僕は何かを失った。何を失ったのかはわからない。ただ、大切で、甘美で、ありふれた何かだった気がする。
「何ぼーっとしてるんだ!!」
勇者の声が飛ぶ。戦闘中でないとはいえ、ここは魔族の支配領域だ。叱られても仕方がない。実際に今も刺すような魔力がどこからか漏れ出ている。木々は枯れ、土は黒く変色し、風が吹くたびに腐臭にも似た匂いが鼻をつく。遠く、稜線の向こうには魔王城の黒い輪郭が、夕闇に溶けるように浮かんでいた。いつ攻撃されてもおかしくない。そう思った。それでも喪失感は拭えず、僕はその日一日、うわの空だった。
夜、勇者たちが寝静まったあと、僕は見張りをしながら焚き火をぼんやり見つめていた。焚き火はゆらゆらと揺らめきパーティメンバーの顔を照らした。夜風は冷たく、吐く息がかすかに白く滲む。
勇者は優秀だ。すべての人間を救うために魔族を倒し、魔王の幹部を討ち、いまや魔王の城を目前にしている。ただ——
「すべての人間を救えるがために危うい、だろ?」
僕は反射的に剣を抜き、身構える。声を上げて勇者を起こそうとした。焚き火が揺らめいた。息を吸う。喉が動かない。
声帯がピクリとも動かず、言葉にならない。何者かの魔術か?そうだとしたら聞いたことのない魔術だ。しかし、魔族ならそういうこともあるだろう。ならば、この場は自分で凌ぐしかない。剣を構えたまま、闇の奥に神経を集中させる。パチパチと焚き火が爆ぜる音に交じって人間が歩いてくる音が聞こえた。自然と剣を持つ手が力む。落ち着け。僕は深呼吸して力を抜いた。無駄な力みは死を招く。勇者がたまに言っている。
「まあそう殺気立つな。人間だよ」
闇の中からゆっくりと歩み出てきたのは、僕と同じ丈の外套を纏った人影だった。ただし、その裾はところどころ擦り切れ、右腕には僕にはない古い傷痕が斜めに走っている。姿を現したのは、尻尾のない、紛れもない人間の姿だった。こんな場所に人間がいるはずもない——その驚きより先に、僕の目は別のものに釘付けになっていた。
それは、僕自身の顔をしていた。ただ、その目だけが、僕よりもずっと多くのものを見てきたような、乾いた色をしていた。
剣を持つ手に再び力が入る。頭の芯が冷えていくのがわかる。目の前にいるのは、僕の輪郭をした何かだ。
「それに、殺すならもう殺してる」
確かにそうだった。殺すつもりなら、声を出させないなんて迂遠な魔術ではなく、直接殺せる魔術を使えばいい。それでも剣を下ろす気にはなれなかった。剣を中段に構え、いつでも対応できるように魔術の気配を探る。魔術がとんでこようものならすぐにでも飛びかかれるように。彼我の距離は剣一本分。踏み込めば届く間合いだった。
「……お前は、何なんだ」
いつの間にか声が出せるようになっていた。勇者を起こす気は不思議と起きなかった。代わりに口をついて出たのは、目の前の存在への問いだった。
「君だよ。未来の、ね」
僕は何も言えなかった。頭のどこかが、その言葉を理解することを拒んでいる。未来の僕。だとしたら、目の前のこいつは何を——
「勇者はさ、全部救えちゃうんだ。君も君の故郷も、彼の故郷も、彼自身も。だからさ、危ういんだよ。だって」
そこで彼は言葉を切った。焚き火の炎が、彼の——僕の顔を一瞬照らす。
そして、僕の口が勝手に動いた。彼の声と、寸分違わず重なって。
「「誰かを助けるってことは、違う誰かを助けないってことのはずだから」」
声が重なった瞬間、確信した。彼は僕だった。
「そんな彼は今どうして魔王を倒そうとしている?」
それは、愚問だった。
「世界平和のためだ。魔王は人類を脅かしている。魔王がいなくなれば世界は平和になる」
彼はフッと笑った。焚き火の炎が、その笑みの輪郭だけを浮かび上がらせる。
「魔王を倒して世界が平和になってめでたしめでたし、なんてのは絵本の中だけの話だ。わかるだろ?だって俺はお前なんだから」
僕は黙るしかなかった。脳裏に蘇るのは、あの日の貴族の顔だ。丸々と肥えた頬、脂ぎった額に張り付いた笑み。妹を値踏みするような目つきで、金貨の音を鳴らしながら「いい買い物をした」と言い放ったあの声。忘れたくても忘れられない記憶が、今も鮮明に焼き付いている。
目の前の彼は自嘲的な笑みを浮かべていた。きっと僕と同じことを考えている。なんとなくわかる。
だって、彼は僕だから。
「さて、そんな勇者は――魔王を倒しても世界が平和にならなかったら、すべての人類を救えなかったら、どうするかな?」
答えは単純だ。悪いやつを倒せばいい。そうやって、僕は勇者に救われた。妹を売った貴族に奴隷のように扱われていた僕を、彼が救い出してくれた。
あの人は、力で物事を解決することしか知らない。突出した個の力を持つ勇者には、それが可能だったから。
――いや、勇者という存在は、いつだってそうなのかもしれない。
冷静に考えれば、全人類のために魔王を倒しに行くなんて馬鹿げている。それだけのことをして、大した報酬もない。大抵の場合、その力を恐れられて国王に殺される。そんな貧乏くじを勇者が引くのは、ひとえに彼が「すべての人間を救う正義の味方」だからだ。
だから、きっと勇者は――
「戦争を起こす。世界を正すために」
彼は目を細め、僕を見た。
「así es(正解だ)」
その声には、僕の知らない言語の響きが混じっていた気がした。今はまだ、その意味を考える余裕はない。
僕は怖くなった。すぐそこで眠る勇者が、いずれ戦争を起こす。その事実が、じわりと肌を刺した。
「そうして起こったのが、第一次勇者大戦。その被害は、この大陸の人口を約半分にした。そうしてできたのが、第一次勇者帝国だ」
脳裏に、見たこともない光景が浮かんだ。燃え盛る村々、崩れ落ちる城壁、折り重なる死体の山。想像でしかないはずのそれが、やけに鮮明だった。
「ちょっと待てよ。第一次ってことは――」
「察しがいいな」
彼は焚き火に目を落とした。炎が小さく爆ぜる音だけが、しばらく間を埋めた。
「その後、人類は戦争を繰り返した。当然だ。勇者が作った夢物語の国なんて、うまくいくはずがない。幾度となく戦争が起き、幾人もの命が失われ、大陸は血で染まった。勇者は世界に絶望して自ら命を絶ったよ。それでも、戦争は終わらなかった」
僕は言葉を失った。夜風が焚き火を揺らし、彼の顔に落ちる影の形を変える。
しばらくの沈黙のあと、彼は静かに言った。
「それを、僕は止めに来たんだ」
焚き火がフッと消えた。暗闇と沈黙がいつもより重い気がした。焚き火が消える直前にちらりと見えた顔は僕が決してしたことのない顔だった。