# アイドル編――怪物の演算限界
ステラにとって、頭の痛い問題があった。
アメリヤ星系である。
さまざまなしがらみが絡み合い、処理したくても処理できない。ステラにとっては、実に厄介な問題だった。
ステラが有名になればなるほど、その話題は当然ながらアメリヤにも届く。
そして、二百万の亡霊が首を傾げ、ステラへ襲いかかってくるのだ。
なぜ、あの少女が称賛されているのか。
なぜ、あれほどのことをした人間が、何事もなかったかのように笑っているのか。
なぜ、自分たちの大切な人々を奪った存在が、幸福そうに暮らしているのか。
彼らの疑問は、怒りと結びつき、憎悪となって膨れ上がる。
現在も、アメリヤ星系ではステラに関するネガティブな話題が溢れ返っていた。
それらを流そうとする人間も、引っ切りなしに現れる。
ステラが活躍するたびに、過去の戦闘が掘り返される。彼女が笑えば、その笑顔を不謹慎だと責める者が現れる。彼女が誰かに愛されていると知れば、その愛情そのものを欺瞞だと決めつける者もいる。
もちろん、アメリヤ以外なら、そんな人間はいくらでも処理できた。
発信者を特定し、危険度を評価し、必要ならば排除する。情報を改変し、拡散経路を断ち、二度と同じ問題が起きないように対処する。
難しいことではない。
少なくとも、以前のステラにとっては。
しかし、アメリヤ星系では事情が違った。
些細なことでも疑われるほど、ステラの能力について、嘘や誇張を含めて広く知られてしまっているのだ。
そして、それを広めたのは、皮肉にもステラの知人たちだった。
ステラ研究班は、共同研究という名目でアメリヤ星系の人間を大量に受け入れていた。
彼らは研究施設を訪れ、技術者たちと交流し、ステラについての情報を得ていく。
研究班の人間たちは悪気なく話す。
ステラの能力がどれほど規格外なのか。
どんな常識が彼女には通用しないのか。
彼女が本気になれば、何が起こり得るのか。
もちろん、すべてを話したわけではない。
それでも、断片的な情報が集まれば、十分に恐ろしい人物像が出来上がる。
その結果、アメリヤでは、ステラが何かを操作しただけで疑われかねない状況が生まれていた。
実際に操作していなくても、疑われる。
操作すれば、なおさら疑われる。
疑いが広がれば、他国も調べ始める。
他国が調べ始めれば、今まで隠してきたものまで見つかる可能性がある。
だからこそ、ステラは動けなかった。
そこでヨークシャー将軍が動いた。
将軍からアマテラス政府へ。
アマテラス政府からアメリヤ政府へ。
さらに、それぞれの担当部署を経由し、関係者との協議を重ねていく。
何段階もの手続きを挟み、ようやく対応が進む。
だが、遅い。
圧倒的に遅い。
ひとつの情報が拡散される間に、何度も会議が開かれる。
ひとつの問題に対応している間に、別の問題が生まれる。
対応方針が決まったころには、世間の関心は別の話題へ移っている。
その間にも、ネガティブな情報は増え続ける。
無駄の極みだった。
こんなことなら、星系ごと滅ぼしておけばよかった。
……本気で、そう思った。
いや、正確には。
かつての自分なら、間違いなくそうしていた。
そのほうが早い。
確実だ。
余計な手間もかからない。
それなのに、今の自分は、それができない。
私は、自分の変化を理解していた。
理解しているからこそ、腹立たしかった。
*
ステラにできることは、ひとつだけだった。
アメリヤから発信される悪意ある情報を、改変し、変質させ、無害化する。
発信そのものを止めるのではない。
情報の流れを根こそぎ断つのでもない。
内容をわずかに変え、攻撃性を薄め、拡散したとしても大きな問題にならない形へと変える。
それが、今のステラに許された限界だった。
これ以上のことをすれば、必ず疑われる。
一度でも疑問を持たれれば、調査が始まる。
アメリヤで生じた疑問は、やがて他国へも向けられるだろう。
そうなれば、ステラがこれまで何をしてきたのか。
どこまで情報を操作しているのか。
どれほどの人間を、どんな理由で排除してきたのか。
それらが露見するのも時間の問題だった。
……そうなったら。
愛する人たちとの関係が、変わってしまうかもしれない。
私は、処理の手を止めた。
今までなら、そんなことを考えたこともなかった。
誰かに何かを知られたところで、どうということはない。
理解されなくても構わない。
恐れられたところで、困ることなどなかった。
自分が何者であるかを、他人に認めてもらう必要などなかったからだ。
けれど、今は違う。
ジーミーがいる。
お兄さんがいる。
ライアンがいる。
将軍がいる。
南原家の両親がいて、美咲お姉ちゃんがいて、静香がいる。
私を心配し、怒り、笑い、時には頭を撫でてくれる人たちがいる。
彼らが私をどう見ているのか。
私の何を知っていて、何を知らないのか。
もし、すべてを知ったら、どうするのか。
私は、考え始めてしまった。
考えずにはいられなかった。
そして、その思考が、少しずつ演算能力を圧迫していった。
アメリヤへの対処に必要な処理能力が不足しているわけではない。
問題は、別のところにあった。
私は、アメリヤの情報を改変しながら、その結果が大切な人たちとの関係に与える影響を計算していた。
情報を操作すれば、疑われる可能性が増す。
操作を控えれば、悪意ある情報が広がる。
悪意ある情報が広がれば、周囲の人間が心配する。
周囲の人間が心配すれば、私について調べるかもしれない。
調べられれば、隠しているものが見つかるかもしれない。
では、どこまで操作すればいい?
どこまでなら許される?
どこから先は、やりすぎなのだ?
そもそも、私は何を守ろうとしている?
自分の秘密か。
今の生活か。
それとも、私を愛してくれる人たちの心か。
答えは出なかった。
演算を重ねるほど、可能性が増えていく。
可能性が増えるほど、選択肢が増えていく。
選択肢が増えるほど、決められなくなっていく。
私の表情から、少しずつ笑顔が消えていった。
*
そして、綻びが生まれた。
最初は、ごく小さなものだった。
改変しきれなかった情報。
処理の遅れた発信。
予定していた経路から外れた情報の拡散。
どれも、単独なら大した問題ではない。
だが、それらが積み重なっていく。
ステラの管理下から、少しずつ外れていくものが増えていった。
アメリヤ以外からも、ステラに関するネガティブな情報が流れ始める。
それまでなら、即座に対処できたはずのものだった。
しかし、今は違う。
情報を処理するたびに、私は考えてしまう。
これを消したら、誰かが疑問を持つのではないか。
この発信者を排除したら、誰かが不審に思うのではないか。
ここで手を引いたら、今までの処理との整合性が崩れるのではないか。
考える必要のないことまで、考えてしまう。
考えなくてもいいことまで、考え続けてしまう。
以前なら、そんなことはなかった。
ジーミーとお兄さん。
あのころの世界は、驚くほど単純だった。
ジーミーがいて、お兄さんがいて、私がいる。
守るべき相手はジーミー。
付き合いのある人間はお兄さん。
それだけだった。
ヨークシャー将軍と直接話すようになり、ライアンと知り合い、研究班と関わり、学校へ通い始めた。
人間関係は、ひとつずつ増えていった。
そして今では、南原家の家族までいる。
私を大切に思ってくれる人が増えるたびに、守りたいものが増えた。
失いたくないものも増えた。
同時に、彼らを失う可能性について考える回数も増えていった。
人間なら、適当なところで考えるのをやめるのだろう。
これ以上考えても仕方がない。
あとは、なるようになる。
そう割り切ることもできるはずだ。
アンドロイドなら、そもそも考えないかもしれない。
設定された目的に従って、最適解を選び続けるだけだ。
だが、私は違った。
際限なく高性能な演算能力を持ち、考えようと思えば、どこまでも考え続けられる。
その能力が、今は私自身を追い詰めていた。
人間関係が増えるたび、考慮すべき可能性が増える。
考慮すべき可能性が増えるたび、必要な演算は膨れ上がる。
そして、答えを出そうとすればするほど、新しい問題が生まれていく。
皮肉な話だった。
私を怪物たらしめている能力が、私を人間らしくしたものによって、機能不全に陥りかけている。
表情が消えていった。
会話がぎこちなくなっていった。
家でも、学校でも、仕事の場でも。
私は以前のように笑えなくなっていた。
それでも、やるべきことはやった。
引き受けた以上、途中で投げ出すという選択肢はなかった。
無理をしてでも、最後までやり遂げる。
それが私のやり方だった。
……もっとも。
そんな私の姿を見て、心配しない人間など、南原家にはいなかった。
*
実のところ、研究班では、ステラの暗躍がすでに可能性のひとつとして議論されていた。
ただし、彼らは確証を持っていたわけではない。
論理的に説明できる証拠があったわけでもなかった。
何となく、おかしい。
物事が、うまく行きすぎている。
ステラに都合がよすぎないか。
そうした、漠然とした違和感だった。
彼らは論理的思考を重んじる人間たちだった。
だからこそ、逆に気づくことができた。
どれほど優秀な人間でも、すべてを都合よく進めることなどできない。
どれほど綿密な計画を立てても、予想外の事態は起きる。
それなのに、ステラの周囲では、彼女に不都合な事態が不自然なほど早く解消されていく。
もちろん、彼女の能力を考えれば不可能ではない。
だが、可能であることと、実際にそうしていることは別だ。
彼女は、そこまでしているのだろうか。
そこまでして、何を守ろうとしているのだろうか。
研究班の人間たちは、疑問を抱き始めていた。
しかし、彼らはその疑問を決して口に出さなかった。
少なくとも、普通の場所では。
議論の場に選ばれたのは、トイレの個室だった。
映像機器が設置されていない場所。
それぞれが個室に入り、扉の内側に貼り紙をする。
そこへ書かれた内容を読み、返事を書き、次の人間へ回す。
音声は使わない。
マイクがどこに設置され、何に使われているのか、完全には把握できないからだ。
筆記音にさえ細心の注意を払った。
電子機器は持ち込まない。
持ち込めば、ステラに読まれる可能性がある。
そもそも、持ち込むという発想自体を捨てた。
彼らは、ステラが知覚し得るあらゆる手段を避けながら、少しずつ議論を進めていった。
もしステラに、普段どおりの演算能力があれば。
彼らの行動に気づいたかもしれない。
トイレに行くとき、パッドや携帯端末を外していく者が多すぎる。
なぜだ?
普段なら持ち歩くはずのものを、なぜわざわざ置いていく?
そこから疑問をたどれば、答えにたどり着くのは難しくなかっただろう。
だが、今のステラは違った。
自分自身の問題に、演算能力を奪われていた。
研究班の人間たちが、どんな議論を重ねているのか。
彼女は気づかなかった。
*
そして、議論が深まりつつあるころ。
ステラの変化が、誰の目にも明らかになった。
ステラに関するネガティブな発信が増える。
それに比例するように、彼女の表情が消えていく。
研究班は、過去の記録と現在の状況を比較した。
統計を取ると、明確な相関関係が見つかった。
アメリヤ星系からのネガティブな発信が増えるほど、ステラの表情が失われていく。
会話の応答速度も、わずかに変化していた。
表情の変化。
会話のぎこちなさ。
情報処理の偏り。
それらを総合して、研究班はひとつの仮説にたどり着いた。
アメリヤ星系からのネガティブな発信を改変し、変質させる作業に、ステラの演算能力が追いつかなくなっているのではないか。
彼らは、そう考えた。
だが、それは間違いだった。
ステラの演算能力が不足しているわけではない。
単純な処理能力なら、まだ余裕があった。
彼女を追い詰めていたのは、人間関係だった。
正確には、人間関係を失う可能性を考え続けることだった。
研究班には、その発想がなかった。
どれほど高性能な機械であっても、処理能力には限界がある。
だから、処理が滞っているのなら、処理量が限界を超えたのだろう。
彼らは、そう考えた。
だが、ステラは機械ではない。
少なくとも、単純に計算能力の限界だけで説明できる存在ではなかった。
彼女は、自分の望む未来を選ぼうとしていた。
大切な人たちを失わず、自分の秘密を守り、アメリヤの問題を解決し、今の生活を維持する。
すべてを同時に実現する方法を探していた。
その結果、いつまでも答えを出せずにいた。
*
そこで、研究班はステラに提案した。
十分な成果は得られた。
今後は、研究開発活動をいったん縮小し、しばらくアメリヤ対策に集中してはどうか。
対外的な活動を減らし、取材や公演も整理する。
無理に新しい仕事を引き受ける必要はない。
今ある成果をまとめ、必要な対応を進める時間を確保する。
研究班としては、ステラの負担を減らすための提案だった。
そして、この提案を最も喜んだのは、南原家だった。
活動が忙しくなるにつれ、家でも、学校でも、仕事の場でも、ステラの表情が消えていった。
会話はぎこちなくなり、笑顔も少なくなった。
明らかに無理をしている。
それは、誰の目にも分かるほどだった。
南原夫妻は、ずっと心配していた。
ステラは、一度引き受けたことを簡単には投げ出さない。
自分がどれだけ無理をしていても、最後までやり遂げようとする。
それは立派なことかもしれない。
しかし、両親としては、そんな娘を見ているのがつらかった。
だからこそ、活動縮小の提案はありがたかった。
ようやく、この子に休む時間を与えられる。
ようやく、家で一緒に過ごす時間が戻ってくる。
南原夫妻にとって、それだけで十分だった。
ステラも、依頼元から正式に指示があれば、従うことに異論はなかった。
ただし、撤収には時間をかけた。
これまでの活動に不自然な痕跡を残さないよう、完璧な隠蔽処置を行う。
関係者への説明を整え、情報の流れを整理し、今後の対応に問題が生じないようにする。
最後まで、手を抜くことはなかった。
そして、ようやく。
ステラは、対外的な活動を縮小した。
*
アメリヤ対策は、方針を変えた。
アメリヤからのネガティブな発信を、できるだけアマテラスへ向かわせる。
そのための宣伝工作を行い、アメリヤ側の不満や批判が、アマテラス側の話題として消費されるように誘導する。
もちろん、アマテラスへ入る前の段階では、危険性の高い情報を緩やかに処理した。
それ以上の操作は控える。
あとは、アマテラス側のネットユーザーに任せる。
彼らは彼らの考えで情報を受け取り、反論し、議論し、時には笑い飛ばす。
ステラがすべてを制御する必要はない。
情報の流れを少し変え、あとは人間たち自身に任せる。
それは、以前のステラなら選ばなかった方法だった。
もっと直接的で、もっと確実で、もっと短時間で解決する手段があったからだ。
だが、今回は違った。
完璧に支配するのではなく、多少の不確実性を受け入れる。
すべての情報を制御するのではなく、人間たちに任せられる部分を残す。
それが、今のステラにとって必要なことだった。
やがて、少しずつ変化が現れ始めた。
ステラの表情が戻ってきた。
あの、愛嬌のある美人の顔。
人形のように冷たい表情ではなく、周囲の人間を見て、笑い、ふざけ、時には悪戯っぽく目を細める顔。
南原家に、笑顔が戻った。
美咲が話しかければ、ステラは以前のように反応する。
ジーミーと口喧嘩をし、静香にからかわれ、両親に甘える。
少しずつ、いつもの日常が戻ってきた。
南原夫妻は、心から安堵した。
ステラは、自分の変化を振り返った。
無理をしていた。
それは間違いない。
引き受けた仕事を最後までやり遂げようとした。
大切な人たちとの関係を失わないように、すべてを計算しようとした。
その結果、自分自身を追い詰めた。
……反省しなければならないねぇ。
私は、そう考えた。
ただし、反省したからといって、急に殊勝な人間になるわけではない。
そもそも、私は人間ではないのだから。
それからというもの、私は、今まで以上にお兄さんたちへ絡みに行くようになった。
「お兄さーん♪ 遊びに来たよー♪」
「お前、また何かやらかしたのか?」
「失礼だねぇ♪ 今日は何もしてないよ♪」
「今日は、だろうが!」
そんな会話が戻ってきた。
ライアンにも絡みに行った。
吉田チーフにも絡みに行った。
研究班の人間たちにも、以前と同じように遠慮なく絡んだ。
彼らは、少しだけ安心した。
いつものステラが戻ってきた。
そう思ったのだ。
だが、彼らは知らない。
ステラが、今回の一件で何を学んだのか。
何を恐れ、何を失いたくないと思い、どこまで自分を追い詰めたのか。
そして、彼女が今後、同じ失敗を繰り返さないために、どんな方法を選ぶようになるのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
ただひとつ確かなことがある。
日常が戻った。
ステラにとっても。
彼女を愛する人々にとっても。
そして、その日常が、どれほど危うい均衡の上に成り立っているのかを理解している者は、ほとんどいなかった。