元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで   作:ともがら

4 / 5
第四話 抜刀

 

 朝、兵馬は縁側の土器を見ていた。新三郎の分の酒が私が注ぎ直したとおりに満ちている。

 

「やはり、飲まなんだか」

 

 兵馬は土器を取り、庭の杉の根方へ、静かに酒を撒いた。

 

「あいつは下戸だったからな」

 

 撒かれていく酒を、私は黙って見ていた。

 朝餉に、味噌を杓子に塗りつけて、火で炙った。焦げた味噌の匂いが、六畳に満ちた。

 

 兵馬は黙って三杯食べた。昨日の夕餉には、ほとんど箸をつけなかった。その椀を受け取ると、腹が立つほど安堵した。

 

「巫女殿。約束の三日だな」

 

 草鞋の紐を結びながら、兵馬が言った。

 

「土蜘蛛を斬ったら、おれは山を下りる。探しものは、もう終わった」

 

 答えは、昨日のうちに出てしまった。私が、出した。

 

 兵馬は懐から、半紙(はんし)に包んだものを出して、私の前に置いた。包みの角から、一分銀(いちぶぎん)が二枚のぞいていた。二分である。普段の礼は銭が少しか、大根や薪だ。この男が次の旅のために貯めた銀を、受け取るわけにはいかなかった。

 

「これでは、お帰りの路銀まで」

「帰る分は分けてある」

「頂けません。まだ、何も探し当てておりません」

「なら、礼ではない」

 

 兵馬は、包みを押し戻そうとした私の手を、上から押さえた。

 

「春の、手付けだ」

 

 手が離れた。半紙の包みだけが、私の膝の前に残った。

 

 探す相手はもういないのに、またここへ来るというのか。

 

 包みを押し返せず、文箱にしまった。使える銀ではなかった。兵馬は、錆びた刀を羽織にくるんで背に負った。

 

「それも、お持ちになるのですか」

「あいつの刀で、あいつの仇を斬る。抜けぬなら、鞘ごと叩きつけてやる」

 

 私は白衣の袖を襷(たすき)で絞り、緋袴の両脇の裾をつまんで、腰紐に挟んだ。股立(ももだ)ちを取る。山を歩くにも、いざという時に走るにも、これがいちばんいい。

 

「手慣れているな」

「山の失せ物探しは、慣れておりますので」

 

 嘘ではない。けれど、この手が最初に股立ちを覚えたのは、山ではなく道場であった。

 

 兵馬が先に立った。峠道は、杉の間を縫って登る。

 

 登るにつれて、鳥の声が消えた。道の脇の熊笹に、霜が白く残っている。杉の枝と枝のあいだに、ところどころ細い糸が光った。兵馬は脇差を抜いて、顔の高さの糸を黙って払いながら進んだ。

 

 兵馬が前を行き、私が後ろを行く。おれの後ろから出るな、と昨日言われたとおりに。岩場で、兵馬が振り返って手を出した。

 

「掴まれ」

 

 岩の割れ目へ足を掛けると、兵馬が手を引いた。岩の上に立っても、兵馬はすぐには離さなかった。私も、離さなかった。

 

「郷へ帰ったら、どうなさるのです」

「師範から、稽古場を預かれと言われておる。膝を悪くされてな」

「では、もう旅へは」

「出にくくなる。稽古場を空けられぬ。あいつがおれば、どちらが預かるかで揉めたろうな」

 

 岩場を越えたところで、兵馬が前を向いたまま言った。

 

「土蜘蛛を斬ったら、郷へ帰る。あいつの刀を、あいつの家へ届ける」

「はい」

「それで、春になったら」

 

 兵馬の足が、少し遅くなった。

 

「父にも師範にも、もう一度だけと願う。春に間に合わぬかもしれん。それでも、待っていてくれるか」

「もう、探すお方はおりませぬのに」

「しの殿に会いに来る」

 

 兵馬は足を止めた。

 

「山へ入るなら、おれも連れていってくれ。今日のように」

「私が、あのお方に似ておりますからですか」

 

 訊いてから、手付けの銀を返すことになるかもしれぬと思った。

 兵馬はすぐには答えなかった。

 

「似ているところはある。探してしまうこともある」

 

 つないでいた手をほどこうとすると、握り直された。

 

「だが、昨日、石段を駆け下りてきたのはしの殿だ。草履も履かずに」

「片方は、履いておりました」

「次は、両方履いて待っていてくれ」

 

 兵馬は、今来た道の方を見た。

 

「戻るところに、お前がいてほしい」

 

 息が詰まった。

 

「お待ちしております」

 

 春に来るこの男を、石段の上で待つ。杉の間に菅笠が見えるのを待つ。そういう先が、ほんの一瞬、見えた。

 

 ◇ ◆ ◇

 

 祠は、七年前と同じ場所にあった。

 

 ここで、女になった。

 

 夕立の音と、雨垂れの向こうの女の声。乗った、と言った十八の自分の声。この祠の板間で眠って、目を覚ましたら、手が細くなっていた。

 

 この男に勝ちたくて、ここで、全部を賭けた。その男が今、私の前を歩いている。

 

『狐』

 

 ここなら応えるかと思って、呼んだ。

 返事はなかった。獣の匂いだけが、かすかにした。

 

 屋根は半分落ち、格子は朽ちている。その奥が、白かった。

 糸である。祠の奥から杉の枝へ、枝から岩へ、幾重にも張り渡された糸が、朝の光を受けて光っている。

 

 巣のあちこちに、物が吊られていた。鉈、菅笠、片方だけの草鞋、子供の風車。人の持ち物ばかりが、糸に絡め取られて、風に揺れている。

 

 縁の糸を探った。里の者の失せ物から伸びた細い糸が、幾筋も、この巣へ吸いこまれていた。

 

「右の杉の上でございます」

 

 言い終わる前に、それが降りてきた。

 

 牛ほどもある蜘蛛であった。脚の一本一本が、兵馬の腕より太い。八つの目が、兵馬の背の包みを追っていた。腹を覆う毛は、枯れ芒(すすき)のような色をしていた。

 

 兵馬は背の包みを杉の根方へ下ろし、大刀を抜いた。八双(はっそう)に構え、霜の下の土を踏みしめ、半歩詰めた。

 

「しの殿、下がれ」

 

 土蜘蛛が糸を吐いた。白い束が、兵馬の顔の高さへ飛ぶ。兵馬は半身になってそれを外し、外した勢いのまま踏みこんで、袈裟に振り下ろした。

 

 脚の一本が、付け根から落ちた。

 崩れた腹へ、兵馬が突いた。土蜘蛛は幹へ逃れたが、切っ先は毛を裂いていた。

 

 今の突きは、よかった。言いかけて、土蜘蛛の影を追った。

 土蜘蛛が、杉の幹を回りこんだ。巣の糸が、左の方でかすかに震えた。

 

「左でございます」

 

 声に重なって、兵馬の刀が左へ走った。斬り上げる刃に、土蜘蛛の脚の付け根が入った。

 二本目の脚が落ちた。土蜘蛛がたたらを踏み、腹を見せた。

 

 兵馬が刀を返す。突きの構えである。

 

 その時、八つの目が、こちらを向いた。土蜘蛛は兵馬に背を向け、私へ跳んだ。

 

「しの殿!」

 

 兵馬は、突かなかった。

 

 突けば仇を討てた間合いを捨てて、兵馬は私と土蜘蛛のあいだへ身体ごと割って入った。糸を斬り払い、振り下ろされた脚を、刀で受けた。

 

 受けきれなかった。

 脚の先の爪が、兵馬の左肩から二の腕を、深く裂いた。

 

 大刀が、兵馬の手から弾け飛んだ。崖の下へ、光りながら落ちていった。

 

 兵馬の帯を掴み、杉の根方まで引きずった。踵に、刀の包みが当たった。

 土蜘蛛は追ってこなかった。幹の脇で身を低くし、八つの目を、私の踵に当たった包みへ向けていた。

 

 懐から、手拭いを出した。紺地に、白い千鳥。紺が、見る間に黒く濡れた。白い千鳥が、赤く染まっていく。押さえる手が、震えていた。布の端から落ちる血を止められなかった。

 

「しの殿、逃げろ」

 

 兵馬が、脇差を抜いた。それを杖に立とうとして、膝が崩れた。二度目も、崩れた。

 

「すまん。春の、約束は」

「黙ってくださいませ」

 

 兵馬の顔から、見る間に血の気が引いていった。唇が白い。この男の顔が白くなるのを見たのは、十五の夏の河原で、私の胸を斬った時だけであった。

 

 土蜘蛛が、幹を回ってきた。刀を失った兵馬でなく、私の手元を見ている。

 待っていたのか。私が何を掴むかを。

 

「ここを、押さえて」

 

 兵馬の右手を手拭いへ重ねた。土蜘蛛の脚が上がる。

 

 羽織を払い、刀を掴んだ。兵馬の前へ出て、鞘ごと爪を受けた。

 

 鞘が砕けた。木片と赤錆が散る。現れた刃は、一寸も錆びてはいなかった。

 鞘の内から青い火がひと筋ほどけ、消えた。

 

 刃を傾け、押し込んでくる脚を脇へ流した。手首は揺れなかった。

 

 正眼。あの男と何百遍も向かい合った高さに、剣先が止まった。

 

 おれの仇は、私が斬る。

 

「下がっていろ、兵馬」

 

 背中で、兵馬が息を呑む気配がした。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。