元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで 作:ともがら
朝、兵馬は縁側の土器を見ていた。新三郎の分の酒が私が注ぎ直したとおりに満ちている。
「やはり、飲まなんだか」
兵馬は土器を取り、庭の杉の根方へ、静かに酒を撒いた。
「あいつは下戸だったからな」
撒かれていく酒を、私は黙って見ていた。
朝餉に、味噌を杓子に塗りつけて、火で炙った。焦げた味噌の匂いが、六畳に満ちた。
兵馬は黙って三杯食べた。昨日の夕餉には、ほとんど箸をつけなかった。その椀を受け取ると、腹が立つほど安堵した。
「巫女殿。約束の三日だな」
草鞋の紐を結びながら、兵馬が言った。
「土蜘蛛を斬ったら、おれは山を下りる。探しものは、もう終わった」
答えは、昨日のうちに出てしまった。私が、出した。
兵馬は懐から、
「これでは、お帰りの路銀まで」
「帰る分は分けてある」
「頂けません。まだ、何も探し当てておりません」
「なら、礼ではない」
兵馬は、包みを押し戻そうとした私の手を、上から押さえた。
「春の、手付けだ」
手が離れた。半紙の包みだけが、私の膝の前に残った。
探す相手はもういないのに、またここへ来るというのか。
包みを押し返せず、文箱にしまった。使える銀ではなかった。兵馬は、錆びた刀を羽織にくるんで背に負った。
「それも、お持ちになるのですか」
「あいつの刀で、あいつの仇を斬る。抜けぬなら、鞘ごと叩きつけてやる」
私は白衣の袖を
「手慣れているな」
「山の失せ物探しは、慣れておりますので」
嘘ではない。けれど、この手が最初に股立ちを覚えたのは、山ではなく道場であった。
兵馬が先に立った。峠道は、杉の間を縫って登る。
登るにつれて、鳥の声が消えた。道の脇の熊笹に、霜が白く残っている。杉の枝と枝のあいだに、ところどころ細い糸が光った。兵馬は脇差を抜いて、顔の高さの糸を黙って払いながら進んだ。
兵馬が前を行き、私が後ろを行く。おれの後ろから出るな、と昨日言われたとおりに。岩場で、兵馬が振り返って手を出した。
「掴まれ」
岩の割れ目へ足を掛けると、兵馬が手を引いた。岩の上に立っても、兵馬はすぐには離さなかった。私も、離さなかった。
「郷へ帰ったら、どうなさるのです」
「師範から、稽古場を預かれと言われておる。膝を悪くされてな」
「では、もう旅へは」
「出にくくなる。稽古場を空けられぬ。あいつがおれば、どちらが預かるかで揉めたろうな」
岩場を越えたところで、兵馬が前を向いたまま言った。
「土蜘蛛を斬ったら、郷へ帰る。あいつの刀を、あいつの家へ届ける」
「はい」
「それで、春になったら」
兵馬の足が、少し遅くなった。
「父にも師範にも、もう一度だけと願う。春に間に合わぬかもしれん。それでも、待っていてくれるか」
「もう、探すお方はおりませぬのに」
「しの殿に会いに来る」
兵馬は足を止めた。
「山へ入るなら、おれも連れていってくれ。今日のように」
「私が、あのお方に似ておりますからですか」
訊いてから、手付けの銀を返すことになるかもしれぬと思った。
兵馬はすぐには答えなかった。
「似ているところはある。探してしまうこともある」
つないでいた手をほどこうとすると、握り直された。
「だが、昨日、石段を駆け下りてきたのはしの殿だ。草履も履かずに」
「片方は、履いておりました」
「次は、両方履いて待っていてくれ」
兵馬は、今来た道の方を見た。
「戻るところに、お前がいてほしい」
息が詰まった。
「お待ちしております」
春に来るこの男を、石段の上で待つ。杉の間に菅笠が見えるのを待つ。そういう先が、ほんの一瞬、見えた。
◇ ◆ ◇
祠は、七年前と同じ場所にあった。
ここで、女になった。
夕立の音と、雨垂れの向こうの女の声。乗った、と言った十八の自分の声。この祠の板間で眠って、目を覚ましたら、手が細くなっていた。
この男に勝ちたくて、ここで、全部を賭けた。その男が今、私の前を歩いている。
『狐』
ここなら応えるかと思って、呼んだ。
返事はなかった。獣の匂いだけが、かすかにした。
屋根は半分落ち、格子は朽ちている。その奥が、白かった。
糸である。祠の奥から杉の枝へ、枝から岩へ、幾重にも張り渡された糸が、朝の光を受けて光っている。
巣のあちこちに、物が吊られていた。鉈、菅笠、片方だけの草鞋、子供の風車。人の持ち物ばかりが、糸に絡め取られて、風に揺れている。
縁の糸を探った。里の者の失せ物から伸びた細い糸が、幾筋も、この巣へ吸いこまれていた。
「右の杉の上でございます」
言い終わる前に、それが降りてきた。
牛ほどもある蜘蛛であった。脚の一本一本が、兵馬の腕より太い。八つの目が、兵馬の背の包みを追っていた。腹を覆う毛は、枯れ
兵馬は背の包みを杉の根方へ下ろし、大刀を抜いた。
「しの殿、下がれ」
土蜘蛛が糸を吐いた。白い束が、兵馬の顔の高さへ飛ぶ。兵馬は半身になってそれを外し、外した勢いのまま踏みこんで、袈裟に振り下ろした。
脚の一本が、付け根から落ちた。
崩れた腹へ、兵馬が突いた。土蜘蛛は幹へ逃れたが、切っ先は毛を裂いていた。
今の突きは、よかった。言いかけて、土蜘蛛の影を追った。
土蜘蛛が、杉の幹を回りこんだ。巣の糸が、左の方でかすかに震えた。
「左でございます」
声に重なって、兵馬の刀が左へ走った。斬り上げる刃に、土蜘蛛の脚の付け根が入った。
二本目の脚が落ちた。土蜘蛛がたたらを踏み、腹を見せた。
兵馬が刀を返す。突きの構えである。
その時、八つの目が、こちらを向いた。土蜘蛛は兵馬に背を向け、私へ跳んだ。
「しの殿!」
兵馬は、突かなかった。
突けば仇を討てた間合いを捨てて、兵馬は私と土蜘蛛のあいだへ身体ごと割って入った。糸を斬り払い、振り下ろされた脚を、刀で受けた。
受けきれなかった。
脚の先の爪が、兵馬の左肩から二の腕を、深く裂いた。
大刀が、兵馬の手から弾け飛んだ。崖の下へ、光りながら落ちていった。
兵馬の帯を掴み、杉の根方まで引きずった。踵に、刀の包みが当たった。
土蜘蛛は追ってこなかった。幹の脇で身を低くし、八つの目を、私の踵に当たった包みへ向けていた。
懐から、手拭いを出した。紺地に、白い千鳥。紺が、見る間に黒く濡れた。白い千鳥が、赤く染まっていく。押さえる手が、震えていた。布の端から落ちる血を止められなかった。
「しの殿、逃げろ」
兵馬が、脇差を抜いた。それを杖に立とうとして、膝が崩れた。二度目も、崩れた。
「すまん。春の、約束は」
「黙ってくださいませ」
兵馬の顔から、見る間に血の気が引いていった。唇が白い。この男の顔が白くなるのを見たのは、十五の夏の河原で、私の胸を斬った時だけであった。
土蜘蛛が、幹を回ってきた。刀を失った兵馬でなく、私の手元を見ている。
待っていたのか。私が何を掴むかを。
「ここを、押さえて」
兵馬の右手を手拭いへ重ねた。土蜘蛛の脚が上がる。
羽織を払い、刀を掴んだ。兵馬の前へ出て、鞘ごと爪を受けた。
鞘が砕けた。木片と赤錆が散る。現れた刃は、一寸も錆びてはいなかった。
鞘の内から青い火がひと筋ほどけ、消えた。
刃を傾け、押し込んでくる脚を脇へ流した。手首は揺れなかった。
正眼。あの男と何百遍も向かい合った高さに、剣先が止まった。
おれの仇は、私が斬る。
「下がっていろ、兵馬」
背中で、兵馬が息を呑む気配がした。