よろず屋ステラ   作:かえるけろけろ

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将軍

### 第十章 ふふん♪

 

お兄さんとの話し合いのあと。

 

ステラは、何事もなかったように家へ帰った。

 

いつも通り。

 

いつもの道を歩いて。

 

いつもの顔で。

 

いつものように、扉を開ける。

 

「ただいま――」

 

……とは、言わなかった。

 

家の中は静かだった。

 

ジーミーは、まだ帰っていない。

 

「……よし」

 

ステラは小さく呟いた。

 

そして、机の上に紙を一枚置く。

 

『ちょっと用事で出かけます』

 

それだけ。

 

実に簡潔な置き手紙だった。

 

「これでいいかな」

 

少し考えて。

 

その下に一言、付け足す。

 

『お昼には帰るよ♪』

 

これで完璧。

 

ステラは満足そうに頷いた。

 

そして家を出た。

 

向かった先は、敷地の外れ。

 

人目につかない場所だった。

 

そこで、身につけていた衣服を外し、丁寧に隠す。

 

「よし」

 

これで邪魔なものはない。

 

ステラは、そのまま走り出した。

 

時速百キロ。

 

一時間。

 

町の外れから、さらに遠くへ。

 

普通の人間なら、移動手段を考える距離だ。

 

車を使う。

 

列車を使う。

 

あるいは軍用車両。

 

だが。

 

ステラには必要なかった。

 

「ふふん♪」

 

風を切って走る。

 

景色が流れていく。

 

道路も。

 

林も。

 

丘も。

 

全部、後ろへ飛んでいく。

 

そして。

 

一時間ほど経った頃。

 

遠くに見えてきた。

 

軍の駐屯地。

 

町はずれに設けられた、比較的小規模な軍事施設。

 

「見えた」

 

ステラは速度を落とさない。

 

むしろ。

 

そのまま駐屯地へ向かって進む。

 

そして、敷地の手前で。

 

「隠密モード、オン」

 

瞬間。

 

ステラの姿が、世界から消えた。

 

正確には。

 

光学迷彩が働いた。

 

監視カメラから。

 

光学センサーから。

 

人間の視界から。

 

ステラという存在が、認識されなくなる。

 

そのまま、何事もなかったように敷地内へ入る。

 

警備兵の横を通り過ぎる。

 

監視カメラの下を通る。

 

自動警備機の横を通る。

 

誰も気づかない。

 

いや。

 

気づけない。

 

電子錠の前まで来る。

 

ピッ。

 

ステラが近づいただけで、ロックが解除された。

 

「……相変わらずだねぇ」

 

ステラは小さく笑う。

 

この基地の電子機器は。

 

もう、とっくに彼女の側にある。

 

基地内を走る通信。

 

監視システム。

 

認証システム。

 

警備用アンドロイド。

 

施設管理AI。

 

そのすべてが。

 

ステラにとっては、自分の手足と変わらなかった。

 

だから。

 

彼女が歩けば。

 

扉が開く。

 

彼女が進めば。

 

監視が消える。

 

彼女が望めば。

 

電子機器は、彼女の存在を「存在しないもの」として処理する。

 

「便利だなぁ」

 

本人は、実に軽い感想だった。

 

途中。

 

歩哨が一人、目の前に現れた。

 

ステラは、その後ろを通り過ぎようとして。

 

「あ」

 

止まる。

 

「これ、借りよう」

 

次の瞬間。

 

歩哨は静かに倒れた。

 

そしてステラは、彼から制服を借りる。

 

「えらい人に会うんだから、服装はちゃんとしないとね♪」

 

鏡代わりの窓に自分の姿を映す。

 

少しサイズが合わない。

 

「……まあ、いいか」

 

ステラは気にしなかった。

 

隠密モードを解除する。

 

そして。

 

堂々と廊下を歩き始めた。

 

今度は誰もが、ステラを見る。

 

だが。

 

誰も止めない。

 

なぜなら。

 

基地内のシステムそのものが。

 

「この人物は、問題なし」

 

と判断しているからだ。

 

ステラは迷わなかった。

 

基地司令室。

 

一直線。

 

そして。

 

その前に立つ。

 

電子錠。

 

機械錠。

 

二重のロック。

 

「……ふふ」

 

ステラは笑った。

 

電子錠は、もう開いている。

 

残るのは。

 

機械錠。

 

「これは、ちょっと面倒だね」

 

ステラはドアに手をかける。

 

そして。

 

引いた。

 

――ベキッ。

 

鋼鉄製のロックが、あっさりと壊れた。

 

ドアが開く。

 

「こんにちはー」

 

その瞬間。

 

基地司令が立ち上がった。

 

一瞬の判断。

 

軍人としては正しい。

 

机の横から拳銃を抜く。

 

そして。

 

撃った。

 

一発。

 

二発。

 

三発。

 

四発。

 

五発。

 

六発。

 

弾倉が空になるまで。

 

室内に銃声が響いた。

 

だが。

 

ステラは避けなかった。

 

動きもしない。

 

銃弾は、彼女の前で意味を失った。

 

床に落ちる。

 

静寂。

 

基地司令は、空になった拳銃を握ったまま固まっている。

 

ステラは首を傾げた。

 

「……気が済んだ?」

 

基地司令は答えない。

 

ステラは、にこりと笑った。

 

「じゃあ、要望を伝えるね♪」

 

あまりにも普通の口調だった。

 

「ヨークシャー将軍に伝えて」

 

基地司令の顔が強張る。

 

「たまにやる分には、許すよ」

 

ステラは笑顔のまま続けた。

 

「今の状態を程度を続けるなら――」

 

そこで一拍。

 

「ただ、これ以上のエスカレートは私は許さない」

 

基地司令は黙っている。

 

「私の知り合いとか、関係者を傷つけても同じだからね」

 

声は軽い。

 

怒鳴ってもいない。

 

脅しているようにも聞こえない。

 

だが。

 

その言葉には。

 

妙な重さがあった。

 

「それと」

 

ステラが指を一本立てる。

 

「廃材屋のお兄さん」

 

基地司令の表情が変わる。

 

「今まで通り、私の連絡係として働かせてね」

 

「……」

 

「そこは変えないで」

 

ステラは笑った。

 

「以上の点が守られない場合は――」

 

首を傾げる。

 

「暴れるよ♪」

 

あまりにも軽い。

 

あまりにも、いつも通り。

 

だからこそ。

 

基地司令には、それが冗談ではないことが分かった。

 

ステラは満足そうに頷いた。

 

「じゃ、よろしくね」

 

そして。

 

何事もなかったように部屋を出る。

 

基地司令は。

 

その背中を見送るしかなかった。

 

銃弾を撃ち尽くした拳銃を手にしたまま。

 

* * *

 

昼。

 

ステラは家に帰ってきた。

 

「ただいまー」

 

返事がない。

 

「あれ?」

 

ステラは家の中を見る。

 

「ジーミー?」

 

その瞬間だった。

 

「姉さん!」

 

ドンッ。

 

小さな身体が飛び込んできた。

 

ステラは受け止める。

 

「わっ」

 

ジーミーだった。

 

「姉さん……!」

 

声が震えている。

 

「どうしたの?」

 

「……捨てられたと思った」

 

「え?」

 

ジーミーはステラに抱きついたまま、泣いていた。

 

「置き手紙だけで……」

 

「あー……」

 

ステラは思い出した。

 

『ちょっと用事で出かけます』

 

『お昼には帰るよ♪』

 

「……これ?」

 

「これだけ!」

 

「でも、お昼には帰ってきたよ?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

ジーミーが泣きながら叫ぶ。

 

ステラは少し驚いた顔をした。

 

それから。

 

ふっと笑う。

 

「そっか」

 

抱きついてくるジーミーの頭を、そっと撫でる。

 

「捨てられたと思ったんだ」

 

「……うん」

 

「ふふ」

 

なんだか。

 

嬉しかった。

 

自分がいなくなることを。

 

寂しがってくれる。

 

必要としてくれる。

 

それは。

 

ステラにとって、少しだけ嬉しいことだった。

 

「……姉さん」

 

「ん?」

 

「どこ行ってたの?」

 

「秘密」

 

「……また?」

 

「うん♪」

 

ジーミーは、少しだけ顔を上げる。

 

「姉さんって……」

 

「なに?」

 

「いつまで、僕の姉さんなの?」

 

「…………」

 

ステラの笑顔が止まった。

 

これは。

 

予想していなかった。

 

「……難しい質問だねぇ」

 

ジーミーは真剣な顔をしている。

 

ステラは、その頭を撫でながら考えた。

 

いつか。

 

この子も大きくなる。

 

いつまでも「姉さん、姉さん」と追いかけてくるわけじゃない。

 

たぶん。

 

いや。

 

きっと。

 

そのうち。

 

「姉離れ」というものを、させなければならない。

 

……でも。

 

「……もう少しくらいは、いいかな」

 

ステラは小さく呟いた。

 

「ん?」

 

「なんでもないよ♪」

 

そして。

 

もう一度、ジーミーの頭を撫でる。

 

「お昼ご飯、食べようか」

 

「……うん」

 

「今日は何にしようかなぁ」

 

「そば」

 

「また?」

 

「姉さんが好きだから」

 

「ふふん♪」

 

ステラは笑った。

 

基地をひとつ掌握して。

 

将軍に警告して。

 

軍の計画に釘を刺して。

 

それでも。

 

帰ってくれば。

 

ただの姉さんだった。

 

「じゃあ、そばにしよう」

 

「うん」

 

二人は並んで台所へ向かう。

 

ステラは少しだけ考える。

 

――姉離れ。

 

さて。

 

どうしたものかな。

 

「ふふん♪」

 

今日も。

 

よろず屋の一日は。

 

平和だった。

 

おあとがよろしいようで。

 

 

乙女の秘密さ

 

 基地司令は、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。

 

 目の前には、何事もなかったかのような執務室。

 

 ただし、ドアだけがない。

 

 正確には、ドアだったものが床に転がっている。

 

「……意味が分からん」

 

 それが、今の司令に言える唯一の言葉だった。

 

 少女が基地内に侵入した。

 

 どうやって侵入したのかは分からない。

 

 基地の外周センサーは何も検知していなかった。

 

 監視カメラにも、侵入の記録はない。

 

 電子錠も作動しなかった。

 

 いや――。

 

 少女が近づくだけで、まるで彼女を迎え入れるように開いた。

 

 そして最後には、司令室のドアを力ずくで破壊して入ってきた。

 

 少女の姿を見た瞬間、司令は反射的に拳銃を抜いた。

 

 考えるより先に撃った。

 

 一発。

 

 二発。

 

 三発。

 

 弾倉が空になるまで。

 

 しかし――。

 

 少女は避けなかった。

 

 いや、避ける必要すらなかった。

 

 放たれた銃弾は少女の身体に触れた瞬間、何か硬いものにでもぶつかったように砕け散った。

 

 床に転がった薬莢。

 

 細かな金属片。

 

 そして、何事もなかったようにこちらを見る少女。

 

 これだけなら、まだ説明はつく。

 

 高度に機械化された兵士なら、似たような芸当は可能だ。

 

 問題は――。

 

 **基地のセキュリティが、一切機能しなかったこと。**

 

 少女が部屋を出た直後、司令は机の下にある緊急通報ボタンを押した。

 

 何度も押した。

 

 反応はない。

 

「……故障か?」

 

 ならば直接、人を呼ぶしかない。

 

 司令は部屋を飛び出した。

 

 そして――。

 

 ガコンッ!

 

「なっ――!」

 

 廊下の緊急隔壁が落ちてきた。

 

 完全に閉じ込められた。

 

 しかも、その隔壁を開けるための操作端末まで沈黙している。

 

 結局、司令が助け出されたのは、それからしばらく経ってからだった。

 

 すぐに基地全体の緊急点検が行われた。

 

 しかし――。

 

 異常なし。

 

 通信系統、異常なし。

 

 監視システム、異常なし。

 

 電子錠、異常なし。

 

 緊急通報装置、異常なし。

 

 隔壁制御、異常なし。

 

 ログにも――。

 

 **何も残っていなかった。**

 

 少女が侵入した記録も。

 

 電子錠が勝手に開いた記録も。

 

 緊急通報を押した記録も。

 

 隔壁が作動した記録も。

 

 何一つ。

 

「……白昼夢だったとでも言うのか」

 

 そう言いたくなる。

 

 だが、現実に残った証拠がいくつかある。

 

 司令室前の隔壁。

 

 あれは確かに落ちた。

 

 床には、自分が撃った弾丸の破片が残っている。

 

 そして――。

 

 服を奪われた士官。

 

 本人は、何も覚えていない。

 

「…………」

 

 司令は頭を抱えた。

 

 こんな報告書を上層部に提出しろというのか。

 

 **少女が基地に侵入しました。**

 

 **セキュリティは少女を認識しませんでした。**

 

 **電子機器は少女の前では正常に機能しませんでした。**

 

 **司令室のドアを素手で破壊されました。**

 

 **拳銃を全弾撃ち込みましたが、効果はありませんでした。**

 

 **その後、基地のセキュリティシステムは何の異常も記録していません。**

 

 ……誰が信じる。

 

 頭が痛い。

 

 本当に頭が痛い。

 

 だが、さらに頭を悩ませているものがある。

 

 ヨークシャー将軍だ。

 

 司令は、先ほどの通信を思い出していた。

 

 少女の話を伝えたとき。

 

 将軍は――。

 

 一瞬だけ、奇妙な顔をした。

 

 恐怖。

 

 それだけではない。

 

 あれは……。

 

「……歓喜?」

 

 そう見えた。

 

 恐怖と、歓喜。

 

 相反する感情が、同時に浮かんだような表情。

 

 そして司令が詳しい指示を求めようとした、その直後だった。

 

『――それ以上はいい』

 

「将軍?」

 

『追って指示する』

 

「ですが――」

 

 そこで通信は切れた。

 

「…………」

 

 司令は天井を見上げた。

 

 軍という組織は、ときどき理不尽だ。

 

 いや。

 

 **ときどきではない。**

 

 今さらながら、しみじみと思う。

 

 自分が何も知らされていない極秘作戦など、珍しくもない。

 

 命令されたから守る。

 

 命令されたから動く。

 

 理由は知らされない。

 

 今回の駐屯地が、極秘作戦――**『パンドラ』計画**のベース基地の一つであることも知っている。

 

 だが、それ以上のことは何も知らされていない。

 

 何を研究しているのか。

 

 何を探しているのか。

 

 何を待っているのか。

 

 そして――。

 

 あの少女が何者なのか。

 

「……知らん」

 

 結局、司令はそう呟くしかなかった。

 

 自分は基地司令なのだ。

 

 だが、何も知らない。

 

 そしてたぶん――。

 

 これからも、知らされない。

 

「……軍っていうのは、本当に理不尽だ」

 

 誰も答えてくれない執務室で、司令は深いため息をついた。

 

     ◆

 

「姉さん……」

 

「ん?」

 

「……もう、どこにも行かない?」

 

 家に戻ったステラは、泣き疲れたジーミーを何とか泣きやませていた。

 

「行かないよ」

 

「本当に?」

 

「本当だよ」

 

「……絶対?」

 

「絶対」

 

「…………」

 

 それでも、ジーミーは離れない。

 

 服を掴んでいる。

 

 手を離そうとすると、さらに強く掴む。

 

「ジーミー」

 

「…………」

 

「お姉さん、廃材屋さんに行きたいんだけど」

 

「一緒に行く」

 

「……そう」

 

「一緒に行く」

 

「分かったよ」

 

 ステラは苦笑した。

 

 完全に折れた。

 

「じゃあ、一緒に行こうか」

 

「うん」

 

 しばらくして。

 

 二人は、いつもの廃材屋の前に立っていた。

 

 ステラが扉を開ける。

 

 すると――。

 

「お兄~さん♪」

 

 店の奥から、廃材屋の兄さんが顔を出した。

 

「……おう」

 

「聞いた?」

 

「何をだ?」

 

「とぼけちゃってぇ」

 

 ステラはニコニコしながら店内を見回した。

 

「これからもよろしくね♪」

 

「…………」

 

 兄さんは、少しだけ苦笑した。

 

「ああ」

 

「じゃぁ――」

 

 ステラは店の奥へ進む。

 

 そして、当然のように言った。

 

「扉の修理の前に、貰うもの貰おうか♪」

 

「……やっぱり来たか」

 

「もちろん」

 

 ステラは満面の笑み。

 

「**つ・け・で♪**」

 

「……はいはい」

 

「ヨシ!」

 

 ステラは店内を見渡す。

 

 そして、目的の物を見つけると、嬉しそうに抱えた。

 

「欲しい物は頂いた!」

 

「早いな、おい」

 

「ふふん♪」

 

 そして――。

 

 ステラは壊れた地下室への扉を見る。

 

「扉、直そうか?」

 

「……いや、俺がやる」

 

「そう?」

 

「ああ」

 

 そこで、ジーミーが兄さんを見上げた。

 

 そして、姉を指差す。

 

「お姉さん、何やったの?」

 

「…………」

 

 兄さんがステラを見る。

 

 ステラも兄さんを見る。

 

 ほんの一瞬。

 

 沈黙。

 

 そして――。

 

 ステラは、いつもの笑顔で。

 

「うふふ」

 

 少しだけ首を傾げた。

 

「**乙女の秘密さ**」

 

「…………」

 

「聞かないでおくれ」

 

 そう言って、ステラは楽しそうに笑った。

 

「ふふん♪」

 

 廃材屋の兄さんは、何も聞かなかった。

 

 聞かないほうがいい。

 

 たぶん、そのほうがいい。

 

 今日もまた、町はずれのよろず屋と廃材屋では――。

 

 何か、とんでもないことが起きている。

 

 だけど。

 

 まあ。

 

 いつものことだ。

 

「おあとがよろしいようで。」

 

 

### 第十二章 パンドラ――機密記録

 

 ヨークシャー将軍は、机の上に一冊の古いファイルを置いた。

 

 表紙には、ただ一つ。

 

**『PANDORA』**

 

 そう記されていた。

 

「そもそも……パンドラ計画とは何だったのか」

 

 誰かが尋ねた。

 

 ヨークシャーはファイルを開く。

 

「兵器開発計画ではない」

 

 意外な言葉だった。

 

「最初の目的は――研究だ」

 

 最初の記録。

 

 そこに書かれていたのは、今から三十七年前の日付だった。

 

---

 

### 『パンドラ』計画・発端

 

 軍の研究施設に、一人の研究者が訪れた。

 

 彼が持ち込んだものは、奇妙なトランクだった。

 

 研究施設の関係者に古い知人がおり、彼はその人物を頼ってやって来た。

 

 そして――。

 

 そのトランクの中に、それはいた。

 

 後に『パンドラ』と呼ばれることになる存在。

 

 しかし。

 

 当時、誰もそれが何なのか知らなかった。

 

 持ち込んだ研究者自身も。

 

 施設の研究者も。

 

 軍も。

 

 そして――。

 

 おそらく、当時の研究所長でさえ。

 

 **それが何なのか、本当の意味では理解していなかった。**

 

 ただ。

 

 簡易的な検査を行った段階で、異常だけはすぐに判明した。

 

 通常の生物では説明できない。

 

 既存の機械でも説明できない。

 

 既存のエネルギー貯蔵装置でも説明できない。

 

 何より。

 

 内部に存在するエネルギー反応が、当時の科学では説明できなかった。

 

 その日のうちに、専門家による研究チームが編成された。

 

 これが三十七年前。

 

 **パンドラ計画の始まりである。**

 

---

 

「つまり……」

 

 白衣の女が画面を見つめる。

 

「最初から、彼女を兵器として作ったわけではない?」

 

「そうだ」

 

 ヨークシャーは答えた。

 

「我々は、彼女を理解しようとした」

 

 だが。

 

 理解できなかった。

 

 だから研究した。

 

 研究すればするほど、分からないことが増えた。

 

 そして年月だけが過ぎていった。

 

---

 

### 『パンドラ』研究記録・第二段階

 

 研究開始から二十四年後。

 

 ――十三年前。

 

 大きな転換点が訪れた。

 

 それまで沈黙していたパンドラが。

 

 **意識を覚醒させた。**

 

 そして研究チームは、初めて意思疎通を試みた。

 

 言葉。

 

 映像。

 

 音。

 

 文字。

 

 様々な方法を試した。

 

 その過程で。

 

 研究者たちは、パンドラから断片的な情報を得ることに成功した。

 

 完全な情報ではない。

 

 体系化された知識でもない。

 

 ただ、断片。

 

 しかし、その断片だけでも――。

 

 人類にとっては十分すぎるほどの価値があった。

 

 エネルギー。

 

 物質。

 

 機械。

 

 生体。

 

 制御。

 

 そして、人間の理解を超えた技術。

 

 パンドラから得られた断片をもとに、多くの研究が行われた。

 

 その結果。

 

 様々な技術が生まれた。

 

 コピーも作られた。

 

 兵器も作られた。

 

 現在の軍事技術の一部に繋がっているものもある。

 

 だが――。

 

 それらはすべて。

 

 **パンドラそのものではなかった。**

 

 人類が理解できた部分を、再現しただけだった。

 

---

 

「そして……事件が起きた」

 

 ヨークシャーがページをめくる。

 

 記録の日付は。

 

 パンドラの意識覚醒から、およそ一年が経過した頃だった。

 

---

 

### 『パンドラ』研究施設事故記録

 

 原因――不明。

 

 研究施設――壊滅。

 

 研究員――全員死亡。

 

 施設跡地――巨大クレーター。

 

 破壊規模――核兵器換算、約二百キロトン相当。

 

 現場には――。

 

 一体の少女が立っていた。

 

 パンドラ。

 

 それだけだった。

 

---

 

 部屋の空気が重くなる。

 

「二百キロトン……」

 

 黒服の男が呟いた。

 

「それほどの破壊の中心に?」

 

「そうだ」

 

 ヨークシャーは答えた。

 

「衛星から確認した」

 

 事故直後。

 

 軍は衛星軌道上から研究施設跡地を監視した。

 

 そこに広がっていたのは巨大なクレーター。

 

 そして、その中心。

 

 何もない場所に。

 

 一人の少女が立っていた。

 

 傷一つなく。

 

 何事もなかったかのように。

 

「我々は……」

 

 ヨークシャーは一度言葉を止める。

 

「恐ろしくなった」

 

 それは、隠す必要のない感情だった。

 

 二百キロトン。

 

 それほどの破壊が起きた場所。

 

 その中心に。

 

 平然と立っている存在。

 

「当時の我々には、それが何なのか分からなかった」

 

 兵器なのか。

 

 生物なのか。

 

 機械なのか。

 

 それとも――。

 

 そのどれでもないのか。

 

 だから。

 

 軍は決めた。

 

 **不用意に接触しない。**

 

 **追わない。**

 

 **刺激しない。**

 

 そして。

 

 **観察する。**

 

 注意深く。

 

 徹底的に。

 

 遠くから。

 

 長期間。

 

---

 

 その後。

 

 パンドラは姿を消した。

 

 そして年月が流れた。

 

 軍は追跡を続けた。

 

 やがて、一つの町に現れた少女を確認する。

 

 銀色の髪。

 

 赤い瞳。

 

 変化しない外見。

 

 そして。

 

 人間社会の中で生活する少女。

 

 軍は確信した。

 

 あの研究施設にいた存在だ。

 

 だが。

 

 積極的な接触は避けた。

 

 パンドラ自身が人間社会に適応している。

 

 少なくとも。

 

 人間を無差別に攻撃しているわけではない。

 

 ならば――。

 

 観察する。

 

 それが最も安全だった。

 

---

 

 しかし。

 

 観察だけでは。

 

 データが取れなくなった。

 

 何をしても。

 

 何を調べても。

 

 彼女の限界が見えない。

 

 そこで。

 

 九年前。

 

 軍は方針を変更した。

 

 **積極的なデータ収集。**

 

 廃材屋を配置。

 

 彼女が興味を示しそうな軍用機器を流す。

 

 警察への依頼。

 

 実戦に近い状況。

 

 彼女が作った機械。

 

 彼女自身の戦闘能力。

 

 反応。

 

 判断。

 

 そして――。

 

 限界。

 

 それを調べる。

 

 九年間。

 

 少しずつ。

 

 慎重に。

 

 彼女を刺激しないように。

 

「……それが、現在まで続いていた」

 

 ヨークシャーはファイルを閉じた。

 

 白衣の女が尋ねる。

 

「では、今回の件は?」

 

「警告だ」

 

「実験をやめろ、と?」

 

「違う」

 

 ヨークシャーは首を横に振った。

 

「彼女は、完全な禁止を要求していない」

 

 むしろ。

 

 頻度を落とせ。

 

 知人に手を出すな。

 

 廃材屋との関係を維持しろ。

 

 それだけだ。

 

「つまり……」

 

 黒服の男が言った。

 

「まだ我々の観測そのものは許容している?」

 

「そういうことだ」

 

 ヨークシャーは笑った。

 

 その表情には、先ほど基地司令が感じ取ったものと同じものがあった。

 

 恐怖。

 

 そして――。

 

 歓喜。

 

「これ以上のデータが取れないと思っていたところだった」

 

 ヨークシャーは、静かに言った。

 

「ところが彼女のほうから、こちらに条件を提示してきた」

 

「条件?」

 

「つまり――」

 

 将軍は写真を見る。

 

 そこには、現在のステラが写っている。

 

 銀髪。

 

 赤い瞳。

 

 笑顔。

 

「**彼女は我々との関係を、まだ切るつもりがない。**」

 

 誰も答えなかった。

 

 ヨークシャーは椅子に深く腰掛ける。

 

「ならば、こちらも変える必要はない」

 

「しかし、先ほどの警告を――」

 

「受け入れる」

 

 即答だった。

 

「実験の頻度は落とす」

 

「よろしいのですか?」

 

「完全に禁止されたわけではない」

 

 ヨークシャーはファイルを閉じる。

 

「それに――」

 

 僅かに笑う。

 

「二百キロトンの中心に立っていた存在を、我々は三十七年間研究してきた」

 

「…………」

 

「ここまで来たんだ」

 

 将軍は立ち上がった。

 

「あと少し、付き合ってもらおうじゃないか」

 

 だが。

 

 最後に一枚だけ残された写真を見た。

 

 そこには。

 

 町はずれの小さな店の前で笑っている少女がいる。

 

 軍が『パンドラ』と呼び続けた存在。

 

 しかし。

 

 今では誰も、その名で呼ばない。

 

 彼女自身が名乗る名前は――。

 

 **ステラ。**

 

 その名前を。

 

 彼女に最初に与えたのは。

 

 いったい誰だったのか。

 

 それすら。

 

 パンドラ計画の記録には残っていなかった。

 

 

 

 

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