元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで 作:ともがら
共に天下一の剣豪となって、また会おう。
七年前にそう誓い合って別れた男に今、私は女として抱かれようとしていた。
思いもよらなかった。
この男の手が、これほど大きいことも。
その手が頬に触れただけで、これほど胸が騒ぐことも。
『うむ。よい牝堕ちじゃな』
そして、こんなことを言う狐に取り憑かれることも。
◇ ◆ ◇
その侍が社の石段を上ってきたのは、天保十年の霜月半ば、七つを回ったころであった。
杉木立に囲まれ、山の
手を離す前に、侍は親指の腹で、柄頭を一度だけ撫でた。
その癖を知っている。
逃げよう、と最初に思った。
背が伸びていた。肩の肉も厚くなった。膝に置いた腕は、別れた日より一回り太い。旅塵の染みた
向こうは気づいていない。当然である。兵馬の前に座っているのは、
ならば、逃げる方がかえって怪しい。そもそもこの住まいには、六畳のほかに逃げ込む部屋がない。
「人を一人、探してもらいたい」
「こちらは、失せ物探しの社にございますが」
「人も、失せれば失せ物であろう」
膝に両の拳を置いたまま、兵馬はこともなげに言った。
「易者を三人、拝み屋を五人、口寄せを二人訪ねた。ここで十一軒目になる」
「どのようなお方で」
「剣術遣いだ」
「お名は」
「
七年前に捨てた名であった。
『名乗ればよかろう。お主を捜しておるのじゃぞ』
『できんわ、狐!』
おれに憑いた狐の声を初めて聞いたのは、十八の
誰と立ち合っても、兵馬なら今の一太刀を受けただろうと思った。勝つたびに、あの男と斬り結びたくなった。
初めて兵馬から一本取った日のことは、まだ覚えている。
兵馬は打たれた小手をさすり、笑った。負けたのに、嬉しそうだった。
「もう一本だ、新三郎」
次は取られた。おれがもう一本と言った。師範に追い出されるまで打ち合った。
それから、兵馬より先に道場へ行くようになった。あいつが来るまでに、昨日の一本を破る術を見つけておきたかった。
兵馬は、いつ行っても、もういた。
師範に褒められても、兵馬が黙っていれば、帰り道で何が悪かったと訊いた。あいつが今のはよかったと言った日は、寝床で何度もその一太刀を振り直した。
廻国に出てからは、褒められても、訊く相手がいなかった。
山中で夕立に遭い、朽ちかけた祠へ逃げ込んだ夜のことである。
『お主、いくら振っても剣の腕が上がらぬのであろう。このままじゃと、あの男には一生勝てんぞ』
雨垂れの向こうから、女の声だけがした。
「何奴。斬るぞ」
『賭けをせぬか。あの男にも勝てる力をやろう』
「代わりに何を取る」
『その力で天下一となれ。それだけじゃ』
狐が人を化かすことなど三つの童でも知っている。だが、兵馬も今この時、どこかで剣を振っている。おれの知らぬ技を覚え、あの朝の道場のように、もう先で待っている。
次に会った時、もう一本と言わせられなかったら。
「乗った。兵馬に勝てるなら、構わん」
翌朝、おれは女になっていた。
「戻せ、この女狐!!」
『一度、刀を振ってみよ。お主はもう、昨日までのお主ではないぞ』
刀へ手を伸ばした。柄に指をかけ、信太新三郎、と名乗ってみた。女の声だった。
この声で名乗り、兵馬の前へ立つ。あの男が刀を下げ、こちらを女として見るところまで浮かんだ。
「このような姿では剣も握れぬ!」
握れぬのではなかった。
おれは兵馬に勝ちたかった。あいつにだけは、誰より強いおれを見てほしかった。
だからこそ、あの男にだけは、この姿を見られたくなかった。
あいつは怪我をした者には刀を向けない。女なら、なおさらだろう。冷たくされるのではない。きっと、手を貸そうとする。
おれに向かって構えていた男が、おれを庇う側へ回る。
その顔で優しくされるくらいなら、会わずにいたかった。
刀を祠の隅へ置いた。戸口まで行って戻り、雨のかからぬ奥へ押しやった。
逃げたおれを拾ったのが、この社の老巫女だった。うわ言の「しのだ」を名と聞き取り、「しの」と呼んだ。狐に憑かれてから、人と物を結ぶ「縁」が見えるようになった。失くした簪や逃げた鶏を探すうち、お山の巫女さまと呼ばれるようになっていた。
兵馬は、おれの返事を待っている。冷めた出がらしで口を湿らせたが、味がしなかった。
「いつから行方が知れぬのです」
「七年前だ」
「それでは存命かどうかも、分かりませぬね」
「あいつが死ぬなら、おれとの決着をつけてからだ」
昔と同じ顔で、馬鹿なことを言う。笑いそうになって、湯呑みで口元を隠した。
「何か、手掛かりになる品は」
兵馬は懐から、古びた手拭いを出した。紺地に、白く千鳥を染め抜いてある。おれの手拭いだ。
「七年も、返す相手がおらなんだ」
盗人め。昔からそういう男だった。人の木刀を勝手に持ち出し、握り飯を一つ余計に食い、稽古の帰りには人の手拭いで汗を拭いた。そのくせ己の刀にだけは、指一本触れさせなかった。
黒
手拭いを受け取る時、指が触れた。
兵馬の手は、おれの手を上から丸ごと覆えるほど大きかった。昔は同じ大きさの手で、同じ重さの木刀を握っていたのだ。
思わず、手を引いた。
手拭いの端に、淡い光が見えた。人と物とを結ぶ縁の糸である。幾筋も伸びるうちの、ひときわ太い一本が、真っ直ぐおれへ続いていた。
「どうだ」
「古うございます。すぐには分かりかねます」
嘘であった。
「そうか」
「そのお方のことを、詳しく伺えますか」
「歳はおれと同じ。生きていれば二十五」
「背格好は」
「おれより少し低い」
今は頭一つ近く低い。
「髪は黒。目つきが悪い」
「ほかには」
「口も悪い」
「それが、探す手掛かりになりましょうか」
兵馬が口の片端だけで笑った。昔と寸分違わぬ笑い方だった。
「蕎麦が嫌いだ」
「そうでしょうか」
兵馬が顔を上げた。おれは手拭いへ目を落とした。
「ほかには」
訊いたのは、おれであった。危ういことは分かっている。それでも、この男があのころのおれの何を覚えているのか、終いまで聞きたかった。
「寝相が悪い」
お前が言うな。
兵馬は指を折りながら、あのころのおれをひとつずつ数えていった。おれ自身より、よほどよく覚えている。
「それから——胸に傷がある」
湯呑みを置く手が、途中で止まった。
「おれがつけた」
兵馬は己の左胸を、鎖骨の下から斜めに、指でなぞってみせた。
「十五の夏だ。浅手で済んだが、痕は残っておるはずだ」
兵馬の指がなぞったのと同じ筋が、触れられてもいないのに、晒の下でちりりと熱を持った。
親にも師匠にも他言すまいと、二人で決めた傷である。それを、この男は見ず知らずの巫女に明かしている。
試されているのか。
「その傷が、気にかかっておいでなのですか」
「それもある。あの時は、血が止まらぬかと思った」
兵馬は、まだ己の胸に指を当てていた。
「刀を放り出して押さえたら、あいつは怒った。勝手に終わりにするな、と」
覚えている。兵馬の手は震えていた。おれは傷よりも、その手が嫌だった。
もう二度と本気で斬り込んでこなくなると思ったのだ。
「血が止まってからも、まだ言っていた。次も手を抜くな。おれも抜かぬ、と」
「……ひどいお方ですね」
「まったくだ」
兵馬は、そこで笑った。
「あの『次も』が嬉しかった。斬ったおれに、まだ向かってくる。その次に負けた時は、悔しいのに笑っておった」
傷の上から、指が離れた。
「次までに、こいつより強くなれると思うと、じっとしておれなんだ」
おれの知らぬ話だった。
悔しがらせたつもりだった。あいつにだけは、おれの剣を忘れてほしくなかった。
「よく、覚えておいでですね」
「忘れようにも、今のおれの剣が、あいつと作ったものだ」
ともに川で水を浴び、傷を負えば肌を晒して手当てをした。その男の前で、今の襟をくつろげることはできなかった。
「顔が赤いな、巫女殿」
「火鉢がございますから」
兵馬の目が火鉢へ落ちた。炭は朝に
「ともかく、七年前となれば容易ではございません。今日のところは」
「分かった」
兵馬は素直に頷いた。このまま帰せばよい。明日にでも、縁が切れていて辿れぬと伝えればよい。
訊かなければいい。訊けば、答えを聞くことになる。
「ずっと、探しておいでだったのですか」
それでも、訊いた。
「一年経ったら、別れた追分の茶屋で落ち合う約束だった。来なかった」
追分の茶屋。一年後の、同じ日。行けるはずがなかった。
「二年目も、まだ腹を立てていた」
「長うございますね」
「三年目に、妙だと思った」
兵馬の声が低くなった。
「あいつは、約束を破って逃げるような男ではない」
膝の上で、手拭いを握りしめた。
「それから探している」
「国許には、お戻りにならずに」
「家を継ぐ身で、勝手はできぬ。父を通して修行の許しを得て出て、戻って金を貯める。その繰り返しだ」
鳴海家は二百石。嫡男の兵馬が、いつまでも留守にできる家ではない。
「今回も、暮れまでには帰れと言われた」
おれは百五十石の家の三男で、藩の許しも兄を通して得た。その兄も、路銀を畳へ置いて、暮れまでには戻れと言った。その家へ、便りさえ出していない。帰らぬ弟の申し開きは、兄がするほかない。
「亡くなったとは、お考えにならなかったのですか」
「考えた。幾度もな」
兵馬は、細く開けた障子の外へ目をやった。暮れかけた空の下で、杉の梢が揺れている。
「道で倒れたか。山で獣に食われたか。川に落ちたか。死んだなら、せめてそれを知りたい」
声は静かだった。
「生きているなら、ぶん殴る」
思わず笑った。声が少し漏れた。兵馬がこちらを見た。おれの笑いが収まるまで、何も言わずに見ていた。
「あいつの剣がどこまで行ったか見たい。おれの剣がどこまで来たかも、あいつにしか測れん」
「ほかのお方では、なりませぬか」
兵馬の顔から、笑いが消えた。
「ほかの者なら、探してはおらぬ」
手拭いを畳もうとして、角が合わなかった。
兵馬に勝てるなら構わぬと、狐に答えた夜を思い出した。おれだけが、あの男のことでどうかしているのだと思っていた。
箒と榊を握り、迷った者を里へ返してきた七年を、この男に話すことはできなかった。
それなのに、おれが消えたあとも、おれに見せるための剣を振っていた男を、このまま帰したくなかった。
「三日ほど、お時間を頂戴できましょうか」
「さきほどは、古すぎて分からぬと申したな」
「はい」
「何も掴んでおらねば、三日とは言わぬ」
語るに落ちた。
「ここに泊まる」
「はい?」
「手掛かりがあるなら、おれも調べる。その方が早い」
兵馬は部屋を見回した。六畳一間に、小さな
「隣村に宿がございます」
「軒下で構わぬ」
「霜月でございますよ」
旅装を見た。擦り切れた袖口。継ぎの当たった袴。幾度も結び直して
「三日だけでございます。それより先は、なりませぬ」
「かたじけない」
兵馬は振り分けの荷を壁際へ下ろし、大刀をその横へ寝かせた。
その背は、軒下に収まりそうもないほど大きかった。