主人公がヒロインに「愛している」と涙ながらに伝えるシーンでリドルが鼻で笑ったのが聞こえた。
「馬鹿馬鹿しい……」
「僕も愛してるって言葉は信じられないな。永遠なんて、保証なんてないんだから」
「驚いたな。親に愛されてきたお前がそれを言うのか」
「愛されたからって何でも肯定できるわけじゃないよ」と答えつつ「自分でもよくわかんない。なんでだろ」と頭をひねった。
その言葉を聞いたリドルから結構な質問攻めにあった。罪人にでもなったかのような気分で尋問を受ける。
「なぜあれだけ頑なにディゴリーの好意を認めないのかと思ったが……」
ヒロインの涙を拭うシーンを見ながら、リドルが「あと少しで何か掴めそうな気がする」と呟いていた。
───
「偽名はね、ブライアにする」
「茨?変な名前だな」
長かった髪を思い切ってカットした。頭が軽い。ジョン・コナー風の髪型にしてみた。エディって名前にもぴったりだ。使った椅子を回転させながら「昔から好きだったんだ、オーロラ姫」とリドルに言ってみた。
「は?姫?」
「眠れる森の美女って言ってさ、生まれたとき魔女に呪いをかけられたお姫様が十六歳になったとき、糸車の針に指を刺して長い眠りにつくんだ。でも真実の愛が呪いを解いて、彼女は目覚めるんだよ」
「ああそう」
リドルがどうでもよさそうに返事をしたかと思いきや、少しして「なんで糸車の針なんだ」と聞いてきた。知らん。
「自分の偽名を"眠れる森の美女"とやらになぞらえるなんて随分なお嬢様だな」
「ふふん。お姫様になった気分だよ」
椅子から立ち上がり、髪の毛の山を掃除しながらソファーに近寄っていく。前世でもこんなに切ったことはなかったかもしれないな。
「というかなんで女の名前なんだ。男はいなかったのか?」
「フィリップって王子様がいるけど」
「じゃあフィリップでいいだろ」
「リドルはなんにも分かってないね」
リドルが起き上がり、ムッとしたような顔をしてこちらを見てきた。顔に出やすいよな。
「リドルはマレフィセントね」
「誰だ」
「呪いをかけた魔女」
クッションを投げつけられた。すかさずそれを盾にして次の攻撃から身を守りつつ「マレフィセントだっていいやつだよ」と伝えてみる。
「嘘をつくな」
「ほんとだって。オーロラ姫と仲いいし」
「呪いをかけたくせにか?」
「情が移ったみたいだよ。リドルみたいに」
クッション猛攻に耐えながら半笑いで言うと握り拳を見せてきたので慌てて降参した。
「ふん!その様子だと王子とやらはディゴリーか?」
確かにセドリックのことは好きだけど、そういうんじゃなくて、だって、なんていうか──
「隙あり!」
「ぐえ」
いつの間にかリドルが距離を詰めていてクッションがクリーンヒットした。心理戦なんてずるい。けどリドルはそんなこと気にせず勝ち誇った顔をしている。
「とことんディゴリーに弱いなお前は」
「図星つくのやめてー」
───
「ベラトリックス・レストレンジを殺す?誰だそいつは」
拍子抜けして「え?そこから?ブラック家の人だよ」と言うと、リドルは「なら話は早い。お前に勝ち目はないから諦めろ」と速攻で潰しにかかってきた。
「話終わらせないでよ!」
「格上に立ち向かうことが勇敢ではなく無謀だと言っているんだ。わからんのか?」
リドルはわたしを指差してトンと胸元をついた。わたしは負けじと「あいつだって人間だ。死の魔法さえ当たれば死ぬんだよ」と言い返す。
「お前の大切な人間が死ぬのは嫌なのに、誰かを殺すのに躊躇いはないのか」
嫌な言い方をする。
自分の命と天秤にかけてもわたしは友人を取るだろう。
「生まれながらのスリザリンだな」
───
父さんが机の上に薬を置いた。別に今日は頭痛くないんだけどな。不思議に思って見ていたら「葬式が執り行われる」と父さんが口を開いた。
誰のことか、言われなくてもすぐにわかった。
「行ってきなさい」
父さんが用意したのはポリジュース薬だった。
父さんは昔からエドワードに甘かったと思う。母さんだって全然怒らなかった。
でも今は怖い顔をしている。
「母さんが亡くなって僕らがどれだけ辛かったかわかるだろう」
セドリックが死ぬくらいならわたしが死んだほうが、わたしは楽だった。
「その目で確かめてきなさい」
自分の洋服を渡して、ポリジュース薬を飲むまで監視されていた。ようやく父さんの姿に変身したとき、笑ってくれるかと思ったけど、父さんは無言のままだった。
───
「お悔やみ申し上げます」
顔の知らない大人に挨拶されて、喪主として頭を下げる。新聞にはエドワードの死が大々的に取り上げられていた。
葬式には思っていたより人が集まっていて、泣いている人もいた。ビリーもそこにいて、なんだか感慨深い気持ちになる。
葬式にはお金をかけないでって遺言に書いたのに。
棺桶の中にいるエドワードを覗き込んだ。たくさんのお花に囲まれていて、違うのは顔色くらいに見えた。中にはカードもあったけど、よく読む気にもなれなくてすぐに席を立った。
「エディ」
心臓が体ごと揺れている感覚がした。
セドリックが名前を呼んで、棺桶の中にいる死体を見ている。髪は乱れていて顔はくしゃくしゃで、彼が泣いていることに気づくのに遅れたくらい様子が違っていた。
フレッドとジョージもやってきて、メッセージカードを棺桶に入れながらセドリックと一緒に咽び泣いていた。
わたしはそれを見てようやく視界が涙で塞がれていくのを感じた。
わたしはわたしのために死んだんだ。計画を立てたときも、実行したときも、後悔はなかった。なかったはずなのに。
───
夏が近づいてきた。リドルがまた変な物を見つけたらしい。「驚くぞ」と言っていたが……問題を起こさないか心配だ。ノックして部屋に入ると、リドルに奥にいた小汚い犬を見せられる。その犬は檻に入れられて不服そうにこちらを睨みつけていた。
普通の犬よりも大きいが、骨が浮き出るほど痩せこけていて貧相な印象が強かった。犬はわたしがいることに気づきながらも、空腹には耐えられない様子で出された肉にありついている。リドルはその犬を撫でることなくじっと見つめ、確信を得たように頷いた。
「こいつ、人間だ」
リドルがニヤリと笑い、黒い犬が暴れようとする前にペトリフィカス・トタルスを唱えた。続けざまに変身術で相手のアニメーガスを強引に解く。
「幸運の黒い犬だな」
シリウスの悔しそうな顔を見て、リドルはニヤニヤ笑っている。ホグワーツからできるだけ離れて過ごそうとした場所で、まさか彼に出会うとは。
「気分はどうだ?ん?」
「いや先に檻から出さないと!」
「こいつを匿う気か?」
「そうだけど何!?」
リドルは檻を軽く蹴って「利用価値などないだろう」とぶつくさ言い始めた。シリウスは目玉だけを動かして様子を観察している。「匿う」という言葉に反応して、アニメーガスを解かれたときよりも呼吸が落ち着いたようだ。
「でもハリーの大切な人だよ」
「ポッターの話で俺の心が動くとでも?」
「僕が助けたいんだよ」
リドルが檻から離れてそっぽを向いた。なんかさっきから拗ねてない?指摘するともっとめんどくさいことになるので黙っておく。
座り込んでシリウスと目を合わせる。彼は憔悴しきった顔をしていた。
「お前たちは一体何なんだ!」
「おお、おっかない。犬らしく吠えることだ」
「リドル!」
リドルはわたしたちに背を向けてシューシューと囁くような声で何か言っていた。
檻の鍵を開けて、縮こまったままのシリウスに話しかける。
「初めまして、シリウス・ブラック。僕はブライア。僕は……なんというか……予言者みたいなものなんだ。少し先のことを知ってるから、君のことも助けたい。彼の手荒な真似を許してほしい」
「……ハリーのことを知っているのか」
「ホグワーツに通っていたから、少し」
「お前が予言者である証拠は?」
「パッドフット」
シリウスが少しだけ身をよじってわたしを見た。
「君たちがスネイプ先生のこといじめてたって、知ってるよ」
「……お前嫌なやつだな……」
「ちょっとは信じてくれた?」
シリウスは無言でわたしを見つめた。自分の正体を知ってなお匿おうとするイカれた奴から、変な予言者に認識を改めてくれただろうか。
「話はまた今度にしよう。今は君のケアが先だ。温かい食事と布団でゆっくり休んで、余裕ができてから君の意見を聞くよ」
食卓やトイレ、お風呂の場所を伝えて部屋をあとにする。先に部屋から出ていたリドルが、さっきのシリウスより恨めしそうに「話は終わったか」と尋ねた。
「疲れてるみたいだから休んでもらうことにしたよ。それから……匿うこと許してくれてありがとう、リドル」
リドルの足取りが軽くなって、不機嫌そうな雰囲気が溶けいった。次にリドルの口から出たのは魔法学論文についての見解だった。
───
まだ温かい夕飯を扉の前に置いて、扉をノックする。
「シリウス。食事、置いといたよ。温かいうちに食べてね」
扉が開くのを待ったことはない。待ってみたい気もする。でも、この家から出ていってしまったら。
階段を降りた先でリドルに「脱獄犯になぜそうも甘いんだ」と睨まれた。
「シリウスは悪い人じゃないよ」
「スネイプとやらをいじめてたんだろう?」
「まあ、それはそうだけど……」
じゃあ悪いやつなのかと言われると、どうなんだろうか。
──世界は善人と『死喰い人』の二つに分かれるわけじゃない──
ふーむ。
「考え込むくらいなら追い出せばいい」
「極端だね」
「決断は早いほうがいい」
「なら助けるよ」
リドルが苦虫を噛み潰したような顔をした。
───
「置いとくからね。……!?」
シリウスの食事を部屋の前に置こうとしたとき、扉が開いていることに気づいた。真っ暗な部屋から目だけがギョロリと覗いている。
わたしの視線に反応して扉が閉じられる。ホラーゲームの演出かよ。トレイを置いてからわたしは胸を撫で下ろした。心臓に悪い。
部屋の中でまだ何かブツブツ言っている。恨み言じゃないといいけど。突然扉が大きく開いてわたしは仰け反った。
新品の服を用意したのにそれは奥のほうに仕舞われていて、脂ぎった髪と顔をこちらに向けてきた。誰が見ても不安になる形相をしていた。
「すまない」
シリウスはそれだけ言うとトレイをひったくって部屋にひきこもってしまった。
───
「なぜ助ける」
シリウスは食事を残さず綺麗に食べてくれている。食器を下げようとしたとき、今度は彼から扉越しに話しかけてきた。彼は諦めを含んだような声をしていた。
「君のことを知ってるからだよ」
「私は君に何も返せない」
「返せるよ」
何を、と尋ねられる前にわたしは答えた。
「君が幸せになってくれること」
少しして、ため息と共に「……荷が重いな」という言葉が返ってきた。「まずはお風呂に入って着替えるところからだよ」と笑うと、扉が少しだけ開いて────犬が顔を覗かせた。
───
人として会うのはまだ恥ずかしいのかな。
袖をまくってお風呂に向かうと、おとなしくシリウスが付いてきた。
犬なんて洗ったことないからわからないけど、尻尾を振ってるから気分はいいみたいだ。
頭を優しくマッサージしながら「痒いところはありませんか〜」と言ってみる。シリウスが意味もなく何度も吠えた。テンション上がってるな。
もともと体が大きいからか溺れる心配はなさそうだ。椅子で段を作って、浴槽にゆっくり浸からせる。
「熱くない?」
「ワン!」
「ふふ、犬の姿だと君の気持ちがわかった気分になる」
シリウスがシャツを引っ張ってわたしを服のまま湯船に入れようとしてきた。まあ、こんな日があってもいいか。
ザブンと肩まで浸かってほっと息を吐き出す。
「お風呂入るのめんどくさいけどやっぱり気持ちいいね」
シリウスは返事をしなかったが、お湯の中で尻尾が揺れていた。
───
乾燥呪文でようやくシリウスを乾かしきって客室へ戻る。彼は開いた扉の前でウロウロして、時折わたしを上目遣いで見た。
「どうしたの?」としゃがんで聞いても「クゥン」と言うだけだ。一人は寂しいのかな。
「一緒にねんねする?」
しょげていたのが嘘ってくらい尻尾が揺れている。顔は真顔なのに。わたしの寝室へ向かう途中、階段を登ってきたリドルと遭遇した。
リドルはわたしとシリウスを交互に見たあと、「その犬っころと同衾する気か!?」と大きな声を上げた。
言い方。獣姦じゃねえんだからよ。ちょっと面白いこと思いついたかも。
「じゃあリドルも一緒に寝る?」
「はぁ!?」
シリウスとリドルが息を合わせたように抗議する。騒いだせいで父さんに見つかり、結局その日はシリウスにはわたしの寝室のクッションの上で眠ってもらった。
───
早朝に目が覚めた。まだ陽の光が弱く鳥すらも鳴いていない。ベッドから起き上がり、シリウスが犬の姿のまま静かにわたしを見つめていてびっくりする。
「起きてたの?」
わたしが小声で尋ねると、シリウスもまた抑えた声で「ワフ」と返事をした。お腹空いてるのかな。
「ゆっくり寝てていいからね」
わたしはシリウスの頭を撫でてリビングに向かうことにした。部屋から出ようとして、シリウスも付いてこようとしていたことに気づく。
キッチンまで降りてくるのかな。
フライパンにそのままステーキ肉を敷く。犬の姿なら、犬用のご飯を用意しなきゃね。ドッグフードでもいいけど、なんだか気が引けた。
焼いている肉を見ようとしているのか、何度も立ち上がってコンロの隣のスペースに手をかけようとしている。「危ないよ」と押し返すとシリウスは素直におすわりをした。足をジタバタさせてる。
裏面までよく焼けたことを確認し、お皿に盛り付ける前に食べやすいよう一口サイズに切り分ける。綺麗にできた!「よし!」と無意識に声を上げるとシリウスが立ち上がった。
「まだ熱い、お肉まだ熱いよ」
熱すぎたら本人が冷めるまで待ってくれるかも。一応ふーっと息をかけて冷ましてみる。用意されたお肉にシリウスは鼻息荒く食いついた。
「またその子か」
父さんが起きてきてやや呆れたように笑った。「飼い犬じゃないよね?」と聞かれて「大丈夫」と答える。父さんにはまだ何も話せていない。どこから話せばいいのやら。
「父さんはあのときリドルから何か聞いたの?」
「とても危ないことをしようとしてるとだけ」
セドリックを助けようとしたときも、リドルは「死ぬかもしれない」とは知らせなかったのかな。シリウスはお肉が熱かったのか水と交互に飲み食べている。忙しないやつ。
「父さん。僕、話してないことがたくさんあるんだ」
「話したくないのなら、話さなくてもいいんだよ」
「話したい……と思ってる」
シリウスのことだけじゃなくて、隠していることがたくさんある。
でも一番気がかりなのはわたしの出自についてだった。彼にもいつか話さなければならない時が来るのではないかと、ずっと思っていた。わたしは指先で頬を掻いた。
「最初に、この子のこと……そのうち話さなきゃって思ってた」
「うん」
「人間なんだ」
「うん?」
「無理に人間の姿にする気はないけど、きっと驚くと思うから……先に言っておきたくて……えっと……」
「事情があって犬の姿をしてるんだ」と話すと、首を傾げていた父さんは「待て待て」と言った。
「うちはもう二人も息子がいるんだぞ」
なんかズレてる気がする……。リドルのときみたいにもう一人養うことになると勘違いしているのだろうか。まあ、間違ってはないのか?
ご飯を食べ終わったシリウスが、わたしと父さんとの会話を聞いてぺしょりと尻尾を下げてしまった。それを見た父さんが「いや、まだ追い出すとは……」と焦り始める。
正体が誰なのかで咎められると思っていたのに、その前から命を預かることでてんやわんやするとは。
「何もそこまでしないさ。な?お肉美味しかったかい?」
父さんがシリウスをわしゃわしゃと撫でた。この家で誰か寝ているとしたらそれはリドルしかいないので、シリウスは思い切り大きな声でいい返事をした。
父さんはシリウスの頭を撫でながら「この子が人間だっていう話はまた落ち着いてからにしよう」と言った。
───
「ハリーは元気に過ごしてるのか」
扉を隔ててまたシリウスが尋ねた。正直言うと新任のアンブリッジにしごかれてるんじゃないかと思う。伝える気はないけど。
自分の目で確かめていないのに、伝えたところで気休めになるのだろうか。
「元気だよ。そのうち悪夢を見たって君に相談するかもしれない。あとは防衛術グループを結成すると思う」
「ホグワーツで?なぜ?」
「新任の先生が実践訓練をしてくれないから」
「スニベルスか?」
「アンブリッジって人」
質問攻めだ。知らないことだらけだもんな。食事と一緒に新聞も置いておく。
「ハリーのことが心配なのはわかるけど、あまり気を病まないで。ご飯を食べてね」
「……わかった」
───
洗面所の扉が開いていて、明かりが漏れている。後ろ姿からそれがシリウスだとわかった。
「あ、シリウス。おはよー」
軽い気持ちで声をかけたら、シリウスは音を立ててお風呂場に隠れてしまった。洗面所使うの見られたくらいでそんなに慌てなくていいのに。
「どうしたの?」
シャワーカーテンの隙間から見たい気持ちを抑えつつ、声をかけてみる。「髭を……剃ってた……」と小さい声が返ってきて微笑む。
「すっきりした?服も着替えたんだね」
「誰も来ないと思っていたんだが……」
しおらしい声を聞いて、犬だとあんなに楽しそうなのに、と思う。
シリウスの影が低くなって、カーテンの端から犬の鼻先が飛び出た。
「クゥン」
「ご飯にしようか」
わたしはシリウスと一緒にキッチンへ向かった。
───
「そんなに甘やかしてどうする」
冷蔵庫から高めのお肉を取り出した父さんをリドルがつついた。シリウスが尻尾を振って父さん……か、お肉に飛びつこうとしている。
「だってかわいいんだよ?」
父さんは「ボーダーコリー飼いたかったんだよ〜」とシリウスを撫でた。リズによると父さんは犬用手作りご飯に手を出そうとしているらしい。
「わかるかい?サーロインだよ〜美味しそうだねえ。今から作るからね」
「犬にサーロイン!?」
「犬バカになってる」
「いやっ!ちゃんと人間用の分もあるよ!ちょっとワンちゃんに分けるだけで!」
シリウスの尻尾が千切れそうなほど振り切れている。立ったり座ったり、落ち着いたかと思えば走り回る。
「この子は暴れないし吠えないしいい子だねえ」
「パッドフットってあだ名だよ」
「肉球ちゃんかぁ」
三人と一匹で食卓を共にする。犬の姿だけど全員揃って嬉しい。
「最近やけに肉料理ばかりだと思ったら……」
「タンパク質多めなんだけどね。いや〜パッドフットがかわいくてつい」
「脂質も高いじゃん。犬には良くないよ」
「そうなの!?」
父さんはショックを受けた顔をしている。ペットのフード探しあるある。高ければ何でもいいというわけでもない。
「こいつは人間だから平気だろう」
「栄養が偏ってるのに変わりはなくない?」
「ジビエならどうかな?」
「話を聞いていたか?」
父さんは思った以上に犬が好きなのかもしれない。新しく買ったばかりのシリウスのご飯皿にPadfootと杖で刻印を入れてたし。
サーロインステーキを食べ終わったシリウスが食卓の上を気にして彷徨う。リドルだけ狙われている。「トムは懐かれてるなあ」と父さんは言ったけど多分違う気がする。
「お前のものじゃない」
そう言ってリドルはシリウスに何か耳打ちしてから、わざとらしくわたしのことも見つめてニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
リドルに何を言われたのか、わたしを見て、それから父さんを見たシリウスが、やがて耳をたたんでメソメソし始める。慌てた父さんが自分のステーキを差し出した。
───
暗がりだった階段の上に犬の影が見えて、わたしが顔を向けると立ち去ってしまった。
「犬用の高級ベッド買ったんだけどな……」と父さんがぼやいていたそれを、シリウスの部屋まで運ぶ。
「父さんが君に色々買ったみたいなんだ」
シリウスはずっと犬の姿でそこにいた。扉を開けたわたしに威嚇することなく、隅の方で丸まって顔を隠している。ベッドを設置して、近くにおもちゃも添えた。
大方リドルが何か嫌なことを言ったんだろう。「お前の居場所じゃない」だとか、なんかそんな感じのこと。
シリウスの隣にそっと座ると彼はチラリと顔を上げた。
「僕ね、本当にここにいていいかって悩んだことあるんだ」
お風呂に入ってつやつやになった毛並みを撫でる。シリウスは吠えず、ピンと耳を立てた。
「でも、受け入れられてそこで過ごすうちに、それでよかったんだと感じたんだ」
シリウスが息をして体が上下するのを、触れている手から感じる。心臓が鼓動している。
「僕も父さんも君にいてほしいと思ってる」
窓の外に星が見える。ひときわ輝く綺麗な星。灰色の瞳がそれを捉えた。
「わかる?」と君に聞いてみる。
シリウスは座ってわたしの目を見つめ、前足でわたしの手に触れた。
「君が大切なの」
シリウスが突然立ち上がった。黒い影が部屋を駆ける。窓辺に両足を乗せて、外で輝く星に遠吠えをした。舌を出したシリウスはわたしを振り返り、新しいベッドに飛び込んだ。
わたしはシリウスの頭を撫でて「夕飯がもうすぐできるよ」と部屋をあとにした。
───
「シリウス?」
トレイを回収しに来て、置いていたご飯に彼が手を付けていないことに気づく。
ドアをノックしたが返事はない。
「入るよ」と声をかけて入室するとシリウスがぐったりしていた。
犬の姿で苦しそうに呻いている。
階段を登る音が聞こえて、父さんが「パッドフット」と名前を呼びながら部屋に入ってきた。
「人間なんだろう?」
父さんをチラリと見て目を閉じ、ふるふると首を横に振った。そういえば、彼は父さんの前で人間の姿で現れたことはなかった。
「症状はいつから?」
シリウスは目を閉じたまま動かなかった。父さんが仕方なく首から脈を測ろうとして、困ったような顔をする。
「パッドフット。君は病人である前に、うちの子でもある」
荒い息が生ぬるい。シリウスが弱々しく充血した目で父さんを見上げる。
「君を助けたい」
呼吸音が小さくなる。ゆっくりと息を吐く音が聞こえる。毛に覆われた身体の形が変化して、シリウス・ブラックが目の前に現れた。
「話せるかい?」
「なんとか……」
掠れた声でシリウスが喋った。少し話しただけでも咳き込み、「喉を見せて」と言われておとなしく口を開く。
「腫れてるね。トローチがいるな。鼻水と痰は出る?」
ひどい咳をしながら否定した。父さんが「かわいそうに」ともう休むように指示する。
「喉の痛みを和らげる薬を出そう。苦いけどよく効くんだ」
「……怖くないのか?」
シリウスに尋ねられて、父さんは「まさか」と即答した。「君は風邪を引いてる、お肉が大好きなパッドフットだよ」と笑っていた。
───
シリウスに薬を渡して休ませたあと、リビングで二人きりになっても父さんは詰問してこなかった。
「……父さん」
「なんだい」
「怒ってないの?」
「まあ、びっくりはしたさ。でも、エディが助けるって理由があって決めたんだろう?」
「うん」
父さんの顔を見るのが怖くて、自分の握りしめた指を見ていた。「理由を話したいんだ」と言うと、急かさずに待っていてくれた。
「僕、シリウスが無実だって事実を知ってるんだ。未来だって……でもそれを証明できるものがない……」
「エディ」とわたしに呼びかけて、頭を撫でてから「シリウスを助けたいんだね?」と父さんが訊いた。
「……うん……」
「そうかい」
父さんの手が離れた。その拍子に髪の毛が目を覆うように落ちてくる。
父さんは「いいよ」と言った。
思わず顔を上げる。目が合って、父さんは微笑んだ。
「大事な息子のお願いなんだ。エディは昔からわがまま言わなかったからな。父さん嬉しいよ」
───
「なぜ仲良くする。あいつも死ぬ未来だとしたらお前はまた命を差し出すのか?」
新聞を一枚めくって、リドルは半笑いで聞いてきた。
「シリウスも……亡くなる、かもしれない……でも僕にできることなんて……」
「だったら見捨てると?」
「そんなこと言ってない。極端な話にしないで」
「事実だろう。お前にできることはなく、奴は野垂れ死ぬ」
わたしが立ち上がるとリドルは「図星か」とまだ笑っていた。
「嫉妬してるからって攻撃的にならないで」
「嫉妬?俺が?」
心外だと言わんばかりの口調だったが、わたしが「図星だね」と言うとリドルは新聞を降ろして睨みつけてきた。
「調子に乗るなよ」
「先に喧嘩売ってきたのそっちでしょ」
「お前の過剰反応だ」
「また喧嘩してるのか?」
父さんの声を聞いたリドルがため息をついてソファーに座り直した。父さんのこういうところ尊敬する。
わたしは「聞いてよパパ〜!リドルが意地悪してくるんだ!」とわざとらしく父さんに泣きついた。
「父親を味方につけるのはずるいだろ」
「喧嘩してたんじゃなかったのか?」
「ディゴリーのときのようにいなくなったら困るだろう。俺は当然のことを言ったまでだ」
「心配なんだな」
リドルが面食らったような表情をして、不明瞭な言葉を呟いて俯く。
「そりゃあ危ないことしてたら止めるさ」
リドルは顔を上げて大げさに頷き、「でも」と父さんが区切ったことで片眉を上げた。
「最後に決めるのはエディだからなあ」
───
父さんと遊んでいたはずのシリウスがリビングのカーペットでうとうとし始めた。こっちを見ながら目をしぱしぱさせている。部屋に戻ればベッドがあるのに。
声を潜めて「かわいいな」と父さんが言った。
「リビングにもベッド置かないと」
「またベッド買うの?あれ二万したってリズから聞いたよ」
「セールだったから一万八千だ」
「高いじゃん」
遊びたい気持ちはあるらしく、フリスビーをくわえたまま寝ている。フリスビーが口から滑り落ちてシリウスがバッと立ち上がった。
「起きたのかな」
ヒソヒソ声で話しながら見ていたら、フリスビーをくわえ直してまた船を漕ぎ始めてしまった。わたしがあくびをしたのを見てシリウスがようやく腰を上げた。
「眠いなら寝室行くよ、ほら……え、全然離さないな」
おもちゃを回収しようとしたのに引っ張り合いっこのつもりで遊んでる。
「眠いんでしょ?お昼寝するよ」
シリウスが吠えた瞬間に落としたおもちゃを拾い上げる。手を動かすとそれに合わせてシリウスも跳ねた。あれ、遊びたそうな動きしてるな。ニンテンドッグスで見たことあるぞ。
「眠いんじゃないの?」
ついに尻尾を追いかけて回り始めた。昼寝するんじゃなかったのか。わたしは父さんとシリウスを連れて庭で遊ぶことにした。
───
「おい、どけ」
リドルが本を片手に、ソファーで寛ぐシリウスに何か話しかけている。シリウスが耳を立てて薄っすら目を開き、すぐに顔をそらした。
「そこは俺の読書スペースだ。知ってて寝ているな?」
シリウスが鼻息で返事をする。寝たフリしてるのかな。父さんが「おっ!ソファー新しく買うか?」と口を挟んだ。
「必要ない。こいつをどかす」
リドルが腕まくりをしてシリウスの体の下に手を差し込む。鍛えてるわけでもないのに動かせるのかな。
案の定すぐに諦めてわたしに「杖を貸せ」と顎で命令してきた。
「まあまあ、魔法を使わなくてもいいだろう。ほら、パッドフット!一緒に遊ぼう」
父さんがおもちゃを取り出した途端にシリウスが跳ね起きて尻尾を揺らした。リドルは納得行かなそうな顔をして「書斎に行く」と階段を登っていった。
ソファー使わないんかい。
───
「髪が気になってな」
次に人間の姿のシリウスを見たのはまた洗面所だった。アズカバンから出てきてから切っていないのかまだ肘まで髪の毛があった。
「じゃあ切ろうか」と散髪ハサミを手に持つ。「切ったことは?」と聞かれ、自分の髪を指差した。
「本当に大丈夫なのか?」
「だめなら仕上げは屋敷しもべ妖精にやってもらえばいいよ」
シリウスがますます不安そうな顔をした。無造作に伸びていた髪を目視で耳上までハサミを合わせる。
「そんなに一気に切るのか?」
「え、違うの?」
「わからない」
「そこで何してる」
ちょうどいい。器用そうなやつに任せるか。わたしが「髪切ろうとしてたの」と言うとリドルは「ほう」と悪そうな笑顔を浮かべた。
「バリカンを使え。コームを外して全部剃ったほうがいい」
「それ合ってる?」
「こいつ私を禿げさせるつもりだろ」
「リドルが髪切ってよ。僕自信ない」
「こいつにやらせるのか!?」
「誰がこんな奴の……」
口論が始まる前に「えーできないの?」と煽ると、リドルはすぐさまハサミを奪い取り「できる」と言い放った。
「俺様にできないことはない」
「ブライア、私を見捨てるのか?」
「リドルなら大丈夫じゃない?失敗したら全部リドルのせいだし」
子犬みたいにしょぼくれたシリウスを励ます。リドルは手を抜かないから平気だろう。
「動くなよ」
迷い無く片側をバッサリ切り落とす。シリウスの口があんぐり開いている間に反対側の分も床に落ちた。
「すごい量」
「信じていいんだろうな!?」
「任せておけ」
大胆にカットしたあと、細かい作業に移ってあっという間に整えられていた。シリウスもその頃には肩の力を抜いていた。
「仕上げだ」
リドルがバリカンを取り出したのでシリウスが慌てて自分の頭を守るように手で隠した。
「手をどけろ。顔のサイドを削るだけだ」
「信用ならないんだが」
「動くなと言っているだろう」
シリウスがバリカンから逃げるように身体を反らしている。リドルはこういうとき嘘つかないんだけど、さっきの会話がな。
わたしは大丈夫だと言う代わりにシリウスの手に自分の手を重ねた。
「完成だ。褒め称えろ」
「おおー」
シリウスは無言で顔の角度を変えて、髪の具合を観察していた。後ろも見たそうにしていたので三面鏡の左右を手前に引いた。
「事故って……ないな……」
「俺を誰だと思ってる」
「傲慢な奴」
シリウスが馬鹿正直に答えてリドルの拳が飛んできた。散髪に感動する暇もなく、シリウスはすぐに犬に変身して逃げ出し、リドルもそれを追いかけていった。
───
「初めて会ったときより顔色が良くなったんじゃないか?」
階段を降りてきたシリウスが自分の顔に触れながら笑う。リドルがすかさず「肥えたな」と悪い顔をした。
「お前に話しかけてない。元が痩せすぎてたんだよ」
シリウスが新しいソファーに腰掛けた。シリウスが赤色がいいというから、父さんが革の赤を買ってきた。リドルが座ってるのは黒だ。部屋に赤がないから目立っている。性格みたいな色してるな。
「元気になってきたんだねー」と言いながらじっくり顔を観察してみる。整えられた髪に、もじゃもじゃだった髭が消えて、顎や輪郭がよく見えた。目鼻立ちもぱっちりしているのになんだか男らしい。凛々しい顔立ちをしている。
シリウスがわたしと目を合わせて、いたずらっぽく笑うとリドルが「そいつの顔の何が面白い」と刺々しく言った。
「なんで?かっこいいじゃん」
「俺の容姿は褒めたことないくせに」
「リドルは褒めていいかわかんないじゃん」
「うるさい」
「君たちでも遠慮することはあるんだな」とシリウスに指摘されて「親しき仲にも礼儀ありってやつ」と返してみる。
だってリドルって父親似で父親嫌いだから。
「俺は俺の顔だ」
「何言ってんだこいつは」
「色々あるんだよ」
褒めたら褒めたで面倒くさいことになるんじゃないかと疑いつつ「リドルもかっこいいよ」と伝える。「も?」と言うので「リドルはかっこいいよ」と言い直した。
「その犬と比べてどうなんだ」
「なんなの」
「どっちもかっこいいよ」と褒めたのに、うんともすんとも言わない。
シリウスに「こいつ思ったより面倒くさいやつなのか?」と耳打ちされて頷く。「聞こえてるぞ」と低い声で言ってきたが全然怖くない。
「リドルは僕の顔どう思ってんのさ。褒めたんだから褒められてもいいよね?」
顔をずいっと近づけると、リドルは視線をそらして「……小綺麗に手入れされている」と捻り出した。盆栽かて。
「褒めるの下手すぎ」
「……」
「拗ねないでよ。フィレステーキまだ余ってたっけ」
「俺はフィレ肉は嫌いだ」
「こないだおかわりしてたじゃん」
リドルはおもむろに立ち上がり、なぜかクッションをシリウスに投げつけて二階へ上がっていった。
───
「ハリーから昨年の対抗戦で死者が一人出たと聞いた」
「……」
「そいつは代表者の一人を眠らせて、代わりに最終試験に出場して、その先で殺されたと。一体なぜその『エドワード』という人物がそんな行動に出たのか、誰にもわからなかったそうだ」
思ってたよりも早く正体がバレそうだな。わたしは「それで?」と飲んでいた紅茶を机に戻した。
「もしかして彼は……代表者が死ぬことをわかっていたんじゃないか……」
わたしはため息をついて宙を見上げた。
「それを知って何になるの」
「ただ事実を並べただけさ」
「ふーん」
「ハリーや友人たちがその子のことを気にしていたからな」
一瞬、ドキリとする。きっとその友人たちには、フレッドとジョージやセドリックもいると思った。苦かった紅茶に砂糖を追加する。
スプーンでかき混ぜられた液体が照明の光を吸って輝いている。この世はきっと、光で区切られている。
「絵でも描こうかな」
「脱獄囚を匿ってるとは思えない言動だな」
ちょっと思いついたから言っただけなのに。シリウスはそれがおかしかったのか、歯を見せて笑っていた。
───
シリウスが姿を消した。
本来いるべきグリモールド・プレイスに戻ったのか、ここから逃げ出したのか。どちらにせよ家にいなくなったことしかわからない。
セドリック、フレッド、ジョージ。
セドリックを助けることができたけど、復讐に走って一人で立ち向かうんじゃないかと不安になる。
戦場で冷たくなった死体を眺めることしかできないとしたら。目の前で消えてしまったら。ただの妄想なのに、現実で起きてしまうような気がして頭がおかしくなりそうだ。
リドルがわたしの異変に気づいて声をかけてきた。
「僕、僕、ベラトリックスのせいでセドリックやフレッド、ジョージが死んだらどうしようって、殺すしかないよ、そんなの」
リドルは今までにないほど不気味な笑い声を上げた。何がそんなにおかしいのだろう。わたしは本気で悩んでいるのに。
「教えてやろうか」
微笑みを浮かべたまま、わたしに「死の呪文を」と囁いた。リドルは言葉を続けた。わたしを中心にして円を描くように歩き始める。
「お前が恐れるもの、お前に害をなすもの、俺が全部取り除いてやる」
リドルが雄弁に語る。死喰い人を集めるときにもこんな話し方をしたのかな。
リドルは最後に手を差し伸べてわたしの選択を待っていた。視界に入ってきたその手を見つめながら、わたしは答えた。
「リドルが自分の意志でするのと、僕のためにするのは、全然違うよ」
瞬きをすると涙が落ちた。鼻をすすった途端、リドルは乱雑にわたしの顎を掴んで上を向かせた。唇まで垂れた涙を拭い取られる。すでに笑みは消えていて、そのままじっと見つめられて居心地が悪い。
嗚咽のせいで体が小刻みに揺れる。
「なに……?」
「泣くな」
わたしが考えていたらリドルはわたしの両頬を潰して遊び始めた。面白くない。
「こっちは真剣なのに!」
「お前のご友人様は俺にとってはどうでもいいことだからな」
───
的に向かって杖を構える。
わたしは自分一人じゃ何もできない。リドルはそれを弱さだと言わなかった。
「肩の力を抜け。相手をよく見て───」
殺すと心に決める。
わたしの手が震えているのを見て、リドルは「友人たちが死ぬのを想像しろ」と冷たい声で指導する。
後ろから支えるようにしてリドルが手を伸ばし、わたしと一緒に杖を握る。背中から体温が伝わり、静かな息遣いが聞こえる。
もう片方の手で頬に触れられる。
「殺せ」
どれだけ促しても全くできないことに気づいて、リドルは死の呪文を教えることをあっさり諦めた。しかも怒ってない。笑ってる。
「なんで怒ってないの」
「いいものを見られたからな」
「僕何もしてないよ」
「知ってるさ」
リドルは伸びをして「お前が使うなら武装解除呪文で十分だ」と椅子に座った。「対戦形式で経験を磨け」と言われて思わず「上手く行くかなあ」と後ろ向きになる。
「俺を誰だと思ってる」
笑いどころではないのに、なんだかおかしく思えた。
───
「君の父上は生活習慣と運動にうるさいな」
再びわたしたちの隠れ家に来たシリウスが、半分呆れたように笑う。
「……癒者だからね」
わたしは自分が唇を食んだことに気づいて、ため息をついた。リビングに放置された本をシリウスが取り上げる。
「うち、癒者の家系なんだ」
「魔法医学書が置いてあるわけだ」
シリウスは深堀りするわけでもなく本をパラパラとめくる。専門用語ばっかりで素人が読めたもんじゃないのに。
父さんは学校を卒業してからもずっと魔法医学の勉強を続けていて、毎月研究会に参加している。
「僕にとってはダンブルドア校長よりずっと偉大だよ」
「一番近いからな」
シリウスが別の資料を見つけて「これは?」と聞くので、「ドイツ語の論文」と投げやりに答えてソファーに寄りかかった。
「僕は読めない。父さんに片付けろって言わないと」
「机の上が医学書だらけだ」
シリウスが資料や本を一か所にまとめて、わたしの隣に座った。
「ブライアはグリフィンドールか?」
「スリザリンだよ。僕の親もそう」
「残念だ」
「嫌じゃないの?」
「一瞬、スニベルスと同じ寮だと思ったよ」
シリウスはわたしの表情をしばし見てから、鼻をちょんとつまんで離した。痛くも痒くもない鼻をさする。
「だがそれだけだ」
───
「面白くないよーーー」
対戦形式でシリウスやリドルを相手に勝てる人なんてそういないわけで。手加減されていることを感じながらも、ボコボコにされて自分の無力さを痛感する。
「そう言うな。始めた頃よりも君は成長してる」
うなだれながらシリウスの手を取る。シリウスはその手でわたしを力強く引き上げると、わたしの髪を正して微笑んだ。
「そんな顔するな」
面倒見のいい兄貴分みたいにシリウスは笑う。背中を叩いてくれて、励ましてくれているのはわかる。
「勝たないと意味ない……」
「目標が高いこった」
シリウスがわたしの顔をじっと見て、唐突に「君は母親似だろ」と断言してきた。わたしの母の写真でも見たのかな。
手の甲で頬を撫でられてくすぐったい気持ちになる。
「笑った顔が似てるって言われたことある。なんで?」
「私がそうだからだ」
わたしが驚いていることに気づいて、シリウスは「そうか、君は私の家庭事情を知ってるんだったか」と何でもないことのように呟いた。
「よく褒められたんだよ。顔だけはな」
シリウスは自分の顎を触りながらそう言った。昔のことを思い出してるみたいだ。家族のことか、学生時代のことか。笑ったから、きっと後者だ。
「まあ君は私と系統が違いそうだが」
シリウスはもう一度わたしの顔を眺めてから微笑む。それから頭をさらりと撫でると、さっきとは違う、はっきりとした笑顔を見せた。
もう頭を撫でられるような年でもないのに。眩しくて目を細める。君が生きていてくれてよかった。
───
最近シリウスは上機嫌だ。
その日は軽く飲んでいたみたいで、部屋に入ったときワインボトルが開いているのが見えた。原作だと悪酔いしたはずなのに全然そんな様子には見えない。
わたしが来たことに気づいて、シリウスはグラスを置いた。そのまましっかりとした足取りでわたしの肩を組んで部屋に引きずり込む。
「お酒臭い!」
「そう言うな」
シリウスは「かっぱらってきた」と笑った。
グリモールド・プレイスから持ち帰ったというワインボトルには1959年と書いてある。シリウスが生まれた年だ、と思ってから彼の顔を見て、わたしは何も言わないことにした。
向かいに座らされて、グラスを渡される。
お酒、嗜んだことないんだけど。グラスを傾けてちょびっと表面を舐めるように口に含んだ。シリウスが抑えきれないようにくつくつと笑った。
「おいしくない」
「酒は飲まないか」
「苦いじゃん」
良さがわからない。顔が熱くなるのを感じながらつぶやく。これ強いやつなのかな。
シリウスの手が伸びてきて、わたしの滲んだ汗を指で拭う。額に張り付きそうな髪の毛を払って、顎に触れられる。
顔を固定されていて動くに動けない。シリウスは何が面白いのか、わたしの顔を見つめるばかりだ。当惑して「シリウス」と呼びかけると彼は微笑みを浮かべた。
「綺麗だな」
「え、っと……はは……」
シリウスがわたしの髪を耳にかける。さっきより親密な手つきで緊張を覚えた。それからパッと手を離してシリウスは席についた。
解放されて若干警戒しながらシリウスの様子を伺う。からかってるだけなのかな。
「うぶっぽいな」
「バカにしてる?」
「褒めてるんだよ」
シリウスがワイングラスを揺らした。赤い液体がグラスに反射しながらシリウスの動きに合わさる。
「酔っ払ってる?」
「そうでもない」
気に入ってくれているのは嬉しいけど、あんまり褒められ慣れてなくてそわそわする。
シリウスもそのことがわかったようで、それ以上はわたしをからかう真似はしなかった。
───
翌日のシリウスはいつも通りだった。昨日のは何だったんだ、まったく。しじみの味噌汁でも飲んでさっぱりしたいところだ。
普通に話していたのに、わたしの後ろを見ると今度は何故か声を潜めて「昨晩はありがとう」と耳元で囁いてきた。
「また二人きりで過ごそう」
シリウスが何を言っているのか聞こえたらしい。わたしの背後からリドルが飛び出してきて、シリウスが声を上げて笑いながら逃げていった。
───
レコードプレーヤーの針をそっと置くと音楽が流れ出した。うまくできた。彼の言った通りだ。
「お前が曲を聞くなど珍しい」
「なんか使いたくなった」
リドルに返事をしながらお湯を沸かす。シリウスがレコードジャケットを裏返して「キラークイーン?」と呟いた。
「物騒な曲名だ」
「誰も死なないよ」
「そりゃいい」
「紅茶いる人〜」と聞くとシリウスが軽く手をあげて、リドルは「ストレート」とだけ言った。三人分の紅茶をテーブルに置いてソファーにどっかり座る。
「この人たちの曲だとガリレオフィガロ〜って言ってるやつも結構好き」
「どういう曲なんだそれは……」
「よく知らない。レコードも多分父さんのやつだし」
紅茶を嗜むリドルの横で、シリウスがレコードラックを漁っている。知ってる曲あるんだろうか。ジャケットだけで選びそうだ。シリウスが手を止めて、レコードを一枚取り出した。
「途中からこいつばかりになってる」
「えー!マイケルジャクソンじゃん!」
「有名か?」
「スーパースターだよ。しかもスリラー!」
呑気にハロウィンの飾り付けがされた隠れ家を見る。ぴったりじゃん。
曲に合わせて立ち上がり、昔見たウェンズデーのダンスを真似してみる。もちろん無表情で。
「どこでそんなの習ったんだ?」
「ふふ、ドラマ」
「マグルの踊りか?」
「いやー?そうでもない」
腕と頭を大きく振って天井を見上げる。シャンデリアの光が眩しくて目を閉じた。
音楽に乗って揺れる視界に、澄まし顔のリドルと笑顔のシリウスがいる。
───
「かぼちゃなんかどうだ?秋にぴったりだろう」
犬の手作りごはんについて父さんがリズと話している。多分ハロウィンの装飾を見てそう思ったんだろうな。父さんってわかりやすい。
かぼちゃ自体はあんまり食べてこなかったし、料理も煮物か天ぷらくらいしか知らない。
ホグワーツ特急のかぼちゃパイが恋しいな。
「かぼちゃパイ!」
「砂糖を入れなければ……」
もう普通に人間の姿で食べたほうがいいんじゃないのかな。シリウスは犬の姿で聞き耳を立てながらソファーで寛いでいる。
「松茸ご飯食べたーい」
「松茸?」
シリウスと父さんが同時に反応した。リズが「匂いが独特で、好んで食べる人は少ない傾向にあります」と言う。見たことないと思ったらそういうことかよ。カルチャーショックだ。
「じゃあいいや」
「ブライアから何か食べたいなんて珍しいじゃないか!松茸にしよう!」
隠居生活始めて思ったけど父さんって相当親バカなんじゃないか?松茸と言ってもわたしが言っているのは前世で食べていたやつだからなあ。
「日本……」
「行くか!?」
なんでそんなフッ軽なんだ。
行きたいけどさすがに目立つだろう。妥協して「行くなら日本料理店でいいよ」と伝える。
「いい考えだ。ヘルシーらしいしな」
「シリウス様はどうされるのですか」
「あ」
シリウスがここぞとばかりに「クゥ〜ン」と拗ねた鳴き声を上げた。父さんが慌てておやつを取り出すと舌を出して喜んでいる。
「寿司ってテイクアウトできるのかな」
「生魚は要注意です」
「じゃあ家で何か作るか」
「犬用ってとこ諦めたら何でもいけるでしょ」
「確かに」
ふりだしに戻った。
父さんはさっきのかぼちゃパイに引っ張られているのかシェパーズパイだのステーキパイだのパイばかり候補に挙げている。
もう少し経てば鹿がいけるんだけどな。
おやつを食べ終わったシリウスが、たちまち人間の姿になって「牛ほほ肉の赤ワイン煮込みはどうだ?」と提案してきた。
「こないだ開けたばかりのワインがある」
「いいのか?高そうだったけど」
「ああ」
「煮込むのは時間がかかるので早めに準備しましょう」
リズの「お決まりでよろしいですか」という言葉に頷くと、リズが姿くらましで買い物に出かけた。そんなに時間かかるのか。時計は午後三時。夕食会議がそんなに遅くなくて助かった。
───
シリウスが冷蔵庫からワインを取り出して栓を開ける。ラベルをじっと見つめてからワインボトルを傾けて、残りを豪快に鍋へ注ぎ込んだ。
「わお」
「祝い酒だ」
「今日何かあったか?」
「何も」
ぽかんとする父さんを見てシリウスは快活に笑った。もうすぐシリウスの誕生日なのに。わたしはぐつぐつ火にあぶられて、泡立つワインを見ていた。
───
煮込み料理食べるの大好き。せっかくなのでソースをたっぷりかけてもらった。ナイフを使わなくてもいいくらい柔らかい。
向かいの席からリドルが「ソースも美味いな」と言っているのが聞こえた。シリウスがすかさず「私の酒だ」と言うとリドルは「撤回する」と即座に返事をした。頑張ったのリズなんだけど。
───
身を隠してから、わたしはたまに狩りに出かけることがあった。昔母さんに連れられて、何度か経験してからは一人で行くこともあった。狩りに集中している間はただの自分になれる。
鹿猟用の銃を担いで単独で山に入ろうとすると、シリウスが何か嗅ぎつけたかのように近寄ってきた。
「外出か?」
「狩りに行くんだ」
鹿を。わたしの口から放たれたとき、シリウスが反応して、少し間が空いた。反対されるかと思ったが、シリウスは「気をつけて」とだけ言うと自室に戻って行った。
「付いて行っていいか」
何度目かの見送りの際に、シリウスから声をかけられた。わたしは快諾して箒を彼に持たせ、今日はただ見ているだけでいいと説明した。
誰かと狩りに行くのは久しぶりだ。箒から降りて野山に歩みいる。降り積もった雪を踏んで山道を進む。
鹿の足跡を辿った先で、一度立ち止まってシリウスに落ち葉の裏を見せた。
「鹿のフンか」
「近くにいそうだね」
足音が雪に吸い込まれる。吐いた息が白くて手を握りしめた。
「いつから鹿を狩ってるんだ?」
「ナイショ」
後ろを振り返ってくすくす笑う。木の葉が落ちきっていて、風が吹いても揺れる音はしなかった。
視界に何か動くものが見えて姿勢を低くする。シリウスと一緒に覗き込むと、湖で水分補給をしている個体がいた。
隣で見ていたシリウスが、何も言わずに犬へと姿を変えた。
一瞬躊躇ったが、鹿が顔を上げたのを見て彼を信じて頷いた。犬になったシリウスが走り出し、回り込むようにして鹿を追い立てる。
鹿が駆けて雪が跳ねる。落ち葉のかさむ音がする。牡鹿が迷い無くわたしのもとへと導かれる。
セドリックも、ラブラドールでドラゴンの気を引いていたな。
わたしは重い引き金に手をかけた。
撃たれて動かなくなった鹿を見ても、シリウスはまだアニメーガスを解かなかった。舌を出して荒い呼吸をするシリウスの頭を撫でる。
「気分は落ち着いた?」
シリウスは振っていた尻尾をしまって伏せてしまった。わたしは「君のおかげだよ」と片手で支えていた銃を地面に置いてシリウスを撫で回した。
家の倉庫に到着して、呼吸がしやすいように口元をカバーしていた厚着を緩めた。獣臭い。匂いが充満している。獲物はすでに息絶えていて、暴れる心配はなさそうだった。
いつものように処理を始めて、しばらくして腕組みをして見守っていたシリウスが「慣れてるな」と言った。
「よくやってたから」
作業が進むにつれて、シリウスの強張っていた表情が緩む。やがてシリウスはわたしに尋ねた。
「何とも思わないのか?」
「鹿を殺すこと?」
シリウスが控えめに頷いた。わたしは彼の目を見た。暗くて、底の見えない深い色。セドリックと同じ色。君はやっぱり、ジェームズを思い出しているのかな。
「狩りをしている間は、自分を忘れられる」
シリウスにはそういうのないの?
わたしは尋ねたが、今すぐには出てこないらしく、シリウスは頭をひねるばかりだった。
「わからないのなら、僕と狩りをしようよ」
誰かと一緒のほうが楽しいから。
シリウスはわたしの提案を聞いて、地面に向けていた顔を上げ「そうだな」と顔をほころばせた。
しばらくして、シリウスが静かに口を開いた。
「この間私が君と、君の母上の話をしたのは、目の色が同じだと思ったからなんだ。ハリーもそうでね」
「リリー……」
「そうだ。緑色の綺麗な目をしてた」
顔はジェームズそっくりなのにな。シリウスは嬉しそうに笑った。
「ハリーを見たやつは皆、あの子の両親を思い出すのさ」
「その子の中で生きてるみたいでいいね」
わたしは吐息のように呟いた。エディの母、ラベンダーのことと、前世のわたしの母親のこと。
鏡を見てもちっともそうは思わないけど、それでいいのかもしれないと祈った。
───
母さんが気に入っていたカレンダーで日にちを確認する。もう十二月になるのか。カレンダーをめくって「もうすぐクリスマスじゃね?」と声を張るとシリウスがたくさん吠えた。
「シリウスはそろそろグリモールド・プレイスにいなきゃだめだよ」
シリウスが辺りをキョロキョロ見回し、「今の、まさか私に言ったんですか?」みたいな顔をしている。「お前以外に誰がいる」とリドルに言われて牙を剥いた。
「ハリーが来るから」
シリウスの瞳が星のように輝いた。窓とわたしのもとを行ったり来たり、ソファーに飛び込んだと思ったら、「静かにしろ」と言ってきたリドルにわざとぶつかった。
「アーサーさんが怪我すると思うけど」
シリウスがピタリと動きを止めた。
「でも、大丈夫だから」と言うと静かに近寄ってくる。犬の温かい息が顔にぶつかる。
さっきまで喜んでたのに水差しちゃったかな。わたしは一度シリウスにハグをした。
無言で見つめ合うとシリウスはわたしの顔をぺろりと舐めた。
───
クリスマスが近づいてきて父さんが「ウィッテカーさんからだ」と机に包みを置いた。木箱っぽいな。ワインにしては小さい。包装を解きながら父さんに「誰」と聞き返す。
「薬局の経営者さんだよ。ほら、こないだ……あのー……あれ、言ってたじゃないか……あれだあれ!」
「何?」
父さんに「日本のなんとかって」と言われて「松茸?」と返すと「それだ!」と顔が明るくなった。
「息子が食べたがってたって言ったらわざわざ取り寄せてくれてなあ……」
わたしは死んでることになってるんじゃないのかとか、家族のこと話したんだとか色々浮かんできたが、父さんが覚えていてくれたことが嬉しかった。
「言った後すごい空気になってたよ」
「そりゃそうでしょ!」
仕事仲間とは言え、「子どもが食べたがっていた」なんて話したら、世間では亡くなっている扱いなんだからお通夜になるに決まってる。
箱を開けて松茸と対面する。調理前を見るのは初めてだ。思ったより大きくて量も多い。すだちまでついてきてる。
炊き込みご飯にしても余るかもな。松茸料理って他何があるんだっけ。
わたしと交代で父さんが覗き込んだ。
「確かに匂いはするが、普通のきのこみたいに見えるな」
「美味しいよ。献立どうしようかな」
「ソテーとかどうだ?」
松茸なのにシンプルすぎないか?シンプルだから味が引き立つとか?松茸のソテーってあるんだろうか……。
「なんだそれは?」
手すりから顔を出しながらリドルが降りてきた。興味津々だね。リドルも気に入るといいな。
「松茸だよ」
「きのこか?妙な匂いだな」
「ソテーはどうかって話をしてたんだ」
料理素人の我々には焼くか炒めるくらいしかレパートリーがない。父さんが普通のきのこと同じだと思ってるのか「松茸パイ、松茸スープ……」と思い付くレシピを指折り数えている。
土瓶蒸しなら聞いたことあるけど食べたことないな。
「まあいいや!炊き込みご飯にして余ったやつ焼いちゃお」
───
「聖マンゴ病院のことなんだけど……」
リビングの暖炉の前で、シリウスがそろそろ眠ろうかと話していたのに、ハリーが言いづらそうな様子で聖マンゴ病院の名前を口にした。
アーサーさんのお見舞で、ネビルの両親を見たことを伝えていたはずなのに。
「……前に話したエディって子、覚えてる?あの人のお父さんに会ったんだ」
シリウスが黙って頷いた。わたしは自分の呼吸に意識を向けようとした。
「助けられなくてごめんなさいって……」
震える声でハリーがつぶやく。
「エディのお父さんは『自分を許してあげなさい』って言ってくれたんだ。でも上手くできない」
すすり泣く声が聞こえて、わたしは目を伏せた。
「その人は『君が許せないことも含めて自分を許してほしい』と伝えたかったんじゃないかな」
「……うん……」
シリウスが静かに言うのを、ハリーも聞いていた。
「話してくれてありがとう」
シリウスが寝る前の挨拶を伝えて、緑の炎が消えた。深く息をつく。
「許す、か……」
───
「ブライア!次の狩りはいつにする!」
リビングで父さんとリドルが魔法医学の知見を語り合っているところに、シリウスが入ってきた。
リドルがあからさまに嫌そうな顔をしたのを見て、シリウスは「スニベルスみたいなやつだ」と嫌悪感を露わにした。
仲を取り持つ義理はないけど、居心地が悪くなるのはゴメンだ。
「明日雨が降らなかったら行く?」
わたしが話しかけた途端に、わかりやすくシリウスの表情が柔らかくなる。
リドルが「こいつの本名も知らないくせに」と吹っかけてきた。
「本名があるのか?」
リドルに注意する気も起きなかった。別にここまで仲良くなったのなら教えても良かったし、どうせ伝えても亡命生活に変わりはない。
「エドワード。エディっていうんだよ」
「おい!」
「やっぱりな」
咎めるリドルを宥めて、父さんに「話してよかったのか?」と聞かれて頷く。「友達だから」と言って軽くピースをする。
「ホグワーツ生には言わないでね。内緒でやったから、わ!」
言い終わるか終わらないかというところでシリウスに抱擁された。
シリウスがわざとらしくわたしの肩を組んで、リドルに見せつけているのを感じて、牽制かもなと疑う。
「改めてよろしく、エディ」
───
リドルが暖炉と──正確に言えばハリーだろうか──シリウスを睨みつけている。嫌なら出ていったらいいのに、自分から移動するのはもっと嫌だと言って暖炉のそばから離れなかった。
「ブライア?女の子の名前?」
「え!もしかして……」
ハリーたちがヒソヒソ囁きあってる。暖炉の目の前でやってるから意味なさそうだけど。勝手にわたしの名前で恋バナしないでほしい。困惑しながら彼らの話に耳をそばだてる。
「そういうのじゃないさ。ただ──」
「ただ?」
三人のうちの誰かが身を乗り出したのか物音がした。シリウスは答える前に振り返って、わたしとリドルの顔を見つめてからニヤッと笑った。
「気にはなってるかもな」
暖炉の中からハリーの抑えた声やロンのよくわからない悲鳴みたいなのと、それを注意するハーマイオニーの声が聞こえる。わたしの話題がエンタメになってる。
リドルは怒鳴らなかった。口をへの字にして、シリウスに楯突く代わりにわたしの頬を軽くつねった。
───
「こんなことくらいしかできないけど」
シリウスが出かけるのを後ろから呼び止める。
多分、ここで会うのはこれが最後だと思った。
「神秘部に行くことがあったら、必ずそれを飲んで」
シリウスは小さな瓶を掲げて光にかざした。「フェリックスフェリシスだよ」と伝えてみたが、彼の表情は変わらなかった。
ただ不敵に笑って、太陽にかざしていたそれを通してわたしを覗きこんだ。
礼を述べたシリウスが小瓶を懐にしまう。ドアノブに手をかけたシリウスが、何か思い出したように「鹿猟」とつぶやいた。
「今度はハリーも誘おう」
───
リドルに勉強を教えてもらいながら欠伸をする。外はどんどん暖かくなって、雪が溶け始めている。騎士団の活動が活発になってきたのかシリウスが家をあけることが多くなった。リドルに「解けたのか」と聞かれて「全然」と答えると頭をはたかれた。
「癒者に憧れているんだろう」
「憧れってだけだよ」
リドルが片眉を上げた。ダックスフント顔になりかけてる。わたしは大きくため息をついて机に突っ伏した。
「そりゃなりたいよ。でも僕には無理だ」
「魔法が使えないからか?」
「うーん……そもそもあんなに勉強できないし……」
リドルはある程度の才能もあるし、努力もできるからわかんないのかもな。何の気なしに外を眺めてみる。見えるのは、冬の終わりと春の兆しだけ。わたしはぬるい何かの中にいる。
「あの犬畜生とデートでもする気か?」
「もう春だから難しいよ」
リドルだってアニメーガス犬じゃん。余計な一言でまた頭をはたかれる。
リドルはわたしがシリウスと狩りをしているのが気に入らないのか、度々突っかかってくる。そのくせわたしが誘っても来ないしなんなんだ。
「ヘドウィグも預からないとな」
「何だそれは」
「ハリーの飼ってるフクロウだよ」
「なんでそいつを預かる?」
「死んでほしくないから!」
のどかすぎて戦争が近づいてきてることを忘れがちだ。もうヴォルデモートは復活していて、本格的に闇の勢力が復興するんだ。ダンブルドアも亡くなっちゃう。憂鬱だ。物語が壮大になっていて、わたしが救えるものもきっと僅かになる。
ドラコ、大丈夫かな。お葬式で泣いてマルフォイ夫妻に心配されてたな。
「また考え込んでるな」
リドルの一言で顔を上げる。でも前を向く気にもなれなくて布団に飛び込んだ。布団はただの布団だ。わたしが救うものでもなく、布団もわたしに何も期待しない。
リドルが「まだ課題が終わってないだろ」と声をかけてくる。「布団が離してくれない」と言ったら呆れたのか「起きたらやれ」とだけ言って部屋を出ていってしまった。
───
いつの間にか眠っていたらしい。辺りが暗くなっていた。春先の夜は少し冷える。
物音がして周りを見渡すと、ベッドの隣にリドルが立っていて困惑する。しかも「まだ寝てろ」と言う。リドルのせいで起きたんだけどな。
目を閉じて、自分の呼吸が規則的になるのを感じながらうとうとし始める。
布団をかけ直されて、優しいところもあるんだなと思ったのもつかの間、リドルが冷たい手を頬に置いてきて半分目が覚めてしまった。顔をしかめて布団をかぶり、「リドル、つめたい」と端的に言う。
近くの気配は消えないし、去っていくような足音もしない。わたしは寝るのを諦めて布団から顔を出した。
リドルが無言で立ちすくんでいる。「どうかしたの?」と声をかけたが何も言わなかった。
目だけが異様にギラギラしていて、暗いのに蛇みたいに瞳孔が鋭くなっている。
リドルの手元を見て、机の上に置いていたはずのわたしの杖を持っていることに気づく。慌ててその手を握って「何かあったの?」と尋ねた。
「お前を失うかと思った」
廊下の電気がついて、父さんが部屋の手前で何かを確認しに行った。影で、誰かがそこに倒れているのが見える。
わたしは思わずリドルを抱きしめた。
「気絶してるが、ここはもう危ない」
死んでない?リドルが殺していない?わたしは驚いてリドルの顔を見た。リドルの手が再びわたしの頬に触れて、彼は目を細めた。
「ありがとう」