よろず屋ステラ   作:かえるけろけろ

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諜報員――他国の対応 ライアン事件

## 1.ブラックホール

 

 3号機計画が正式に動き始めたことで、軍は新たな問題に直面していた。

 

 諜報員の侵入である。

 

 これまで、ステラのロボット製作は、周囲から半ば道楽として扱われていた。

 

 奇妙な少女が、町はずれの工場で趣味の巨大ロボットを組み立てている。

 

 その技術は確かに優れている。だが、製作者本人にしか再現できないのであれば、軍事技術としての価値には限界がある。そう判断されていたからこそ、ある程度の情報が外部に漏れても、軍はそれほど神経質にはならなかった。

 

 ところが、3号機は違う。

 

 航空機並みの飛行性能を備えながら、真2号機に近い地上作業能力を持つ。さらに、ステラシステムを応用すれば、既存の兵器や民間機器の性能まで引き上げられる可能性がある。

 

 しかも、ステラは量産化に協力する意思を示した。

 

 もはや、趣味人の道楽では済まされない。

 

 他国が注目するのも当然だった。

 

 軍は急遽、基地のはずれにある、将来の研究開発センター建設予定地を使い、前倒しで専用の建造工場を建設することにした。

 

 並行して、防諜体制の全面的な見直しも始まった。

 

 だが、ここで研究班の諜報部門から、意外な提案が出た。

 

「初動はステラに任せてはどうでしょうか」

 

 会議室に、微妙な沈黙が落ちた。

 

 提案した担当官は、平然と続けた。

 

「我々が通常の防諜活動を行っても、ステラの情報収集能力には遠く及びません。彼女に依頼すれば、少なくとも時間は稼げます。その間に、我々は本来の防諜体制を整えればよいのではないでしょうか」

 

 もっともな意見だった。

 

 もっとも、諜報部門が日頃からステラに全敗していることを考えれば、提案が出るのも当然ではあった。

 

 ステラに情報を隠そうとしても無駄。

 

 監視しようとしても無駄。

 

 彼女の情報収集能力を逆手に取ろうとしても、結局は見透かされる。

 

 唯一の成果といえば、研究班が仕掛けたポスター作戦くらいのものだ。

 

 ……あれを諜報活動の成果と呼んでいいのかは、かなり疑問だったが。

 

 結局、担当官はライアンに頼み込むことになった。

 

「普段から、我々が全力で構築した防諜網を、まるで存在しないかのように突破するんです。ステラにとっては簡単なことでしょう」

 

「……それを俺から頼めと?」

 

「ええ。お願いします」

 

 ライアンは、しばらく担当官の顔を見ていた。

 

 それから、深いため息をついた。

 

「分かった。話してみる」

 

 断る理由がなかった。

 

 そして何より、ステラに頼めば、何らかの形で事態が収束することだけは確かだった。

 

 ……収束の仕方に問題がないとは、誰も言っていない。

 

## 2.ステラへの依頼

 

「ステラ、依頼だ。ちょっと見てほしい」

 

「今日は担当さんだね♪」

 

 ステラは作業の手を止め、顔を上げた。

 

 研究班の諜報担当官が、ライアンと一緒に訪ねてきたのである。

 

「どれどれ♪」

 

 担当官が説明を始めると、ステラは楽しそうに耳を傾けた。

 

 そして、話が終わると、あっさりとうなずいた。

 

「うん♪ 分かった♪ やるよ♪」

 

 担当官は、ほっと胸をなで下ろした。

 

 これで初動は何とかなる。

 

 しかし、次の質問で、その安堵は消え去った。

 

「それで、諜報員はどうするの?」

 

「……可能であれば、身柄を確保したいところです。情報源や所属組織を特定できれば、今後の対策にも役立ちますので」

 

「ふうん♪」

 

 ステラは、少し考えるように首を傾げた。

 

「情報を吐かせる必要はないよぉ♪」

 

「……と、言いますと?」

 

「私が全部知っているからねぇ♪」

 

 担当官の顔が引きつった。

 

 ステラは、いつもの調子で続ける。

 

「誰が来ているのかも、どこから来たのかも、誰に何を報告するつもりなのかも。だいたい分かっているよぉ♪」

 

「……すでに、そこまで?」

 

「うん♪」

 

 あまりにも軽い返事だった。

 

 ステラは、にこりと笑った。

 

「私が全部、なかったコトにしてあげてもいいんだよぉ♪」

 

 その声は、いつもどおり明るかった。

 

 しかし、ライアンは笑えなかった。

 

「……なかったこと、というのは?」

 

「んー?」

 

 ステラは、少しだけ考えた。

 

「文字どおり、かなぁ♪」

 

 担当官の顔色が変わった。

 

 諜報員を捕まえる。

 

 尋問する。

 

 情報を引き出す。

 

 必要なら、外交上の駆け引きに利用する。

 

 それが通常の対応だ。

 

 だが、ステラは違う。

 

 彼女にとっては、諜報員を確保することも、帰国させることも、存在そのものを消し去ることも、同じ選択肢の一つなのかもしれない。

 

「……どうする?」

 

 ステラが、ライアンを見上げた。

 

「私の好きにしていいのかなぁ?」

 

 ライアンの脳裏に、ジーミーの一件がよぎった。

 

 あのときのステラは、ジーミーを傷つけた人間に対して、容赦というものを知らなかった。

 

 そして、今の彼女は、あのときと同じように笑っている。

 

 止めるべきか。

 

 いや、止められるのか。

 

 自分が何を言ったところで、彼女がその気になれば意味がないのではないか。

 

 そんな考えが頭をよぎった。

 

 しかし、ライアンはもう一つの立場を思い出した。

 

 自分は、彼女の保護者なのだ。

 

 ならば、少なくとも、彼女の判断から逃げるわけにはいかない。

 

「……ステラ」

 

「なぁに?」

 

「お前が思うようにしたらいい。責任は俺が取ってやる」

 

 言ってから、ライアンは自分の言葉の重さを考えた。

 

 責任を取る。

 

 具体的に、何をどうするつもりなのか。

 

 彼自身にも、答えはなかった。

 

 ステラは、じっとライアンの顔を見ていた。

 

 やがて。

 

「うふふ♪」

 

 嬉しそうに笑った。

 

「うふふふ♪」

 

 そして、ライアンの肩を、ぽんぽんと叩いた。

 

「やっぱり、お父さんは分かっているねぇ♪」

 

 ぽん。

 

 ぽん。

 

 ぽん。

 

 ……痛い。

 

 いや、痛いというほどではない。

 

 だが、妙に力がこもっている気がする。

 

 ライアンは、黙って耐えた。

 

 その後、ステラが具体的に何をしたのか、詳しいところまでは分からなかった。

 

 ただ、基地周辺に侵入していた諜報員たちは、次々と活動を停止した。

 

 ある者は任務を放棄して帰国し、ある者は突然、調査対象に関する報告をやめた。連絡網が途切れ、協力者との接触が失われ、計画そのものが立ち消えになった。

 

 中には、帰国後も二度とこの基地周辺の情報に関わろうとしなくなった者までいた。

 

 少なくとも、研究班が把握している範囲では、ステラが諜報員を殺害したという確かな証拠はなかった。

 

 その事実に、研究班の人間たちは胸をなで下ろした。

 

 まだ、抑制している。

 

 ステラは、まだ人間社会のルールを守ろうとしている。

 

 ……そう考えたかった。

 

 しばらくして、他国の諜報員たちの間で、一つの呼び名が広まった。

 

 基地周辺。

 

 情報が消える場所。

 

 人間が消えることさえある場所。

 

 近づけば、何もかもが吸い込まれて戻ってこない。

 

 彼らは、その一帯をこう呼ぶようになった。

 

 **『ホール』。**

 

 ブラックホールになぞらえた呼称だった。

 

 そして、彼らの関心は、次第にステラ本人へと向かっていった。

 

## 3.嘘くさい少女

 

 各国の調査機関は、改めてステラに関する情報を洗い直した。

 

 きっかけは、3号機だった。

 

 それまでは、ロボットを作る奇妙な少女として扱われていたステラが、軍事技術の中心にまで入り込んできた。

 

 ならば、彼女自身についても調べる必要がある。

 

 ところが、集められた情報は、どれも妙に嘘くさかった。

 

 最高ランクの機械化トーチカを、何らかの方法で破壊した。

 

 人型戦車と評される重機械化兵を、無力化した。

 

 軍の大型無人機動兵器を破壊した。

 

 さらに、高度な機械化兵ですら不可能とされる作業を、いくつも解決している。

 

 単独で。

 

 少女の姿をした存在が。

 

 しかも、ロボットを作っているという。

 

 ……何を言っているんだ?

 

 報告書を読んだ調査員の多くが、最初はそう思った。

 

 機械化兵の能力には限界がある。

 

 反応速度、出力、耐久性、情報処理能力。いずれも強化できるが、いくら機械化を進めたところで、無限に性能が上がるわけではない。

 

 それなのに、ステラに関する記録は、その限界を平然と踏み越えていた。

 

 ロボットの件がなければ、荒唐無稽な噂として埋もれていたかもしれない。

 

 しかし、今では違う。

 

 3号機の設計資料が存在し、軍が正式に採用を検討している。

 

 ステラシステムという技術も、実際に成果を出している。

 

 さらに、過去の事件については、かなりの数の動画や静止画が公開されていた。

 

 映像の内容は異常だった。

 

 だが、捏造だと断定するには、記録の量が多すぎる。

 

 複数の目撃者がいて、異なる場所から撮影された映像があり、現場の損傷状況も一致している。

 

 少なくとも、何かが起きたことだけは否定できない。

 

 各国の調査機関は、現地の調査員に追加情報を求めた。

 

 ところが、返ってくる報告は妙に歯切れが悪かった。

 

 現地調査員たちは、基地周辺での活動を嫌がっていた。

 

 それどころか、ステラ本人に関する調査を続けることにも消極的だった。

 

 今になって思えば、当然だったのだろう。

 

 彼らは、報告書に書けない何かを経験していたのかもしれない。

 

 そして今、各国の調査機関は、ロボット以上にステラそのものへ関心を向け始めていた。

 

 それは、彼女にとって都合の悪い変化だった。

 

 少なくとも、普通の人間ならば。

 

## 4.虎の尾

 

 ステラは万能ではない。

 

 研究班の人間たちは、そのことを知っていた。

 

 もちろん、彼女の能力を制限できるという意味ではない。

 

 彼女にも、把握できないものがある。

 

 たとえば、事前に注目していない人物や物。

 

 彼女が気にしていない言葉や文字列。

 

 それらが、彼女に分かる形で表現されず、通信回線にも乗らないなら、ステラが事前に察知することはできない。

 

 ジーミーの一件でも、そうした隙間があった。

 

 しかし、現代社会では、その隙間を維持すること自体が難しい。

 

 家電製品は知能化され、端末は通信機能を持ち、車両や監視装置もネットワークにつながっている。

 

 直接インターネットに接続していなくても、整備記録や位置情報、決済情報、周辺機器との通信など、何らかの形で外部とつながる可能性がある。

 

 ステラから逃れるには、そうした接続を徹底的に断つか、彼女が注目する前にすべてを終わらせるか。

 

 あるいは、彼女の関心から偶然にも外れている必要があった。

 

 それは、恐るべき努力を要する。

 

 そして、もう一つ。

 

 ステラが何を大切にしているのか。

 

 それを知っている者ほど、彼女に対して慎重でなければならなかった。

 

 だが、他国の諜報機関は、その点を見誤った。

 

 ステラの技術を手に入れたい。

 

 彼女の能力を分析したい。

 

 可能なら、彼女本人を確保したい。

 

 そのために、彼らは新たな手段を考え始めた。

 

 そして、ある日。

 

 彼らは、虎の尾を踏んだ。

 

## 5.カモネギ

 

 ライアンは、久しぶりに以前勤務していた町へ戻っていた。

 

 元の警察署に用事があったのだ。

 

 仕事を終えたあと、懐かしさもあって町を少し散策していた。

 

 この町で過ごした時間は長い。

 

 ステラと関わるようになってからは、何かと騒動に巻き込まれたものだが、それでも思い出のある場所だった。

 

 ただし、ライアン自身は気づいていなかった。

 

 自分が、すでに他国の諜報機関から重要人物として認識されていたことに。

 

 ステラの関係者として、ライアンの顔は知られていた。

 

 彼は、ステラが関わった事件の多くに顔を出している。彼女との関係も深く、今では保護者のような立場にある。

 

 諜報員たちは、以前からライアンへの接触を狙っていた。

 

 だが、基地周辺へ踏み込むと、なぜか諜報活動そのものが成立しなくなる。

 

 接触相手との連絡が途絶える。

 

 監視対象を見失う。

 

 情報を持ち帰ろうとした者が、突然、任務を放棄する。

 

 理由は分からない。

 

 分からないからこそ、恐ろしい。

 

 半ば諦めていたところへ、ライアンが町に現れた。

 

 彼らにしてみれば、思いがけない好機だった。

 

 まさに、カモネギである。

 

 しかも、今回の計画は、事前に練り上げられたものではなかった。

 

 目の前に標的が現れた。

 

 ならば、今すぐ確保する。

 

 その場の判断で動いたことが、彼らの命取りとなった。

 

 彼らの誤算は、ライアンに護衛がついていたことだった。

 

 研究班は、ステラの友人や関係者に危害が及ぶ可能性を考慮し、基地の外へ出る際には護衛をつけるようにしていた。

 

 ライアン本人は、そこまで大げさな対応を必要とは思っていなかった。

 

 だが、軍はそう考えていなかった。

 

 結果として、誘拐を試みた諜報員たちと護衛の間で銃撃戦が始まった。

 

 そして――。

 

 ライアンが撃たれた。

 

 銃弾を受け、彼の身体が崩れ落ちる。

 

 護衛が叫び、銃声が響き、周囲の人々が悲鳴を上げた。

 

 その瞬間だった。

 

 **ドォンッ!**

 

 地響きが町を揺らした。

 

 道路に、巨大な影が降り立った。

 

 空から現れたステラだった。

 

 彼女は、着地と同時に周囲を見渡した。

 

 そして、倒れているライアンを見た。

 

 ほんの一瞬。

 

 その赤い瞳が、ライアンの身体を確認する。

 

 次の瞬間には、彼女は動いていた。

 

 諜報員たちが銃を向ける間もなかった。

 

 ステラの腕が振るわれる。

 

 人間の身体が吹き飛ぶ。

 

 車両が潰れる。

 

 逃げようとした者が、文字どおり地面に叩きつけられる。

 

 銃声は、ほとんど意味をなさなかった。

 

 彼らは、ライアンを誘拐しようとした。

 

 その結果、ステラの前に立つことになった。

 

 それだけだった。

 

 数秒後、道路は静かになった。

 

 ステラは、ライアンのそばにいた護衛へ視線を向けた。

 

「……お父さんを、お願いね」

 

 その声には、怒りも悲しみも感じられなかった。

 

 ただ、平坦だった。

 

 護衛は、返事をすることさえ忘れていた。

 

 目の前にいる少女が何をしたのか、理解が追いつかなかったのだ。

 

 ステラは、それ以上何も言わなかった。

 

 再び空へ舞い上がり、その場を去っていった。

 

 まるで、用事を一つ済ませただけのように。

 

## 6.警告

 

 後になって、研究班はステラが何をしたのかを把握した。

 

 あの日、あの町で、数十人の人間が死んだ。

 

 ライアンを誘拐しようとした者たちだけではない。

 

 事件の関係者と見なされた人間たちも、次々と襲撃されていた。

 

 軍と政府は、目撃者が多かったこともあり、事態の収拾に苦労することになった。

 

 映像も残されていた。

 

 巨大な影が空から降り立ち、少女の姿をした存在が人間たちを圧倒する。

 

 それは、各国の諜報機関にとって、恐るべき警告となった。

 

 そして、警告を発したのがステラ本人だったことも、重要だった。

 

 彼女は、目撃者を残した。

 

 事件を隠すことよりも、何が起きたのかを他者に理解させることを優先したかのように。

 

 もちろん、真意は分からない。

 

 ただ、結果として、各国の関心は3号機からステラ本人へと移っていった。

 

 ロボットの技術を手に入れる。

 

 そのためにステラへ接触する。

 

 そうした計画は、以前よりも慎重に検討されるようになった。

 

 彼女の関係者を狙うことが、どれほど危険なのか。

 

 今度は、誰もが知っていた。

 

 だが、知っていることと、理解していることは違う。

 

 彼らが本当に理解したかどうかは、また別の話だった。

 

## 7.お見舞い

 

 数日後。

 

 基地の軍病院に入院していたライアンのもとへ、二人の見舞客がやってきた。

 

「きたよ♪」

 

「失礼します」

 

 ステラとジーミーだった。

 

 ライアンは、ベッドの上から顔を向けた。

 

「おう。来てくれたのか」

 

「お父さん、大丈夫?」

 

 ステラは、心配そうに顔を覗き込んだ。

 

ジーミーも

「心配しました。無事でよかったです」

 

「ああ、心配かけたな」

 

 ライアンは苦笑した。

 

「もう、気をつけないとダメなんだからね!」

 

 ステラが、少し頬を膨らませた。

 

「本当に心配したんだからね!」

 

「……おう?」

 

 ライアンは、目を瞬かせた。

 

 ジーミーも固まっていた。

 

 何だ?

 

 今、何が起きている?

 

 ステラが、心配した?

 

 いや、心配すること自体は不思議ではない。

 

 だが、今の言い方は何だ。

 

 声の調子も、表情も、あまりにも自然だった。

 

 まるで、本当に父親の怪我を心配する娘のように。

 

「……誰?」

 

 ライアンが、思わず口にした。

 

「えっ?」

 

 ジーミーが、ぎょっとした顔でライアンを見る。

 

「いや、俺も分からない!」

 

 二人の間に、急速に混乱が広がった。

 

 目の前にいるのは、確かにステラだ。

 

 顔も声も、いつものステラ。

 

 だが、何かがおかしい。

 

 何かが決定的に違う。

 

 その間にも、ステラは持参した袋を取り出していた。

 

「お見舞いを持ってきたから、今から切るね!」

 

 彼女は、袋からリンゴを取り出した。

 

「お父さん、リンゴ好きかな? たくさん食べてね♡」

 

 ……怖い。

 

 これは怖い。

 

 ライアンとジーミーは、目の前で繰り広げられる光景に、別の意味で震え上がっていた。

 

 ステラは、慣れた手つきでリンゴの皮を剥き始めた。

 

 刃物を扱う動きは滑らかで、無駄がない。

 

 そして、剥き終えたリンゴを、見事なウサギの形に切り分けた。

 

「はい、お父さん。食べて♪」

 

 差し出されたリンゴ。

 

 満面の笑顔。

 

 完璧な娘。

 

 ……いや、待て。

 

 誰だ、お前は!

 

 ライアンは、ジーミーのほうへ顔を向けた。

 

「おい、ジーミー!」

 

「はい!」

 

「誰なんだ、こいつは!」

 

「俺が聞きたいです!」

 

「俺を嵌めたいのか!?」

 

「違います! 本当に知らないです!」

 

 ジーミーも、半ば叫んでいた。

 

 来る途中までは、いつもの姉さんだった。

 

 少なくとも、ジーミーの知っているステラだった。

 

 それが病室に入った途端、どうしてこうなった。

 

 二人が混乱している間も、ステラはにこにことリンゴを差し出している。

 

「お父さん?」

 

「…………」

 

 ライアンの額に、冷たい汗が浮かんだ。

 

 そして、ついに耐えきれなくなった。

 

 彼は枕の下に手を伸ばした。

 

 そこには、護身用の拳銃があった。

 

 抜けば、何かが分かるかもしれない。

 

 少なくとも、目の前の状況を打開するきっかけにはなる。

 

 ……いや、ならない。

 

 彼の手が銃に触れた、その瞬間。

 

 ステラが動いた。

 

 ライアンが引き抜くより早く、彼女はその手を押さえていた。

 

「うふふ♪」

 

 いつもの声だった。

 

 いつもの笑顔だった。

 

「撃たれた罰さ♪」

 

「……は?」

 

「これに懲りたら、もっと自分をいたわりな♪」

 

 ステラは、ライアンの手をそっと離した。

 

「お父さんが撃たれた瞬間、私がどれだけ心配したと思っているね?」

 

 彼女は、少しだけ声を低くした。

 

「お父さんの命は、お父さんだけのものじゃないのさ!」

 

 ライアンは、言葉を失った。

 

「気をつけなよ、本当に!」

 

 ステラは、再び笑顔になった。

 

「退院まで毎日絡みに来るから、早く退院してね♪ お父さん♡」

 

 そう言って、彼女はジーミーを促し、病室を出ていった。

 

 ドアが閉まる。

 

 静寂が訪れた。

 

 ライアンとジーミーは、しばらく何も言えなかった。

 

「……なあ、ジーミー」

 

「はい」

 

「今の、何だったんだ?」

 

「……分かりません」

 

 二人は、顔を見合わせた。

 

 その日、ライアンは、妙に暖かい気持ちで過ごすことができた。

 

 少なくとも、病室を出ていくステラの笑顔を思い出す限りは。

 

 翌日、研究班のセキュリティー担当者から事件の顛末を聞かされるまでは。

 

## 8.お父さんの命は、お父さんだけのものじゃない

 

 翌日。

 

 ライアンは、研究班のセキュリティー担当者から、事件の詳細な報告を受けた。

 

 そして、気持ちが氷点下まで冷え込んだ。

 

 ライアンが襲撃された直後、ステラは学校の運動場から現場へ到着していた。

 

 その時間は、わずか二分以内。

 

 距離を考えれば、通常の移動手段では説明がつかない。

 

 さらに、現場に到着したステラは、襲撃者たちを即座に殺害していた。

 

 それだけではない。

 

 その後も、事件の関係者と判断した者たちが、次々と同じ目に遭っていた。

 

 ジーミーの一件と同じだった。

 

 ただし、今回は出発時と到着時に、少しだけ違いがあった。

 

 ジーミーの事件では、ステラが飛び出した際に家屋が半壊し、現場へ到着したときには地面が陥没していた。

 

 今回は、そのような損傷が確認されていない。

 

 移動方法が変わったのか。

 

 力の加減を調整したのか。

 

 あるいは、単純に優先順位が違ったのか。

 

 分からない。

 

 分からないが、少なくとも、ステラは以前よりも周囲への被害を抑えるような動きを見せていた。

 

 それが成長なのか、学習なのか、あるいは別の理由なのか。

 

 判断できる材料はなかった。

 

 そして、もう一つ。

 

 病室での言葉。

 

 **『お父さんの命は、お父さんだけのものじゃない』**

 

 担当者は、その言葉を重要な警告として記録していた。

 

 ライアン本人に向けられた言葉。

 

 しかし、それだけではない。

 

 ステラが大切だと考えている人物に危害が加えられたとき、彼女の怒りがどこへ向かうのか。

 

 襲撃者だけに向かうとは限らない。

 

 守れなかった者。

 

 危険を予測できなかった者。

 

 場合によっては、彼女が信頼していた組織そのものに向かう可能性もある。

 

 それを考えれば、今後の対応を見直す必要があった。

 

 研究班は、ステラの交友関係を改めて調査し、関係者の危険度と保護の優先順位を整理することにした。

 

 これまでは、ジーミー以外の人物に対して、ステラがここまでの行動を取るとは考えられていなかった。

 

 だが、今回の一件で、その認識は改める必要がある。

 

 ステラは、ライアンを大切に思っている。

 

 それは間違いない。

 

 そして、彼を傷つけた者たちに対し、彼女は容赦しなかった。

 

 問題は、その「大切に思う」という感情が、我々の理解する人間の感情と、どこまで同じなのかということだった。

 

 結論は、出なかった。

 

 ただ、対策は決まった。

 

 まず、基地の外へ出る際の護衛体制を強化する。

 

 幸い、今回の事件は暗殺ではなく誘拐が目的だった。基地から離れるときに重点的な警護を行えば、一定の対策は可能だろう。

 

 そして、護衛対象の優先順位。

 

 一番は、これまでどおりジーミー。

 

 二番は、ライアン夫妻、廃材屋のお兄さん、吉田チーフ、そして学校の友人である南原一家。

 

 ここまでは、ステラが報復行動に出る可能性が高い関係者として保護する。

 

 南原少将には、私から説明しておこう。

 

 そう判断した将軍は、少しだけ考え込んだ。

 

 ……この話を聞いた南原少将が、ステラへの好感度をさらに上げ、南原家への招待頻度を増やすことになるとは、この時点では誰も予想していなかった。

 

 三番目は、私を含む研究班。

 

 可能性は低い。

 

 だが、何らかの報復行動を取られる可能性は否定できない。

 

 その後、会議では、ステラの交友関係が思いのほか狭いことが、少しだけ救いとして扱われた。

 

 ……それを救いと呼んでいいのかは、疑問だったが。

 

## 9.コミュ障の交友関係

 

「はっはははは!」

 

 吉田チーフが、大声で笑った。

 

「あいつ、我々に対してどういう行動を取るかはともかく、学校での様子を見る限り、実はコミュ障ですからね! はっははは!」

 

 会議室に、微妙な空気が流れた。

 

 心理学者の一人が、はっと顔を上げた。

 

 何かに気づいたようだった。

 

 だが、すぐに視線を落とした。

 

 ……触らぬ神に祟りなし。

 

 その判断は、正しかった。

 

 将軍は、吉田チーフをじっと見た。

 

「……吉田君」

 

「はい?」

 

「君は、ステラに何か余計なことを言わなかっただろうね?」

 

「……え?」

 

 吉田の笑顔が、少しだけ引きつった。

 

 将軍は、何も言わなかった。

 

 ただ、深いため息をついた。

 

 その頃。

 

 ステラは、自分の作業台で部品を組み立てていた。

 

 周囲には、いつものように監視用のカメラが設置されている。

 

 彼女は手を動かしたまま、誰にともなく話し始めた。

 

「うふふ♪」

 

 観察室の担当者たちが、同時に顔を上げた。

 

「将軍は、よく分かっているねぇ♪」

 

 ステラは、楽しそうに笑った。

 

「さすがに付き合いが長いと、よく分かっているねぇ♪」

 

 部品を一つ、作業台に置く。

 

「言っておくけど、将軍も二番手だよぉ♪」

 

 にこり。

 

「気をつけるんだよぉ♪」

 

 観察室が静まり返った。

 

 将軍は、彼女の言葉を聞いたのだろうか。

 

 いや、聞かせるために話しているのだ。

 

 ステラは、こちらが見ていることを知っている。

 

 知ったうえで、わざと聞こえるように話している。

 

「しかし……」

 

 彼女は、作業の手を止めた。

 

「吉田君は、お仕置きだね♪」

 

 うふふ。

 

 うふふふ。

 

 その笑い声が、観察室のスピーカーから流れた。

 

 ステラは、作業台のそばに転がっていたボルトを拾い上げた。

 

 そして、カメラに向かって、ゆっくりと握り締める。

 

 金属が、歪んだ。

 

 次の瞬間。

 

 ボルトは、彼女の手の中で潰れていた。

 

「吉田君は、このボルトより頑丈かなぁ?」

 

 うふふ♪

 

 観察室では、誰も口を開かなかった。

 

 録画映像は、すぐにヨークシャー将軍のもとへ送られた。

 

 あまりにも鮮明な映像だった。

 

 声も、表情も、握り潰されたボルトも、すべてがはっきりと映っている。

 

 まるで、将軍に見せることを前提に撮影されたかのようだった。

 

 将軍は、映像を見て、内心で喜んだ。

 

 少なくとも、自分に向けられた警告は、あの程度で済んでいる。

 

 一方、吉田チーフは、映像を見せられた瞬間、顔色を失った。

 

 そして、無駄だと分かっていながら、必死に逃げ道を探し始めた。

 

 しばらくの間、吉田チーフの周囲には誰も寄りつかなかった。

 

 研究班の人間たちは、彼の肩を叩いて励ますことすら避けていた。

 

 ……余計なことを言ったのは、彼なのだから。

 

## 10.お菓子とボルト

 

 結局、吉田チーフは悟った。

 

 逃げても無駄だ。

 

 隠れても無駄だ。

 

 ステラがその気になれば、どこにいようと見つかる。

 

 そもそも、彼女は自分に会いに来るつもりなのだ。

 

 ならば、できることは一つしかない。

 

 吉田は、ステラとジーミーが好きそうなお菓子を大量に用意した。

 

 そして、ステラを研究室へ招き、できる限り丁寧にもてなした。

 

「いやあ、ステラ。今日はよく来てくれたね」

 

「うふふ♪ お邪魔しまぁす♪」

 

 ステラは、いつもどおりの笑顔で椅子に座った。

 

 机の上には、菓子が山のように積まれている。

 

「おお、これはすごいねぇ♪」

 

「ジーミー君の分もあるよ」

 

「わあ、ありがとうございます」

 

 ジーミーが礼を言う。

 

 吉田は、引きつった笑顔を保ちながら、二人に菓子を勧めた。

 

 ステラは一つ口に運び、満足そうにうなずいた。

 

「うふふ♪」

 

 それから、吉田の肩を叩いた。

 

 バシッ。

 

「やっぱり吉田君は、分かっているねぇ♪」

 

 バシッ。

 

「良かったよ!」

 

 バシッ。

 

「私は『コミュ障』で友達が少ないからねぇ♪」

 

 バシッ。

 

 吉田の肩が、叩かれるたびに揺れた。

 

「数少ない友達を、手にかけなくて済んで♪」

 

 にこり。

 

 ……。

 

 吉田は、笑顔を保ったまま固まっていた。

 

 ステラは、懐から何かを取り出した。

 

 机の上に、ことりと置く。

 

 先ほど、監視カメラに向かって握り潰したボルトだった。

 

 歪み、潰れ、もはや元の形を留めていない。

 

「うふふ♪」

 

 ステラは、それを指先で転がした。

 

「うふふふ♪」

 

 そして、あっはははは、と楽しそうに笑った。

 

「……ところで」

 

 吉田は、喉を鳴らした。

 

「そのボルトは、どうするんだい?」

 

「ん?」

 

 ステラは、ボルトを拾い上げた。

 

「ああ、これ?」

 

 彼女は、ジーミーのほうを向いた。

 

「ジーミーのお土産にもらっておくね♪」

 

「……え?」

 

 ジーミーが困ったように笑った。

 

 ステラは、吉田に向かって、もう一度にこりと笑った。

 

 その後、彼女は上機嫌で帰っていった。

 

 吉田チーフは、二人の姿が見えなくなるまで、椅子から立ち上がれなかった。

 

 そして、ようやく息を吐いた。

 

 ……助かった。

 

 少なくとも、今日のところは。

 

 強者に対して、口は禍の元。

 

 それは、いつの時代も変わらない真理だった。

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