元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで 作:ともがら
朝、障子を開けると、縁側に
兵馬は井戸端で顔を洗っていた。こちらを見ずに言った。
「足がぬくかった」
「さようでございますか」
兵馬は顔を拭いた手拭いを肩にかけ、ようやくこちらを見た。
「巫女殿が風邪を引く。次はやめてくれ」
麦飯を前にしても、兵馬は何も言わなかった。私も言わなかった。昨日までなら、黙っていても気まずくはなかった。箸を置いたころ、石段を駆け上がってくる足音がした。おとら婆の倅の、与作である。
「巫女さま、吾平が戻らねえ」
木樵の吾平が、昨日、北の峠へ炭に焼く雑木を伐りに上がったきり、帰ってこないのだという。
「
兵馬が訊いた。
「へえ。昨日は手分けして捜したんですが、日が落ちて。北の峠では人が化かされるんで。道をぐるぐる回された、白い糸を見たって者もおります。婆さまたちは、土蜘蛛だって」
七年前に私が夕立を避けて逃げ込み、狐と賭けをした祠がある峠である。
「北の峠と言ったな」
兵馬が、椀を置いた。
「与作、道を案内してくれ。日が傾く前に引き返す。巫女殿、居所は見えるか」
縁の糸を辿ろうとした。与作が沢の道で拾った吾平の鉈から、細い糸が北へ伸びている。
「峠はおやめなさいませ」
声が、自分でも思うより高く出た。
「土蜘蛛など、ただの噂でございます」
「なら、なおのこと見てくる」
「峠の祠は古うございます。足場も悪く、崖際で」
「祠がどうした」
兵馬が、私を見た。
峠へ行けば、祠へ行く。祠には、あれがある。
「糸が薄く、ここから先は辿れませぬ。もう少し、お待ちくださいませ」
北へ伸びる糸は、朝の光の中でもはっきり見えていた。辿れぬと言えば、ここに留めておけると思った。
「吾平は、昨夜から山におる。居所が見えぬなら、道から捜す」
兵馬は与作を振り返った。
「巫女殿は里で、吾平の家の者についていてやってくれ」
兵馬は草鞋の紐を結んで大刀を腰に差し、脇差の鯉口を切り、抜き差しに障りがないかたしかめた。
引き留めるつもりが、私の案内なしで行かせることになった。今さら糸が見えるとは言えず、鉈を置いた。
私は厨で、握り飯を三つ竹の皮に包んだ。
「峠は遠うございますので」
一つ余計に食う男の分まで、手が勝手に握っていた。兵馬は包みを受け取って、口の片端で笑った。石段の下で、兵馬は一度だけ振り返った。
「日暮れまでには戻る」
この社へ来て二日の男が、帰る場所のような口ぶりで言った。
『狐』
呼んだ。
『おい、狐』
返事はなかった。
あの祠に棲んでいた狐だ。吾平に何かしたのではないか。問いただしたくても、昨夜から声が途切れたままだった。吾平の家で待っても、糸は北へ伸びるばかりだった。昼を過ぎて社へ戻り、神前に座った。吾平を家へ帰してくださいと、声に出して願った。
続けて、別の名を唱えかけた。鳴海兵馬。
この社で、数えきれぬほど他人の無事を祈ってきた。一度も、自分のために祈ったことはなかった。
大根を煮た。三杯食う男の分を。
七つを過ぎて、杉の間に人影が見えた。兵馬である。
気づいた時には、石段を駆け下りていた。緋袴の裾を踏みかけた。草履が片方脱げた。それでも止まらなかった。
「鳴海様」
兵馬は、無事だった。袖が少し裂けているだけで、血の匂いもしない。
「しの殿」
兵馬が私の足元を見た。草履の片方が、石段の途中に転がっていた。
「峠の道に、糸が張ってあった。人を絡め取るための糸だ。袖を持っていかれた」
兵馬は、裂けた袖を見せた。
「吾平は見つけた。峠の下の沢に座っておった。与作に預け、おれは糸の元を見てきた」
「ようございました」
「それと、これを見つけた」
兵馬は、それから黙って羽織を解いた。
黒蝋色の鞘は色が抜け、鍔は赤く錆びている。鍔の縁には、半月形の欠けがあった。柄巻には、白い糸が幾重にも絡みついていた。蜘蛛の糸である。
私の刀だった。
「祠の奥に、巣があった。人の背丈より大きな巣だ。土蜘蛛はおらなんだが、これだけが、巣の真ん中に絡め取られて、ぶら下がっていた」
兵馬は、錆びた鍔を親指で撫でた。
「あいつの刀だ。この鍔を、おれが見違えるものか」
兵馬は鯉口を切ろうとした。刀は、動かなかった。鍔際の赤錆が鯉口まで回っていた。力をこめても、
「鞘ごと割らねば、もう抜けん」
七年前、おれが祠の隅へ置いた刀だ。誰が巣へ吊った。
『狐。お前がやったのか』
返事はない。兵馬の前で、声に出して問いただすこともできなかった。
「巫女殿。この刀の縁を見てくれ。あいつが、どこへ行ったのか」
見るまでもなかった。錆びた鍔から、太い糸が一本、真っ直ぐ伸びている。行き先は、刀の前に膝をついている、私の胸であった。
だがどうして、その刀を私が捨てたと言えようか。
「縁は切れております」
兵馬が顔を上げた。刀を私の方へ押し出した。
「刀だけでは、死んだことにはならん。生きておるか、もう一度、見てくれ」
私は刀へ目を落とし、首を横に振った。
「あいつが、刀を捨てるはずがない」
兵馬の声は、静かだった。
「まして、刀だけ置いて、七年も姿を消す男ではない」
柄に残った白い糸を、指でつまんだ。それから、低く言った。
「あいつは、あの峠で喰われたのか」
夕日が、錆びた鍔の上で赤かった。
私は、何も答えられなかった。
「おれは、七年、死人を探していたのか」
私の膝に、刀から伸びる糸がかかっていた。払おうとしても、払えなかった。
兵馬は刀を縁側へ移し、御神酒を所望した。
社殿から下げてきた
「あいつの分だ」
兵馬は自分の土器を干した。刀の前の土器には、手をつけなかった。
「あいつは、酒に弱かった。一杯で赤くなって、二杯で寝た」
「さようでございますか」
「別れる前の晩も、あいつは一杯で赤くなった。赤い顔で、おれの刀を指さして言った。天下一になったら、その刀に触らせろ、と」
覚えている。昨日のことのように。
「天下一には、あいつが先になるに決まっていると思っていた」
あの晩、おれは兵馬の刀ばかり見ていた。いずれ天下一と呼ばれる男の刀だ。そうなった時、一度だけでも握らせてほしかった。
「では、なぜ触らせておやりにならなかったのです」
「先を越されたくなかった」
兵馬は、自分の右脇の刀を見た。
「触らせてやればよかった。勝ってからなどと、言わずにな」
兵馬は刀を持ち上げた。差し出す先には、錆びた刀しかなかった。
「もう負けてもよい。一度でよいから、受けてくれれば」
おれは畳へ手をついた。ここにいる、と言おうとして、男の声が出ぬことを思い出した。
兵馬は脇差の鞘から
「あいつの手が、握っていたところだ」
空いた自分の土器を、兵馬は手酌で満たした。
「巫女殿に、妙なことを言う」
「はい」
「巫女殿が、時々あいつに見えた」
息が止まった。
「蕎麦の話をした時も。闇の中で、剣の話をした時も。今朝、握り飯を三つ寄越された時もだ」
兵馬は、土器の酒に目を落としていた。
「女子の巫女殿が、あいつであるはずがない。会いたさに、目が狂うておったのだな」
そう言って、兵馬は少し笑った。
狂うてなどいない。お前の目は、昔から一度も狂ったことがない。
言えなかった。
「生きているなら、ぶん殴ると言った」
兵馬は、刀の前の土器を見ていた。
「殴る相手も、おらんようになった」
それから、兵馬は顔を上げた。
「峠の化け物を斬る。あいつの仇は、おれの仇だ」
「私も参ります」
兵馬が私を見た。
「縁の糸で、土蜘蛛の居所を探します。巣が空なら、どこかへ移っております。闇雲に峠を歩き回るより、早うございます」
「ならば居所を教えてくれ。あとはおれが行く」
「糸は道順を教えてはくれませぬ。辿る者が要ります」
「居所へ着く前に襲われたらどうする。あいつの上に、しの殿まで死なせる気はない」
私の嘘で、この男が死ぬかもしれない。仇などいないと言う代わりに、私は膝を進めた。
「居所まででございます。斬り合うところへは出ませぬ」
兵馬はしばらく黙っていた。
「分かった。ただし、おれの後ろから出るな」
日が暮れると、兵馬は
「今夜は、内で寝てもいいか」
「どうぞ」
内へ入るこの男を、私は待っていた。
行灯を消すと、また何も見えなくなった。
一昨日の闇の中では、この男は笑っていた。今夜は、何も話さなかった。一度だけ、息が乱れた。泣いたのかどうかは、分からない。
「巫女殿がいてくれて、助かる」
しばらくして、兵馬がぽつりと言った。
「一人なら、今夜は眠れなかった」
兵馬の寝息は、深かった。
障子越しの月で、寝顔がぼんやり見えた。眉間に、昼の皺が残っている。
私は起き上がり、縁側に残った新三郎の分の酒を飲んだ。
喉が焼けた。一杯で、顔が熱くなった。
刀の前に膝をつけ、柄に手をかけた。
蜘蛛の糸の残る柄巻の、昔と同じ位置に指が収まった。細く白くなった指が、それでもここだけは間違えない。
握ればいい。
刀ごと持って、障子を開けて、あの男を叩き起こせばいい。
おれはここにいる、そう言えばいい。
明日、この男は一人で土蜘蛛の前に立つ。巫女を後ろにかばいながら、死んだ男の仇を討とうとする。鞘を割ればいい。刃が駄目なら、脇差を借りればいい。
障子の向こうを見た。嘘をついたのはおれだと、起こして告げる。そのあとも、あの男はここで眠るだろうか。
指が、ほどけた。
七年前、私はこの刀を祠に置いて逃げた。今夜、同じ刀から、もう一度逃げた。
空になった土器に、瓶子から酒を注ぎ直した。朝になって、あの男が、あいつが飲んだかと思わぬように。
私は自分の供え物を、自分で供え直した。