元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで   作:なほやん

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第三話 供え酒

 

 朝、障子を開けると、縁側に掻巻(かいまき)が畳んで置いてあった。

 兵馬は井戸端で顔を洗っていた。こちらを見ずに言った。

 

「足がぬくかった」

「さようでございますか」

 

 兵馬は顔を拭いた手拭いを肩にかけ、ようやくこちらを見た。

 

「巫女殿が風邪を引く。次はやめてくれ」

 

 麦飯を前にしても、兵馬は何も言わなかった。私も言わなかった。昨日までなら、黙っていても気まずくはなかった。箸を置いたころ、石段を駆け上がってくる足音がした。おとら婆の倅の、与作である。

 

「巫女さま、吾平が戻らねえ」

 

 木樵の吾平が、昨日、北の峠へ炭に焼く雑木を伐りに上がったきり、帰ってこないのだという。

 

「肝煎(きもいり)には知らせたか」

 

 兵馬が訊いた。

 

「へえ。昨日は手分けして捜したんですが、日が落ちて。北の峠では人が化かされるんで。道をぐるぐる回された、白い糸を見たって者もおります。婆さまたちは、土蜘蛛だって」

 

 七年前に私が夕立を避けて逃げ込み、狐と賭けをした祠がある峠である。

 

「北の峠と言ったな」

 

 兵馬が、椀を置いた。

 

「与作、道を案内してくれ。日が傾く前に引き返す。巫女殿、居所は見えるか」

 

 縁の糸を辿ろうとした。与作が沢の道で拾った吾平の鉈から、細い糸が北へ伸びている。

 

「峠はおやめなさいませ」

 

 声が、自分でも思うより高く出た。

 

「土蜘蛛など、ただの噂でございます」

「なら、なおのこと見てくる」

「峠の祠は古うございます。足場も悪く、崖際で」

「祠がどうした」

 

 兵馬が、私を見た。

 峠へ行けば、祠へ行く。祠には、あれがある。

 

「糸が薄く、ここから先は辿れませぬ。もう少し、お待ちくださいませ」

 

 北へ伸びる糸は、朝の光の中でもはっきり見えていた。辿れぬと言えば、ここに留めておけると思った。

 

「吾平は、昨夜から山におる。居所が見えぬなら、道から捜す」

 

 兵馬は与作を振り返った。

 

「巫女殿は里で、吾平の家の者についていてやってくれ」

 

 兵馬は草鞋の紐を結んで大刀を腰に差し、脇差の鯉口を切り、抜き差しに障りがないかたしかめた。

 引き留めるつもりが、私の案内なしで行かせることになった。今さら糸が見えるとは言えず、鉈を置いた。

 私は厨で、握り飯を三つ竹の皮に包んだ。

 

「峠は遠うございますので」

 

 一つ余計に食う男の分まで、手が勝手に握っていた。兵馬は包みを受け取って、口の片端で笑った。石段の下で、兵馬は一度だけ振り返った。

 

「日暮れまでには戻る」

 

 この社へ来て二日の男が、帰る場所のような口ぶりで言った。

 

『狐』

 

 呼んだ。

 

『おい、狐』

 

 返事はなかった。

 

 あの祠に棲んでいた狐だ。吾平に何かしたのではないか。問いただしたくても、昨夜から声が途切れたままだった。吾平の家で待っても、糸は北へ伸びるばかりだった。昼を過ぎて社へ戻り、神前に座った。吾平を家へ帰してくださいと、声に出して願った。

 

 続けて、別の名を唱えかけた。鳴海兵馬。

 この社で、数えきれぬほど他人の無事を祈ってきた。一度も、自分のために祈ったことはなかった。

 

 大根を煮た。三杯食う男の分を。

 七つを過ぎて、杉の間に人影が見えた。兵馬である。

 

 気づいた時には、石段を駆け下りていた。緋袴の裾を踏みかけた。草履が片方脱げた。それでも止まらなかった。

 

「鳴海様」

 

 兵馬は、無事だった。袖が少し裂けているだけで、血の匂いもしない。

 

「しの殿」

 

 兵馬が私の足元を見た。草履の片方が、石段の途中に転がっていた。

 

「峠の道に、糸が張ってあった。人を絡め取るための糸だ。袖を持っていかれた」

 

 兵馬は、裂けた袖を見せた。

 

「吾平は見つけた。峠の下の沢に座っておった。与作に預け、おれは糸の元を見てきた」

「ようございました」

「それと、これを見つけた」

 

 兵馬は、それから黙って羽織を解いた。

 

 黒蝋色の鞘は色が抜け、鍔は赤く錆びている。鍔の縁には、半月形の欠けがあった。柄巻には、白い糸が幾重にも絡みついていた。蜘蛛の糸である。

 

 私の刀だった。

 

「祠の奥に、巣があった。人の背丈より大きな巣だ。土蜘蛛はおらなんだが、これだけが、巣の真ん中に絡め取られて、ぶら下がっていた」

 

 兵馬は、錆びた鍔を親指で撫でた。

 

「あいつの刀だ。この鍔を、おれが見違えるものか」

 

 兵馬は鯉口を切ろうとした。刀は、動かなかった。鍔際の赤錆が鯉口まで回っていた。力をこめても、一分(いちぶ)も抜けない。

 

「鞘ごと割らねば、もう抜けん」

 

 七年前、おれが祠の隅へ置いた刀だ。誰が巣へ吊った。

 

『狐。お前がやったのか』

 

 返事はない。兵馬の前で、声に出して問いただすこともできなかった。

 

「巫女殿。この刀の縁を見てくれ。あいつが、どこへ行ったのか」

 

 見るまでもなかった。錆びた鍔から、太い糸が一本、真っ直ぐ伸びている。行き先は、刀の前に膝をついている、私の胸であった。

 

 だがどうして、その刀を私が捨てたと言えようか。

 

「縁は切れております」

 

 兵馬が顔を上げた。刀を私の方へ押し出した。

 

「刀だけでは、死んだことにはならん。生きておるか、もう一度、見てくれ」

 

 私は刀へ目を落とし、首を横に振った。

 

「あいつが、刀を捨てるはずがない」

 

 兵馬の声は、静かだった。

 

「まして、刀だけ置いて、七年も姿を消す男ではない」

 

 柄に残った白い糸を、指でつまんだ。それから、低く言った。

 

「あいつは、あの峠で喰われたのか」

 

 夕日が、錆びた鍔の上で赤かった。

 

 私は、何も答えられなかった。

 

「おれは、七年、死人を探していたのか」

 

 私の膝に、刀から伸びる糸がかかっていた。払おうとしても、払えなかった。

 

 兵馬は刀を縁側へ移し、御神酒を所望した。

 

 社殿から下げてきた瓶子(へいし)を取り、素焼きの土器(かわらけ)を二枚並べて注いだ。一枚を兵馬の前に置き、もう一枚を、錆びた刀の前に置いた。

 

「あいつの分だ」

 

 兵馬は自分の土器を干した。刀の前の土器には、手をつけなかった。

 

「あいつは、酒に弱かった。一杯で赤くなって、二杯で寝た」

「さようでございますか」

「別れる前の晩も、あいつは一杯で赤くなった。赤い顔で、おれの刀を指さして言った。天下一になったら、その刀に触らせろ、と」

 

 覚えている。昨日のことのように。

 

「天下一には、あいつが先になるに決まっていると思っていた」

 

 あの晩、おれは兵馬の刀ばかり見ていた。いずれ天下一と呼ばれる男の刀だ。そうなった時、一度だけでも握らせてほしかった。

 

「では、なぜ触らせておやりにならなかったのです」

「先を越されたくなかった」

 

 兵馬は、自分の右脇の刀を見た。

 

「触らせてやればよかった。勝ってからなどと、言わずにな」

 

 兵馬は刀を持ち上げた。差し出す先には、錆びた刀しかなかった。

 

「もう負けてもよい。一度でよいから、受けてくれれば」

 

 おれは畳へ手をついた。ここにいる、と言おうとして、男の声が出ぬことを思い出した。

 

 兵馬は脇差の鞘から小柄(こづか)を抜いて、錆びた刀の柄巻から、蜘蛛の糸を一筋ずつ切りはじめた。刃を柄巻に当てぬよう、ゆっくりと。

 

「あいつの手が、握っていたところだ」

 

 空いた自分の土器を、兵馬は手酌で満たした。

 

「巫女殿に、妙なことを言う」

「はい」

「巫女殿が、時々あいつに見えた」

 

 息が止まった。

 

「蕎麦の話をした時も。闇の中で、剣の話をした時も。今朝、握り飯を三つ寄越された時もだ」

 

 兵馬は、土器の酒に目を落としていた。

 

「女子の巫女殿が、あいつであるはずがない。会いたさに、目が狂うておったのだな」

 

 そう言って、兵馬は少し笑った。

 

 狂うてなどいない。お前の目は、昔から一度も狂ったことがない。

 

 言えなかった。

 

「生きているなら、ぶん殴ると言った」

 

 兵馬は、刀の前の土器を見ていた。

 

「殴る相手も、おらんようになった」

 

 それから、兵馬は顔を上げた。

 

「峠の化け物を斬る。あいつの仇は、おれの仇だ」

「私も参ります」

 

 兵馬が私を見た。

 

「縁の糸で、土蜘蛛の居所を探します。巣が空なら、どこかへ移っております。闇雲に峠を歩き回るより、早うございます」

「ならば居所を教えてくれ。あとはおれが行く」

「糸は道順を教えてはくれませぬ。辿る者が要ります」

「居所へ着く前に襲われたらどうする。あいつの上に、しの殿まで死なせる気はない」

 

 私の嘘で、この男が死ぬかもしれない。仇などいないと言う代わりに、私は膝を進めた。

 

「居所まででございます。斬り合うところへは出ませぬ」

 

 兵馬はしばらく黙っていた。

 

「分かった。ただし、おれの後ろから出るな」

 

 日が暮れると、兵馬は茣蓙(ござ)と夜着(よぎ)を抱えて、縁側から戻ってきた。

 

「今夜は、内で寝てもいいか」

「どうぞ」

 

 内へ入るこの男を、私は待っていた。

 行灯を消すと、また何も見えなくなった。

 

 一昨日の闇の中では、この男は笑っていた。今夜は、何も話さなかった。一度だけ、息が乱れた。泣いたのかどうかは、分からない。

 

「巫女殿がいてくれて、助かる」

 

 しばらくして、兵馬がぽつりと言った。

 

「一人なら、今夜は眠れなかった」

 

 兵馬の寝息は、深かった。

 障子越しの月で、寝顔がぼんやり見えた。眉間に、昼の皺が残っている。

 

 私は起き上がり、縁側に残った新三郎の分の酒を飲んだ。

 喉が焼けた。一杯で、顔が熱くなった。

 

 刀の前に膝をつけ、柄に手をかけた。

 蜘蛛の糸の残る柄巻の、昔と同じ位置に指が収まった。細く白くなった指が、それでもここだけは間違えない。

 

 握ればいい。

 刀ごと持って、障子を開けて、あの男を叩き起こせばいい。

 

 おれはここにいる、そう言えばいい。

 

 明日、この男は一人で土蜘蛛の前に立つ。巫女を後ろにかばいながら、死んだ男の仇を討とうとする。鞘を割ればいい。刃が駄目なら、脇差を借りればいい。

 

 障子の向こうを見た。嘘をついたのはおれだと、起こして告げる。そのあとも、あの男はここで眠るだろうか。

 

 指が、ほどけた。

 七年前、私はこの刀を祠に置いて逃げた。今夜、同じ刀から、もう一度逃げた。

 

 空になった土器に、瓶子から酒を注ぎ直した。朝になって、あの男が、あいつが飲んだかと思わぬように。

 私は自分の供え物を、自分で供え直した。

 

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