元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで 作:ともがら
布団は一組しかなかった。
「
「せめて、布団をお使いくださいませ。私は、
「夜露で濡らしては悪い。布団はそちらが使え」
「ではせめて、中でお休みください」
「かたじけない」
兵馬は縁側を見て、それから草鞋を脱いだ。おれは老巫女の夜着を出し、茣蓙の上へ置いた。
「そういえば、名乗っておらなんだ。鳴海兵馬と申す」
夜着から足を出したまま、兵馬は茣蓙の上で居住まいを正した。
「……鳴海様」
口の中で、その呼び方を一度たしかめた。この男を、兵馬、としか呼んだことがない。
「巫女殿の名は」
「しのと申します」
兵馬は口を止め、おれの顔を見た。
「何か」
「しの殿、と呼べばよいか」
「はい」
六畳に、おれの敷布団と兵馬の茣蓙が並んでいる。間は枕ひとつぶん。少しでも離そうと敷布団を引くと、端が壁につかえた。
「着替えますので向こうを向いていてくださいませ」
兵馬は口を開きかけて閉じ、それから壁の方へ、ぐるりと身体ごと向き直った。
「そうか。そうだな」
袴の紐ひとつ解くのに、男の背中をたしかめている。寒稽古の泊まり込みでは、道場の板間でこの男と背中合わせに雑魚寝した。寝相の悪い兵馬に蹴り出され、夜中に二度床の冷たさで目を覚ましたこともある。
今は、枕ひとつぶんの隙間が、やけに近い。
いつもなら解いて寝る胸の晒だけは、そのままにした。行灯を吹き消すと、何も見えなくなった。
「あいつの話をしてもいいか」
「どうぞ」
闇の向こうで、兵馬が少し笑った気配がした。
「あいつの突きは速かった。面をつけて竹刀で打ち合うと、おれも三本に一本は取られた」
二本に一本だ。数を誤魔化すな。
「あいつは、左の小手が甘かった」
誘っていたのだ。お前が乗るから。
兵馬は小さく息を吐き、しばらく黙っていた。
「あいつが消えてから、おれは負けなくなった」
「よいことではございませんか」
「つまらん」
短い声であった。
「勝っても、どこが良かったのか誰も言わん。どこが甘かったのかも言わん。あいつだけは言った。今の突きは腰が浮いた、と。腹の立つことに、いつも当たっていた」
「ほかにも、お強い方には会われたのでしょう」
「会った。教わったことも多い」
兵馬は、天井へ向けて言った。
「覚えた技を、あいつに試したかった。誰に勝っても、あいつにはまだ見せておらんと思う」
おれは、兵馬に勝てさえすれば天下一など要らなかった。あの男が負けを認めて、もう一本と木刀を構える。それを何度も夢に見た。
「そのお方に勝てば、ご満足なのですか」
「一度負けたくらいで、あいつがやめるものか」
兵馬が笑った。
「また来る。今度こそおれを倒すつもりでな。それを受けるのがよい」
夜着を顎まで引き上げた。今ここで、もう一本と言えたら。
七年も剣を捨てていたおれが、この男の稽古場にはまだ立っている。
兵馬の声はそれからだんだん間遠になり、やがて寝息に変わった。
今の兵馬の突きを見たい。腰はまだ浮くのか。浮くなら、おれが言ってやる。
拾われた年は、幾度も祠へ戻ろうとした。石段の下で呼び止められると、ほっとして引き返した。
今も、木刀を貸してくれとは言えなかった。
暗い天井を見たまま、長いこと眠れなかった。
◇ ◆ ◇
重さで目が覚めた。
太い腕が一本、おれの身体を後ろから抱えこんでいた。背中が、兵馬の胸にぴたりとついている。枕ひとつぶんの隙間は、とうに消えていた。
首筋に、寝息がかかる。部屋は冷えきっているのに、背中だけが熱い。
昔は背中合わせにして、肩の幅が同じだった。今は、この男の胸に、背中がすっぽり収まってしまう。
兵馬の手が、寝巻の上から、おれの胸に置かれていた。
晒の、ちょうど上である。晒の下には、あの傷がある。白い筋が、掌の下で、また熱を持った。
『ほう。よう縁が絡んでおる』
『黙れ、狐』
心の臓の音が、掌に伝わってしまう。そう思うと、余計に鳴った。
七年前のおれなら、この腕ごと布団から蹴り出している。
「新三郎。どこへ行った」
寝言で男のおれを呼びながら、抱いているのは女の私であった。
抜け出そうと思えば、抜け出せた。私は夜明けまで、動かなかった。
◇ ◆ ◇
夜明けに、背中で兵馬が固まるのが分かった。息を殺して腕を抜き、そろそろと茣蓙の上へ戻っていく。私は、眠ったふりをしていた。
「巫女殿」
目を開けると、兵馬は茣蓙の上に正座していた。
「昨夜、おれは何か——」
「鳴海様は寝相が悪うございます」
兵馬は深く頭を下げ、井戸の方へ出ていった。水を被る音がした。この寒さに、と寝巻の襟を合わせた。
朝餉の支度をしに外へ出ると、軒に積んであった薪が割られていた。切り口が見事なほど揃っている。
「せめてもの礼だ」
兵馬は斧を壁へ立てかけた。
朝は麦飯に、大根の味噌汁である。大根は裏の畑から抜いたばかりで、霜に当たって甘くなっている。薄く切って味噌で煮ると、箸で割れるほどやわらかい。兵馬は黙って二杯すすってから、訊いた。
「巫女殿は、どこの生まれだ」
箸が止まりかけた。
この男が訊くのは、おれのことばかりだった。私のことを訊かれたのは、初めてである。
「この近在でございます。幼いころに親を亡くして、先代に拾われました」
「そうか」
「鳴海様は」
「雪がなければ北へ五日。
領境を越えた先の、二万石の狭い城下だった。湊から魚肥を積んだ馬が上ってきて、道場の前を通る時は、窓を閉めた。師範は臭いなど気にするなと言い、自分の座る窓だけは閉めていた。鳴海の屋敷へ帰る角まで、この男と木刀を担いで歩いた。
知っていると言えないことがもどかしかった。
朝餉を片付けたころ、里の子が石段を駆け上がってきた。おみよという、七つの娘である。
「巫女さま、おっかあの守り袋、なくしたの」
川で洗い物をするうち、首から紐ごと落ちたという。去年の冬に死んだ母親の形見だった。川で捜し回ったおみよの足袋には、血が滲んでいた。足裏の傷に布を当てる間も、袋は流れてしまうのかと訊いた。
「おれも行く」
「鳴海様のお手を煩わせるほどのことでは」
「子供が足を切って捜しておるのに、おれだけ座ってはおれん」
川原に着くと、おみよの手首から、細い縁の糸が伸びていた。糸は流れの中へ入り、
「あそこでございます」
言い終わる前に、兵馬は袴の裾をからげ、川へ入っていた。霜月の川である。兵馬は膝まで水に浸かり、石を起こしにかかった。脛が見る間に赤くなる。
「お侍さま、つめたくないの」
「つめたい」
正直な男である。
石は動かなかった。上流から流れてきた倒木が堰に引っかかり、その下に石が噛みこんでいる。守り袋は、その奥にあった。私は川岸の岩に膝をつき、倒木の枝をつかんだ。
「枝を引きます。石は左へ」
兵馬が肩を入れた。私はもう枝を引いていた。石が起きると、兵馬は空いた隙間へ手を入れ、泥まみれの袋をつまみ上げた。
「これか」
おみよが泣き出した。兵馬は困った顔で川から上がり、泥だらけの手を袴で拭いてから、守り袋をおみよの首にかけてやった。袋を握りしめて立ち上がったおみよが、足をかばってよろけた。兵馬は背を向け、しゃがんだ。
「乗れ。今日はもう歩くな」
その声を、私は知っていた。
十六の冬、おれが稽古で手首を痛め、それを隠して木刀を振っていた。形の受けで、痛めた側の小手が半寸遅れていた。誰も気づかなかった。兵馬は「今日はもう振るな」といっておれの木刀をそのまま家へ持って帰ってしまった。
あの時は、木刀を取り返すことしか考えなかった。半寸の遅れを、この男だけは見ていた。
おみよを背負った兵馬の袴は、膝から下が泥で重くなっていた。川稽古の帰りには、いつも手拭いを投げてやった。懐から出し、差し出しかけた。
紺地に、白い千鳥。
兵馬の足が止まった。昨日、この男から預かった手拭いである。
「それは、あいつの」
「失礼いたしました。すぐに別のものを」
兵馬は前を向いた。
「しの殿が持っていてくれ。縁を辿るのに要るのだろう」
私は手拭いを畳んで、懐へ戻した。
◇ ◆ ◇
夕餉には、おとら婆が持たせてくれた油揚げを大根といっしょに煮た。おみよの家では礼が出せまいから、と懐へ押し込まれたものだった。その時、言づても預かった。
「
「承っております」
麓の
年越しには、あの者たちが来る。まだ破れた障子も繕えていなかった。
「おとら殿が言っておった。飢饉の間も、山へ人を捜しに入ったそうだな」
「糸が見えますので」
「見えれば、行けるというものでもあるまい」
煮えた大根を椀へ移した。兵馬は受け取らず、こちらを見ていた。
「一人ではございません。里の者が、迎えに来てくれました」
「それでも、先に入ったのはしの殿だ」
稽古のあとに、今の一本はよかったと言う時と同じ声だった。兵馬は椀を受け取った。
刀を持たぬ私にも、その声で話すのか。
「うまい」
兵馬は三杯食べた。四杯目の茶碗を差し出しかけて、引っこめた。
「遠慮はいりませぬよ」
「いや。明日の分がなくなる」
日が暮れると、兵馬は茣蓙と夜着を抱え、縁側へ出ていった。
「今夜は、外で寝る」
「霜月でございますよ」
「慣れておる」
昨日も、同じことを申し上げた。昨日のこの男は、それで内へ入った。今日は、外へ出ていく。
「なぜでございます」
兵馬は軒下に茣蓙を広げ、しばらく黙っていた。
「巫女殿といると、妙に気が緩む」
それきり、兵馬はまた黙った。
「あいつを捜しに来たのに、明日の夕餉を楽しみにしておる」
「夕餉くらい、お楽しみになっても」
「飯だけなら、よそでも食える」
障子を開けたまま、私は兵馬を見ていた。
「明日も、そこにしの殿が座っておると思う。それが楽しみなのだ」
中へ入れと、言いたかった。お前の探す男なら、ここにいる。私と飯を食べていても、誰も置き去りにはならない。
「このままでは、帰る日まで延ばしたくなる」
兵馬は夜着を被った。
中でお休みくださいと、もう一度言いたかった。障子に手をかけたまま、言葉を探した。
新三郎を捜しに来たのだと言われたら、私には引き留める口実がなかった。
霜が降りはじめている。私は自分の掻巻を持ち出して、寝息を立て始めた兵馬の足にかけた。布団へ戻ると、さっきまでより寒かった。
障子一枚向こうに、兵馬がいる。その男の中に、新三郎がいる。
私は、おれに妬いていた。