彼女は考えた。
考え続けた。
しかし、明確な結論は得られなかった。
一方、その隣では、ジーミーがクラスメートたちに囲まれていた。
「ジーミーくん、ステラちゃんのお兄ちゃんなんだよね?」
「いつも面倒を見てるの?」
「大変そうだけど、優しいお兄ちゃんなんだね!」
「……いや、俺は……」
ジーミーは、少し困った顔をした。
しかし、嫌そうではなかった。
むしろ、どこか嬉しそうだった。
姉のように振る舞うことが多いステラ。
自分を育ててくれたステラ。
そして、普段は自分よりもずっと頼りになるステラ。
そんな彼女を、自分が兄として支えているように見られることは、ジーミーにとって悪い気分ではなかったらしい。
「……そうだな。姉さんは、少し無茶をするところがあるから」
そう答えるジーミーの表情は、穏やかだった。
ステラは、その様子を見た。
そして、何とも言えない顔になった。
「……ジーミー?」
「何?」
「あなた、楽しそうね」
「……そうか?」
「そうよ」
ステラは、じっと弟を見つめた。
ジーミーは、少しだけ視線をそらした。
その日、ステラは、自分の外見を変えるだけでは、人間の認識を変えられないことを学んだ。
少なくとも、これまでの方法では駄目らしい。
さらに学習し、情報を集め、予測の精度を上げる必要がある。
そして、今度こそ、姉として認められなければならない。
ステラは、そう判断した。
その日の夕方。
研究班の執務室に、ステラが現れた。
「……ねえ」
「……何でしょうか、ステラさん」
研究員たちは、一斉に姿勢を正した。
「昨日の通信の件だけど」
「はい」
「どうして、途中で通信を制限したのかしら?」
「そ、それは、基地の通信設備に負荷が……」
「ふうん?」
ステラは、笑った。
「なるほどね。そういうことだったの」
研究員たちは、互いに視線を交わした。
彼女が何を考えているのか。
どの程度まで把握しているのか。
そして、これから何をするつもりなのか。
誰にも分からなかった。
「……では、私はこれで失礼するわ」
ステラは、満足そうに手を振った。
「またね」
扉が閉じる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、一人の研究員が呟いた。
「……報復、ですかね」
「間違いないだろう」
「何をされるんでしょうか……」
「知らん」
研究員は、深々とため息をついた。
その隣では、ライアンが腹を抱えて笑っていた。
「……お前ら、ほんとに懲りないな!」
第六話 姉と弟、それぞれの居場所
学校生活は、少しずつ日常になっていった。
ステラは、相変わらず表情に乏しいことが多かった。
質問を受ければ答える。
必要があれば会話にも参加する。
しかし、会話の途中で沈黙することもあれば、唐突に話題を変えることもある。
時には、相手の言葉を必要以上に深く分析し、返答に困ってしまうこともあった。
その一方で、クラスメートたちは、彼女を特別な存在として扱い続けた。
吸血姫。
綺麗で、小さくて、少し不思議な少女。
最初は遠巻きに見ていた生徒たちも、次第に彼女へ話しかけるようになった。
一緒に昼食を食べようと誘う者が現れた。
髪型について相談する者が現れた。
勉強を教えてほしいと頼む者も現れた。
ステラは、そのたびに対応した。
彼女にとって、学校生活は、これまでに経験したことのない種類の情報に満ちていた。
人間の行動には、合理的な理由があるとは限らない。
質問に答えたからといって、相手が納得するとは限らない。
相手の期待に応えたからといって、必ずしも望んだ評価を得られるわけでもない。
しかし、何度も会話を重ねるうちに、彼女は少しずつ学んでいった。
必ずしも、すべてを理解する必要はない。
分からないことがあっても、会話を続けることはできる。
相手の意図が完全には分からなくても、一緒に笑うことはできる。
もちろん、それで彼女が人間を理解できるようになったわけではない。
ただ、理解できないものと一緒に過ごす方法を、少しずつ身につけていったのである。
ジーミーも、学校生活に慣れていった。
最初は同年代の生徒との会話に戸惑っていたが、日々の交流を通じて、少しずつ友人を作るようになった。
そして、ある日。
ジーミーが、クラスメートたちとの会話の中で、思わぬ話題を持ち出された。
「ねえ、ジーミーくんって、ステラちゃんに育ててもらったんだよね?」
「……ああ」
「じゃあ、ステラちゃんって、お姉ちゃんというより、お母さんみたいな感じなの?」
「……」
ジーミーは、言葉に詰まった。
それは、彼自身が普段から抱えていた複雑な感情だった。
ステラは姉である。
しかし、同時に、自分を育ててくれた存在でもある。
姉であり、母でもある。
その二つの認識は、ジーミーの中で、簡単には整理できないまま共存していた。
そして、クラスメートたちは、その反応を見逃さなかった。
「えーっ、何その顔!」
「もしかして、図星?」
「ジーミーくん、ステラちゃんに甘えてるんだ!」
「お姉ちゃん大好きなんだね!」
「……違う」
「ほんとかなー?」
「……違う」
ジーミーは否定した。
しかし、その反応は、かえって彼らの興味を引いた。
それからというもの、ジーミーはステラに関する話題になると、遠慮なく揶揄われるようになった。
もちろん、悪意があったわけではない。
仲良くなった相手に対する、無邪気なからかいだった。
しかし、研究班は、その様子を見て懸念を抱いた。
ジーミーが傷つく可能性がある。
ステラが、それをどう受け取るか分からない。
二人の関係は、研究班にとっても慎重に扱わなければならないものだった。
ところが、時間が経つにつれて、その懸念は少しずつ薄れていった。
ジーミーは、からかわれることに慣れていった。
言い返すこともあれば、困った顔で受け流すこともある。
クラスメートたちも、彼が本気で嫌がることは避けるようになった。
そして、ステラ自身も、学校での居場所を少しずつ見つけていった。
もちろん、彼女が望んだ形ではなかった。
相変わらず、クラスメートたちは彼女を可愛がる。
妹のように扱う。
時には、本人の意思とは関係なく、髪型や服装について相談されることもある。
それでも、彼女は学校へ通い続けた。
依頼だから、という理由もある。
ジーミーとの約束もある。
しかし、それだけでは説明できない何かも、少しずつ生まれていた。
彼女自身、それをどう呼べばよいのかは、まだ分からなかった。
第七話 分かりやすい尊敬
学校生活が始まってしばらく経った頃、研究班は新たな問題に気づいた。
ステラが、学校でどのような評価を受けているのか。
それは、当初の想定とは少し異なる方向へ進んでいた。
最初のうち、彼女は「可愛い妹」として扱われていた。
しかし、学校生活が続くにつれて、クラスメートたちは、ステラの能力に気づき始めたのである。
試験では、常に満点。
授業で出される問題は、ほとんど間違えない。
難しい質問をされても、答えられる。
分からないことがあっても、その場で必要な情報を調べ、理解し、回答する。
運動でも、あらゆる種目で圧倒的な成績を残した。
走るのが速い。
跳ぶのが高い。
力も強い。
動作は正確で、反応も速い。
教師たちが驚くほど、何をやらせても優秀だった。
ジーミーも、成績は良かった。
勉強では上位の常連であり、運動でも十分に優秀だった。
ただし、ステラほど圧倒的ではない。
二人を並べて見れば、優秀な兄と、さらに優秀な妹という印象になる。
ところが、外見は逆だった。
妹のように見える少女が、兄を上回る成績を叩き出す。
それでも、二人は互いを姉と弟として扱っている。
そして、互いに向ける愛情には、嘘がない。
「……何だか、納得できるようになってきたね」
ある生徒が、そんなことを言った。
「何が?」
「ステラちゃんが、お姉ちゃんだってこと」
「……そうかな?」
「うん。だって、あんなにすごいんだもん」
別の生徒も頷いた。
「ジーミーくんもすごいけど、ステラちゃんはもっとすごい。何でもできるし、勉強も運動も一番だし」
「それに、ジーミーくんのことをよく見てるよね」
「うん。やっぱり、お姉ちゃんなんだなって思う」
彼女たちは、そう結論づけた。
身長でも、顔立ちでも、年齢の印象でもない。
二人の関係を、別の側面から理解したのである。
もちろん、ステラが望んでいたのは、そういう形での納得ではなかったかもしれない。
しかし、少なくとも、姉として認められるために、外見を変える必要はなかった。
彼女は、彼女自身の能力によって、クラスメートたちから尊敬を集めるようになったのである。
研究班は、その変化を見て安堵した。
「……よかったですね」
研究員の一人が言った。
「ええ。懸念していたほどの問題は起きていません」
「ステラも、学校生活に慣れてきたようですし」
「ジーミーも、友人ができたようです」
彼らは、少しだけ肩の力を抜いた。
ステラは、子供たちの予測不能な言動に翻弄されながらも、少しずつ適応している。
ジーミーも、同年代の人間との交流を通じて、社会経験を積んでいる。
二人の関係も、学校という環境の中で、少しずつ周囲に理解されるようになってきた。
もちろん、問題が完全に解決したわけではない。
ステラの表情が乏しくなることは、今でもある。
唐突な質問に対して、返答が遅れることもある。
人間の行動を予測しようとして、必要以上に演算能力を消費している様子も観察されていた。
それでも、彼女は学校へ通っている。
教室で過ごし、授業を受け、クラスメートと会話をする。
それは、研究班が期待していた以上に、順調な経過だった。
だからこそ、彼らは少し油断していたのかもしれない。
第八話 邪悪な笑顔
その日、研究班の執務室にステラが現れた。
「ねえ」
「……何でしょうか、ステラさん」
研究員たちは、すぐに警戒した。
以前の通信騒ぎ以来、彼女が現れたときは、まず用件を確認することが習慣になっていた。
「学校の試験についてなんだけど」
「はい?」
「何か、面白いことはないかしら?」
研究員たちは顔を見合わせた。
「……試験について、ですか?」
「そうよ。毎回満点を取るのも、少し退屈になってきたわ」
「特別な課題を用意することはできますが……」
「ふうん」
ステラは、少し考えるような顔をした。
そのとき、研究員の一人が、机の上に置かれていた書類を思い出した。
「そういえば、ちょうど宇宙軍から依頼が来ているんです」
「……宇宙軍?」
「はい。大規模な戦闘実証試験に関するものです。まだ詳細は調整中ですが、政府内部でも重要な案件として扱われています」
研究員は、書類を手に取った。
「興味があるなら、内容を確認してみますか?」
ステラは、差し出された書類を受け取った。
そして、目を通した。
ほんの数秒。
その顔に、変化が現れた。
「……ふふん♪」
楽しそうな笑顔だった。
いや。
楽しそうというだけではない。
口元が緩やかに持ち上がり、赤い瞳が細められる。
それは、何か面白い玩具を見つけた子供のようにも見えた。
同時に、獲物を見つけた捕食者の笑みのようにも見えた。
「受けるよ!」
即答だった。
研究員たちは、思わず顔を見合わせた。
「……よろしいのですか?」
「もちろん!」
ステラは、書類を返した。
「私に任せなさい!」
その声は、いつもと変わらない。
明るく、軽く、どこか得意げな口調だった。
しかし、彼女をよく知る者なら、気づいたかもしれない。
その笑顔には、普段の無邪気な喜びとは違う何かが混じっていた。
政府内部で、ステラに対する評価が下がりつつある。
彼女は、それを察知していた。
誰かが明確な言葉にしたわけではない。
会議の議事録を盗み見たわけでも、秘密の通信を傍受したわけでもない。
もっと別の方法で。
人間たちの動き。
判断の変化。
向けられる意識。
彼女自身に向けられた、微妙な変化。
そうしたものを、彼女は感じ取っていた。
そして、宇宙軍が用意しようとしている試験の意味も、理解していた。
表向きは、戦闘能力の実証。
しかし、その裏にある目的は別だ。
彼女の能力を測る。
彼女がどこまで危険な存在なのかを確かめる。
そして、必要ならば。
抹殺する。
ステラには、それが分かっていた。
だからこそ、笑った。
「……では、依頼を受けるということで、よろしいですね?」
研究員が確認した。
「ええ!」
ステラは、満面の笑みで頷いた。
「楽しみにしているわ」
その言葉を聞いた研究員は、なぜか背筋に冷たいものを感じた。
後になって、彼はこのときのことを振り返り、こう語ることになる。
「あのときのステラさんの笑顔は、ことのほか邪悪に見えたんです」
なぜ、そう感じたのか。
彼には分からなかった。
ステラは、いつもと同じ少女に見えた。
小柄で、幼くて、綺麗で。
学校では、クラスメートたちから妹のように可愛がられている。
しかし、その笑顔を見た瞬間、彼は理解してしまったのだ。
自分たちは、彼女が何を考えているのか、何一つ分かっていないのだと。
ステラは、依頼書を抱えて、上機嫌で執務室を出ていった。
その背中を見送りながら、研究班の一人が呟いた。
「……大丈夫でしょうか」
「何がだ?」
「いえ……何となく」
研究員は、言葉を濁した。
根拠はなかった。
ただ、嫌な予感がした。
それだけだった。
廊下の向こうでは、ステラが楽しそうに笑っていた。
「ふふふ……」
誰にも聞こえないほど、小さな声で。
「……いいわ。受けてあげる」
その笑顔は、やはり邪悪だった。